中世・近世ヨーロッパ史(だいたい西暦1155〜1857)の歴史の研究および考証(意見・情報交換、議論など)をする研究会のwikiです。歴史の情報共有の場として、あるいは、単なる情報交換の場として。歴史好きの方、お待ちしております。認証されれば誰でも編集可能です。

公権力とは、言い換えればpublic powerともいいますか要は公の力、なのですが近代民主主義において公権力とはいわば国民の力、あるいは意思決定、そのものなのです。中世および近世ヨーロッパでは主に政治体制には君主制と共和制がありましたが(共和制は現代の民主政治にそれなりに近い部分もありました。というか元になっています)、その頃は公権力、というと(まだそんな言葉があったかどうかは定かではありませんが)君主、あるいは統治者の力そのものを指していたようにも思います。ただ、現代に一般に、公権力、というと普通は国民の力だったり意思を指している、言葉だと思うので基本的にはそう思っておいてもらって構わないと思います。一方、政治力とは言い換えれば政治をする力、つまり行政力です。行政力はその時の統治者の能力如何であったり政治状況や国の環境によっても変わるので、一概には言えませんし、むしろその時々で変わる、と思っておいたほうがいい、のですがむしろその行政力を如何に(統治者が変わっても)安定させるか、がひとつ政治あるいはその国家としての政治のゲームには非常に重要で(言っておきますが今は民衆の意思決定・反映が政治に反映される、あるいは手段となっています(はずです)。)それを安定させるほど基本的にその国は安定して行政あるいは内政を行うことができ、統治あるいは国の状況を安定させることができる、のです。
政治力を高めるのは、中世あるいは近世の政府ではあまり統治者を変えると国に混乱が起こるため、むしろ比較的高い政治力を持った統治者がある一定期間以上長い間国を治めたほうが効率的だから、でありむしろ今の民主主義ではいくら政治力が高かろうとある一定以上代表を務め続けると例えどんなにまともな政治をやろうと最終的には国民の邪魔になってしまいます。国の政治をある一定期間以上単一の政府に任せ続けると、だんだん腐敗してくる、という原理が根本にはありますが、結局、政治あるいは国を統治することに最終的に重要になってくるのは、バランスだ、ということです。バランスさえ保っていれば、国は壊れないし傾くこともないでしょう。古来より、国あるいは勢力が滅びるときは大抵バランスを崩して、からですし逆にバランス(balance)という言葉自体そのものそれ自体の安定を指している、ともいえます。なので、政治においても、バランス、が全てであり結局国を覆う概念ひいては物事を包摂する概念からしても、バランスが全て、ではないでしょうか、ということなのです。
最終的に、政治に重要なのは、バランスだ、ということです。政治力と公権力、と書きましたが最終的にはそのどちらも現代においても政治の答え、ではないのです。よりよい政府を求めるためには、道州制や小規模民主制もひとつの選択肢であり重要な現代の民主主義におけるファクションなのですが、逆に国全体の国民の力というのを公権力として、求める、というのも実はファシズムではありませんが一面非常に危険なもの、でもあるのです。この手のものはナショナリズム、にも通じる部分もありますね。とにかく、政治力も、とは行き過ぎることはありませんが行政力も公権力も大きくなり過ぎても、結局は国民の政治の邪魔になる。一概に、これはパワーであるから、なのです。が、しかし力の名分なくしてはそもそも政府を成立させること及び公認させることはできませんね(この辺は主権国家の条件というか定義が重要になってきますね。)、そこで何を政府あるいは行政府のカタ、あるいは名分にするか、ということが非常に重要になってくるのですがこれは一重に何にコミットメントするか、ということでもありますね。民主政治なら民主主義ですし、それより小さな少数直接民主制なら連邦制あるいは共和制になったりするわけです。要は、どこに重きを置くか、というところが重要なのですが、あえていうなら「バランス」でしょうね。最終的には、政治力も公権力も行き過ぎてはいいことながない、のですから結局はパワーに訴えずにその時々でバランスを取った政治をすべし、ということなのです。最終的に、力で押し通せるものはありませんから、結局その時々の力、といっても最終的にはバランスが重要になってくるのです。どんな人であれ、人生は一度しかありませんから、力の使いどころ、が重要になってくるということなのでしょうね。(一部掲示板から文章を引用して書いています)

このページへのコメント

ルールには、表裏のようなものがある。例えば、公正さと公平さのようなものだ。公正さを求めすぎると公平さが失われるし、逆に公平さを求めすぎると公正さが失われる。加えてそのルールが正しく施行されるには総じて和平の状態である必要がある。その状態が揃ってはじめて適格にルールが施行される。つまり、ルールは自分自身で作り、自分で勝ち取るものなのである。(自由自治と共和制へのreply)

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Posted by すかいうぉーかー 2018年02月20日(火) 10:07:21 返信

いじょう、ぶろぐのつぶやきへのとうこうよりいんよう、おわり。

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Posted by すかいうぉーかー 2017年10月31日(火) 11:30:20 返信

こっかというものはいちどぼうちょうをはじめると、さいごにはほうかいするまでそれがすすむ。もとはといえば、せいふやくにのきこう、あるいはやくしょやいんふらなどのきほんしゃかいしせつはそのくにのいんふれをおさえるためにそんざいするものだから、それにたいするてきせつなとうしをおこたってしまえば、あとはさいげんなきまでにいんふれがぼうちょうして、さいごにはほうかいしてしまうだろう。
ちゅうせいよーろっぱのきょうわせいとしこっかやこうこくなどのちいさなこっかなら、すべてばんのうか、というとそうでもなく、やはりそういったくにでもいちどけいざいがのびてくにがぼうちょうをはじめると、しゅうへんのしょうこくをのみこんであるていどのおおきさのくにになるまでかくだいをつづけようとするし、ぎゃくにおうこくやていこくなんかのおおきなくにがぼうちょうかくだいろせんよりもないせいやしょうきぼとしせい、しょうぎょうとしなどのじちけんかくだい、などあるていどのないせいのすりむかやくわけかくだいなどのろせんをとったほうが、とうぜんくにとしてのていがちいさくまとまってせいじがとりやすくなるように、こっかというものはおおきくてもちいさいものでもそれぞれにかいけつさくがあり、どちらかでいちがいにいいといえるものではない、ということはいえるのではないのだろうか。
いちどぼうちょうをはじめるとさいごまでほうかいするまでつづくものであるから、ないせいやしゃかいせつび、いんふらをどんどんけんせつしてそれをおさえるのはひじょうにじゅうようなことだ。それをおこたるとせいじはふはいするほうこうにむかっていってしまうのだから、せいじはつねにかわっていくものでなければならない。せいじかのやくわりはつねにかわりつづけ、くにのいんふれをきゅうしゅうするだけきゅうしゅうしてさいごにはくににじゅんじるというものであるから、ざいばつやりけんをつくれるなどといった、よくぼうぜんていのせんにゅうかんでみられるといった、なげかわしいことはさけなければならないことだ。せいじがいちどていたいしてしまうと、さいごにはくにがほうかいするまですすんでしまうだろう。くに・こっかしかり。

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Posted by すかいうぉーかー 2017年10月31日(火) 11:28:47 返信

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