京都検定 学習ノート - 【学習ノート】 平安時代の京都

京都の歴史

平安時代の京都 (平安遷都)

平安京遷都の経緯 公式テキスト[増]19〜22ページ [新]12〜14ページ要約

☆延暦13年(794)10月、桓武天皇の勅命により長岡京から平安京へ遷都されたが、わずか10年前には平城京から長岡京に遷都されたばかりだった
 ◦ 桓武天皇は清新かつ先制的な思考を持つ天皇であった
 ◦ 律令政治の革新のため巨大仏教勢力など反桓武勢力を排除し、革新的政治を樹立しようとした

☆延暦3年(784)11月、長い間政治の中心地であった大和(平城京)から長岡京に遷都されたが、桓武天皇の周囲では側近の暗殺事件やクーデターが勃発
 ◦ 翌年の9月には、忠実な幕僚であった藤原種継が暗殺
 ◦ この陰謀の首謀者として、旧勢力の代表とされる大伴氏一族が捕えられる
 ◦ その後、桓武天皇の実弟で皇太子の早良親王をはじめ、関係官人全体が粛清された
 ◦ 乙訓寺に幽閉された早良親王は抗議のため一切の食を断ち餓死してしまうが、さらにその亡骸を淡路島に死後流刑した
  ⇒この凄まじい行為が災いしたのか、これ以降「怨霊」問題へと発展する

☆延暦12年(793)1月、早良親王の祟りを恐れた桓武天皇は、体制を立て直すため再び遷都事業を強いられる
 ◦ 初代造宮大夫である藤原小黒麻呂は、新京予定地の葛野郡を視察し四神相応之地(しじんそうおうのち)」による地相を占った
  ⇒東西南北に四神玄武・朱雀・青龍・白虎が守護する地形上のシンボルが存在する場所が都として相応しいとされた

☆「四神相応之地」と平安京における地形上のシンボルの合致については、昭和50年頃に村井康彦らによって確立され定説となっている
 ◦ 北方・・・「玄武」(大岩=山の象徴)⇒ 船岡山
 ◦ 南方・・・「朱雀」(大池=湖の象徴)⇒ 巨椋池(おぐらいけ、昭和16年干拓)
 ◦ 東方・・・「青竜」(大川の象徴)  ⇒ 鴨川
 ◦ 西方・・・「白虎」(大道の象徴)  ⇒ 山陰道
  ※これらの条件が揃っていたことから、葛野の地は都として相応しいと判断され新都が建設されることになった

平安京の概略 公式テキスト[増]22ページ [新]14〜16ページ要約

☆平安京は中国の長安城がモデルとされ、日本の都としてはこれまでにない大規模なもので、南北約5.2km東西約4.5kmに達する
 ◦ 平安宮(大内裏)が京域の北部にある北闕(ほっけつ)型都市
 ◦ 均整の取れた「左京」と「右京」からなり、その中央を南北に羅城門から朱雀門まで続く幅員約85mの朱雀大路が通貫する
 ◦ 大内裏(天皇)から見て左側の「左京」を「東京(ひがしのきょう)」または中国風に「洛陽城」、右側の「右京」を「西京(にしのきょう)」または「長安城」とも称された
 ◦ 両京はそれぞれに大行政区となっており、「京職(きょうしき)」が設置され、長官が任命されていた

平安京の大行政区は大路・小路によってブロック分けされ、これを「条坊制」と呼ぶ
 ◦ 大路24(東西13・南北11)・・・最大の朱雀大路が約85m、二条大路などの50m級、36m級、30m級、24m級
 ◦ 小路48(東西26・南北22)・・・すべて約12m

☆大路と小路で区切られた条坊制の区画について
 ◦ 一条は四坊からなり、一坊が四保、一保が四町
 ◦ 一条は六十四町からなる大区画、一坊が十六町の中区画、一保が四町の小区画
 ◦ 一町は約120m四方=一条は7.7km四方

☆平安京の市民は「京戸(きょうこ)」と呼ばれ、当時の人口はおよそ十数万人と推定される
 ◦ 京城全体で1216町とされ、このうち天皇・皇族居住区80町、僧侶・神官などの特別区42.5町、貴族・官人居住区600町、諸司厨町が41町で、残りの452.5町が一般市民の居住区
 ◦ 一般市民の人口はおよそ9万人、貴族・官人が1.2万人余り、諸司厨町がおよそ1.5万人

要点チェック

  1. 延暦13年(794)10月、○○天皇により京の地に新しい都「○○京」が移された。
  2. そのわずか10年前には平城京から○○京に遷都されたばかりであったが、延暦4年(785)9月に○○天皇の忠実な幕僚でこの遷都の責任者であった○○が暗殺されるという大事件が起こった。
  3. それまで長い間政治の中心にいた旧勢力の代表とされる大伴○○が首謀者であるとして、関係する大伴一族のメンバーが捕えられ、さらに裏で繋がっていたと噂された天皇の実弟で皇太子の○○親王ら
    関係官人全体が粛清された。
  4. 廃太子された○○親王は、幽閉先の○○寺で無実を主張するために食事を一切拒否して餓死した。それでもなお○○天皇の怒りは収まらず、その亡骸を○○島に死後流刑の挙に出ている。
  5. この狂気に満ちた制裁のあと、天皇の生母である○○や皇后の○○が次々と謎の病で逝去した。時を同じくして都では連年のように大雨や洪水に見舞われ、さらには疫病も大流行したこともあり、
    これは親王の怨霊による祟りなのではないかと揶揄されるようになった。
  6. そこで、○○天皇は主要官僚であった○○の進言により、体制を建て直すために再度別の場所に遷都することにした。
  7. 新たな遷都事業は延暦12年(793)1月から始まり、その際に初代造営大夫であった○○は地相「○○」を調査するため、新京予定地の○○に視察に入った。
  8. この地相では、北に○○・南に○○・東に○○・西に○○という各守護神が配され、四神にはそれぞれ、北には○○・南には○○・東には○○・西には○○という地形上のシンボルが存在している場所が
    都としてふさわしいという考え方である。
  9. それによると、候補地は北に○○・南に○○・東に○○・西に○○が立地していたため、新都の条件として「吉」と出たことにより、新都の建設が開始された。
  10. 新しい都は現代の中国にあたる唐にあった○○をモデルとし、そのサイズは3分の1に過ぎなかったが南北約○○km・東西約○○kmに及ぶ日本の歴史上ではこれまでにない大規模な都市であった。
  11. また、この都市は○○が京域の北部に置かれ、そこからメインストリートというべき○○大路が南北に中央を貫き、その左右を均整のとれた「○○」と「○○」という2つの居住エリアに分けられていた。
  12. この両京にはそれぞれ「○○」が設置され、長官も任命されており、独立した政治を行っていた。
  13. これらの大行政区は○○制というシステムで、京域内に張り巡らされていた大路と小路によって○○状に区切られていた。
  14. ここで、東西に走る大路は計○○、小路は計○○であり、南北に貫通する大路は計○○、小路は計○○となっている。
  15. 24ある大路には5つの規格があり、○○大路は約○○m、次いで○○大路は約○○m、さらに約○○m、約○○m、約○○mと続く。また、48ある小路はすべて約○○mである。
  16. なお、最大単位である1条は○○町からなる大ブロックで、1坊が○○町からなる中ブロック、1保が○○町からなる小ブロックとなっている。最小単位の1町の目安は約○○m四方である。
  17. こうして形作られた新都市は華やかな発展を見せ、○○と呼ばれた市民の人口は最盛期にはおよそ○○万人に達していたという。


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