ミリタリ関係
イスメト・イノニュはトルコ大統領です。写真を取っているエリエサ・バズナはドイツに情報を売り込んでいることをイギリスにつかまれており、偽情報を流すチャンネルとして利用されていました。
だからバズナは誰の部下というわけでもないのですが、ドイツの駐トルコ大使フォン・パーペンや、その部下のモイチッヒ書記官が売り込み先になっていました。パーペンはかつて国防軍のシュライヒャー将軍と組んでドイツ首相になったヒトラーの政敵で、暗殺リストにも載っていたのを偶然助かり、かろうじてこの時期まで生きながらえてきた人物です。だからヒトラーが嫌悪を示すのは当然ですが、パーペン経由の情報は国防軍情報部であるアプヴェーアのカナリス提督を通じて報告されるはずで、対抗関係にある親衛隊のヒムラーがこれを報告するのは変です(別の情報をもとにウソだと罵倒するのであればあり得ます)。
彼を襲ったのはウクライナ独立運動派。つまりソヴィエトもドイツもウクライナから出て行けという勢力でした。ジューコフが見送りに出て「ニコライ・フョードロヴィチ」と呼び掛けますが、これは「フョードルの息子ニコライよ」というニュアンス。父親のはっきりした者という響きがあって、一種の敬称だとも聞きます。
ロシア語版Wikipediaにやっぱり出典不明でこう載っています。
Google翻訳に少し露和辞典で手を加えるとこうなります。
バグラチオン作戦は、あっちこっちに死守命令が出たために包囲作戦に見えますが、実際には突破作戦だと考えています。後方の要地へ先に行きつき、ドイツ軍の道路などを使った迅速な退却を阻止して、包囲はその後。そして突破していく中で戦車の影が妙に薄い理由が、映画を見ると良くわかります。
バトフ将軍指揮下の各歩兵師団は、1〜2個大隊に不眠不休で先行させ、ジープを牽引車に持っている45ミリ対戦車砲部隊などは歩兵支援なしで急進させ、ともかく戦車も兵員輸送車もなしで(戦車は少しいたようですが)レースに勝とうとしたようです。
この時期のソヴィエト戦車軍団は、他の国なら戦車師団と呼ばれるような規模と内容です。ただし歩兵を車両に載せる余裕がありませんからみんな歩いています。戦車に乗るのは、攻撃の的になる覚悟で決死の突撃(または無理な進撃)をするときだけです。
このころ戦場での一般的な仮橋は、船の上に板を並べる舟橋でした。だから横から崩そうというわけです。この種のものではIV号戦車までがせいぜいで、ティーガーはいい橋が落とされてしまうと爆破放棄するしかありませんでした。
脱出命令を受けたのは字幕では「ガマン将軍」となっていますが、ボブルイスク「要塞」地区司令官のハマン少将。映画で描かれたように脱出は遅すぎたため失敗しました。戦後、街を焼く命令を下し、市民を殺傷した廉などで戦犯とされ、処刑されました。
ウィッツレーベン元帥、クルーゲ元帥、ベック大将、ゲルデラー博士、オルブリヒト大将、シュタウフェンベルク大佐、ヘフテン中尉。
「ワルキューレ」とは捕虜の暴動発生など有事の際に予備軍司令官フロム上級大将が発し、訓練中の部隊など予備軍指揮下にある部隊が放送局など重要施設を確保するというものです。これを使ってヒトラーのいなくなったドイツで全権を掌握しようという計画でした。
グデーリアン上級大将は1931年10月ルッツ快速兵総監の参謀長として着任しました。1933年にカザンでこっそり開いていたドイツの戦車学校はヒトラー反共政権の樹立を嫌ったスターリンによって閉鎖されてしまいます。ですから運営側として携わったり、短期出張したりしたことはあったでしょうが、訓練生としても教員としても籍を置いたことはないはずです。1930年の演習見学、1932年の視察が断片的に知られています。
イスメト・イノニュはトルコ大統領です。写真を取っているエリエサ・バズナはドイツに情報を売り込んでいることをイギリスにつかまれており、偽情報を流すチャンネルとして利用されていました。
だからバズナは誰の部下というわけでもないのですが、ドイツの駐トルコ大使フォン・パーペンや、その部下のモイチッヒ書記官が売り込み先になっていました。パーペンはかつて国防軍のシュライヒャー将軍と組んでドイツ首相になったヒトラーの政敵で、暗殺リストにも載っていたのを偶然助かり、かろうじてこの時期まで生きながらえてきた人物です。だからヒトラーが嫌悪を示すのは当然ですが、パーペン経由の情報は国防軍情報部であるアプヴェーアのカナリス提督を通じて報告されるはずで、対抗関係にある親衛隊のヒムラーがこれを報告するのは変です(別の情報をもとにウソだと罵倒するのであればあり得ます)。
彼を襲ったのはウクライナ独立運動派。つまりソヴィエトもドイツもウクライナから出て行けという勢力でした。ジューコフが見送りに出て「ニコライ・フョードロヴィチ」と呼び掛けますが、これは「フョードルの息子ニコライよ」というニュアンス。父親のはっきりした者という響きがあって、一種の敬称だとも聞きます。
ロシア語版Wikipediaにやっぱり出典不明でこう載っています。
Там, где пройдет олень, там пройдет и русский солдат. Там, где не пройдет олень, все равно пройдет русский солдат.
Google翻訳に少し露和辞典で手を加えるとこうなります。
Where deer(鹿) pass, there even Russian soldiers would pass. Where the deer will not pass... anyway Russian soldiers pass.
バグラチオン作戦は、あっちこっちに死守命令が出たために包囲作戦に見えますが、実際には突破作戦だと考えています。後方の要地へ先に行きつき、ドイツ軍の道路などを使った迅速な退却を阻止して、包囲はその後。そして突破していく中で戦車の影が妙に薄い理由が、映画を見ると良くわかります。
バトフ将軍指揮下の各歩兵師団は、1〜2個大隊に不眠不休で先行させ、ジープを牽引車に持っている45ミリ対戦車砲部隊などは歩兵支援なしで急進させ、ともかく戦車も兵員輸送車もなしで(戦車は少しいたようですが)レースに勝とうとしたようです。
この時期のソヴィエト戦車軍団は、他の国なら戦車師団と呼ばれるような規模と内容です。ただし歩兵を車両に載せる余裕がありませんからみんな歩いています。戦車に乗るのは、攻撃の的になる覚悟で決死の突撃(または無理な進撃)をするときだけです。
このころ戦場での一般的な仮橋は、船の上に板を並べる舟橋でした。だから横から崩そうというわけです。この種のものではIV号戦車までがせいぜいで、ティーガーはいい橋が落とされてしまうと爆破放棄するしかありませんでした。
脱出命令を受けたのは字幕では「ガマン将軍」となっていますが、ボブルイスク「要塞」地区司令官のハマン少将。映画で描かれたように脱出は遅すぎたため失敗しました。戦後、街を焼く命令を下し、市民を殺傷した廉などで戦犯とされ、処刑されました。
ウィッツレーベン元帥、クルーゲ元帥、ベック大将、ゲルデラー博士、オルブリヒト大将、シュタウフェンベルク大佐、ヘフテン中尉。
「ワルキューレ」とは捕虜の暴動発生など有事の際に予備軍司令官フロム上級大将が発し、訓練中の部隊など予備軍指揮下にある部隊が放送局など重要施設を確保するというものです。これを使ってヒトラーのいなくなったドイツで全権を掌握しようという計画でした。
グデーリアン上級大将は1931年10月ルッツ快速兵総監の参謀長として着任しました。1933年にカザンでこっそり開いていたドイツの戦車学校はヒトラー反共政権の樹立を嫌ったスターリンによって閉鎖されてしまいます。ですから運営側として携わったり、短期出張したりしたことはあったでしょうが、訓練生としても教員としても籍を置いたことはないはずです。1930年の演習見学、1932年の視察が断片的に知られています。
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