今は亡き耳かきコリッの避難所

ちりーん、ちりーん、と遠くで風を受けて風鈴が鳴っている。9月になったとはいえ、照りつける太陽のせいでいまだ残暑も厳しい。
学校が始まり、孫たちもまた戻っていった。さびしくもあるが、静かに流れる時間もまた、心地よい。
妻も友人達に誘われ、最近は趣味の絵画を習うために家を空けることが多くなった。
留守を預かるわが身ながら、晴れた日は好きな庭いじりに没頭し、雨の日は書斎にこもり、時間を忘れることもよくある。
老いたこの身だが、まだまだやるべきことが多く、日々を過ごすことも、また楽しい。

今日もまた、ひとりで庭に出て、炎天下の中、汗を流しながら草をむしり、猫の額程の土地を耕し、種をまく。
水をまき、わずかに生ったトマトを収穫し、ふと息をつくともう日が傾いている。
急に喉の渇きを覚え、縁側に腰掛け休んでいると、後ろから声がする。
「おじいさん、そんなに汗をかいて。さぞや喉が渇いたでしょう。」
顔を上げると妻がいる。てっきり絵画教室へ出かけたと思ったのだが、どうやら帰ってきていたようだ。
そんなことにも気づかなかったのか。古く汚れた腕時計を見ると、もう3時を指していた。

泥にまみれた長靴を縁側に脱ぎ捨て、茶の間へ上がる。
我が家は古い作りながら、広い畳敷きの続き間が、良く風を通し、夏でも涼しい。
息子や孫達は、やれエアコンだ扇風機だと涼を求めるが、年老いたこの身には、自然の風が気持ちいい。
古いテーブルには、麦茶とゴマの入った瓦せんべいが用意されている。私は、この瓦せんべいが好きだ。
はみでた端のところを、パリパリと食べる。妻は意地汚いと責めるが、この年になってもやめられない。
汗のかいたコップを持ち上げ、麦茶をぐいと飲む。冷たい麦茶が体中に染み渡るようだ。
私はそのまま、籐でできた枕を引っ張り出し、ゴロと畳に横になった。
茶の間を抜ける風に吹かれながら、私は後頭部を曳かれるかのように、眠りに落ちていった。

ふと気がつくと、耳のなかでごそごそと音がする。
薄目を開けてみると、妻の腹が見える。私は、あぁ、膝枕をされているのかと思う。
私は生来、耳かきが苦手だ。自分で見えない耳の中に耳かきを入れるということに、どうしても恐怖を覚える。
また、人に耳かきをしてもらうのもどうにも抵抗がある。あの耳の中でごそごそ言う感覚が、どうにもこそばゆくて仕方がない。
妻は耳かきをしたがるのだが、そういうわけで私はあまりさせなかった。
今日も、耳かきをされていることに気がついたのだが、なぜか抵抗できなかった。
半分寝ぼけたような、とろんとしたような頭では、黙って耳掃除を始めた妻をしかることもできない。
それよりも、心地よいのだ。今日に限っては、耳の中に差し込まれ、ごそごそと音を立てて出て行く、竹の梵天の耳かきが。
また、差し込まれ、ごそりごそりと耳の中で動き、引き抜かれる。いつしか私は、耳の中で行われる作業に全神経を集中していた。
寝たふりをしながら、そっと横目で見上げてみると、妻の顔が見える。あぁ、老けたなぁ。
我が侭な私にこの年までよくついてきてくれたものだ。胸の中がいっぱいになる。歳を取ると感慨深くなって、いけない。

「お父さん、こんどは反対をやりますからね」
妻が言う。私が起きていることに気づいているのだろうか。膝枕をしたまま、身を返す。
私は左の耳が不自由だ。ここ5年来どうにも聞こえが悪い。息子は医者に行けというが、私は医者は嫌いだ。
「あら?これは・・・」
妻が頓狂な声を上げる。私は何事かと思うが、寝たふりを続けた。
なにかごそごそと、茶の間のテーブルの上から妻が取ったようだ。また薄目を開けてみると、銀色に光る長いものだ。
あれは何だろうか、見覚えがあるな。と思っていると、不意にバリン!バリン!と大きな音がする。
左の耳で何が起きているのか。寝ている私には知る由もない。
そのうち、バリンバリンがパキッ、パキッになり、いくばくかもせず静かになった。と、その途端、ズルゥーリ!
「うわぁっ!」
左の耳の中で、何か蛇のようなものがずるずると動いたように思い、私は飛び起きてしまった。

「あらあら、起きてしまったのねぇ」
妻がケラケラ笑っている。その笑い声がキンキンと耳に響く。私はとっさに左の耳を押さえた。
見ると、妻の手に握られているものはピンセットだ。その先には、赤茶けたような、黄灰色のような長いものがへばりついている。
それは何だと尋ねると、妻は黙ってティシューの薄紙の上に、それを置いた。
私は驚いた。
いつぞや見たことのある、老木でできた床の間の飾り物のような、年月を経た古木のような耳垢である。
長さ4センチメートルはあろうか。巨大なそれは固く、太いところは鈍い黒銅色で、色が黄色になるにつれ細くなっている。
こんなものが私の左耳を塞いでいたのか。どおりで耳が聞こえないわけだ。
「さぁお父さん、もう少しです」
妻に促され、また横になる。細い弁天の耳かきが差し込まれ、カリカリと残った耳垢が掻き出されてゆく。
私は横になりながらも、やはりたまには耳掃除をするべきだなと反省する。自分で触るのはやはり恐ろしいが。

最後はごそごそと綿棒が差し込まれ、僅かに残った粉も、すべて取り去られたかのように思う。
私は起き上がると、茶の間の掛け時計を見る。5時半を過ぎたところだ。
空腹感を覚えたが、まずは風呂に入りたい。野良仕事で汚れた体をさっぱりと洗い流し、耳も洗おう。
風呂上りのビールを想像し、喉がごくりと鳴った。さぁ、行くか。

このページへのコメント

夏が恋しくなりました。いつも美しく気持ちの良い文章をありがとうございます。
私の夫も耳かきされるのが好きではないので、耳かきするのが好きな私としては残念なのですが、老後の楽しみに大物を培養中…と思えば楽しみに待てる、かも?w

0
Posted by ポディマハッタヤ 2012年03月03日(土) 03:12:36 返信

夏に読み返したらもっと気持ちよさそうだ

まったり感が素晴らしい、ありがとう!

0
Posted by 感謝 2012年02月25日(土) 01:08:21 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます