マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

創作関係



落書き帳


 創作・考証に関するエッセイを、ときどき書こうと思います。

傾城物


 特に歌舞伎や文楽で、遊郭を舞台とするものを傾城物といいます。

 売笑と結びつく遊女歌舞伎や若衆歌舞伎の時代には、女性の役を多く用意する必要上、どうしても傾城物が多くなったと聞いたことがあります。当然ストーリーは狭い範囲に押し込められてしまいます。現在も続く男衆歌舞伎になって、制約が取り払われた結果、多様な演目で演劇としての深みが出た、というのです。

 私の若いころ、キャラクターに宛ててメッセージを送る形式の感想は、今で言う「痛い」文章でした。今はもう当たり前です。消費者がごひいきのキャラを作品中に見つけ、応援することを中心とした「俺の嫁ビジネス」がアニメのビジネスモデルとしてすっかり定着した現在、ふたたびストーリーへの制約が強まり、どのクリエイターも同じところを掘る状況になりつつあります。

 架空戦記はこれとは逆で、作中の女性を増やしにくいジャンルです。船魂といった形でそれぞれ工夫がなされていますが、男女比をコントロールする方法はこのジャンルの寿命を大きく左右するだろう、と思っています。最近の萌えミリタリーも、もちろん需要があるから供給されるんですが、クリエイターサイドから見ると、男女比を変化させるひとつの方便と考えることも出来ます。

よくあるパターンと読者層


 ツンデレはマンガ・アニメが作った言葉ではあっても、中身的には昔から言われている話ですよね。

 以前知り合いに「シンガーソングライターになりたい」って人がいて、曲って誰でも作れますよねみたいなことを言うので、言ったわけです。おまえ半音階的進行って知ってるかと。これを一つ覚えにすれば銭湯で歌う鼻歌みたいな歌いやすくてなんとなく気持ちいい歌はすぐ出来て、でもそーゆーのはみんな同じように聞こえちまうから売り物にならないんだよと。ちゃんと音楽科で作曲理論を習ってもやっぱり商売にならなくて音楽教室やって弟子育ててまた音楽で食えない音楽家が増えていくこの現状をおまえはどーとらえるのかと。まあ要するにやるんだったらもっと徹底的にやれと。

 架空戦記が売れないと。じゃあ架空戦記だけが本として売れないのかと。本が売れないとしたらその分のおあしはどっちへ行ってるのかと。そういうことを考えないと面白い架空戦記って出てこないと思っているわけです。前からあるパターンを気づかずに劣化再生産してすがるくらいなら、探して真似したほうが早いわけです。

 エンターテイメント産業として見るなら、お客さんにどういう状態で帰っていただくかと。それがまず基本だと思うんです。トルディが出たトゥラーンが出た。あっこっちではMG151/20を地上で使ってる。それが面白いとしたら企画書が面白いとか、帯の紹介文が面白いとか、そういう面白さだろうと。

 お客さんを、どういう意味でいい気分にさせて帰すか。涙うるうるで「あー気持ちよかった、ほろりとしちまった」ということもありますが、まあ普通はハッピーエンドを読者に共有させて帰します。

 例えば時代物になると、戦国時代でも江戸時代でも自由に舞台は選べるはず。でも時代劇って戦国時代は案外少なくて、江戸時代のほうが多いですよね。もちろんテレビに馬とか出すとお金がかかるってことはありますが、「パカランパカラン」と字で書けば済む小説だってそうです。なぜそうなのかと。

 想定される読者が何を求めているか、ってことだと思うんです。平穏な生活というハッピーエンドが、戦国時代じゃ得られない。さあこれからも修羅の毎日だよ頑張ってね、戦いは続くのであった、じゃ読者は落ち着かない。そんな事情があって江戸時代が無難なんだろうと。

 例えば「日本」や「ドイツ」といった国に感情移入をさせるなら、その「日本」や「ドイツ」をハッピーエンドにしなきゃいけません。そこに不自然さがどうしても入ってきます。それを、どうはずすか。

 末期兵器が活躍すりゃいいんだ、出てくりゃいいんだ、では兵器マニアの人員点呼で、エンターテイメントじゃありません。読者層を広げるなら、一般的な大衆娯楽パターンをどう取り入れるか。そこだと思うんですよね。じつは戦争期をエンターテイメントにするのは、それ自体に難しさがあります。そこに気づくだけでも違ってくると思います。

AMAKUSA1637

赤石路代さんのAmakusa 1637は英語版・仏語版のWikipediaに項目が立っていて日本語版にないという不思議なマンガ。島原の乱に高校生集団が飛ばされるタイムスリップ物ですが、男女比を適正に保つ問題、平穏な日常との距離関係というふたつの問題を鮮やかにクリアしていて驚きました。

 以前何冊か読んだ「水滸伝」の解説書のどれに載っていたんだか思い出せないのですが、「宋江ってちょっと親切なだけなのに、なぜリーダーになって、しかも人気があるんだろう」という話題が取り上げられていました。

 その本の答えは「ちょっと頑張ればなれる程度の立派な人が、全国の豪傑に知られ慕われるっていうのは、庶民の手が届く夢だったんじゃないかしら」というものでした。人がリーダーを支えるようになっていく過程が、Amakusa 1637では丁寧に描かれていました。

 その対極にある歴史小説の描き方を上げるとすれば、北方謙三さんのアプローチでしょうか。ひとりひとりを漢としてまず立てて、それを少しずつつないでいく方法。読者は作品内に分身を持つというより、作品内の人物をひいきにします。

 高町なのはって、人をたらすんですよね。自分も強い冥王宋江っていうか。StrikerS(後半)で初めて、自分自身の葛藤に向き合いました。敵対者をたらすという意味では、木之本桜もそう。だから、パロを書いてみようって気になるのかも。

敵の入れ替え


To Heart of Europeという非常に有名なネタサイトがあります。このように史実の人物・選択があーだったらこーだったら、というのが普通の架空戦記。

 しかし「敵を入れ替える」とどうなるでしょう。例えばゴ○ラがドイツを攻めたら? 当然ドイツ全軍はそれを迎撃するでしょう。侵略者の軍隊も、絶対的な敵を出せば地球防衛軍として描くこともできるし、戦争のない時代にエイリアンを送り込めば「人々の平和を守る」演出も可能。日常を描くことが出来れば男女比のバランスも取りやすくなります。でも陸軍対怪獣って、普通のミリタリー本が取り上げている戦術って全部無駄になるよなあ、と思って、防衛側をアニメキャラに置き換えて書いたのが、実は草稿創作大隊にある「エリカ対ゴマルラ」。もし史実の軍隊を活躍させたければ、史実の軍隊でなんとか太刀打ちできそうな敵を出せばいいわけです。

未完のパターン


 毒を吐いてしまいますと、わたくし、区切りのついていない作品をネットに出すのは嫌いです。もちろん自分が読者で、盛り上がったところでぶっつり切れたら腹が立つというのが第一の理由ですが、昔から「登場人物紹介が延々と続いて、そこでぴたっと進まなくなる」アマチュア小説をよく見たからです。まあ私も書きましたがね。

 昔ながらの小説は、「何とかしなければならなくなって、何とかする」ことが話の軸にあります。何とかするときに、主人公の性格、能力、境遇が出ます。例えば筒井康隆さんの「富豪刑事」みたいに、最初から能力や工夫を問題にしない金や権力を与えてしまう、という冗談っぽい方向性もありますが、たいていは何か工夫が必要。そこで主人公の性格や弱点、長所がにじみ出ます。「こうしたいんだけどできない」「こうすりゃいいんだろうけどこの時代ではタブー」といったところに、社会、組織、時代が影を落とします。

 だから、主人公の過去の経歴ってのは、案外主人公を描いたことにならないんです。経歴や能力が書ければ、その主人公がピンチになったときの話が書けるかと言うと、実はそうではありません。だからキャラクター紹介が終わったところで、詰まってしまうわけです。

 逆に言えば、小説の中で主人公が何も解決しない、何も決断しないとしたら、それは昔ながらの小説ではないと思うんです。まあ、「封じられた図書館」シリーズの某作品では、主人公たちが目前の巨大な問題に気づかずに行き過ぎ、その問題は偶然に解決してしまったりするわけですが。

 ただ、上の意味で小説じゃないSSってのは、アリだと思うんですよ。似顔絵を描く代わりに文章を描いているSSは、確かにあるし、そういう創作者の欲求はあるだろうと思うから。好きなキャラに、自分の思うとおりにしゃべらせてみたい、という思いは誰にでもありますよね。

その世界のアタリマエ


 例えば魔法使いだらけの世界では、何でもできてしまうんだから、推理小説なんか書けそうにないですよね。しかしランドル・ギャレットのダーシー卿シリーズのように、魔法がある法則・制約に従うという約束をして、その世界なりの不可能犯罪を描いてみせる推理小説はあります。

「勇敢な行為」「卑劣な行為」は、その世界のアタリマエからの距離で決まります。例えば匿名掲示板で「俺はこれでこの世界を去る。さらばだ」などといっても「お疲れ。明日になってIDが変わったらまたおいで」でおしまいです。

 例えば明治時代の中頃には自由民権運動があって、政府批判の演説や演歌(演歌という言葉はこのころできたもので、オッペケペ節などを指す)は普通にありました。ただ官憲は集会条例や新聞条例を盾に、本気でそれを弾圧に来るわけです。場所も選ばずに気軽に政府批判ができたわけではありません。

 日露戦争から1920年代にかけての新聞には、どこどこの陸軍将校が人妻との不倫で刃傷沙汰を起こした、などという話が普通に出ています。特に陸軍の軍縮ムードで、軍人という商売が斜陽産業になり、肩身が狭かった時代です。一方、子供のころに幼年学校に入り、そのまま軍人社会しか知らずに陸軍士官学校を経て出世する陸軍士官が増えてきた時期でもありました。このふたつが不幸な衝突をしたのが、1927年の張作霖爆殺事件でした。みんな日本陸軍の仕業だと思っているのに、責任者はほとんど罰らしい罰を受けませんでした。野党は国会で政府を追及しましたが、罪を認めれば日本の損になることなので、追いきれなかったのです。このあと、青年士官は急速に独断専行を濫用するようになり、報道への陸軍省・参謀本部からの監視も強まりました。だいたい満州事変のころには、軍部批判は書けなくなっていたようです。

 同じ国で同じことをするのにも、それが危険である時期と、そうでない時期があるわけです。

 このへんを調べて正確に書くのも難しいのですが、「架空世界の常識」をワンセットつくりあげてボロを出さないのもなかなか大変です。まして、それを読者に実感させる必要があるんですからね。ちょっとだけならイメージできる時代小説・歴史小説が書き手に重宝されるのは、このためでしょう。

 私は実は「なのは第4期を歓迎しない派」なんです。だって「質量兵器の全面禁止」なんて無理なんですよ。化学物質を規制しなければ爆発物は簡単に作れるわけだし、それを取り締まる側が魔導師頼りで、魔力がなければ無防備で悪と戦わないといけないなんて、体制側に圧倒的に不利じゃないですか。「鏡の向こう側」で皮肉っぽく出したように、スリングショットとかボウガンとかエアーガンとかスタンガンとか、グレーゾーンも色々あるわけで。これ以上作ると、そうした世界の無理がどんどん大きくなっていくと思うんですよ。

Curse of Knowledge


 Curse of Knowledgeという心理学用語があります。自分が知っていることを知らない人の気持ちや判断を想像する(知らないつもりになる)ことは難しく、いろいろな失敗の元になる、ということです。

 例えば、自分のよく知っている作業を知らない人に指示すると、つい細部の説明を省略してしまい、結果が出てから「うぎゃあ」となりがち。小さい子に先生や親が物を教えようとするとき、「自分ならこれで分かる」教え方をしてしまい、子供は教えてもらえなかった空白があっちにもこっちにもあって途方にくれることになりがち。

 作中の人物にはそれぞれ、知っていることと知らないことがあります。知識の少ない人は、それでも知っていることをフルに使って、一生懸命に頑張るはずです。もちろん、作中の人物がウソを教えれば、それに沿って判断をゆがめるはず。

 逆に言えば、持っている知識の差が、行動の差の基礎にあるはずなんです。性格の差は「やりたいことの差」だと言ってもいいでしょう。「やれることの差」は、知識の差と能力の差でつきます。そして行動の差は、「やりたいこと」より「やれること」に左右されます。

 性格の差から行動の差を出そうとすると、うまく差がつかなくて、ついついキャラの「能力差」に頼ってしまいます。無茶苦茶な行動を、無茶苦茶な能力から直接引き出してしまうのです。これは敵の強さと味方の強さがどんどんエスカレートしていく「ドラゴンボール現象」の原因になります。そして、持っている知識・情報と行動の関係が薄くなると、「いつも同じことをやる」→「ワンパターン」となっていきます。

 意識して「このキャラは今何を知っていて、何を知らないままなのか」と考えるようにすると、同じキャラから多様な物語を引き出すヒントになるかもしれません。

二次創作とオリキャラ


 二次創作にオリキャラはどこまで許されるか、という話がときどき匿名掲示板に出てきます。

 要は客層の絞り込みの問題だと思うんです。ほとんど字しか扱えなかったパソ通の時代でも、エロ系小説のダウンロードカウンタは一般小説より2桁くらい多く回ってました。数(売上)としては、美少女アニメにそっちを求める人が圧倒的に多いんじゃないですか。

 お色気の市場がまずどーんとある。その次に、原作キャラを大切に賞味するのが二次創作、と考える人たちの市場がある。これが基本構図だと思います。

 でも、独自設定まったくなしではヤマもオチもイミも狭い範囲内でつけなければなりません。そうじゃなくちゃいけないんだ、という方は主に一枚絵とか、4コマ漫画とかのお客さまなんだと思います。

 独自要素を展開することで作品の幅は広がる反面、逃げる人も出ます。どこまで崩しても、どれくらいのお客さまがついてくるか。これはもう理論でなく実測の世界。いつ止めようかと思いながら「封じられた図書館」シリーズを書き続けていたら、各話公開から3日間で500のアクセスがコンスタントに稼げるようになりました。「なのは」が人気シリーズだから、オリジナル要素を加えてもこれだけ残ってくださったんだと思います。

「なにわの総統一代記」はおかげさまでネット仮想戦記では必ず真っ先に思い出していただける作品で、10年近く経っても1日に30近いユニークアクセスがあります。でも仮想戦記で新作を出しても、それと同様かそれ以下で、全然カウンタが回らないという現実があるわけです。読んでもらおうと思ったら、お客の居るところを探し回る必要があります。「やりたいこと」と「読んでくれそうな要素」のバランスを取って。「萌えミリタリー」も、新たな需要層を開拓した模索の産物だと思います。

 オリキャラに付きまとう問題は、もうひとつあります。いまTRPGをやる人も昔ほど多くはなくなりましたが、TRPG雑誌の初心者向け解説で「自分のキャラが圧倒的に強い、超強いということを自慢したり、そういう扱いをゲームマスターに強要したりするのはやめましょう」といった注意書きを見たことがあります。MMOで高レベルキャラを持つ廃人さんが人を見下す態度を取って色々言われることがありますが、「他人の住む世界で(相対的な)最強キャラを操る」のは昔からある願望です。ただ、他人の作った最強オリキャラに読者が感情移入できるかと言うと、これはまた別。たいていの人は、自分を最強だとは思っていませんから。

性格俳優


 特定の機械的な行動パターンや、特定の好き嫌いをキャラに与えることはよく行われます。Kanonのヒロインたちが特定のお菓子やジャンクフードを偏愛していたのはその典型です。

 演劇の世界で「性格俳優」と呼ばれる人たちはもう少しマイルドな、独特の存在感を持つ人たちです。好きなもの。嫌いなもの。許せないもの。気になるもの。脚本家が何の設定もする前から、キャスティングで観客/ユーザーが人物像のイメージを持ってしまうのが性格俳優だと思います。

 ずいぶん前のことですが、陣内孝則さんにコミカルな役が多く来るので、イメージが固定するのを嫌い、しばらくコミカルな役を断った時期があったと聞いたことがあります。性格俳優として扱われることは、その人の可能性を狭める面があります。

 二次創作のキャラクターに、原作で見られた特定のタイプの行動を再現すること「だけ」を期待する読者も多いように感じますが、あまりそれにこだわると、「同じようなストーリーばかり」になってしまいます。かといって原作を無視したのでは二次創作にする意味がないわけで、そこが難しいバランスですね。

命の重みとジャンル分け


 命の重さを作品を通して訴えよう、などという気は特にないんです。ただ、命を重く書かないとその世界のアタリマエで書いたように、「命がけの行為」にも重みができません。(本物の)歴史を扱うと、そうした重みを演出するのがラクではあります。ただ、実際の歴史を扱っていても、決め台詞が聞ければヨシ、特定兵器が活躍すればヨシ、意外性さえあれば人びとの行動に脈絡がなくてもヨシ、という小説の読み方・書き方はできます。こうした意味での方向性をくくるのに、いわゆるジャンル分けはまったく無力です。

 「十二国記」の小野不由美さんはファンタジー作家として人気が高く、F&SFファンの世界ではすっかり「自分たちのジャンルの人」というとらえ方をしていました。ちょうど「SF冬の時代」などという話があって、SFが売れないことを関係者が気にしていた時代に、小野さんは希望の星であったわけです。

 ところが「東亰異聞」であったか「屍鬼」であったか、ある評論家が書評の中で「ミステリー界にはこのように新しい才能が現れるのにファンタジー界には元気がない」という意味のことを書いてしまって、多くのF&SFファンがその書評に顔をしかめたことがありました。私は、まあジャンル分けってその程度のものだよね、と苦笑しただけでした。

 私は、仮想戦記(架空戦記)をジャンルと呼ぶのは大げさだと思っています。歴史小説の中の小さなグループに過ぎないと。そのうち江戸時代物も書いてみたいですね。目からレーザー光線が出せる忍者とか登場させて。

国と社会と個人


 ちょっと物騒な例を挙げますが、2008年12月末にイスラエル軍はガザ空爆によって、ハマスの重要人物を殺害しました。イスラムの聖職者であり、ハマスの軍事指導者でもあったと言われるNizar Rayyan師です。F-16戦闘機が住居を攻撃し、Rayyan師と4人の妻のうちふたり、12人の子供のうち4人と、そのほかに多数の死傷者を巻き込みながらの殺害でした。

 イェルサレムポストの記事「No tears for Hamas leader in Ramallah」によると、ハマス側は(ヨルダン川西側を統治し、2007年にハマスが占領するまではガザ地区も統治していた)パレスチナ自治政府がイスラエル軍に同師殺害を依頼した可能性を考えています。Rayyan師は聖戦を容認するイスラム教文化に影響された人物だ、と表現しても誤りではないでしょう。しかしパレスチナ自治政府という特定の政府からは、紛争相手に依頼してでも除きたい危険人物と見られていた可能性があるわけです。

 国は社会の一部しか覆いませんし、社会の持つ習慣や思想は、国の政策を一部しか支配できません。例えばインド政府やネパール政府は公式にはカースト制度がもたらす不平等を否定し、解消しようと努力していますが、うまくいっていません。一方、インド社会が持つあいまいな傾向や意見だけでは、インド政府がパキスタン、バングラデシュ、スリランカといった非ヒンズー教圏国家と展開する外交を一部しか説明できません。

 人は国からも文化からも少しずつ影響を受けます。そして、国の中にも文化の中にも相反する要素がしばしば混ざり合っています。例えば宗教の宗派争い。政府の部門間対立やライバル意識。

 私に言わせると、「社会に反発する主人公」などという設定には意味がありません。社会のどこに反発するのか、具体的な踏み込みが必要です。でも、それってトラウマなども含めて、個人の性格そのものだと思いませんか。

 例えば私は、ミッドチルダにはとんでもない差別が内在しているんじゃないか、と疑っています。表面上、ミッドチルダは非常にオープンな社会であり、外国出身者を平然と要職につけています。ただそれはあくまで、魔力資質がある場合です。魔力資質がなければ、魔力資質のある若造に序列をどんどん抜かれていくことが生まれながらに決まってしまうのです。例えば4代くらい続けて魔力資質のある人が出なかったら、その家系は結婚相手を制限されてしまうんじゃないでしょうか。そしてますます、魔力資質のない家系が濃くなっていきます。

 なのはたちは、その世界の超エリートであり、その子孫たちも生まれながらにちやほやされ、実際に高い確率で上流社会に組み入れられます。例えばなのはの子供に魔力資質がたまたま欠けていても、その子供にはまだ期待できますよね。

 そんな立場に置かれた子供たちが、現実をどう消化し、許せることと許せないことをどう分けていくか。そのへんを描いていきたいと思っています。

設定は出だしだ


「〜ってSSありませんか」という質問書き込みで非常に多いのが、「〜という設定のSS」を探すもの。

 例えばなるべく多くの人がイメージできるように、ガンダムでやってみましょうか。

「ガンダムを私的機関が持っているSSありませんか」

 それってガンダムWやGガンダムがそうだし、ある意味ではVガンダムがそうですね。SEED DESTINYのキラ派もそれに数えていいかも。

「ガンダムを悪の組織が持っているものはありませんか」

 Wガンダムは地球視点から見ればまさにこれですよね。

「ガンダムが女性なものはありませんか」

 Gガンダムのノーベルガンダムは女性がモチーフですが、むしろ形態的に女性ではないライジングガンダムはGガンダムとラブシーンまでやりましたよね。

 どれも該当があるわけですが、「設定がその作品の特徴(面白さ)とあんまり関係ない」ことは共通していると思いませんか。

 設定は出だしを制約します。でも、そこから先の展開は個々のキャラクターの行動ルールで決まってくるんですよね。それについてはすでに落書き帳のいくつかの項目で触れました。

 ちょっとキツい解釈をすれば、設定に従った場面のひとつやふたつは、設定で決まるでしょう。展開は、まったく決まりません。

「こういう展開のものが読みたい」というリクエストがほとんど見られず、設定の議論に熱心な人が多いのが今のSS世界の印象ですね。まるで、設定さえよければ展開の面白さも保証される、と考えているようです。

 展開を語る言葉を持っている人がほとんどいない、ということでもあるんでしょうね。

展開の類型についての断章


反体制派という生き方


 バランスの取れたひとつの世界を丸ごとイメージすることはなかなか大変です。バランスが取れているように見える世界でも、反体制派や典型的な不満は存在します。

 例えば「武士道」や「騎士道」は、完成された時代のイメージで我々に伝わっていますが、戦国時代の武士は葉隠武士道にしたがって生きたでしょうか。全然そんなことは無いですよね。裏切りはアリのアリアリルール。でも、自分の名誉を大切にし、自分の殉じたいものに殉じた人が多かった、ということでもあります。アーサー王が騎士道の華だとしたら、その一生は不義や裏切りに振り回されたことになります。

「こう生きるものだ」という規範ができることには、それ自体理由があることがほとんどです。例えば飲酒して日中に移動すると命の危険がある砂漠地域で、飲酒を厳しく禁じる宗教が出来たりね。でもルールはいつか緩められたり、反発されたりするもの。外部からの刺激がきっかけになることもありますし、内部でゆがみが頂点に達することもあります。

 重装歩兵はローマ軍団の中核でした。集団戦の訓練を受けた職業軍人は多くの古代帝国の中核でしたが、それを維持していける国家システムが弱ると優位を失いました。「帝国への反逆者」として歴史に残る人には、どちらかというと宮廷闘争の参加者である大貴族や王族が多いように思います。もともと国家が民衆のためのものではなく、結果的に民衆に恩徳を施すもの(家産国家)と自己規定していれば、民衆のための反逆はよほどシステムが切羽詰るまで行われないでしょう。

 ヨーロッパと日本の中世は前後の時代に比べると強力な広域的政権を欠いており、小領主が相対的に独立していましたが、日欧どちらの中世も、甲冑を着けた騎馬武者がもっとも強力な野戦戦力でした。騎馬武者は幼少時から馬術・武術の両面で徒弟的な教育を受けますが、そのために家族的な小集団が基本的な単位となり、権力者がこれを独占することが困難でした。

「俺のケツをなめろ」のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンも、そんな時代の末期に生きた人でした。当時としても困った人だったわけですが、必ずしも体制への反逆者でもなかったわけです。

 日本の武士は、ローカルな権益を守る地方武士団と、受領に付き従い、後には自ら受領となって中央の権威を執行する摂津源氏、平氏などの中央武士団があって、婚姻や地方定着などで交じり合っていきました。つまり武士は武士であるというだけでは何の収入もないので、権力にすり寄って徴税権の一部を頂くプロセスが少しずつ進行したわけです。摂津源氏に比べれば傍流である河内源氏がこれに加わり、やがてどの本家筋も滅亡して、南北朝時代にはついに天皇家自身が勢力争いに身を乗り出して、めまぐるしく同盟関係が変化します。中世末期には、こうした徴税利権に与れなかった地方武装勢力が悪党として再分配闘争に加わってきます。

 中世を代表するもうひとつのキーワードがです。ヨーロッパにもギルドがありましたよね。一般的な警察や民事裁判制度が庶民にとって当てにならないので、団結して有力者の庇護を受ける必要がありますし、庇護を受けてしまえば現代ならできない営業制限もできるわけです。惣村についても、近代的な法の庇護がないので自衛組織ができた、と考えることもできます。そしてやはり、その時点での地方有力者に庇護を受けつつ、強面の要求もする存在でした。

 こうした世界では、個人の反体制的な態度(どの集団にも属しようとしない態度)は単に自滅を招いたでしょうし、自滅を招くものと周囲からはみなされたはずです。逆に集団単位では、徒党を組んでの要求や実力行使は珍しいものではありませんでした。実力行使が相手を覆滅して取って代わるレベルまで行ったとき「下克上」という言葉にリアリティが出たわけですが、それ以前の中世も無風であったわけではありません。

 こういう社会に異能のものが現れたら、各勢力がそれを争奪するでしょうか。どちらかというと、全力を上げて退治にかかるだろうと思います。構成員に加えるということは以後の発言権を認めるということであり、それぞれの小集団の内側も絶対権力者がいたとは思えないからです。だから異能のものが社会にとどまるためには、能力を隠して生きるか、(小集団を壊して古代の帝王のような存在になり)社会を変革する覚悟で成り上がるか、どちらかでしょうね。「銀河帝国の興亡」に出てくるミュールが思い出されます。

 熟練に時間を要する騎馬武者と傭兵で何とかなる長槍隊や鉄砲隊の技術的な力関係は社会制度を規定します。短期間に集められる傭兵・足軽が軍事的に騎兵を圧倒したとき、絶対君主や戦国大名が政治的にも小領主を圧倒していきます。

 ここから急激に、立身を夢見る武芸者の生きる道が狭まっていくのは、いろいろな局面で皆さんのお目に留まっていると思います。大阪夏の陣の大阪方牢人たち。由比正雪の乱。

 江戸幕府は民政レベルでは江戸などの直轄地を治めていただけですから各藩のことはまったく存じませんが、江戸では公事(訴訟)が一般人の生活に影響を与えるようになり、公事方御定書という法典も現れます。非公開のルールでしたが特に下巻の御定書百箇条が非公式に書写され、「十両盗めば死罪」などという要点は知っている悪人も多かっただろうと思います。

 この体制では、「目明し」が地下世界と表世界のつなぎ役を果たしていました。元犯罪者などが役人に情報を提供するのです。時代劇で十手をひけらかす姿が目に浮かびますが実際には身分証明証がなく、詐称してゆすりを行う事件が起きたため目明しの利用は公式には禁じられてしまいます。

 ただ、法の執行システムが確立しているため、そのシステムを非公式に補完するかたちで異能のものが雇われる、と想定することは中世に比べれば簡単でしょう。逆に、個人のアウトローもまったく法の保護を受けないわけではありませんから、異能の犯罪者は普通の犯罪者が起こす多くの事件に隠れ、長いこと生き延びるチャンスがあったでしょう。

 正規の法の執行者となるためには、慣習法も含めた法体系を覚えこむ必要がありますから、表世界の住人(例えば同心)となることははるかに難しいでしょう。

遊牧民族と隊商


 遊牧民族の軍事的な特技は騎射であったようです。モンゴル帝国は大規模動員、食料を兼ねた予備の馬などでこの利点を増幅させました。逆に言えば、騎射は騎馬民族のお家芸として代々伝承されていたとすると、リーダー不在で大規模動員ができない時期には農耕民族から各個撃破されていたと思われます。金の減丁策は純軍事的には合理的な戦術だったのかもしれません。長期的には怨みを蓄積させ、むしろ亡国の因となった印象がありますが。

 ベドウィンも血族集団が基礎にありますが、同行者ないし交易相手をキャラバンに迎える習慣はあったようです。

「自由の民」は「法の保護を受けづらい民」でもあるわけで、部外者への警戒心は人一倍強いのがむしろ自然。ただし、どこかに入口は作ってあるはずです。小集団であれば通婚かメンバー補充の必要がありますからね。
 

命を懸けるということ


「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀損せざるは孝の始めなり」というのは儒学の重要テキスト「孝経」に出てくる言葉。日本の武士は江戸時代以降に儒学を学ばされたわけですから、簡単に切腹するのはそこでやめないといけなかったわけです。

 ところが中国にも、孝の道と並行して存在する侠の道がありました。そして、武侠小説というのは日本の大衆文学では及びもつかない長い歴史があります。思いっきり煎じ詰めると、男が命を捨てる千の方法です。多くの場合、主や友のために捨てるのです。

 だから、「主人公はどこで、何のために命を賭すのか」を真っ先に考えるストーリー構成法もアリだと思います。それは命のやり取りを含むほとんどのエンターテイメント作品で、ストーリーの焦点になります。

 戦士として良く生きると楽園などに生まれ変われる。そうした考え方のバリエーションはヴァルハラ信仰、一向一揆など広く見られます。むしろ最近悪名が高いイスラムのジハードは、外的への暴力行為よりももっと広い概念で、こうした宗教的な意味を持つ修行であれば仏教にもキリスト教にも存在すると言っていいでしょう。親鸞聖人の作である恩徳讃とかつての一向宗の武力活動を結び付けて考えることはできますが、浄土真宗の歴史の中で、武装集団を持っていた時代は今となってはほんのわずかです。キリスト教の十字軍も、日本の学校ではあまり教えない北方十字軍のようなものまでローマ教皇の公式な後押しを得ていましたし、現に国家を作っている相手、それもロシア正教のようなキリスト教国に対しても十字軍が仕掛けられました。

 オウムのように、別段戦乱期でもない時期と地域に出現して暴力を振るった宗教集団もありますが、暴力的にも非暴力的にも解釈できる教義が、厳しい状況下で急進的な活動のよりどころになることのほうが普通でしょう。

 仇討ちは時代劇のストーリーとしてよく使われますが、「お家」という名誉と生活保障がかかった、実在する非人間的なルールだからでしょう。このコラムの別の項目でも述べましたが、本当に大切なものを賭けたのでなければ、人は他の行動ルールとのジレンマを感じませんし、その選択も重要なものになりません。また、お家再興とあだ討ちが結び付けられたのは江戸時代に限られ、それ以前は殺人は殺人として裁かれたようです。

 自滅に至るルールを信奉しているキャラクターを救おうとするとき、そのルールを批判するだけではキャラクターは虚無に放り出されてしまいます。別のルールを提示する必要があります。ここがシナリオで頭の絞りどころになることがよくあります。

 面従腹背、二律背反。人は複数のルールに魅力を感じながら、その一部を人に隠していることがあります。「ロードス島戦記」は「じつはずっと持っていたルール」が突然提示されるところがハイライトです。あれはセッションでその役をやった後の某作家さんのアドリブだと聞きましたが……

 侠の原理が「仲間を守ること」だと単純化していいなら、仲間に引き込むことでありとあらゆる自滅的な掟やルールを無効化できます。そして仲間の力でルールの維持者を倒すか、口を封じてしまえばいいわけです。これを徹底的にやっているのがOne Pieceではないかと思います。

まずピンチから考える


 最初に主人公が抜け出すべき課題を設定し、主人公の身になってそこからの脱出方法を考える。これはフォレスターが明かした彼自身の小説執筆方法だったと思います。私はよくこれを使います。

 例えば「割れそうにない結界の向こうにいる仲間がピンチだ。高町なのははヴィヴィオ救出時のダメージでSLBが撃てない。どうする?」というのが「封じられた図書館シリーズ」最終決戦の戦況。これに対して、無数に解決は考えられます。ヴィータが割る。白天王やヴォルテールに打ち抜かせる。スバルの振動拳。

 逆に言えば、これらで簡単に突破できないものを突破する、猛烈に爆裂的な突破方法を用意しないといけないわけです。

 場合によっては、最終シーンに向かって、解決の手がかりを早い段階で用意する必要があります。「特捜刑事ポリツァイなのは」でも最終段階はバリア破りで、バリアを破るための道具立てが早いうちから本編に登場します。もちろんそのときは、そういう使い方が必要になるとはわからないのですが。

ハーレムと受容


「OVAジャイアントロボ・地球が静止する日」の中条長官は、自分の命と引き換えにビッグバン・パンチを放つことが出来ます。ということはまだ一度も放ったことがないわけで、放ってみたらスカだったらどうするのかとか、いろいろ突っ込みどころはありますが、それはここでの本題ではありません。

 チート最強無敵主人公はプロの作品にもごろごろ出てきます。何かそれに見合う弱点、悩みがセットになっていることがほとんどです。その心の隙間を誰かが埋めてやり、その交換が侠の論理と結びついて友情物語になったり、男女の愛に重なったりするわけです。

 実際の社会でのギブアンドテークは、あまり美しくない関係になりがちです。自分の取り分に満足する人なんてほとんどないのです。満足しているつもりでも、自分の貢献に人が感謝しないことに対して、ほとんどの人は平気でおれません。人からもらったものに感謝をすることも、恥ずかしかったり、単に面倒だったり、鈍感だったりで、自分だって出来ていないのです。

 だから絵空事の世界で感謝しあって生きる人々や、手厚い報償を上司から受ける人を見ると、なんとなく救いを感じるのでしょう。

 キャラクターの弱点をうまく描けると、それをカバーする人はどうにでも見つけられることが多いですね。別項で触れた、ジャンクフードを欲しがるヒロインなどもそのバリエーションと考えられます。喜ばせる方法がはっきりしているのですから。カバーしなくても、受け止めて受容するだけで効果があります。「君はここにいていいんだ」というやつ。

 佐伯泰英さんの「居眠り馨音」シリーズの坂崎馨音は、「物を食べるとき童心になって夢中で食べる」設定になっています。だからといってそれで事件が解決などしないのですが、重苦しい展開の中で食事シーンになると、夢中になって物も言わなくなり、周囲はそれを微笑して見守るしかなくなります。そういうシーンがあると、周囲の人々から主人公への想いが自然に描けて、強引な一目惚れ展開を防げます。

戦闘技術の設定をめぐって


 市川右太衛門さんの「旗本退屈男」シリーズで、諸刃流青眼崩(もろはりゅうせいがんくずし)という構えがよく出てきます。

http://www.youtube.com/watch?v=aeiUKHl1qSc
(0:50ごろ)

http://www.youtube.com/watch?v=xvS5w3_7pVA
(7:00ごろ)

 この構え、実際の動きは市川右太衛門さんの工夫だそうです。刀と顔と手がバランスよくカメラに収まる構えなのだとか。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2203050.html

 剣道の世界では、八双と呼ばれる構えがあって、諸刃流青眼崩と剣を立てるところが似ていますが、ひじを突き出すもの。これも時代劇でよく見かけます。

http://momochikai.blog.ocn.ne.jp/photos/kendo/2006...

 じつはこれも、競技化した現代剣道では弱点のひじを突き出す、良くない構え。実戦剣術でも、この姿勢のまま止まるということは考えにくそうですね。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2141725.html

 戦闘シーンを描くとき、実際に戦闘をする人にとっては理にかなわない(めったに起こらない)のに、絵的にイケているからお約束になっているものはいろいろあります。ミサイルの板野サーカス(複数のミサイルが1機の目標を芸術的に追う)なんか、あっという間に致命的な弾切れを起こしてしまいますよね。

 早撃ちガンマンのクロスドローはどれくらい一般的だったのか、調べるほどわからなくなります。日本刀のように、左腰の銃を右手で引き抜くもの。

 これ、クロスドロー用のガンベルトがあるんです。銃が真下を向いていないのがわかりますか? このように斜めになっていると緊急時には左手で抜くこともでき、座った状態でも銃の台尻が尻に回らないので抜きやすく、馬上で左手に手綱を握ったまま右手で打つのに好都合でもあったとか。

http://www.willghormley-maker.com/AdvantagesOfCros...

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gogh0808/VivaWestern/1...

http://www.gunweek.com/2005/feature0101.html

 サクラ大戦Vのリカリッタは二丁拳銃のクロスドローでしたが、ホルスターが斜めでなかったのでショウのときにリカリッタ役の斉藤彩夏さんが四苦八苦されたそうです。ホルスターが布製で内側が皮革じゃなかったので、銃が抜けやすかったせいもあるでしょう。

 作品世界の中での常識がしっかり定義できていないと、行動の上手下手も定義できないし、勇気ある行動とただのバカの区別もつきません。筋の通った設定が必要なのはそのためです。そのためには、いろんなことを知らないより知っているほうがいいわけです。調べないより調べて裏設定の筋を通したほうがいいわけです。

 ただ小説では、設定がそれだけで面白いってことは普通ありませんから、どこかで面白さを稼がないといけません。1枚絵や数行のコントだったら、出オチでまったく問題ないんですけどね。

 同じ戦車戦でも、第二次大戦のころと現代では全然違います。一番違うのは電子戦装備の充実です。コンピュータが照準を助けるので、初弾がだいたい当たってしまいます。当たっても貫通しない工夫はありますが、とにかく勝負が早いんですよね。第二次大戦といっても、歩兵の対戦車装備が充実してくる後半は、圧倒的に優勢でも突破して包囲してチェックメイト、と行かなくなります。筋の通った世界設定なんて何種類でも考えられるし、小説としての仕掛けと相性が良ければどれでもいいと思うんです。だから作品と切り離した設定の優劣ってのは、あんまり語りたくありません。

井上真改二尺四寸五分


 池波正太郎「剣客商売」シリーズで秋山大治郎が父から譲り受けて使っているのがこの刀です。二尺四寸五分なんて刀の長さをいちいち言う必要はないようにも思いますが、「井上真改二尺四寸五分をすらりと抜き放ち」などと書くとカッコイイですよね。

 むかし、兵器のスペックを羅列する仮想戦記がマニアから散々バカにされた時期がありました。ただしそれは使いようによっては、時代劇で効果が広く認められた表現に準じたものだったわけです。

 私は正直、「アニメじゃないんだから、動作をひとつずつ書く文章の戦闘シーンなんてテンポが悪くてうざったいだけだ」と思っています。しかしベストセラーの時代小説を見ると、たいていクライマックスの戦闘シーンにはそれなりの行数を割き、駆け引きを描いています。大事なことが簡単に決まると、その大事なことの重みもないように感じられて、ハッピーエンドを喜ぶ気持ちなどが読者から失せてしまうのでしょう。

「ゼロの使い魔」のアニメを見ていて、零戦のシーンでしまったと思いました。機銃の発射レバーを正しく描写しています。例えば戦車の大砲、単体の75ミリ対戦車砲について、発射はボタンなのかレバーなのか紐(鎖)なのかパッと答えられますか? なかなかこういうのはちゃんと描けずにごまかしてしまうのですが、仮想戦記の難しさをすっ飛ばして、兵器のかっこいいところだけ上手にファンタジーに持ち込まれてしまったことになります。

ジャンルの消費


 2009年夏のC76に行って来て思ったのは、事件を起こしてみんなで何とかする、昔ながらの文芸SSはちゃんと生きてるんだと言うこと。ただ……埋もれてます。画像情報が氾濫して、どこにあるのかわからないくらい目立たなくなってます。

 逆に、目立つところにあるエロな雑誌は、他のエロに埋もれ始めているように感じました。同じような趣向のものばかりでパターン化され、萌えジャンルそのものの消費がピークを過ぎつつあるんじゃないかと。実写のアダルト業界が苦しんでいるのと同じような問題に。

 例えば、誰でもいいからお気に入りの女性キャラ名に続けて、「 ひゃん」で検索してみてください。それなりのSSがたいてい引っかかります。ああプレシア・テスタロッサは無理でした。げふんげふん、とにかく描写がパターン化しつつあるんです。

 ミリタリー系なんかは参加が少ないから、とんがっているブースが凄く目立つんですよね。でも全体として人は少ない。難しい選択を迫られる時代です。

老人っぽさ


 年上の人を年上らしく描くには、どうしたらいいと思います?

 例えば、バラバラな情報から、物事の全体像を誰よりも早く見通すこと。そして、その全体に責任を持つ態度を示すこと。前者は、過去の似たような状況がたくさん頭に入っているから。後者は、何があっても結局年長者のせいにされるという自覚があるから。

 無事な退職を願う気持ちも生まれてきます。「ひぐらし」の大石警部にそういう台詞がありますね。定年退職の退職金はピンキリですけれども、退職時の給与が40万円くらいだとしましょう。昭和58年ごろだとまだ一般的な定年は55才だと思います。ざっと勤続35年としましょう。

 どこの県警だかわからないので国家公務員の現在の表で概算します。調整額をざっと300万円として、「25年以上勤続定年」で35年だと40万円×おおよそ60ヶ月+調整額300万円で2700万円。[リンク切れ:さらに付記すると、この調整額の部分はたしか現在では削られています。退職金を切り下げたわけですが、3月末から改定される直前、全国の定年間際の教員が自己都合退職して、あちこちで卒業式に担任教員がいなくなって話題になりました]


 捜査に無理があって、自己都合退職に追い込まれたとすると、月数が47.5になって調整額はもらえません。800万円くらいの損。

 懲戒免職になると全部パア。

 これくらいのものを賭けて、大石警部は進退していたわけです。

 天下りなども、家庭をぶっ壊す長期の泊りがけ勤務など当たり前な中央官庁のキャリアにとっては、生涯報酬の一部であるわけです。「もうちょっとガマンすれば」と思っている年長者と、まだあんまりガマンしていない若手では、同じ官僚でも行動は違ってくるでしょう。

 そろそろ人生の終わりが見えてきた人が、突然「自分の生きた証」を求めて名誉や肩書きにこだわり始めるのも、よく見る話。子供がいると、そういう気持ちは子供や孫に向かうことが多い気がします。仕事一筋だった人ほど、仕事での評価を欲しがったりします。

 何が言いたいかというと、「若い人しか出てこない小説を書く若い人」が非常に目立つのですよね。それ自体は悪くはないんですが、ストーリーに大きな制約が出来て、似たような話になりやすいのです。似たような考え方のキャラばかりになるのを避けようとして、強引に「変な人」を混ぜるのも、それはそれで困りますし。

戦場の霧


 実際の人間が受け取る情報には誤り、思い込み、意図的な嘘や妨害が交じり合います。ある程度はそれが入っていないと本物っぽい人間に見えないわけですね。でも物語のテンポはそれで落ちてしまいます。1巻でも売上がダメだったら次を出してもらえない職業作家さんは、谷甲州先生みたいに腹の座った方でないと、情報の分析にどーんとページ数を使うようなことが出来ません。

 ものを書いていると「あこがれ」みたいなものはそれなりにあって、私の場合はモヤモヤした状況がひとつの解釈でぱーっと晴れるようなものを書きたい書きたいと思ってるんですよね。でもそれはたぶん、非常にテンポののろい小説になります。

「禁書目録」感想(2013年10月)


「とある魔術の禁書目録」アニメ2期4クール(原作13巻まで相当)+原作14〜22巻(「SS」「SS2」「新約」は未読、劇場版未見)+「とある科学の超電磁砲」アニメ2期4クール+OVA(漫画版未読)という状態で感想を書きます。

「3人の名付親」という西部劇があります。銀行強盗に失敗した3人組が逃走途中で別の悪人に襲撃された馬車を見つけ、瀕死の母親から赤ん坊を託されます。そのうち「赤ん坊を守ること」が3人の心を占めるようになり、2人の悪党が荒野に命を投げ出して赤ん坊を生き延びさせます。母親の叔父である保安官が、てっきり3人が赤ん坊を誘拐したと思い込んで追ってくるのですが……

 まあ、一方通行というキャラは、この路線に乗っているように思います。

「誰の選択が世界を変えるか」が物語の中心だとすれば、一方通行の役割は「禁書」アニメ2期のラストらへんでもう終わっているはず。ところが作者はもう一度彼にとっての「赤ん坊」である「打ち止め」にピンチを与え、もう一度行動させます。

 このお話、主人公である当麻もそうなのですが、ほとんどキャラが死なない中で、同じキャラが何度も行動を強いられます。そして実質的に同じ選択を、もう一度することになります。何度聞かれても同じ答えを、あらためて与えられた痛みの下で、もう一度言うことになるのです。これが物語がだんだんくどくなってきている原因かと思います。

「夏目友人帳」のアニメ4期では明確に、それまでに縁ができて仲良くなった妖怪たちが主人公を守り、主人公に何かを強いるにはそうした親衛隊を突破することが必要……と示唆されます。キャラが死ぬ結末を回避し続けるとそういうことになるわけです。そのシステム全体にピンチを与えると、おなじみのドラゴンボール現象が起きます。どんどん強くなる味方に、それを上回るピンチをぶつけなければならないからです。

 その急速膨張を顕在化させないのは、当麻も美琴も、自分の日常以上の何物も求めず、何者も守らないという自己ルールにこだわっているから。誰かが自分の視界に入ってきた場合のみ、彼らはその誰かを無条件に守ります。そして、庶民の生活とかけ離れた日常(美琴の金遣いや待遇は庶民のものではありませんが……)を持ち、視界がずれてしまっている人物が敵役に回ります。もし当麻や美琴が困っている人を見つける旅に出て、水戸のご老公のように毎週悪人を見つけてしまったら、夏から秋までの物語に22巻を費やした物語はもっと物語内の進行が遅くなっていたかもしれません。

 浜面仕上は「魔術側」の人間としては唯一、「ほとんど能力のない人間」としての側面を強調されていますが、実際にはピッキング、運転といった裏世界の生活スキルに秀でており、超能力しかない世間知らずの少女たちを支え、対等の交換ができるだけのリソースを豊かに持っています。このことは、「超電磁砲」アニメで佐天や初春がそれぞれの状況で自分にできることを探し、それを前提とした「友達」として胸を張って美琴に対しているのと好対照です。特に「超電磁砲S」ラストのフェブリ編で明確に打ち出された「(明確な力の差があっても、それでも)みんなで補い合って立ち向かおう」コンセプトは、原作にないものです。一般人の視聴者が感情移入できる、わかりやすい存在が「超電磁砲」にはあるのに「禁書目録」にはない……ともいえます。この観点からすると、初春には(この種のアニメではお約束の)ハッキングスキルがあるわけですから、佐天同様に能力のない存在として春上や枝先がそれとなく「超電磁砲S」冒頭から配置されているのは、「みんなで」美琴を励ますラストの展開への「ただの人」増加策だったと言えそうです。

 ヴェントやアックアがローマ成教とのつながりをあっさり絶ったこともあり、小説版「旧約」のラストはローマ成教の企みが思想や組織に結び付かず、フィアンマの個人的暴走にすり替わっていきました。イギリスの「騎士派」が王室への盲従など一定の傾向を共有していたのと好対照です。一種のスケールダウンですが、正直なところ、わけがわかりません。組織の重みがないとすると、最初から法王の助言者としての「神の右席」が「グループ」並みの無責任な能力者集団だったということになってしまいます。このまま戦闘シーンの羅列として「禁書目録」第3期を作るよりも、「超電磁砲S」のストーリーラインが良好な着地点を得たことと合わせ、一定の再構成をしたほうが良い気がします。

「海軍士官クリス・ロングナイフ」シリーズ序盤感想(2015年8月)


 第3巻まで読んだところでの感想・紹介です。第2巻訳者あとがきによると、「たぶん最初の3冊までは出すと契約したんじゃないか」ということで、回収されない伏線がわずかながら第3巻まで引っ張られているところがあります。

 主人公は惑星政府首相の娘で、祖父は軍需産業の大立者、曽祖父は引退した参謀総長とやはり伝説的な軍人(途中から惑星連合の名目上の元首)。ついでに叔母はブレインズか真田さんかというコンピュータ技術者で、個人用コンピュータのネリーが次々にバージョンアップを受け、戦況分析に侵入に活躍します。なあんだ世界で中二病は合言葉なんだ……と思いますが、主人公クリスは士官学校出たての新品少尉で初登場時22才。第1巻後半から出てくる警護官のジャックが28才。そして母が雇った(どうもそれ以外の人物の差し金も見え隠れする)セバスチャンみたいな文武両道のメイド、アビーはなんと36才(経歴を偽造している可能性はあります)。みんな大人です。

 本人の戦闘能力は海兵隊も一目置くレベル。都合のいい偶然もどっさりありますが、スターライト・ブレイカーはありません。ですから手間暇をかけて勝ちに行きます。努力して自分の技を編み出して乗り越えるのではなく、啓発し、鼓舞し、説得して組織の潜在力を引き出していきます。大人になりたての主人公が、大人のやり方を身に着けていくのです。

 組織内の群像は、そのまま主人公の障害です。味方に転じることも、そうでないこともあります。親族ですら自分の都合を一方的に押し付けてきます。多様な年齢構成を持つ組織が鮮やかに構築されています。

 ここまで極端な組織戦闘SFも珍しいと思いますが、これがたぶん日本で言うと痛快時代小説のニッチを埋めてるんじゃないかと思います。

劇場版「ガールズ&パンツァー感想」(2015年11月)


 第一。お客をどんな気分にして帰すか。第二。お客にどんな時間を過ごさせるか。エンターテイメントがまず考えるのはこのふたつだと思うんです。上流のお客様に「ああ贅沢なものを聞いた」と思っていただくためには4楽章の交響曲になるし、働いて稼いでる庶民は序曲だけとか、もっと短いハイライトしか聞かないからケテルビーは短い曲ばかり作るとか。

 すんごい楽器とかすんごいカデンツァとかは、いわばそのためのツールでしかないわけです。「ほらっこのシーン描きこんだでしょ」と絵師さんが言っても、それが30分なり90分なりの中で前後と浮いてて、お客がひとつの気分を楽しめなければ、作品評価にあんまり貢献できないと思います。あるいはそこだけ切り取られて売られるとかね。ミリタリー要素の知識的部分ってそこだと思うんですよ。

 兵器って戦争のツールだから、それを出しただけでは大っぴらに「頑張れ」という気分になりにくいし、なってもそれを口にしづらいわけです。それをうまくネウロイ出したりそもそも戦争でなくしたり、「いい気分になる罪悪感」を消して見せて成功したのが現在のチームということになります。

「チキチキマシン猛レース」とか「スカイキッドブラック魔王」にも軍用メカが出て来るんですが、普通なら死傷者が出るところでも出ないし、兵器を突き付けられても対抗できる別のギミックが作中にあって、大げさな動作の中に凶器を包み込んでしまいます。そういう「非現実的に死ににくい・傷つきにくい登場人物」「ツッコミは少なくボケ連打」というフォーマットを使っているのがガルパンだと思うわけです。

 ドイツ戦車兵の手記を読むと、本物の戦車は重いから上り坂でギアチェンジできない(から曲がれない)し、IV号戦車の無線士と操縦手の後ろには弾薬箱積んでるから出られず、操縦手は前方ハッチの上に物が乗る(=自分の脱出不可能)操縦はしないのだそうです。III号突撃砲なんかは、アンツィオ戦OVAで装填練習に使っていたフレームは新車を受け取った実戦部隊が真っ先に取り外して、床からぎちぎちに弾薬を積み上げて、装填手はほとんど腹這いにするのだそうですね。無理に小さな車体に大きな砲を積んでるから、弾切れが特に怖いわけです。他の戦車の記録を見ると、夜間に敵戦車に遭って、撃っても撃っても当たらなくて弾薬消費がかさむこともあったようですから、普通はないだろう……じゃ安心できないですよね。トゥーンじゃない実世界の人間は。

 そういうところは無視して、でも大砲のトリガーはボタンなのレバーなの紐なの、それはどこについてるの、といったところは電話をかけて人に聞いて描く。不正確だと気づいて嫌な思いをする人は少ない方がいいけど、多くの人が狙い通り、例えばクルー同士のアットホームさを感じるのに邪魔だったら車内の弾薬箱はどけてしまう。そんなバランス感覚が成功の礎なのだろうと思いました。架空戦記に始まり、ミリタリー風味のエンターテイメントが成功しないときには、何をチェックすべきか。そんなことも考えさせてくれる作品です。

いくつか追記(2015年12月):

「お客をどんな気分にして帰すか」がこの映画は非常に明確ですよね。割り切っていると言っても良いでしょう。エンドロールのアンチョビ高校3人組の様子などはその典型です。昨日回想を読んでた砲兵士官は観測戦車に乗っていて、隣を走っているIV号戦車が対戦車砲弾を食らい、身を乗り出していた車長の首が千切れたのを見たそうです。戦車道はトゥーン(漫画の登場人物)にしかできない競技ですから、明日の人生にモクモク作戦は使えませんが、この映画は明日の人生を少し楽に始めさせてくれます。

 クライマックスに近づくと台詞が途絶えて剣戟の響きだの銃声だのが場を占めるのは、西部劇にも時代劇にもよくあった演出。ほら、「こらしめてやりなさい」のシーンなどもこの変形です。この作品でも効果的に使われていて、じつに古典的で王道の演出だと思いました。

 そろそろ多少のネタバレも許容されると思いますが、作中の某巨大自走砲は21人乗りで、1944年12月の編成定数表では、あれ1両に専従するのはIV号戦車改造の専用弾薬輸送車(1両で4発積むのがやっと)3両などのクルーを含めて155人チームです。専従する対空砲のスタッフなどは要らんとしても、相当に大きなチームでないとあれは運用できないですね。

ミリタリ出版は電気ネズミの夢を見るか(2016年1月)



 活版印刷が1400年代に始まるまでに、中世ヨーロッパには多くの大学がありました。筆写しか書籍の複製方法がなかった時期には、ここでの「講義」は注釈つきでテキストの内容を伝える性格のもので、教科書を読もうとすれば有償で借りるか、高価な写本を手に入れるしかありませんでした。現在の乾式コピー機が安価になるまでは、論文の載った学術雑誌を写真に撮り、引き延ばして読むことも行われていました。知の伝達・保存方法が、知を巡るサークルのありかたにも影響します。

 古今伝授のように内容を原則として改変しない知の伝授では、相互承認という手続きにはあまり意味がありません。また、竹林の七賢や吉原の十八大通のように、自腹で文化活動をしている人たちには、他者から承認されるかどうかはそもそも意味がなく、普通の意味での共鳴や交友があるだけです。

 国家・自治体やパトロンの意を受け、その負担で知的生産を行うとなると、そうはいきません。株主が従業員の背任を防がねばならないのと同様に、教員ないし研究者のクオリティを保証し、恣意的な人事を防ぐ仕組みが必要です。業績の「新規性」に敏感になることは、この文脈で必要になります。

 実際には授業はうまいが学生指導がアレとか、教科書はわかりやすいが授業は何を言っているのかわからないとか、細かい得意不得意はありますが、教育の技量と新規な研究をする技量は必ずしも比例しないのが現実です。典型的によく起きる現象としては、ひとつの分野を総合的に限られた時間・紙数で解説する力と、狭く深い研究をする力が比例しないことです。総合性を重視し新規性への要求を最重点にしない(無視するとは言ってない)学位のアイデアとしてDoctor of Artsがあったのですが、こちらのQ&Aを見ると、必ずしもうまくいっていないようですね。結果的に総合性に優れる教員はいるとしても、総合性を伸ばす大学院のカリキュラムを組みようがない方が問題であるような気がします。

 これだけ書いてきて、「面白いこと」を書いたら評価されるという話は出てきませんね。つまりそれは「多数の受益者が個別にお金を払うファンディング」でだけ意味のある話で、「教育機関の設置権者による、納税者など最終的なスポンサーに対して透明性だの公平性だのに気を遣わないといけないファンディング」にとっては頭の痛い雑音でしかないわけです。

 多分いろんなアートで、同じような問題があるのだと思います。「玄人筋をうならせるけど独演会に客が入らない」「映画評論家は褒めるけど興行収入は爆死」あるいはそれぞれの逆。

 さて本題です。ミリクラの知的継承は、どのようにして行けばいいでしょうか。

 吉原の十八大通なんて話を持ち出したのは、すんごい私費を突っ込んで集めてきた(あるいは、すんごい時間を使って資料のあるところに通った)史資料を使って書いている人がいる一方で、ミリクラの仕事で食いつつ締め切りに追われて書いている人もいて、その落差を感じるからです。後者のお仕事を見ていると、元手がほとんどロハなものがちょくちょくあるのですね。まあ中間的な方もいらっしゃいます。「あっ今回は稼ぎに来たな」みたいな。

 これは日本だけではありませんで、個人サイトの写真をそのままイラストにして、書いてあることもパクって、出版社も気づかずにそれを通してしまってトラブルになった例があるのだそうです。ネット掲示板でのやりとりをもとに本を書くことは、個々の事実には著作権がないので違法とまでは言えませんが、まあ私も含めいろんな人が答えたことを含む本が現実に出版されています。日本語じゃないし、たしかkindle出版のたぐいですけどね。

 気になるのは、日本の若い世代が全般的にビンボになって行っていることです。つまりいまブイブイ色々書いている大旦那の皆様が鬼籍に入ったとき、新たな若旦那は(ミリクラ出版業界の外から)ちゃんと育ってくるだろうか? ということです。材料が経費で落ちないんじゃ、どんな製造業だって滅びるでしょう。いや、「現にそんなものは存在しない」というべきかもしれませんが。

 じゃあ研究者だけいればいいかというと、先ほど述べた「面白さが評価されない宿命」に加えて「文脈」というものが持つマイナスの側面が気にかかります。相互チェックして誤りを防ぐには、同じようなことを複数で研究しないといけないのですね。そうやってできていくのが文脈です。その結果、「確実にわかっていること」のすぐ外側に研究が集中し、「よくわからないけどみんなが知りたがっていること」については研究者が手を出さず、面白いけどあまりにも不正確な情報だけが発信される……という構図になるかもしれません。

「世間様が読みたいものを書く」というのはなかなか難しいものだと思います。業界の評価すなわち世間の評価というわけでもないのは、アニメやラノベが次々に爆死するのを見ていればわかります。そういう中でチームの一員として仕事をもらっている人を、売上以外の評価尺度を持ち込んで批判することについては、慎重でありたいと思います。真実が真実として売れ、真実でないと売れないならガルパンは爆死ですよ。

 そういうことを考えて、専業ライターさんを軽々しく伐り倒すような真似は避けておりますし、ネタ本2、3冊だけで書けるレンジの記事は当サイトではアップすることを控えております。

 いま有償の同人誌を出しておられる方々は、将来の旦那候補とみておりますから、それをとやかく言うつもりは全然ありませんです。「私は書きたいものを書くし、書きたくないものは書かない」という以上のお話ではありません。

 私はどうでしょうね。今の大旦那方の散財スピードには3倍敗けてる感じがしますが、まあそのうち同人誌レベルのマネタイズは始めるつもりでおります。

「〜超人幻想〜THE LAST SONG」 第20話までの感想(2016年5月)


 この作品は1960〜70年代の日本(と世界)によく似た世界を、様々な超人の住む架空歴史の中にに位置づけ、そこでの物語を紡ぐものです。

 アメコミ関係の書物にはよく長い長い告知がついていて、固有名詞やガジェット名が商標として保護されていることが宣言されています。世界を創造して、そこからの様々な派生物で食うというのは定型化されたビジネスなのです。逆に言えば、そこに住む個々の人物の物語は、現実にいる人物の人生同様、ひとつの物語でピッタリ終わるということもないし、他の人生と重なり合っています。

 この分割2クールアニメも、そうした世界提示に似たところがあります。物語を抱えた人物があまりに多いのです。そして毎回のゲストキャラは、この世界の最も残酷・峻厳な部分に直面し、極端な選択を強いられます。

 しかしその行動は、その世界における価値、技術的・社会的制約のもとで意味づけられるので、それらが共有されないと視聴者にとって「なんだか真剣そうに騒いでいる危ない奴」以上の意味を持ちません。

 主人公はそれに対し、「正義の意味」を問い続けます。確かに価値観の多様化が行きつくところまで行った現代よりも、何かと価値観が押し付けられていた当時を舞台にする方が、「正義の意味」は重くなるのかもしれません。しかし現代に生きる若い視聴者に、まず冷戦末期の世界観を腹に落とし、そこから正義の問題を考え、現在の世界を(少しは)その目で見直すということが、どれだけの負担を求めることになるのでしょう。

 それに見合う価値があるとしたら、制作側自身が何かを強烈に信じ、その受容(または否定)を迫る場合に限られたのではないかと思えます。あの時代は「あった」のです。しかしそれがどうしたというのでしょう。後悔があるわけでなく、自己肯定があるわけでもありません。物語の中に視聴者の立ち位置が与えられず、共感があっても一瞬で過ぎ去ってしまいます。世界と歴史をエンターテイメントに変えるところで、どうもうまくいかなかったように感じます。

付記:見終わりました。この作品の弱点は、「結局のところ、別に昭和でなくても良かった話」であるところでしょう。

アクティヴレイド -機動強襲室第八係- 感想(2016年5月)


 バンチャ民なもので、少し遅れて見始めたところです。

 この作品は『コンクリート・レボルティオ』とは正反対のところがあります。1960〜70年代は実在の時代であり、仮託されてはいても不断に「そのときあったこと」「そのときいた人たち」が作品世界の外から追加され、上書きされてきます。『アクティヴレイド』の世界は内部論理が細かく書き込まれ、「その世界の内的なアタリマエ、内的な制約」が最初から整合的です。おそらく実際の警察にはそんな面もあるのだろうし、他の官僚組織や自衛隊と共同活動するようになれば、境界面ではこんなことも起こるんだろうなと思います。余計な創作は排され、無理なく整合性を保つために現実感が利用されています。しかしどこからどうみても、それは現世そのものではないし、現世のように見せる様子もないのです。

『アクティヴレイド』はわかりやすい世界です。もちろん最初から、謎の敵ロゴスは提示され、その論理はなかなか読めません。しかしその未知の刺激に対するダイハチという「システム」は理解可能であり、あえて言えば、予想可能です。毎回少しずつ、その視聴者の予想を超える要素が持ち込まれます。物語に、本当に未知なものなどまずありません。比較の対象があって、はじめてその落差が驚きやワクワクを生むことが多いのです。

 ただあえていえば、『コンクリート・レボルティオ』は語られざる物語、試されざるパターンを追い求めずにいない會川作品であり、いつもの悪い癖であり、攻めている作品です。『アクティヴレイド』はお客の顔を思い描き、試され尽くしたエンタの王道を走る作品であり、アニメの行き詰まりを打開する作品があるとしたら、それはこの作品ではありません。私は心のどこかで、會川作品がいつか何かとんでもないものをこじ開けてしまう日を待っているのです。たぶん。

付記:『アクティヴレイド』第1クール見終わりました。実に全くどこかで見たパターンの集合体でしたが、むかし毎日どこかのテレビ局が明朗時代劇をやっていたころも似たようなものでした。これだけがアニメでも困るけど、ビジネスとしてエンターテイメントが生産される限り、こういう作品は誰かがやるんじゃないかな。それこそ、この人たちがやらなければ、誰かがやりますよ。ひょっとしたら、日本チームじゃないどこかのチームが。

『君の名は。』と『この世界の片隅に』(2016年11月)※微ネタバレかもしれません。



 何を入れて何を入れないかは人それぞれですが、今年を「邦画奇跡の年」と呼ぶ人がいて、まったく同意します。

 片渕監督は本物の草木、本物の歴史と人を積み上げていくことで、ひとつの地域に根っこの生えた物語を紡ぎだしました。その点は前作『マイマイ新子と千年の魔法』と同じです。

「ぴあ映画生活」11/7版のサイトを今見ていますが、『君の名は。』全国349館に対し、『この世界の片隅に』は64館(11/7にサイトにより41または42館と表記されていたのは集計対象除外の館があったのか、追加間の情報が抜けていたのか不明)でスタートしました。『ガールズ&パンツァー劇場版』がまだ全国31館で上映されているのは別格としても、あちこちから聞こえてくる満員の報告が総額の大きさをストレートに示すとは考えない方が良さそうです。まあしかし、前作よりはるかに大きなムーブメントになっているのは間違いありません。その理由はわかりませんが、私が前作より『この世界の片隅に』を気に入った理由ならわかります。

 本物の人生を描くほど、それは「ひとつの」物語ではなくなっていきます。『ギデオンの一日』という有名な警察小説の嚆矢がありますが、登場する事件は同時並行で進み、解決したりしなかったりします。複数の要因で外から理不尽に揺り動かされ、それに対応するだけで人生の相当な部分は過ぎていくのです。余計なことをしないよう命じられた行動中の兵士などは、人生としては非常に特殊なものですし、その兵士も暇を見ては戦場の農地に取り残された野菜を探して袋に詰めたりします。

『マイマイ新子と千年の魔法』のラストは、最後に起こった重大事件の結末ではありましたが、映画の半分以上はその事件とは関係のない出来事でした。「淡々とした日常」であるほどオチはつかないのです。『この世界の片隅に』は、今まで過ごしてきたすべてが登場人物たちの言葉と態度にどんどん乗っていく作品でした。だから観客は「ひとまとまりのものを見せられた」ことをより強く感じることができます。観客は来るものであり帰るものですから、「終わった感」はこのエッセイで何度も強調している「どんな気分で客を帰すか」に大きな影響を与えます。

 創作であれ解説記事であれ、事実の重みそのものや鮮やかな描写を詰め込むと、詰め込んだこと自体に書き手はいくらか満足します。少なくとも私はそうです。「物語」ではなくひとつひとつの「絵」を見てくれる観客もいますが、「物語」としての全体を見にくる観客のほうが、おそらく多いのだと思います。

 人生や世界を物語として完結させることで、それは虚構になります。それは芸術としては不実であり、真実の探求としてはウソなのだけれど、興行としては大切なことだと思うのです。

 片渕監督や新海監督の熱心なファンであるほど、「オチが決まった」ことへのウェイトはむしろ低いのでしょうが、じつはそれが勝利の鍵だったのではないかと両作品を見て思いました。まあ特に『この世界の片隅に』は、クラウドファンディングの奉加帖が表示される下で流れる無音のアニメで、主人公たちの物語と同時並行していたはずの別の物語も語られて、「世界」を描くことへのこだわりは相変わらず強いのですが。

 ところでこの2作品、「スケッチブック」と「むかし会った?」という2つの点で奇跡のネタ被りを起こしています。「むかし会った?」の処理がとくに対照的です。ふたつの物語の主人公ペアが逆だったら……と考えるとクスクスしてしまいます。どちらも笑っている場合ではない話ですが。

映画「パワーレンジャー」ネタバレ感想(2017年7月)


 生身での訓練などを含めるとアクションシーンは少なくはないのですが、日本のこの種の番組におけるお約束からすると、ドラマ過剰な印象を持つ人が多いのではないかと思います。『マイティ・モーフィン・パワーレンジャー』(1993-1996)と主要人物の名前は共通で、まあいずれにしてもドラマ部分は日本の元ネタとは全く関係ないものになっています。

 この映画、「アメリカ以外では、ピンとこないんじゃね?」と思うほどディープなアメリカのハイスクール事情に食い込んでいます。そのへんを書いておきたいと思います。

 アメリカでは成績優秀なだけでなくスポーツなどで好成績を上げることがいい大学へ入れる確率を上げると言われます。つまりエリートには自己管理能力が要求され、勉学の好成績とスポーツの好成績を両立させている学生の評価が高いわけです。一流大学は似たような評価をするので、受験を経ずして好成績の運動選手は'school caste'で最上位に位置できるわけです。映画のジェイソン(レッド)は映画冒頭、その特等席から転げ落ちる馬鹿をしでかし、父親になじられます。「土曜のdetention classに出続ければ卒業できるがそれだけだ」と。輝かしい大学ライフはもうないんだぞというわけです。detention classは文字通り、懲罰のための居残り/休日授業です。

 チアリングチームは、'school caste'の中ではuntouchableとよく表現されます。文字通りリーダーとして全国チアリング大会の入賞チームを率いたりすれば運動選手同様のadmissions-odd boostを期待できますが、単にチアガールであると言うだけでは進学上あまり有利にはならないようです。しかしチアリーダーは高いカーストの男としか付き合わないという意味で、untouchablesであるわけです。不適切な言動でチームから追い出されたキンバリー(ピンク)は、detention classに回されたことから学校側も一定の有罪判断をしていると思われますが、やはり一種の転落組です。

 じつはキンバリー役のナオミ・スコットはほとんど主演級作品のない人ですが、5人の中でひとりだけ先に配役を発表され、製作側としてはイチオシのようです。そういえば劇中でも、なんとなくプテラノドンが一番撃っていた気がしますね。

 ビリー(ブルー)は自閉スペクトラム症(autism spectrum)を持ち、冗談などのリアクションが苦手です。しかし没入できることには強い集中力を示します。detention classに来ているのは爆発物がらみの事件を起こしたからで、亡き父が「何か埋まっている」と信じていた金鉱を調べ続け、ついにゾードンの宇宙船と5つのコイン(変身アイテム)を掘り当て、Zeo Crystalの発見も独力で成し遂げます。

 トリニー(イエロー)は転勤族の子弟です。一度だけ映される家庭内のシーンでは、母親ががみがみと学校のことなどを聞き、父親がそれをたしなめながら、「きょう起こったことをひとつだけ」話すよう求めます。なんのことはありません。ふたりとも、「アメリカ社会で昇って行くための自己アピール」ができるよう求めているのです。本人は「目立たない子でいるのが心地よい」と思っているのに、それに安住させてくれず、くさくさして立入禁止の金鉱なんかを夕刻に歩いているわけです。劇中ではサラッと流されてしまいますが、「Trini, the Yellow Ranger (played by singer Becky G), is revealed to be questioning her sexual orientation」とNBC NEWSの紹介記事に書かれています。

 ザックは劇中でMandarin(中国語)で母親と話します。あまり登校率が良くなく、母親が回復しないことを恐れています。アメリカでは無償奨学金がみんなに回ると言う都市伝説めいたことを信じている人がいますが、2014年に700万人が学資ローンを滞納していたというThe Economist誌記事もあるくらいで、経済的事情と進学はやはり切っても切れません。もっとも授業料が高くて4年で日本円8ケタの借金を抱えてしまうのはエリート大学の類で、負債の平均値などから判断すると、コミュニティ・カレッジなどの卒業までに何百万円かを借りている人が多いようです。

 まあそういうわけで、ハイスクールで転落したり恵まれなかったりして、人生の次が見つけにくくなっている人たちがごっそりとMorphing Gridに選ばれちまいましたよという話です。

 で、選んでおいて、Morphing Gridはしばらく変身を許可しません。仕方がないので生身で訓練します。身体能力は上がっていますが当然キケンでキツイのでメンバーは逡巡します。そんな中で街に事件が起き、明白で現在の危険をメンバーは認識します。先に動機の共有があるわけです。でも変身ができません。メンバーが変身できれば、その時のエネルギーで宇宙人ゾードンはMorphing Gridから出られます。「俺に戦わせろ」とゾードンはレッドを責めますが、「あんたが出たいだけだろう」とレッドは言い返します。そしてメンバーは事件のあった場所に行き、敵の魔女に捕まってしまいます。この魔女リタがまた、往年の曽我へドリアンに雰囲気が似ています。

 そしてリタは「ひとりくらい殺さないとゾードンになめられる」と無造作にブルーを殺し、残りのメンバーを放置して立ち去ります。ブルーを連れ帰ったメンバーに、ゾードンはできることはないと告げます。じつはブルーはレッドとブラックのけんかを止める際、ほんの一瞬変身していたのですが、なぜ変身できたかうまく伝えられないままでした。それを悼み、「仲間のためなら自分の命も惜しまない」と次々にメンバーが告白すると、突然Morphing Gridが起動します。

 そしてゾードンは出てき……ませんでした。「復活できるのはひとりだ」よみがえったブルーに駆け寄るレッドの背中から声がしました。「レッドは2人も要らない。お前がこのチームのレッドだ」

 ソヴィエトの手先なんかと戦っていた昔のアメリカ映画なら、こういうところにこういう時間の掛け方をしないと思うのです。「チームのためにすべてを投げ出す気持ちになる」ことがどうやらキーであったのですが、それって正義とか悪とか関係ない全体主義、あるいはヒトが自発的に群体になるってことですよね。もちろんこの場合、「街が危機」であり、全体として町からいい思い出をもらっていないメンバーたちですが、でもそれぞれひとつくらいは守りたいものがあるのです。これでいいんですかね。まあ「フォア・ザ・チームで無心に行動できないうちはお前らはMaggotで、できるようになったら俺たちはMateだ」というハートマン軍曹的な発想は、アメリカでは説明の必要がないのかもしれませんが。

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