キプロス継承戦争
年月日1954年2月3日〜1955年1月3日:
場所:イスラム帝国
結果:
交戦勢力
新イスラム帝国ツァラ・ロムネヤスカ公国
大ムハンマド聖戦同盟ツァラ・ロムネヤスカ公国同君連合キプロス
嶺王朝
指導者・指揮官
イスラムカリフ=メグルドゥユヒィ1世アレクサンドル・ジグモント3世
メジト・アルシェハミト=パシャジャン・モンテ伯爵
オスマン・ハイレッディン=パシャカルヴェール・カント伯爵
ムザファール・バフティヤール=シャーヨハネス・ルートヴィッヒ男爵
サアド・ザグルール・パシャ李穿師
ナクシャギール・チガル=カーン武統帝

戦争の背景

1954年1月14日、キプロスで若き国王が落馬により死亡した。新イスラム帝国は親イスラム貴族であるアヴェール家のカルロスを擁立し、彼を介してキプロスの間接統治を継続し、最終的には併合しようとしていたが、独立志向の強いツァラ・ロムネヤスカ公国がキプロスの王位を主張した。新イスラム帝国はこの根拠の無い王位の主張を取り下げたが、総主教からの支援、同じく独立志向の強い中華からの支援を取り付けたツァラ・ロムネヤスカ公国は断固として王位を主張。オスマン帝国が軍を進駐させたのを機に、宣戦布告が無いまま開戦に突入した。

戦争の経過

ツァラ・ロムネヤスカ戦線
1954年2月3日に新イスラム帝国が軍をツァラ・ロムネヤスカ公国に進駐しツァラ・ロムネヤスカ公国駐留軍と衝突した。翌日に中華が新イスラムに対して非難声明を発表するとともに中華が新イスラムに対して宣戦布告した。
ツァラ・ロムネヤスカ公国は当初は優勢を保っていたもののペルシア・エジプトの連合軍に合流したムハンマド常勝軍に苦戦を強いられ4月にはブカレスト郊外まで侵攻された。
4月の後半からブカレスト包囲戦に以降。ムハンマド常勝軍の一週間に渡る砲撃に耐え切れず5月2日にはブカレストは占領された。
キプロス戦線
キプロスはペルシアの海軍と激戦を繰り広げたが4月にはオスマン帝国軍と合流。オスマン・ペルシアの連合軍によってペルシア湾の海戦でキプロスをに大勝し4月後半には近海の制海権はオスマン側にあった。
5月2日にブカレストが陥落するもキプロスは降伏せず防衛線を続けたが、ツァラ・ロムネヤスカ戦線から引き上げたムハンマド常勝軍が5月7日に上陸し6月には占領された。
中華戦線
中華戦線はツァラ・ロムネヤスカ戦線、キプロス戦線とは違いゲリラ戦に悩まされ過酷を極めた。
11月までは戦線が膠着していたものの12月4日からはオスマン・ムハンマド連合軍が「ヤヴズ作戦」を発動し中華の主要都市を占領した。

結果

1955年12月31日からトラブゾンで戦後処理について話し合われた。
ツァラ・ロムネヤスカ、キプロスは全会一致でイスラム王朝が立てられた。中華においては処遇が分かれ嶺を存続させる立場と新王朝を立てる立場に分かれた。最終的にはオスマン側の「チベットと回族によるイスラム中華の建国」の案が通り、チベット政府と淵朝中華が建国された。

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