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ミリタリ関係




アマテラスの首飾り-呉鎮守府の防空体制

はじめに


 戦史研究家でもある片渕須直監督が『この世界の片隅に』のクラウドファンディングを始めました。なにか協賛企画をと思いましたが、私は太平洋戦線のことはあまり知りません。海外から質問があったときに調べたことを中心に、少し主人公たちが暮らす呉の周りで、空襲の情報を知るためにどんなやりとりがあったか語ってみたいと思います。

防備隊と防備戦隊


 防備隊というのは鎮守府に早くからある防衛組織です。防備と言っても、海岸にある砲台は軍艦の砲塔を転用したようなものでも陸軍所管です。防備隊の仕事は、まず見張りでした。重要な水路を見張ったり、小さな船でパトロールしたりするのです。戦争になると、鎮守府の周囲だけでなく、例えば紀伊水道や関門海峡も見張らなければなりませんから、呉防備隊の兵員を基幹にして下関防備隊、紀伊防備隊、豊後水道を守る佐伯防備隊などが編成されて任に就きました。

 防備戦隊というのは比較的新しい部隊で、1934年12月に舞鶴以外の鎮守府で編成されました。これはおそらく、1934年に第1号駆潜艇が竣工したことと関係があります。戦争でなくても、潜水艦と戦える艦艇の守りがなければ、外国の潜水艦がこっそり偵察に来るかもしれません。だから駆潜艇、敷設艇、掃海艇といった機雷や防潜網を扱う小艇(特務艇)を指揮するために、常設の司令部が必要になったのです。特に戦時になると、鎮守府から遠い防備隊にいくらか特務艇が預けてあることがよくありました。防備戦隊の戦時日誌を見ると、そうした防備隊の特務艇にも命令を出していますが、陸上にいる防備隊に指示を出している様子はありません。

警備隊


「呉第6特別陸戦隊」のように、鎮守府と番号のついた海軍の陸上部隊はたくさん作られましたが、特定の島を守る命令を受けると「第何警備隊」というふうに名前が変わるのが普通でした。つまり特別陸戦隊は必要に応じて動き回るイメージの部隊だったわけですね。

 じつはこの「第何警備隊」というのは部隊の分類では「特設警備隊」でした。戦争の間だけ存在する部隊というニュアンスです。ところが1941年11月になって、各鎮守府にその名前を冠した警備隊がつくられました。「特設警備隊」や特別陸戦隊より後の開戦間際なのです。最初の定員は、舞鶴だけちょっと少なかったのですが、呉などは士官15、特務士官6、准士官2、下士官81、兵522でした。ですから陸軍の1個大隊にはちょっと足りないくらいですね。ところが1944年12月になると、定員と臨時増員を含めて下士官と兵が合計6516人にまで膨れ上がっていました。

 海軍の兵士も小銃の扱いはみんな教わりましたし、千葉県の館山にある海軍館山砲術学校が中心になって、もっと徹底的な陸戦の訓練も行われました。もちろん歩兵として鎮守府そのものを警備するのも警備隊の任務でしたが、もうひとつ重要な仕事がありました。海軍施設を守る高角砲や高角機銃、それに付随するサーチライトなどの取り扱いです。おそらくそのせいで人数が膨れ上がっているのです。砲を取り扱う訓練も警備隊でやっていて、紀伊防備隊の施設を守る高角砲が防備隊の兵員では扱えないので警備隊から分遣隊を出す……などということもありました。

電探情報


 電探(レーダー)は防備隊にも警備隊にもありました。それはそれで、藤沢市の海軍電測学校などで訓練を受けた兵員がつくわけです。ただ高角砲は警備隊が持っているわけですから、迎撃命令は警備隊のほうで出していたようです。

 1945年5月5日の広工廠空襲の場合、まず陸軍の西部軍司令部(福岡県小倉)から真夜中を回った0時20分、呉鎮守府に通信傍受情報として「B29の大挙出撃がありそうだ」という連絡が入りました。そして第一報は「室戸岬」から、付近をB29が16機通過しているというものでした。室戸岬の呉警備隊電波探信所からの通報でしょうが、「付近を」というのですから電探は捕まえそこなったようですね。B29はその後も飛来して、約120機を数えました。

 1945年7月1日の呉空襲では、第一報は父島を起点にした位置情報で、海軍の父島方面特別根拠地隊が乳頭山あるいは中央山に持っていた(現在も基部が残る中央山のものは相対的に後の工事なのですが、さすがに終戦直前には完成していたでしょう)電探の情報でしょう。第二報は高知沖のはるか南にいるところをとらえているので、今回は室戸岬電探のお手柄でしょうか。

 佐世保警備隊の戦時日誌では、中国方面から飛来するB29を見つけるのに、陸軍が済州島に設置していた電探の情報を使ったケースがあります。この件でだけは、陸軍も海軍も出せるだけの情報は出し合ったようですね。こうした連絡のため、呉警備隊からは西部軍司令部、中部軍司令部(大阪)、広島師管区司令部(開戦時は留守第5師団)、善通寺師管区司令部(開戦時は留守第11師団)という4つの陸軍部隊に3人ずつの連絡員を常駐させていました。

 陸軍側でこの仕事をしていたのは航空情報連隊と呼ばれる部隊で、電探を使う警戒中隊、人が目で見て無線で知らせる情報中隊をいくつか持っていました。それがさらに各地に分遣されて電波警戒機(例によって海軍と名前が違います)を運用していたわけです。まあ陸軍と海軍のレーダーがすぐ近くに並んでいたりするのは、やっぱりお約束なのですが。もっと小規模の航空情報隊も、主に本土以外の地域に散らばっていました。

 呉で日々を送る人々のずっと外側で、やっぱり小さなサークルの小さな暮らしがありました。ただいくら協力しても、大きな戦力の波を押しとどめることはできなかったわけですね。

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