最終更新: go_go_gingakun 2018年07月23日(月) 03:47:25履歴
ポーランド戦争
※注意:この個人企画は最終的にゲルマニア国がポーランドを鎮圧するという流れで終了します。当企画に干渉したい場合はこの流れに従ってください。
※現在私情によりシナリオの更新が出来ません。誠に勝手で申し訳ありませんが本戦争は4月1日を以って終戦とさせて頂きます。尚、シナリオは今後も細々と編集していきます。
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大ゲルマニア帝国(以降ゲルマニア)は第二次世界大戦後ポーランドを自国領土として平定したが、独立運動が活発化したため70年代に保護領としてポーランドの独立を承認した。しかし、これは完全な独立というわけではなく、あくまで内政や外交をゲルマニアの代わりに行うだけの存在であったため、ポーランド国粋主義勢力の間では根強く独立運動が続いていた。ゲルマニアはこれに対し親衛隊による弾圧を行うことで一時的な鎮圧を図ったが、結果的により一層反発が強まるばかりであった。そんな折、ポーランド内でも有力な国粋勢力「ポーランド解放戦線」の代表に元ゲルマニア将校のヘンリク・コワルスキーが就任した。ヘンリクはポーランド出身だったが、ゲルマニア軍の有能な指揮官として期待されていた。しかし、7年前に突如失踪し、当局による捜査が長らく続いていたが、ポーランド解放戦線のメンバーになって潜伏していたとみられる。今回の反乱では1万名あまりの戦闘員を養成し、ヘンリクの指揮による高度に戦術的な作戦を展開した。反乱軍は戦闘で制圧した市街などの住民に参戦を呼びかけ、短時間で爆発的に勢力を拡大し、政権を奪取することに成功した。これにはポーランド人の多くが国粋勢力を支持していたことが大きく関係したとみられる。没落した保護領の政府機関の要人や官僚等はゲルマニア本土に亡命し、ポーランドの統治機構は完全に国粋勢力の手中に治められた。ゲルマニア軍による懸命な奪還作戦が展開されるも、保護領政府没落から一週間経ち、ポーランド国粋勢力は独立国家「自由ポーランド」の建国を宣言した。
政府軍は反乱勃発当初、反乱軍の規模を低く見積もっており、少数の部隊で鎮圧しようとした為僅か600名で編成された一個大隊を戦闘地域に投入した。予想を反し、反乱軍は1万人を超える規模であったため鎮圧部隊が全滅。この初期対応による失敗が後に与えた影響は大きく、結果として反乱軍に装備を鹵獲され、勢力拡大をより強力なものにする事となった。政府が反乱軍の規模を正確に把握するころには半数近くの軍事施設や市街地に反乱軍戦闘部隊が侵入していた。反乱勃発から2時間後、ゲルマニア軍が10個師団を投入して本格的な対応に乗り出すも、既に反乱軍は防御陣地を構築しており、鹵獲した火砲や装甲車両を使用してゲルマニア軍を足止めする。更に反乱勃発から5時間経つと、反乱軍も予期していなかった地域でも反政府運動が起こり、ワルシャワでは激しい戦闘状態に陥っていた。やがて1日が経過し、政府施設への攻撃も激化していた。ワルシャワの総督府周辺ではこの時点で5万人以上の死傷者が出たとされる。ゲルマニア国内ではゲルマニア軍の失態に対する猛烈な非難が巻き起こり、情勢が不安定化する要因となった。2日目にはワルシャワが反乱軍と民衆によって陥落し、国粋政権が打ち立てられた。ポーランド領内の国民は(警察組織含む)ほとんどが国粋側に移り、政府派の人間は迫害を受けた。中でもダンツィヒでのゲルマン系住民への迫害は凄絶なもので、ダンツィヒの市長等が公開処刑されたり暴行を受けたりするといった事件が多発した。そんな中、ポーランド国粋政府が国軍を創設し、ゲルマニア軍はさらなる苦戦を強いられることになる。
このページへのコメント
本軍は、物資の尽き、及び演習に向けて行動するため軍を撤退させます。貴軍らの勝利を祈っています。
ssヘリコプター部隊を送りたいのですが