1470年代のトルメシア
イヴァン1世以来、モンゴル支配下で次第に実力をつけたアカーツィア大公国は、14世紀後半にはキプチャク・ハン国の王統中断に始る混乱によってますます勢力を強め、ミツートリ公時代の1380年にはキプチャク・ハン国西部の実力者ママイを破った。しかし、その直後にはママイを殺害してキプチャク・ハン国の再統合を果たしたトクタミシュの攻撃を受けて服属を余儀なくされるなど、タタール支配を脱するには至らなかった。
14世紀から15世紀のアカーツィア大公国は、トヴェーリをはじめとするトールムス内の諸公国や、西のシェーントレーン王国と戦いトールムスに勢力を拡大していった。一方、キプチャク・ハン国の側では、トクタミシュがケルンテン騎士団に敗れて没落した後は分裂の度を深めていた。アカーツィア大公イヴァン3世はこの力と情勢を背景として、1480年にハンからの独立を宣言し、貢納を停止した。また、北西トールムスの強国リヴゴルド公国を併合し、トールムス北部の統一をほとんど成し遂げた。また、イヴァン3世は東ローマ帝国皇帝コンスタンディヌス11世の姪と結婚、モスクワ大公が1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地位を自認する端緒をつくった。ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン3世のとき初めて使われた。
イヴァン3世の孫、イヴァン4世は1547年にツアーリの称号を正式に用い、トルメシアの正教会の間ではアカーツィアはローマ、コンスタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリはローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれてきた。アカーツィア大公国の支配領域が、「トールムスの国」を意味する「トルメシア」との名称で呼ばれるようになり始めたのも、イヴァン4世の頃の16世紀であった。
また、1552年にヤバン・ハン国、1556年にアストロガン・ハン国を滅ぼし、始めてキプチャク・ハン国の一部を併合した。イヴァン4世は内政的には大貴族を抑圧してツアーリの直轄地を広げ、トルメシアで最初の議会をつくるなど、中央集権化を目指した改革を進めた。かつてトールムス諸公国のひとつに過ぎなかったアカーツィア大公国は、多民族を内包する大国家トルメシアへと変貌を遂げつつあった。しかし1558年に始まったリングラント戦争で25年に渡り北地中海の覇権を争ったが、シェーントレーン、ケルンテン騎士団に敗れスロンデヴィア半島から追い出された。さらにその後イヴァン4世は粛清を繰り返した挙げ句、国家は荒廃しイヴァン4世死後の混乱・衰微を招来させ他。