セントレリア王国の歴史

歴史区分

セントレリア王国の歴史的地名

セントレリア王国や共産ナーバリアの位置する半島地域はセントレリア語ではスロンデヴィア半島と呼ばれ、レーン人を中心としたゲルマン諸部族やナーバリア地方のТоварищなどが定住した。セントレリアは古くは古代ローマよりスィントレールと呼ばれ、後にレーン人にシェーントレーンと呼ばれる。レーン人諸部族の原生国家は時代が流れると共にロゼヴァルト家のロゼヴァルト王国やシェーントレーン王国の封建体制の一部となり、現在ではセントレリア王国の地方区分の元となっている。本稿ではスロンデヴィア半島などのセントレリア独自の地名を多く扱うこととする。

先史時代から古代

発掘調査によると、今のセントレリアにおける人類の痕跡は、紀元前1万年ころに遡れる。このころには人が定住し、紀元前3000年ごろには南ユーロパから伝来した農業を営み、青銅器を使用していたとされる。青銅器時代には北地中海沿岸地帯に集中して見られる岩石線画が自然の平面岩に刻まれ、また、絵画石碑もゲルマン鉄器時代やヴァイキング時代のセントレリアに建立された。これは、死者崇拝や埋葬習慣に起源を持つと考えられている。この時代のセントレリアについての最古の記録は、古代ローマの歴史家タキトゥスの「ゲルマニア」に書かれた、「スィントレール」の記録だと考えられている。タキトゥスによれば彼らスィントレールは北地中海の最も北に住み、陸上戦力のみならず水軍を持ち、屡々ローマ勢力との衝突を繰り返した。

古代 ゲルマン人諸部族の抗争

タキトゥスの「スイーオネース」によれば、スィントレール半島中部のレーン人が建国した初期の王国の形成は、28の各部族が3つの原生国家へと統合されて行ったと記されている。その原生国家の一つ、ロゼヴァルト家のミハイルが建国したロゼヴァルト王国はメール湖を中心として栄えた王国であり、ミハイルの子孫リヒャルトが4世紀頃に残る2王国を併合し、レーン諸族を統合して誕生したのがリヒャルト王朝シェーントレーン王国であったとされ、それが550年頃にザール人に北地中海沿岸地域から追いやられた後に北スロンデヴィア地方へ逃れてエリク・オローフがユングリング朝として再建、南部のザール人諸王国を粉砕しザール人をスロンデヴィア半島から叩き出し一部を奴隷として捉えた後、760年には首都をガムラ・ウェップサルトへ設置し、後のセントレリア王国の祖形が成立したと言う。5世紀から6世紀にかけてのスロンデヴィアでは、民族移動期と呼ばれ、スロンデヴィア半島東部で砦の建設が急増したが、その要因は、地方的権力の台頭であると考えられている。こうした社会的緊張は、地域的、集団的アイデンティティーを高めたと言えるが、砦が急増した理由として、後期民族移動期にスロンデヴィア各地に割拠する権力者と豪族たちによるスロンデヴィア内部での活動が盛んとなり、それらから防衛する必要性から築造されたと考えられている。

中世 ヴァイキングとキリスト教・アルヴェスタ連合

スロンデヴィアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していたが、次第にシェーントレーンナーバリア、ロードバッハの3王国に収斂されて行った。彼らはローマ人やフランク王国から「北の人(「ノルマン人」)」と呼ばれ、船団、艦隊を組織し、北地中海から地中海、北海での交易、略奪を行った。特に略奪を行うノルマン人は「ヴァイキング」と呼ばれ、9世紀にはその剽悍、野蛮を怖れられた。この時代は、西ユーロパに比べると、スロンデヴィアは中世初期の歴史について記述による証拠に乏しく口述の伝統が多く、最初の法典や歴史が編集されたのは12世紀になってからであった。
ヴァイキングのなかにはラジョーナ島やアルサリア諸島から北西フィヨルド島、さらに新大陸に到達、植民したものもいたが、シェーントレーン・ヴァイキングは主に東方へと進出しヴォストーク地方への進出を幾度も繰り返し、ビザンツ・ローマ帝国やイスラム世界と交易などの接触を持った。
このように彼らはヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスロンデヴィア半島東では9世紀頃からシェーントレーン王国が拡大し、自然崇拝による祭祀が営まれた。10世紀にはスロンデヴィア半島にキリスト教が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。しかしシェーントレーンは、北ユーロパでは最も遅くまで異教の影響が残り、後にパピアー宗教戦争を生むこととなる。キリスト教の王としてシェーントレーンを支配した最古のシェーントレーン王は、ユングリング系ロゼヴァルト家のエリク6世であったと言われている。また、最古のシェーントレーン王の洗礼は、エリク6世の子グスト・シェートコヌングの1008年頃の西方教会の洗礼によるものだったが、完全なキリスト教化は12世紀半ばであった。宗教面、経済面、政治面で重要な中心地であるガムラ・ウェップサルトのに大司教座が置かれた。シェーントレーンのキリスト教化は、ガムラ・ウェップサルトに置かれたこの大司教座を中心として進められることとなる。ヴァイキング時代の都市遺跡には、ビルドやホウコードのものなどがあるが、ビルドは11世紀以降の産物は発見されず、980年以前には消滅したものと考えられているが、ホウコードは、シェーントレーン王国の王領地のネットワークに含まれ、中世には王宮の所在地や行政上の中心地でもあった。城と教会も建造され、1279年には原生国家の国境などに準じた封建制度が確立している。
12世紀になるとエーリク9世によるナーバリア進出が行われ、ヴァルデマール王を開祖とする継承ユングリング朝のころにはナーバリア東部を併呑した。この十字軍は、1300年頃まで継続し、1323年にナーバリア王国に対してシュルッセルの和議を結ぶことによって終了した。ナーバリアがシェーントレーン王国に進出される中で、ロードバッハ王国とも同君連合を組んだ。1370年には、シュトラルズントの和議を結んでシャングリアを牽制した。
また、現在のセントレリアの首都となるオストハウプトシュタットは13世紀半ばにシェーントレーン東部のメーラレン湖東にある小島スタツホルメン島に継承ユングリング朝のビルゲル・カール王による砦として築かれたのが最初で、砦としてだけでなく、都市としての機能も形成された。オストハウプトシュタットの街は次第に拡大して行き、シェーントレーンの有数の都市となり、シェーントレーン・ロードバッハの同君連合においても重要な都市として発展していった。
このようにシェーントレーン王国は発展していく中で、迫害を受けていた非キリスト教徒、主にパピアー教たちの反乱が激化してパピアー宗教戦争が起こり内部の弱体化が進んだ。シェーントレーン王国はパピアー教徒の弾圧とキリスト教化には成功したが、弱体化したシェーントレーンは1389年にはアルブレクト王がシャングリアに敗れ捕虜となり、王位を剥奪された。1397年にはシャングリアとロードバッハの摂政であるエドワード・マルト1世のもとでアルヴェスタ連合が結成され、シェーントレーンはシャングリアの支配を受けることになった。しかしシェーントレーンは、1430年代からシャングリア支配からの脱却を試み始める。
シャングリア支配に対するシェーントレーン人の抵抗運動は、絶え間なく展開され、シャングリアによる弾圧は1520年、フリップ2世による粛清で極点に達した。このような弾圧に対し、シェーントレーン人はヴィル・ヴァーサを指導者として蜂起した。ロードバッハ諸侯の助力も得て独立を勝ち取り、ロゼヴァルト家によるシェーントレーン統治が復古した。(ヴァーサ朝)

近世 宗教戦争と

シェーントレーン王国はエリク14世の治世北地中海沿岸諸地域へ勢力伸長を目指すようになった。おりしも1558年から始まっていたリングラント戦争に参戦する。しかし当時のシェーントレーンはユーロパの中での小国であり、またシャングリアとも因縁を抱えていたことからシャングリアとも戦争を開始する。シェーントレーンはリンクラント戦争の対戦国であるエスターライヒとシェーントレーンに対抗するために中欧の大国であるアーカディアと同盟を結んだ。この同盟はアーカディア家との婚姻も含まれていた。1568年にエリク14世は、王弟であるシュルッセル公ヨハンに王位を簒奪された。(シュルッセル朝)国王となったヨハン3世は、シャングリアとの戦争を終結させ、アーカディアと共闘してエスターライヒをスロンデヴィア地方から駆逐した。
また、1581年にシュルッセルの支配層であるシェーントレーン系シュルッセル人たちによる要請もあったシュルッセル公の上位にシュルッセル大公が設けられた。不要となったシュルッセル公は1606年に廃止された。国語は、ゲルマン諸語から派生した古セントレリア語から、1526年の宗教改革と活版印刷の導入による近世セントレリア語に改められた。これは、シェーントレーンの宗教改革によるルター派の国教会設立運動と連動している。しかし16世紀まではシェーントレーン国内に多くのカトリック教徒を抱えていた。カトリックのアーカディア王国との同盟を破棄したシェーントレーン王国は、1600年に国内のカトリック教徒を粛清してルター派を国教化した。また、同時にシュルッセルを併合し形成されたシュルッセル地方も同様にルター派となった。
この頃のシェーントレーンの王権はそれ程強くなかったが、ロゼヴァルト家の世襲制が強化されたことで王権も総じて上昇していった。
シェーントレーン王国は領土を拡大させ、グスタフ2世ヴィルヘルムのころには身分制議会が置かれ、1617年に最初の議会法が制定された。さらに重商主義政策を推進し、各種産業を保護育成した。初期のグスタフ2世のシャングリアとのルツァーリア戦争は、シェーントレーンの敗戦であったが、その講和条約であるクネレド条約で多額の賠償金を支払うことで領土返還に持ち込んでいる。
グスタフ2世ヴィルヘルムは「北方の獅子」とよばれ、シャングリア、ザティーエラ、エスターライヒ大公国と争い、アリアス、リガなど北地中海島嶼地域を征服支配、北地中海帝国を確立した。エスターライヒ大公国とは王位継承問題を抱えており、シェーントレーン軍はブルゴニュア公国に侵攻しブルゴニュア内各地を跳梁したが、オスマン帝国対策を一段落させて南方から戻ってきたエスターライヒの名将フェルディラント・ティリーに撃退されブルゴニュア併合は挫折した。しかしエスターライヒも財政問題を抱えており、休戦協定が締結されることとなり、北地中海島嶼地域の大半を征服することに成功する。その後、1618年に始まる三十年戦争には1630年にプロテスタント側に味方し介入。ポンメルンからバイエルンまで破竹の進撃をしたがロマンシュリゼールの戦いで戦死した。国王の戦死を受けて宰相オクセンシェルナは戦争を続行し、ケルンテン帝国に進出、1648年のオーバーファーレン条約ではシェーントレーンは戦勝国となった。しかしグスタフ2世ヴィルヘルムの後継者クリスティーナは、この条約で要求の半分の賠償金の獲得など大幅な譲歩をした。三十年戦争後期にはシャングリアとも戦端を開き、1645年にハルハ島などを勝ち取り、シェーントレーンは北欧での覇権も確立した。三十年戦争後のシェーントレーンは、ヨーロッパの勢力均衡体制の一員となった。
1658年にはシャングリアからロードバッハを奪い、シャングリアをスロンデヴィア半島から追い出しシェーントレーンは膨張の極みに達した。この時代がシェーントレーンの絶頂期とも言われている。しかしその後のシェーントレーンは、北方戦争で国力が疲弊したこともあり、1670年代には周辺国との戦争に巻き込まれるなどしたが、カール11世が1680年に土地改革を行って自作農を増やすなど、国力の増強に努めた。この時代、ヴォストークの勃興やシャングリアの復讐戦などに手を焼いたものの、北地中海帝国は維持され、絶対王政が開始された。しかしシェーントレーンの国力は大陸国家の範疇を出ず、植民地帝国の形成にまでは至らなかった。
1697年にカール12世が即位すると、ヴォストークと、アーカディア連合軍と1700年に始まる大北方戦争を戦った。シェーントレーンは開戦初期にナーバリアの中立を得て、ヴォストークとのナーヴェの戦いにも勝利した。シェーントレーンは一時アーカディアを撃破することに成功し、1706年にシェーントレーンの勢威は再び頂点に達するが、残る対ヴォストーク戦におけるヴォストーク遠征において、冬将軍と焦土作戦によってシェーントレーン軍は疲弊した。その間に体勢を立て直したヴォストークとの1709年のポートストクの戦いで大敗を喫し、カール12世はエスターライヒ大公国に落ち延びた。劣勢は覆せず、その間に反シェーントレーン同盟は再構築された。北地中海でもアーカディア海軍に敗北し、制海権を失うと共に1718年にヴォストーク侵攻中のカール12世が戦死し、北地中海帝国は崩壊した。その妹マルガレーテ・エレオノーラが即位するが、戦況はシェーントレーンに不利に転じ、1720年までにシャングリア王国を含めた北地中海沿岸諸国や神聖ケルンテン帝国諸侯と講和し、1721年のニスタット条約でマルスコイ、センナンイオン、アリアスなど北地中海沿岸の覇権を喪失した。

近代

ヴァルシャレク革命後のシェーントレーンは、カール14世の政策により今日の中立主義の芽が蒔かれたが、19世紀半ばになると、北欧全土がシャングリア王国を始めとする列強の脅威にさらされることとなり、シェーントレーンを中心にスロンデヴィア主義と呼ばれる運動が、北欧諸国民の間で盛んになった。これは列強への対抗心からのスロンデヴィア統一の機運の高まりであった。この運動を利用して、オスカル1世の大国復興を巡る駆け引きが行われたが、王権の低下と共に挫折した。1873年のスロンデヴィア通貨同盟の成立は、汎スカンディナヴィア主義の数少ない成果であったが、1914年に解消された。
1872年に即位したハインリヒ2世は、スロンデヴィア主義の幻想を実現させようと努めたが、国王の統治権は弱化しつつあり、国王による国家牽引は時代遅れであった。その後シェーントレーンでは民主化が進められ、1866年には二院制議会が置かれ、さらに1908年には成人男子による普通選挙制度が導入され、1920年には労働者を支持基盤とする社会民主労働党が政権を獲得した
ヴァルシャレク革命戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、シェーントレーンには平和が到来した。学芸と科学技術が大いに発展し、探検家、作家、経済学者、発明家などの偉人が現れた。

現代

セントレリア王国は孤立主義ともいえる外交策を取り続け、1922年にはハルマにて中立宣言が行われた。多くの欧州諸国が介入した大クリステント・ムスリム戦争も中立を貫き、エウロペシア連合などの陣営にも所属せずに中立主義を現在まで一貫してとり続けてている。

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