ローラント帝国の歴史(ローラントの歴史)では、ローラントの歴史を述べる。
ローラントの歴史
先史時代
ライン人大移動    B.C.2C-B.C.1C
ロランタニア       B.C.2C-210
中世
エングダール王国      210-633
三王国           633-852
神聖ヴァイス帝国      852-1508
近世
ライン帝国        1508-1803
エストコンティナン同盟 1803-1810
ローラント連邦      1812-1870
ローラント第一帝国    1870-1919
ツェルター共和国     1919-1934
大ローラント国      1934-1945
連合国軍政期       1945-1948
ローラント民主共和国   1948-1982
ローラント連邦共和国   1948-2003
ローラント(第二)帝国    2003-



先史時代

旧石器時代にはワイエルシュトラス人、後にメンデルゾーン人が居住した。
新石器時代にはオーム人によって農耕がもたらされたと考えられる。
青銅器時代になると、インド・ヨーロッパ語族に属すローラント祖語を話す人々が到達したと考えられる。彼らは現在のローラント人の多数派を占める分類に属していた。

古代

大移動以前
ローラントの歴史における古代は、先史時代から、ライン民族(決してLINEに没頭するJKの民族ではない)の南下が始まるまでの長期におよぶ。ライン人はプレトリウス大陸(ピンディガ大陸のローラントでの呼称)北部を起源とする民族で、海を渡ってギガンタニアから伝来したキリスト教を信仰していた。現在のローラント西部では、およそ紀元前1300年から紀元前200年にかけて、ツェルター川沿岸に南ピンディガ人デーア人の前期鉄器文化であるアウグスブルク文化(紀元前1300年から紀元前400年)が栄え、のちに東部ではポセイディア海地方の文化的影響をより強く受けたライマン人クラウト文化(紀元前500年から紀元前200年)に発展していた。紀元前400年ごろにはライマン人の国が建設され、西進して南ピンディガ人とデーア人を滅ぼし、ツェルター川沿岸およびポセイディア海沿岸を平定したが、紀元前330年ごろにアンドルリーク2世に率いられたデーア人が反乱を起こしてライマン王国を滅ぼし、ヴィーズネル朝デーアが誕生した。ヴィーズネル朝は南のオーム人諸民族を滅ぼしてマルセル川北岸までの地域を征服した。その後の200年で、ヴィーズネル朝はエベルディア(現在のエーベルハルデン州)を中心にペトラキナ帝国と戦争を繰り返した。紀元前220年には北上して北ピンディガのライン人を征服しようと試みたが、アードリアン森の戦いをはじめとする戦いでのライン人の抵抗により失敗し、さらに紀元前190年ごろにエーベル湖畔の戦いで勢力が弱まったヴィーズネル朝は、ライン人の部族の侵入を許すことになった。
ペトラキナの属州として
紀元前132年、ペトラキナ軍は第五次レウセン高原の戦いでデーア軍に大勝し、さらに翌年のアルバンの戦いではデーア王アンドルリーク9世が戦死した。ペトラキナ軍はそのままポセイディア海に達し、紀元前129年にヴィーズネル朝は滅亡した。ペトラキナ帝国はツェルター川北岸を征服し、ロラン地方一帯を属州ロランタニアとして支配した。ロラン地方に入ったライン人は、ペトラキナ帝国と領土をめぐって激しく対立し、メヒタリアの戦いでライン人がペトラキナ軍に完敗したことで、ロラン地方のライン人部族はペトラキナの支配下に入った。ライン人はすべてが奴隷となったわけではなく、平民として市民権が与えられた部族も存在した。ペトラキナ軍によりロランティア統治のために建設された都市アカリアは、のちのアンカーブルクの元となった。100年にペトラキナ帝国でテオドールの乱が勃発。混乱に乗じたペトラキナ人のロランタニア総督マリウスが、ライン人を率いてアカリアで蜂起し、210年にはキリスト教に改宗してマンフレート1世としてヴァイスでライン人の教皇より戴冠し、初のライン人国家エングダール王国が幕を開けた。この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はカトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、東プレトリウスにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。

中世

エングダール王国
5世紀初頭にエングダール王国は、マルセル川河口地域に撤退し抵抗を続けていたソワソン管区と呼ばれるペトラキナ軍勢力の領土を征服した。6世紀前半のエーリク王とそれに続くレオナルト王の時代は二大王時代と呼ばれる全盛期となり、エーリク王はエーベル湖を支配下に入れ、レオナルト王はマルセル川以南のズート人地域への遠征を史上初めて行った。この時代にエングダール王国は現在のエーベルハルデンからオーバーブルクハウゼン中部に及ぶ現在のローラントの大部分を支配した。しかし、その後エーベルハルデン地方の有力豪族であるゲオルグ=プリュンダラーアイルツ王を暗殺し、ヴァイス教会に強制的に自らをエングダール王として承認させた(レアンドル朝)。これをゲオルグ戦争という。王拝令などにより典型的なキリスト教を無視した独裁を行ったことにより彼の開いたレアンドル朝はわずか8年で教会や農民の反対勢力により倒された(王政復古戦争)。彼の死後、エーリク王の家系であるが復活し、彼の孫であるカルステン大帝が即位した。この頃、大陸南部ではウニャンラトテップ教徒ソンガイ人が勢力を拡大しており、レアンドル朝時代の混乱によりウニャンラトテップ軍はほぼ無抵抗でオーバーブルクハウゼンを征服した。その後も南部の分国はウニャンラトテップ軍の攻撃により次々と征服された。カルステン大帝は即位後すぐに動員令を出し、現在のニーダーブルクハウゼン南部のエスレーベン=バルシュミーデ間の戦いで重装歩兵によりソンガイ人の騎兵を撃破し、ウニャンラトテップの勢力を抑えた。しかし、相次ぐ分裂とウニャンラトテップとの戦争により国家の権力が弱体化した結果、カルステン大帝の死後、彼の遺言で王国は633年に大帝の四人の息子によりライテン条約で帝国を北エングダール、南エングダール、西エングダールの3つの王国に分割され(三王国時代)、エングダール王国はその400年近くの歴史に幕を閉じた。また、いずれの国でもランベール朝は数代で断絶することとなった。
三王国
723年の北エングダール王国でのランベール朝断絶後、シュトライヒェン地方の貴族であるアロイス=クラテンシュタインユルゲン1世として北エングダール王に即位し、クラテンシュタイン朝が成立した。一方、中エングダール王国はヴァイス司教などの有力な司教を領内に抱え込んでいた上にゲレオン3世以降の王に政治的能力が欠けていたため国家としての権威を失い、8世紀中期にゲレオン5世の暗殺を機に各地の諸侯が独立し、中エングダール王国は短命で崩壊した。南エングダールも再びウニャンラトテップの侵攻を受け、9世紀前半に完全に征服された。
神聖ヴァイス帝国の成立
852年、ウニャンラトテップの南エングダール征服を受けたヴァイス教皇ポントゥス7世は、3王国の中で唯一生き残っていた北エングダール王ユルゲン1世皇帝(カイザー)の称号を与え、彼を君主とする神聖ヴァイス帝国を成立させて、大陸北東部を含むカトリック教徒のローラント人が治める全ての領地を名目上統一した。しかし、皇帝の権力は弱く、諸侯の発言力が強いため不安定な国家であった。
ウニャンラトテップ戦争の終結と帝国の繁栄
9世紀後半にソンガエでウニャンラトテップ教徒のザグウェ朝連合王国がイスラーム軍との戦いに敗れて滅亡すると、帝国は旧南エングダール王国の失地を回復し、北カレンベルクを征服した。ユルゲン1世はソンニ朝ソンガエの初代スルタンであるアリー・コロンの娘で、メーメルで洗礼を受けカトリックに改宗したマルジャーナ(ドイツ語名:マルガレーテ)を息子のヨハン3世の妃として迎え入れ、アリー・コロンに神聖ローマ帝国の貴族の称号を与えることで903年に神聖ヴァイス帝国とソンニ朝ソンガエ王国は同盟を結んだ。これにより、南部からの異教徒の侵入はなくなり、神聖ヴァイス帝国は安定と繁栄の時代を迎えた。プレリンやアルミンブルク、エグモントハーフェンなどの港湾都市は夏海風をはじめとする海外諸国との貿易で大きく発展し、ハンザ同盟を結成した。内陸でもソンガエ人によりもたらされたイスラーム文化と従来のキリスト教文化が融合し、新しい文化が生まれた(イスラミズム)。アラビア数字イスラーム式三角法の伝来によりライン人の数学は大きく発展し、天文学なども相まって航海学が盛んになった。12世紀からはレンツ島諸国との貿易が特に盛んになった。1180年には初のライン人が北ポセイディア諸島に到達した。
十字軍の失敗と滅亡
13世紀に入ると、ラクサシア地方でクルコシュカ教が勢力を拡大し、1250年には大陸中西部最大の国であるメルディア王国がクルコシュカ教を国教に定めた。これにより、隣国である神聖ヴァイス帝国内でもクルコシュカ教への動きが少しずつ高まり、危機を感じた教皇ヴァルタル2世は、タイバーブルク公会議でカトリック教による平和復活を主張し、十字軍を結成してメルディアの都メルディスの奪還を命じた。しかし、1293年の第一回から1420年の第三回まで続いた十字軍は諸侯の連携が取れなかったことによりすべて失敗し、高い戦費が諸侯を圧迫した。さらに、第三回十字軍が終わった1420年代には黒死病が大陸全土を襲い、神聖ヴァイス帝国でも人口の1/3が死亡した。教皇庁は十字軍への貢献が大きかった主に北部諸侯の十分の一税を免除したため、南部の反発が強まった。そんな中、プレリンに生まれたマヌエル・ヘッツが教皇庁の腐敗を批判し、南部諸侯の支持を得て、宗教改革運動が南部全域に広まった。1489年に宗教改革に賛同する南部17諸侯が神聖ヴァイス帝国からの脱退を宣言すると、プリルヴィッツ辺境伯グナイスト4世主導のアンカーブルク同盟が結成され、翌年に神聖ヴァイス帝国との間で十三年戦争が始まった。戦争はメルディア王国の支援を取り付けたアンカーブルク同盟側に有利に進み、1503年にヴァイス包囲戦の終結と共にアンカーブルク同盟の勝利に終わった。教皇庁は廃止され、グナイスト4世はヘッツ派プロテスタントを国教に定めて国号をライン帝国とし、「神聖」や「ヴァイス」といった教会的要素を排除すると同時に、ライン民族の団結を訴えた。エングダール王国時代より続いた教皇による皇帝戴冠の伝統は幕を閉じた。

近世

ライン帝国の成立
1503年に成立した帝国は、グナイスト4世の開いたヒューベンタール朝の帝国であり、ローラント人の民族意識の形成の上で非常に重要な役割を果たした。それまでローラント地方西部やメーベルト山脈地帯ではメルディア語が日常的に使われていたが、帝国は都市市民の地方への移住促進により徹底したドイツ語の普及を行って国内の言語をほぼ統一した。この時代に創立された大学は、アンカーブルク大学、エグモントハーフェン大学、フェーエンシュタット大学が有名である。統治体制の面でも、大きな変化が訪れた。それまで各領邦により細かく統治されていたローラントは、過去の領邦を残しつつも、国を7つの地方に分け、地方ごとに1つの領邦に特権を与えて大領邦とし、その上に庶民院と貴族院からなる帝国連邦議会、そのさらに上に皇帝を置く七大領邦制という統治体制を確立した。封建制度は継続され、地方貴族であるユンカーが大規模な農業を展開し、権力を拡大した。ライン皇帝は、ヒューベンタール家による世襲制となった。
ルネサンスと対ソンガエ戦争
1508年に即位したグナイスト5世は、十三年戦争で荒廃した国を復興するため、メルディアで始まったルネサンスを受容し、国内の哲学・文芸を発展させたことで金髭王と呼ばれて国民に親しまれ、1509年のテーグリヒスベック戦争ではトランスレモリア全域をメルディア王国から獲得した。1515年にはグナイストがズートラント公国の継承権を主張したことで、アスキア朝ソンガエ王国のアスキア・スライマーン2世の侵攻を受け、1519年にはヒューベンタール家の本拠地アンカーブルクを陥落寸前まで追い詰められるも、アンカーブルクの守備が整っていたことに加え、ソンガエ王国軍の補給線が延びきっており、補給がうまくいかなかった事と、例年より速く雪が訪れて寒さに慣れないソンガエ軍を苦しめたことによりなんとか陥落を防いだ。しかし、カレンベルク王を兼ねるグナイスト5世はすぐにマルセル川から南の領土を奪い返すことはできなかった。アンカーブルク包囲の翌年にソンガエ市にグナイスト5世の使節が来訪、ソンガエとの交渉は決裂したがすぐに戦端は開かれず、1521年になって両軍はマルセル川で対峙した。しかし小競り合いに終始した後はスライマーン2世もグナイスト5世も妥協を考えるようになり、1522年に和睦が成立、スライマーン2世のカレンベルク王位が認められカレンベルクは分割された。カレンベルクが元の領土を復活させるのは1672年の第二次アンカーブルク包囲に失敗した後、ライン帝国連邦軍、リーア同盟軍などが反攻し(大ソンガエ戦争)、ソンガエ軍を打ち破った後の1688年、プレリン条約の成立を待たなければならなかった。
最盛期へ
大ソンガエ戦争の際に当時の皇帝グナイスト9世は妹のヘンリエット(ペトラキナ語名:アンリエット)をリーア同盟の盟主であるメルディア帝国の皇帝に嫁がせてラクサシアのリーア同盟諸国と連携し、北カレンベルクのトゥルンヴァルトの戦いでソンガエ軍に対し決定的な勝利を収めたことで1688年にプレリンで講和条約を締結させた。プレリン条約によって帝国はカレンベルクとレンツ諸島を獲得した。また、1680年には倭寇の討伐を根拠に勃発した、夏海風諸国の1つである扶桑国とのカレンベルク=扶桑戦争で扶桑島南部の入江を獲得し、港町フュルステンベルクを建設して遠隔地貿易の拠点とした。レンツ諸島への本格的な植民は1690年代に始まり、92年にはライン東ポセイディア会社が創立された。さらに1685年には大陸西部のラグシス王国を継承し、同君連合となった。プレリン条約後のヒューベンタール家の帝国は最盛期を迎え、ヒューベンタール家が支配するライン帝国はその他大陸北部の公国を合わせてヒューベンタール帝国と呼ばれるようになった。グナイスト9世は覇権王と呼ばれて国民の英雄となった。

青年期のグナイスト9世
継承危機
1697年、グナイスト9世はプレリンのヴィルヘルミーネ宮殿に滞在中に水腫で45歳で崩御した。この時、彼の後継には2人の候補がいた。当時16歳の長女ヘレーネ・ヒルデ・アマーリア・フォン・ヒューベンタールと、グナイスト9世の妹のペトラキナ王妃アンリエットの長男でメルディア皇太子の当時15歳のエドゥアール4世である。ヘレーネ・ヒルデは軍事指揮に秀でており、トゥルンヴァルトの戦いでは1個連隊を率いた。その美貌と男勝りな戦い方で国民からの人気は高く、東洋の「紅一点」という言葉から転じて「アインロート」の名で親しまれた。ライン帝国憲法により、ライン皇帝は男性であることが定められていたが、リーア同盟諸国の影響力を極力排除したかった西部諸侯はヘレーネを皇帝に推し、1698年、帝国連邦議会でライン憲法改正論争が始まったことで、ヘレーネ・ヒルデが女帝として即位する機運が高まった。しかし、メルディア王国はエドゥアール4世のライン帝位の主張をやめる代わりにテーグリヒスベック戦争で帝国連邦の一部となったテーグリヒスベック公国の割譲を要求し、帝国連邦が要求を拒否すると1700年にテーグリヒスベックへ公国へ侵攻し、ライン継承戦争が始まった。リーア同盟はテーグリヒスベック、ヴァネサブルク、メーベルトへ次々に侵攻し、カレンベルク=扶桑戦争で失った領土を取り返すためリーア同盟側で参戦した夏海風諸島商会はフュルステンベルクを占領した。ライン帝国は窮地に立たされたが、1703年のランツィゲン会戦とエックの戦いでデーナー公ヴァルター1世率いるライン軍が勝利を収めたことにより、ルルで講和会議が行われた。この講和で、ヘレーネ・ヒルデの皇位が承認されたが、ライン帝国はメーベルト、ヴァネサブルク、テーグリヒスベック(合わせてヴェスターラントと呼ばれた)をメルディアに割譲し、夏海風諸島商会にフュルステンベルクとレンツ諸島の南島を割譲した。皇帝に即位したヘレーネ・ヒルデはライン継承戦争で領地を失ったテーグリヒスベック公ヴァルター1世と結婚し、ヒューベンタール家はヒューベンタール=テーグリヒスベック家となった。テーグリヒスベック公を夫とすることにより、帝国全体にメルディアへの復讐を訴える目的があったとされる。

1703年のヘレーネ・ヒルデ
五年戦争の失敗
メルディアへの復讐に燃えるライン帝国は、1715年にソンガエと同盟を結んで五年戦争を起こしたが、エドゥアール4世の緻密な作戦により、1720年に講和が結ばれて同盟軍は敗北した。この戦争の結果、ライン帝国はヴェスターラントの奪回に失敗したが、ラクサシアのノルトラント侵略は防いだ。さらに、ライン軍の戦闘における実績はライン継承戦争のそれをはるかに上回り、ヘレーネ・ヒルデの行政と軍制改革の成功を証明した。そのため、ライン帝国はその威信、ひいては帝国の大陸における発言権を取り戻した。しかし、メルディアが列強として生き残り、エドゥアール4世とメルディア軍の威信が大いに高められたことは長期的にはライン帝国の大陸における影響力を低下させた。戦争はまた、ラインがメルディアと対抗するにはまだまだ力不足であったことを示し、しかもメルディアと違い、ラインは戦争の終わりにはほとんど財政破綻に近い状態にあった。そのため、ヘレーネ・ヒルデは終戦後20年間、行政改革に専念した。彼女は国営のライン銀行を創設し、また陸軍の近代化に努めた。晩年は1743年に死去するまでリュディガート城で過ごし、アンカーブルク大聖堂に葬られた。
帝国の崩壊
ヘレーネの死後、息子であるヴァルター2世が即位した。彼は文化面での帝国の権威強化を図り、各都市へのオペラ座の設置や、音楽家の保護、ロココ様式建築の推奨を行なった。1745年に起きたキーセン反乱は鎮圧された。1749年にポセイディア海での貿易利権を巡ってライン・夏海風戦争が起きると、皇帝艦隊はアルミンブルクの海戦で夏海風・ソンガエ連合艦隊に大敗し、ライン帝国はレンツ諸島を含むすべての海外領土を夏海風に割譲した。ここにライン帝国によるポセイディア海の制海権は終わりを告げ、東方貿易による利権を失ったライン帝国は衰退を始めることになった。18世紀に起こったラクサシア地方での民主化運動の余波はライン帝国にもおよび、1733年にラグシス王国でラグシス共和革命が勃発してラグシス=ヒューベンタール朝が崩壊し、セバスティアン5世は幽閉された。ヴァルター2世は啓蒙主義の影響を受けて、農奴制廃止などの近代化政策をとったが、広範な支持を得られず、失意のなかで没した。1783年にメルディア=ラグンシャ王国が成立してラクサシア統一の可能性が高まったことにより、皇帝グナイスト13世はドルプフェルト宣言を出した。この宣言で皇帝は「メルディア王国とその同盟国による侵略的拡大の現状はピンディガ大陸全土の危機であり、これ以上の侵略行為によっては、皇帝は必要な武力を用いて直ちに行動を起こす。」と主張した。しかし、これは口先だけの外交辞令であり、実際に帝国は戦争の準備などできていなかった。さらにこれはラクサシアの民族主義を刺激し、かえって統一に反抗的であった諸国までもをメルディア帝国成立に傾かせてしまう結果となった。結局、1795年にメルディア帝国が成立すると、ドルプフェルト宣言に応ずる形で、翌年にラクサシア帝国がライン帝国に宣戦布告した。念願の統一を果たしたラクサシア帝国の士気は高く、戦略も優れていた。1797年のテオバルト会戦でライン軍が大敗を喫すると、エーベルハルデン王国などが帝国を脱退してラクサシア側に離反した。翌月、戦争継続を主張するグナイスト13世が弟のヴァルター3世に暗殺され、皇位についたヴァルター3世はラクサシアの和平提案を受諾した。両国の間で結ばれたロアヌス条約で、西カレンベルクがラクサシアに割譲されたほか、帝国西部にあったヴェースブルク王国、ショール公国、マイツェン公国、メヒティルト公国、エーベルハルデン王国などを加盟国とするエストコンティナン同盟が設立され、実質的なラクサシアの傀儡となった。多くの構成国の脱退でライン帝国がほぼ形骸化したことで、ヴァルター3世は正式に帝国の解体を宣言し、カレンベルク皇帝ヴァルター1世として即位した。

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