中世・近世ヨーロッパ史(だいたい西暦1155〜1857)の歴史の研究および考証(意見・情報交換、議論など)をする研究会のwikiです。歴史の情報共有の場として、あるいは、単なる情報交換の場として。歴史好きの方、お待ちしております。認証されれば誰でも編集可能です。

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兵法概略、と書きましたが要は兵法とは戦争の戦いにおける用兵の術、軍や兵の扱い方を示したものであり、戦争において兵を手足のごとく操る術(誤解のないように書いておくが戦争の戦いにおいて兵を手足の如く操ることは勝つのに絶対必要な技、しかもそれが出来ないといかなる場合も勝てない、勝つことは戦争の戦いにおいてまず求められること)である。これがないと勝てない、というものが兵法であり、まぁ兵の扱い方、兵法そのものが戦の神髄といってもよいだろう。何も知らない、という読者のために簡単にこれを数学的にまとめてしまうと、兵法、兵の扱い方とはなんたるか、を考えた場合に行き着くのは、掎角、である。掎角とは、鹿の角と尾を両方持ち、の訳で表されるが、要は相手の陣の面のうち(二つ以上の部隊で)二面を取ってしまえば数的優位になる、というものである。いくら味方が優れていようとも、敵方が劣っていようとも、二面を取られる(要は挟撃される)ことは負け必定ならしむ、でお互いの力や実力の見えない実際の戦いではとにかくまず万物に共有している数、数学的に優劣を付けられれば安定して勝てるので、兵法とは何か、と聞かれたら(実際に戦う面においては)まずは掎角、物事の両面を取れば間違いなし、とのことは覚えておけば問題ないであろう。要は、こんなに簡単に言えてしまうのであるが兵法や軍略は要は数学の複雑系の一分野である「ゲーム理論」でほとんど全部解析できてしまうものであり、歴史学的な「事実」はそれら物の数理に包摂され得てしまうものである、ということはまず認識しておかなければならないことであるように思う。なぜなら、兵法や軍略を思いついた、古の当の神算鬼謀の賢者達は、何を拠り所にしていたかというと、やはり数学(秘数学を含む)やある種の推定方法、なのである。歴史学的な「事実」だけを追い求めていると、到底「論理的な」現代における歴史の証明は為し得ないのであるが、数学なら現代の「数学」でも解釈可能なので、共通する「理学」の部分から攻めていくと、大変分かりやすい。数学であれば、先述のとおりゲーム理論など数学の一分野で解釈可能なので、やはり強力なツールと言わざるを得ない。それはさておき、掎角のとおり戦争において相手に対して数的優位を作ってしまうことは絶対的に勝つためのポイントであり、古代より数を能で上回ることの重要さを説く話の要諦は、要は「数というものはある程度の数が揃ってしまうと到底ひっくり返し難いもので、それを引っくり返してしまったからこそ、後世に語り継がれるものだ」というキーポイントが実は潜在的には埋まっているのだ。ということはどういう風に勝つにしろまずはその面やポイントに数を揃えることが必定で、それが出来て後どのようにして勝つか、を打算すればよいのである。なので、と言ってはなし崩しの話のように聞こえるかもしれないが、どう戦うのかが兵法か、と書いたと思うが実際は、「どう戦うかにしろ、まずは勝つ方法を記し示したもの、さらにはそれらを集めて論理的に体系化したもの」が兵法なのである。と、書いていくと分かりやすくなってくると思うが、実際には兵法とはどう戦うのかを書いたものではなく、どうやったら勝てるのか、という必勝パターンを体系化したものだ、と考えるのが一番自然になってくる。ということは、つまり、ある程度の長い年月をかけて戦争の戦いにおける必勝パターンを記したものが兵法で、(要は勝てばいい)どう戦うのか、どうやったら一番まともに戦えるのか、を書いたものではないのである。つまり、数学的に「勝つ、勝てる」状況を作る術を書き記したのが兵法(Art of war)である、ということが言えてくるのだ。ということは、数学的に「勝つ」方法が兵法であり、これは現代のゲーム理論でもつまびらかに十分される部分である。というわけで、詳しくはゲーム理論の本などをお読みいただきたい。委細難しい言葉などはあると思うが、全体的には何を以て一とするか、その一を内分するのは何か、という分野なので心配はいらないであろう。ゲーム理論における、ゲームとは人生そのものでもあり、またスポーツなどのゲームとも同じ概念なのである。(ということからすると、)戦争における戦いなども当然ゲームで喩えられるのであり、実際にそういう分析も今後為されていくのであろう。ともあれ、戦争の戦いとはゲームでゲームは数学的に「勝ち」の状況を作れば勝ち、さらにその勝ち(数的優位)の状況を作るのに一番手っ取り早いのは、掎角である、というのはお分かりいただけたと思う。兵法に関しては諸説あると思うが、難しいことを抜きにすると、数的優位を作るのが一番手っ取り早い方法である、ということは見えてくると思う。本に関しては、amazonのkindleなど電子書籍を読まれると非常に速いように思う。届けるまでの手間もなく、しかも発行費用ほぼなしの値段で読めるからである。今後硯学になられたい方はよろしく手に取っていただけるといいだろう。


〔追記〕ゲームの極致と、゛臨機応変″という言葉の重みについて

今まで、散々ゲームの仕組みであったりとか陣形のことであったりとか、戦線の突破など書いてきたのですが、はっきりいいます、ゲームは状況に合わせて動くことこそ、全て、なのです。機に臨みて変に応ず、という臨機応変という言葉がある通り、結局ゲームの仕組みだとか構造だとか関係性だとかそれぞれ細かい事象を観ていっても、結局のところ今ある状況を観てどう動くか、というところにゲーム的力は集中してきている、のです。どういうことかというと、今の状況を観てどう動くか、という動くか、の部分に全てのゲーム的展開の可能性の根源はあるのであって、ゲームの一部あるいは一員である自分がどう動くか、によってそのゲームは動いて、いくのです。ということから考えますと、臨機応変、機に臨みて変に応ず、というのが兵法の最善、であってこのブログでいつぞや書きましたが、兵法での最強の陣形は“無形の陣だ”の通りその都度その場の状況、あるいは戦況に応じて陣形を変える、つまり状況に応じて、戦略的、あるいは戦術的に動くという点で臨機応変の概念とほぼ一緒のものである、ということなのです。ゲーム的選択性に全ての可能性がある、ということをこれまでもいくつか書いてきたかとは思うのですが、それ以上に、選択肢以上に今現在のある状況を観て、そこで判断して動く、というのはある意味ゲーム的極致であることはいうまでもありません。ゲーム“理論の”極致という意味ではゲーム理論というのは元々物事の選択性に対して最善の答えを数学的に導き出す、ことが目的なので、極致としてはあらゆる意味での万能の答えを、ということになるのでしょうが、仮にいえば、それはゲームがある、あるいは今現在(の存在)がある、ということであって、結局そのゲーム的函数から今現在ここの存在を導き出す、というのが一応数学的な意味での答え、なのではないのでしょうか。あらゆる選択性に対しての万能の答えを、といっておきながら実際はその選択性の如何が今現在のここに係っているので、そういう意味ではちょっとこけおどしのような感じもしますが、それでもゲームあるいはゲーム理論はその選択肢、あるいは手段のひとつであって、結局のところ道具なので、最終的に答えを導き出す、のはそのゲームのプレイヤー一人一人というか、そこにいる人間、一人一人であったりするのです。答えを示すといっておきながら、実際はその答えとは今現在問題を解決すれば……ということになるのですが、(それはそもそもゲームあるいはゲーム理論というものが手段あるいは選択性の科学であるから、最終的な答えはプレイヤー本人が求めていかなければならない、ということでもある)それでも選択性の如何そのものでゲーム的展開は変わる、というところは間違ってはいませんが、それでもなおかつ、ゲーム的選択性としての最善の答えは、手段>(乱数)選択性になるのでその都度今現在の状況を観て、自分の目的と整合性を持ちつつ、自分にとって最善の選択肢を取る、というところが一応の答え、なのではないのでしょうか?結局のところ、総括してしまえばゲームにしろ選ぶのは自分なので、今ある状況を的確に分析して、最善の答えを出していく、しかないのです。結局のところ、理論的に最善の答え、あるいはそれを導き出す、方法を考えついても最終的には、今そこにある人たちで、その都度判断していくしか、ないというのが究極の答えであり、ゲーム的極致、でもあるのです。

結局のところ、それぞれの状況について事細かに学んでいけば、それと似たような状況に臨んだ時に、自分にとって最善の判断、最善の選択ができる、というものです。まぁ、ここにケーススタディの意味はあって、例えば職業人であればプロとして如何にそのある状況に対して最善の判断を下せるか、という点においては、200〜300年前の‟職業人″、としての軍人も、今の職業軍人もその他普通の職業人だって、ゲーム的に観れば、そう変わりはないということは言えそうですね。状況に対して繰り返しケーススタディを行う、という点に対しては、軍事的訓練でも一緒です。いざ実際にやって怪我した、では知りませんから、結局のところ、職業人としての‟ゲーム理論的な意味での″訓練というのはケーススタディに始まって状況の判断に終わる、とそういうところでしょうか。一見、その場では無意味な繰り返しに思えても、ゲーム的な意味では将来その後同じような状況に直面した時に、ちゃんと迷わず゛比較的正しい判断をするためのものだ″、と胸に念じてやれば、少しはそれら退屈な繰り返しも意味のあるものと呼べるもの、になるのではないのでしょうか(終)

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軍事戦闘の四元素(おおまかに)

襲撃戦(侵攻)(火・水)←補給戦(水・大地)←陣取り戦(大規模戦・戦団同士の戦い)(風・大地)←奇襲戦(火・風)、矢印の方向に、有利。侵攻戦は陣取り(大規模)戦に、奇襲戦は補給戦に対して、それぞれ有利。なお、奇襲戦に対しては、侵攻(襲撃)戦が、有利。

なお、ここでの侵攻戦とは、戦術的なアドバンスメントのことであり、直接の領土に対する侵攻を指すわけではない。

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Posted by  skywalker_laurence skywalker_laurence 2020年07月07日(火) 19:27:59 返信

戦闘における戦術の二大大綱として、PersingとRaidがあるが、Persingはいわゆる陣押しで、Raidはそれに
対抗する、いわゆる荒らし、つまり待ち伏せや奇襲などの戦術を持って、相手軍の進撃の勢いを衰えさせる、そういった奇手戦術、のことを指す。いっぽうで、Persingのほうは、自軍もしくは自勢力のいきおいを以て、相手の陣地をひたすらおせるところまで押す、といったようないわゆる進撃戦術、のことである。まぁ、ここまでいうと、進撃にかんしては最早戦術というよりあまりにも王道すぎて進撃する「選択肢」ともとれるのだが、それはさておいて。ちなみに、基本的に四元素でみると、パーシングは火・水から大地・風へと抜ける方向へ、対してレイドは、火・風から水・大地への方向へと抜けていくモチーフになるのがわかるとおもうのだが、パーシングは火・水の突撃戦術から、大地・風への陣地・拠点戦戦術、へと抜けていき、対して火と風の奇襲戦法に始まり、水・大地の待ち伏せ(当然、これはプロセスとしては逆も可)に終わるレイド、というよりかは、単純にそれらの二大方向性によって、戦闘における戦術が構成されている、と取ることもできよう。すなわち、一般的によくある戦闘とは、それら戦術的二大方向性、あるいはその戦術的選択肢の相互相性による繰り返し(当然、陰と陽のように)によって、成立しているものなのである。

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Posted by  skywalker_laurence skywalker_laurence 2020年03月11日(水) 15:50:34 返信

剣術や戦いでもそうなんだが、ゲームでは常に相手の間合いに踏み込み続けることが重要となる。要は相手と常に対峙しつづける心、姿勢が大事だということだ。剣術の場合はそうすることで、常に相手にリポステ(カウンター)を入れられる機会が生まれ続けるし、格闘技でも相手の姿勢を崩しつつ反撃の機会を窺うことができる。戦術、戦略ものでも一緒で、常に戦う姿勢さえ捨てずに持ち続ければ、やがて相手は隙を見せ、こちらに反撃の機会が生まれることだろう。ゲームで一番重要なのは、結果ではなくゲームそのものにコミットし続けることなのだ。戦いでもそう、いくら劣勢になっても、どんなに絶望的な状況でも、相手と対峙し続け戦う姿勢を持ち続けることで、やがて状況を打開すべく機会が訪れることを待つことができる。

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Posted by  skywalker_laurence skywalker_laurence 2018年04月11日(水) 10:24:45 返信

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