まとめ:雅ちゃんがももちの胸を触るセクハラ

591 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:34:40.55 0

1日目。
メールが1件。愛理から。

——体調悪いって聞いたよ、お大事に。

ああ、そうか、そういうことになってるんだ。
起き上がるのもかったるい。
ありがとう、簡単に返事を打って、雅はまた布団に潜りこんだ。


2日目。
メールはなし。電話もなし。
母親が心配して部屋をノックしてきた。
大丈夫だよ、ちょっと夏バテしただけだから。
弟がぶっきらぼうにアイスを差し入れてくれた。
頭が、少し冷えた。


3日目。
メールはなし。電話もなし。
ようやく自分の部屋を出ようと思えた。
母親が茹でてくれたそうめんは、シンプルだけれど美味しかった。
時折勝手に詰まる喉を思えば、するりと食べられて丁度よかった。


4日目。
メールはなし。電話が1本。愛理から。
長引く体調不良を心配してくれる愛理に心が痛んだけれど、まだもう少し時間が欲しい。
聞けば、桃子も夏風邪だとかで練習に来ていないらしい。
それを聞いて、何を思ったのかよく覚えていない。
明日は行けると思う。
そう答えたら、愛理の声がキラキラと弾んだ。
ごめん、愛理。
謝罪の言葉は胸にしまった。


5日目。
ギターケースを背負った。
降り注ぐ太陽は、さらに元気を増したようだった。
少し目を離していた間に、また少しだけ季節は進んでいたらしいと知る。
逆に言えば、変わっていたのはそのくらいだった。
踏み出した足も、軽く振ってみた腕も、何も変わらない。
そうか、何も変わらないんだ。
ふと、そんな当たり前が腹に落ちた。

592 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:35:37.18 0


スタジオの前で、一時停止。
桃子は来ないと知っていたものの、愛理に会うのも別の意味で気まずい。
防音室のごついドアノブに手をかけるまでに、数秒を要した。
よし、と気合を入れてドアノブを押そうとした瞬間。

「みやああああっ」
「ぅあっ?!」

どす、と鈍い衝撃が背中に響く。
こんなことをしてくる人間は、一人しか浮かばなかった。
そして、背後から聞こえてきた声は予想通りで。

「みや、おかえり……!」
「……愛理」

ぐりぐりと背中に擦りつけられる愛理の額。
ぐっと抱きつかれているせいで、振り返ることはできなかった。
けれど、愛理がどんな顔をしているかは何となく浮かぶ。

「ごめん、心配かけて」

ようやく形になった言葉は、どこにも引っかかることなくするりとこぼれ落ちた。

「もー、ずっと一人で寂しかったんだからね!」

きゅ、と腰に巻きつく力の強さは、そのまま愛理の気持ちの大きさのようだと思った。
今までの分も込めて、ごめん、と雅は愛理の手を握った。

久しぶりの練習は、言うまでもなくサボっていた分を実感させられる出来になった。
左手の指の皮は柔らかくなり始めていたし、右手の動きもぎこちない。
加えて、一人欠けている状態で、歯痒さを覚える場面も何度かあった。
それでも来て良かった、と雅は思う。
何でもない会話であっても、ここ数日で凝り固まっていた思考を少しほぐしてくれた。
音楽に向き合うことも、気をまぎらわせるのにちょうど良かった。
本当は、こんな風に逃げこむような形で音楽をしたいわけではなかったけれど。
今日くらいは許してほしいと思う。

593 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:36:42.49 0


「ねえ、アイス買ってかない?」

スタジオから出たところで、愛理がいたずらっぽく笑って誘ってきた。
雅もそれに賛成して、寄り道交渉は成立。
コンビニへと歩を進めながら、前に同じ場所を通ったのがもう随分と前のことのようだと思った。
あの日は財布を忘れたんだっけ、というところまで考えて、雅は立ち止まる。
気を抜くと、あっという間に桃子へと傾いていく思考。
もっと言えば、夢だってそうだ。
こんな時だというのに、夢の中の自分はやけに正直で嫌になる。
もう何日も、同じようなことを繰り返していた。

「……みや? 大丈夫?」

はっと我に返ると、眉を下げながらこちらを覗きこむ愛理の顔面が飛びこんできた。
ごめん、大丈夫、と本日何度目か分からない謝罪の言葉。
それを受けてなのかどうかは分からないが、愛理が大げさにため息をつくのが聞こえて。

「ももと、ケンカでもしたの?」
「え?」
「みやと、もも。ケンカしたの?」

思いがけない愛理の言葉。
心のど真ん中を踏み抜かれたような気がして、半歩後ずさる。

「……邪魔になっちゃうから、先にアイス選ぼ」

愛理の手に導かれて、会話はそこで一時中断。
だが、雅の脳は中断するどころか、むしろ忙しく回転していた。

594 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:38:10.43 0

おかげで、どのアイスを選んだのかも自覚していない始末。
気がつけば、大福に包まれたバニラアイスを口にしていた。
その柔らかで白い塊は、甘ったるくて少しだけ持て余す。
でも今は、それがちょうど良いような気もした。
さて、どうやって口火を切ったものか。
甘さを舌に溶かしながらぼんやりと考えを巡らせる。
あんな反応をしてしまった手前、今更ごまかせそうにない。

「ももからさ、夏風邪こじらせたって連絡あったの」

第一声を思い悩んでいた雅を置いて、先に口を開いたのは愛理だった。

「だから、一週間くらい出てこれないって」
「そっか」
「まあ、それはいいんだけど」
「……いいんだ?」

そこが本題じゃないから。
そんなことよりも、と目の前に突き出されるアイスの棒。

「もも、やけにみやのこと気にしてたから。何かあったのかなあって」
「気にしてたって?」
「みやが練習来てるか聞いたりとかさ」
「ああ……なるほどね」

顔を合わせるのが気まずいから雅の出方を伺っていたのだろう。
電話をかける桃子の表情までもが、容易に想像がついた。
愛理も、同じことを思ったらしい。
そして、それらの行動からケンカが原因なのではないかという結論に達したと。

「で、本当は何があったの?」

視界のど真ん中で木の棒がゆらゆらと揺れる。
だが、催促されたところで何をどう説明すべきか。
あの日に起こったこと、そして今の二人の状態。
それらに、どんな言葉を当てはめれば正解なのだろう。

「ケンカ、かなあ」

思い悩んで、そんな言葉がぽろりと口から出た。

「ケンカじゃないの?」
「ケンカかっていうと微妙だけど……距離置いてんのは本当」
「そう、なんだ」

595 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:39:13.75 0

今の状況を説明するには、あの日のことを愛理に全て話さなければならない。
けれど、桃子の知らないところで本当のことを暴露するのはさすがにまずい。
かといって、愛理を全く蚊帳の外に追い出してしまうのもきっと違うのだけれど。

「まあその……いろいろ、あった」

結局、"いろいろ"という言葉にあれやこれやを詰め込んだ。

「二人の問題って感じ?」
「そんなとこ、かな」

そっか、とつぶやいて、愛理はそれ以上の詳細を聞くのは諦めたようだった。
その横顔が少しだけ寂しそうに見えて、心がひりりとした。
しばらくの沈黙をおいて、愛理の両目がこちらを映す。

「ももと……仲直り、できそう?」

詳しくは聞かないけれど、そこは聞いておきたい、といったところだろうか。
愛理の問いを受けて、雅は考え込む。
壊れてしまったものを直すのは、単に作り出すよりも難しいように思えた。
それが、人間関係となればなおさら。
ずきりと頭の奥が痛んで、雅はかすかに顔をしかめた。

「さあ、どうだろ」

できるともできないとも言えず、返事は曖昧な響きになった。
この先、どういう道を選べば正解なのか。
獣道さえ存在しないような森を前に、立ち止まっているような感覚に陥る。

「……じゃあ、みやは?」
「え?」
「みやは、仲直りしたい?」
「そりゃ、まあ」

"したい"以外の答えは想像できなかった。
けれど、仲直りは片方だけが望んでできることでもない。
そう思うと、急に足が鉛にでも変わったようで、雅は思わず俯いた。

「でも、ももがどうしたいか分かんないから——」
「あのね」

愛理には珍しい、遮るような話し方。
面食らって顔を上げると、いつになく強い視線がこちらに向けられていた。

596 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:39:32.20 0

「あたし、思うんだけど……ももがどうしたいかと、みやがどうしたいかは別じゃない?」

——で、どうなの?
もう一度、確かめるようにぶつけられる質問に気圧される。
ぎゅ、と喉に閉塞感を覚えた。
答えなんて、一つしかないに決まっている。

「そんなの……そんなの、したいに決まってんじゃんか……っ!」

半ば叫ぶように吐き出した思いは、胸につっかえていた何かだったのかもしれない。
嫌いになんて、なるはずがない。
なりたくもなければ、なれるはずもなかった。
ばちん、と音を立てて、感情を締め付けていたものが弾け飛ぶ。

「だっ、て、もう……分かんない、んだよ……!」

また前みたいに会話をしたいし、一緒に音楽をやりたい。
一緒に行きたい場所だってたくさんある。
それが高望みだと言うならば、せめて笑顔で挨拶を交わせるだけでいい。
どうすればいい?
どうすれば、あの日常を取り戻せる?
一人きりで布団に潜りながら、それだけをずっと考えていた。
ぎゅっと目を瞑ると、溢れたしずくが頬を伝う。

「みや、ごめん。ちょっと言い過ぎた」

慌てたように言いながら、愛理の手のひらが背中に添えられるのを感じた。
閉じ込めていたはずの感情が、後から後から込み上げた。
そうなってしまったら、それらが溢れ切ってしまうのを待つほかない。
しばらく愛理に撫でられていると、頭が少しずつはっきりしてきたようだった。
ここ数日で一番と言っても良いくらいに、視界に飛び込む景色が色鮮やかに見えた。
真っ青な空や風に吹かれて揺れる葉の緑は、まだ夏の存在を十分に主張していたのだと今更気がついた。

597 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:40:25.17 0

公園寄って行こうか、という愛理の提案をありがたく受ける。
道中に自販機で購入したスポーツドリンクは、腫れた目に当てると心地が良かった。
大きく張り出した木の下に、ぽっかりと一つ空いていたベンチ。
そこに腰かけると、ようやく少しだけ思考の波が緩やかになったのを感じた。

「……落ち着いた?」
「ん。ごめん、いきなり」

愛理も驚いただろうけれど、雅自身も驚いていた。
あんな風に人前で泣くなんて、何年ぶりだろう。

「あー、かっこ悪いとこ見せちゃった」
「まあ、ちょっとびっくりはしたけど……かっこ悪くはなかったよ」

きっぱりと言い切る愛理に、頬へ熱が集まる。
そういうことを、照れもせず言い切ってしまうなんて。
雅の様子を知ってか知らずか、愛理は更に言葉を継いだ。

「泣くくらいには、気にしてるんだなーって思った」

それって本気だってことでしょ?
まっすぐな言葉。目から鱗が落ちるとはこのことだと思う。
そんな風に考えたことはなかったけれど、本気なのは事実だ。

——そうか、うち、本気になってたんだ。

自覚しないうちに、いつの間にかこんなにも桃子の存在が大きくなっていたなんて。
知っているつもりではあったけれど、改めてその大きさを突きつけられたようだった。

598 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/02(木) 00:40:35.57 0

「ももだって、そうなんじゃないかなあ……きっと」
「そうかな」
「うん。二人を見てたら分かる」

迷いのない愛理の言葉に、胸につかえていたものがするりと流れて消えていく。
やっぱり今日は、外へ出て正解だった。
愛理と話ができて——結局相談したような形になってしまったけれど——よかった。
一言で言い尽くせるようなものではないけれど、少しでも伝わりますように。
精一杯の思いを込めて、感謝を述べる。
それを受け止めて、愛理が柔らかく微笑むのが見えた。

「……ももってさ、頭良いから"風邪"こじらせちゃったのかなあ」

良い雰囲気だったはずが、唐突に愛理がそんなことを言い出して空気の色がガラリと変わる。
確かに、桃子は夏風邪をこじらせていることになっているはずではあるけれど。

「は? 何、いきなり」

愛理の思考の流れがつかめず、聞き返す言葉は少しぞんざいになった。
まあ聞いてよ、と愛理がにやりと表情を崩す。

「だってさ、バカは風邪ひかないっていうじゃない? その逆かなあって」
「いや、だってとか言われてもわけ分かんないし……」

わけが分からないけれど、なんとなく納得してしまったのはなぜだろう。
頭が良いから風邪をこじらせる。
あながち間違っていないのかもしれない。

「ももの"風邪"も早く治ると良いなあって、思っただけ」
「ま、ね」

そのために、自分ができることは何だろう。
持っていたスポーツドリンクを喉に流し込みながら、雅はそう自問した。

691 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/03(金) 13:44:05.49 0

*  *  *

——風邪、治ってんじゃん!

見覚えのあるシルエットを遠目に見つけて、雅は内心そう叫んでいた。
時間を潰すために立ち寄った、お決まりのハンバーガー屋。
何をするでもなくぼんやりと眺めていた店内の人々の中に、その人影はいた。
風邪が仮病であることは想定内だったものの、こんなにもあっさり出くわすことは想定外。
特徴的なひょこひょことした歩き方で、桃子はどこかへと急いでいるようだった。
慌てて追いかけようと立ち上がりかけて、突如膝に加わる鈍い衝撃。

「いったっ」

じわじわと広がってくる痛みからして、ちょうど膝の骨あたりを強打したらしい。
その痛みに気を取られていたせいで、はっと気がついた時にはもう桃子の姿は消え失せていた。
決して足が速いわけではないくせに、どうしてこうも視界から消えるのが上手いのか。

「あーもうっ」

後を追うことを諦めて、雅は再び椅子に腰かけた。
今から飛び出て行って闇雲に探したところで、見つかる保証はない。
それよりは、桃子が向かいそうなところを想像してみる方が得策だと思った。
推理は得意ではないけれど、ここは少し頭を働かせてみよう。
こめかみに手をあてて、先ほど目に入った桃子の様子を思い起こす。
服装は普通だったけれど、いつもよりは大きめのカバンだったはず。
そして、以前ここで桃子に出くわした時は、確か。

「——塾?」

塾の帰りに小腹が空いたから、なんて台詞がおぼろげに浮かぶ。
その後に続く諸々の記憶も芋づる式に蘇ってきそうになって、違う違うと頭を振った。
夏期講習の合間の昼休憩なら、この時間帯にうろついていても不思議ではない。
そう思い至って、雅は即座に携帯電話を手に取った。
今こそ、文明の利器を活用する時。
そして、この辺の塾でヒットしたのは1件のみ。

「ビンゴ!」

狙い通りの結果に、思わずガッツポーズ。
そうと決まれば、じっとなんてしていられない。
逸る気持ちのままに、雅はカバンを掴んで飛び出した。

692 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/03(金) 13:44:45.64 0


ハンバーガー屋から塾までは、徒歩で5分程度。
白一色に塗り固められた建物は、無機質な冷たさを感じさせる。
そっと外から覗いてみたものの、ガラス戸の向こうをはっきりと捉えることは難しい。
不意に、ガラスに映る自分の格好が目についた。
およそ塾にそぐうものとは言い難い自分の姿に、不意にひどく場違いな心地がした。
そもそも、いつ授業が終わるかも分からない状態で、ずっと外で待つ?
でも、ここまで来て引き返すの?
雅の脳内で、一瞬だけ話し合いが行われて。

「……よし」

引き返すという案は速攻却下。
ひとまず、桃子の授業がいつ終わるかを探ろう。
その後で、これからのことを考えても遅くはない。
そう結論づけて、雅はぬるく温まったガラス戸を押し開けた。

室内の雰囲気は雅が想像したよりも明るく、清潔感があった。
受付にいる女性の視線が、ちらりと雅に投げかけられる。
それに体の芯が縮こまるような気がしたが、構わず雅は彼女へと近づいた。

「あ、あの」
「どうされましたか?」
「えーっと……授業の終わる時間が、知りたいんですけど」
「こちらの生徒さんですか?」

痛いところを突かれて、ぎくりと体が強張った。
心なしか、女性の視線が厳しくなったようにも見える。
いやいや、ここで退くわけにはいかない。

「い、妹が、ここに通ってて。待ち合わせの予定なんですけど、終わる時間が、分かんなくて」

教えてもらえませんか?と、眉根を下げて渾身のアピール。
非常に困っているのだと目線で訴えかけると、受付の女性の雰囲気が少し和らいだような気がした。
彼女の細い指先が、そばにあった紙を一枚つまんで差し出してくる。
受け取ったそれには、いくつかの表が印字されていた。

「こちらが時間割です。見方は大丈夫そうですか?」
「えっと、はい! あの、ダイジョウブ、です」

これ以上はぼろが出そうだ、と頭の中で警笛が鳴っている。
ありがとございました、と頭を下げて半ば無理矢理に会話を打ち切り、雅は再び建物の外へ。
はあ、と息を吐き出すと、ふっと腰から下が抜けそうになった。
我ながら名演技だったんじゃない?なんて自惚れるのは後回し。
もらった紙に改めて目を通して、時間を確かめる。
どうやらコースによって終了時刻が異なるらしいが、それも1時間程度の差。
これなら待てると判断し、雅は道路を挟んで塾の向かい側に陣取った。

693 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/03(金) 13:45:45.15 0


照りつける太陽にさらされて、焼けたアスファルトからじんわりと熱が上ってくる。
日陰にいても横から下から肌に伝わる、間接的な暑さ。

「あっつ」

携帯電話をいじってみたり、道行く人を眺めたり、たまに通る猫を少しだけ追いかけてみたり。
そんなことをしながら待つこと数時間。
にわかに空気がざわつき始めて、雅は塾へと意識を戻した。
入り口からどっと流れ出る人、人、人。
それらの顔一つ一つに、雅は素早く視線を走らせた。
最初の波には、桃子の姿は伺えない。
次の波だろうかと期待してみたが、その中にも桃子はいなかった。
次も、その次にも。
やがて、周囲の空気はすっかり静まり返ってしまった。
塾の窓へと目をやるも、明かりのついているもの数える程度。
それもそのはずで、既にどのコースの授業も終わっているはずだった。
そこで、とある疑問が雅の中で首をもたげた。
この塾は、本当に桃子が通っている場所なのだろうか、と。
以前、塾と自宅が近いなんてことを桃子から聞いたのではなかったか。
だとしたら、桃子の通う塾が目の前の建物でないことは明白だった。
まさか、ここ数時間の張り込みは無駄だったのか——。
徒労感に襲われて脱力しそうになったところで、ガラス戸の向こうから現れる一つの影。

「あ……!」

雅には目もくれず、すたすたと歩いていく後ろ姿。
カバンも服装も、今日見かけたものと同じ。間違いない、桃子だ。

「もも……っ」

名を呼びながら、駆け足で距離を詰める。
声が届いたのか、足音が響いたのか。
何気なく、といった風に振り返った桃子の顔色が、さっと変わったのが分かった。
次の瞬間、桃子の選んだ行動は駆け出す、だった。

「ちょっ、はあ?!」

絶対こっちに気づいたくせに。
目だってばっちりあったくせに。
ドタバタと無駄の多い動作で、一生懸命に走る背中が遠くなる。
そのフォームにしみじみと可愛さを覚えてしまったのは、もう末期だと思う。

「――じゃなくてっ!」

勝手に暴走を始めそうになった煩悩には、乱暴に蓋をする。
今度はもう、逃さない。
前を行く桃子に狙いを定め、雅は一層強く地面を蹴った。

192 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/07(火) 02:36:26.91 0

「待てってば!」

だんだんと詰まる距離はあと数メートル。
もう少し、と思った途端、視界から桃子が消えた。

「なっ……!」

慌てて足の回転を止め、つんのめるような形で急停止。
踵にぐっと力を入れて向きを変えると、勢い余って通り過ぎたらしい路地裏の入り口があった。
ここに違いないと踏んでそこへ足を踏み入れると、少し遠くに桃子の姿。
さらに細い道へと曲がっていく背中を追って、雅も同じ道へと足を踏み入れる。
そんな追いかけっこ——もしくは鬼ごっこ——をどのくらい続けただろうか。
不意に視界が開けて、大きな通りにぶつかった。
急に増えた交通量に、桃子の足が鈍ったのも一瞬。
さらにその先にある公園へと進む桃子を追って、迷わず雅も公園へと飛び込んだ。
子どもたちが遊ぶには少し遅い時間帯もあってか、ひと気のない公園の見通しはばっちりだった。
ここならあるいはと思った瞬間、桃子の体が大きく揺らぐのが見えた。
足を滑らせたのか、あるいは何かにつまづいたのか。
目の前で展開された一部始終は、ずる、べしゃ、といった擬音語がぴったり。
高校生にもなって、そんなダサいこけ方しなくても。

「いっ……たぁ……」

こけたショックか、はたまた本気で痛いのか。きっと両方の原因によって、桃子はしばらく動かないままだった。

「……大丈夫?」

おずおずと桃子のそばへ近寄り、そっと背中にタッチする。
鬼ごっこはこれでおしまい。

「みやが……追いかけるから」
「逃げたのはそっちじゃん」

桃子から漏れる言葉にならない声は、大層不満げだった。
さすがにこのまま話を切り出すのは酷だろうか。
ちょっとだけ躊躇って、桃子に手を差し伸べる。
起きるのを手伝うだけ、それ以上の意味はない。
そう思っていても、久しぶりに触れた柔らかさを意識せずにはいられなかった。
むくむくと湧いてくる感情をぐっと抑えて、雅は口を開く。

193 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/07(火) 02:37:28.41 0

「うち、ももに話があるんだけど」
「ももはないんだけど」
「うちが、あるの」

ぱさぱさと砂を払っていた桃子の手が、ふっと停止する。
聞いてよ、と念押しのように言うと、桃子の両手が両耳へと添えられるのが見えた。
それは、どこからどう見ても"聞きたくない"というポーズ。
対話を申し込んだはずなのに、桃子の態度は正反対で雅は面食らう。
どろりとした別の感情が腹の底から湧いてくるのを感じて、雅の表情は自然と厳しくなった。

「いや、話あるって言ってんじゃん?」
「……やだ」
「は?」

両耳を塞いだまま、斜め下へと気まずそうに逃げていく桃子の視線。
まだ逃げる気なのだと理解した瞬間、爆発的な熱が体中に充満する。
思うより早く雅の両手は桃子へと伸び、ほっそりとした手首を掴んでいた。

「やっ! は、はなしっ、てっ」
「離さない」
「やめっ、やめてよ!」
「やめない」

いずれにも否定形で返事をすると、信じられないと言うように桃子の表情が歪んだ。
その様子を真正面から受け止めて、雅はぐっと唾を飲みこむ。
ついカッとなって言葉よりも行動が先走ってしまったけれど、本当はこんな風に向き合いたわけではなかった。

「……なんでうちの写真持ってたの?」
「言いたく、ない」
「教えてよ」
「やだ」

頑なな態度に、冷めかけた頭に再び血が上りそうになる。
違うのだ、と叫びたかった。
まるで喧嘩をするような空気で、確かめたいわけではないのに。

「あのさあ——」
「もう、いいじゃん……なんでそんなこと聞くの?」

桃子の本音に触れようとしたはずが、口から出た音は半ば責め立てるようなものになった。
それを遮った音は何もかもを諦めたように冷めていて、雅はどきりと動きを止める。

「もものこと嫌いになったでしょ? 今更そんなこと聞いて何になんの?」

地面に吐き捨てられる言葉の冷たさに、体を巡っていた熱が一気に消え失せたようだった。
ふっと手の力を緩めると、桃子の腕がずるんと重力に従って滑り落ちる。

194 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/07(火) 02:37:41.02 0

「……違う」
「違わないでしょ」
「違うって!」

そうではないと伝えようとして、ついつい怒鳴るような形になった。
それに、桃子の体が小さく震えるのを見た気がして。

「ごめ、その、違うから」
「何が?」

黒目だけがくるりと移動して雅を映す。
改めて対峙した桃子の瞳に色はなく、雅の中にじりじりとした感情が芽生えた。

「だから……嫌いになったっていうのが」

言葉の真意を測りかねているのだろうか、きょろりと桃子の視線が行って、帰ってくる。
かと思えば、もう一度明後日の方向へと移動して。

「……どういう、こと?」
「そのまんまの、意味」

桃子の臆病な右足が、半歩後ろに下がったのが見えた。
まだ、これではダメだ。伝わっていない。
じれったさに歯噛みしながら、桃子の手を取った。
振り払われることも、抵抗されることもなく、桃子の手はすんなりと雅の手の中に収まる。

「嫌いになんて、なんないし」

きゅ、と包めば、簡単に覆えてしまうほど小さな手。
ふと、不自然にギザギザした桃子の親指の爪が気になった。

「むしろ……その逆っていうか」

雅の言葉に、硬直する桃子の指先。
それをゆるゆるとほぐしながら、親指の爪をなぞる。
思わず引っ込められそうになったのを引き止めた。

「だから、うち、ずっと……その、なんていうか」

言うべきことは浮かんでいて、はっきりとした形で頭の中にある。
喉の奥まで上がってきているのに、それを音にするのはひどく難しいことだった。
たった二文字が、こんなにも遠いなんて。
あー、とか、うー、とか、意味のないことばかりが音になる。
耳の奥がドクドクとうるさくて、頬もきっと赤くなっているだろうと思った。
日が暮れかけていたのは、ある意味幸いだったかもしれない。
だから、その、ともう一度無意味な声を発した後で、雅は大きく息を吐いた。

「——好きだって、言ってんの」

272 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/08(水) 05:02:31.90 0

言った。
言ってしまった。
ほとんど勢いに任せたような言葉。
もっと他にやりようがあったのではないか、なんて考えてみても、もう遅い。
繋がったままの手を少し強めに握ると、びくりと固まる桃子の体。
ざあ、と吹き抜ける風に揺さぶられ、ざわざわと葉擦れの音がした。
世界はこんなにもうるさいのに、二人の間に横たわるのは重たい静寂。
そこで初めて、告白とは伝えて終わりではないのだと知った。

忘れて?
——違う、忘れてほしくない。

冗談だから?
——違う、冗談なんかじゃない。

どれも、しっくりとこない。
静寂に耐えかねて漏れ出た息が、声帯の隙間をすり抜ける。
けれど、それらはただの音にしかならず、何の助けにもならなかった。

「……本気、だから」

ようやくそれだけ絞り出すと、酸素を求めて肺が引きつる。
ぎゅっと目を閉じると、世界はゆっくりと回転した。

「ほん、き」

初めて聞いた単語のように、桃子がそれをくり返すのが聞こえる。
おもむろに瞼を押し上げて、雅は桃子を瞳に映した。
そうだよ、という思いを込めて、頷いたのは伝わっただろうか。

「好きって、その……あの?」
「そう、あの」

視線と視線が交わって、かと思えばすぐに逸らされる。
瞼が小刻みに揺れて、桃子の唇が何かを言おうと震えるのが見えて。

「……みやの気持ちは、分かった」

——でも、ごめん。

一瞬、耳を疑った。
けれど、ごめん、ともう一度だけ聞こえて、今度は疑いようがなかった。
徐々に染みわたっていくその意味に、体中から血の気が引いていく。

273 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/08(水) 05:02:57.58 0

「……もも、女の子だよ?」
「知ってる」
「みやも女の子」
「知ってる、ってば」

つんと伸ばされた人差し指は、雅と桃子の間を行ったり来たり。

「どういうことか、分かってる?」
「分かってるよ」

揺れていた桃子の瞳は、いつの間にかまっすぐと雅に向けられていた。
それと同じだけの強さで、雅も桃子を見つめ返す。
そんなの、分かってる。当たり前じゃん。

「結婚とか、できないんだよ?」
「うん」
「子どもだって」

それのどこが問題なのだろう、と思った。
好きだという感情の前では、それらは全て瑣末なことではないのか。
けれど、桃子はそうではないと大きく首を振った。

「それは、みやが考えたことないからだよ」
「は?」
「……好きだけじゃ、どうしようもないこともあるの」

いくつか段階をすっ飛ばした桃子の言葉に、雅は完全に置いて行かれる。
好きだけではダメだというならば、他に何が必要なのか。

「みやは、なーんにも分かってない」

ダメ押しのようにぶつけられた言葉は、驚くほどに冷たかった。
その冷たさに戸惑って、続いてこみ上がってくるのは苛立ち。
何もかも分かっているというような態度も、言葉も、気に入らない。
頬の筋肉が痙攣して、どんな顔をして良いか分からない。
惑う心のままに発した音は、鋭く尖ったものになった。

「知ったような顔、してんなよ……っ!」

突如、掴んでいた指先が、乱暴に振り払われる。
ぎ、と嫌な感触があり、手の甲に閃くような熱さが走った。

「つぅ、っ」
「あ、ごめ」

桃子が自身の親指を抱えるのが見えて、それに引っ掻かれたのだと理解した。
速まっていた心臓に合わせ、どくどくとした痛みが伝わってくる。
不意に、何かが鼻先に当たって跳ねるのを感じた。
顔を上げると、日も暮れて紺色に覆われた空を埋め尽くす、分厚い雲が目に入る。
そんなことを思った途端、いくつもの大粒の雫が二人に降り注いだ。

274 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/08(水) 05:03:15.81 0

「え、ちょっ」

それはにわかに勢いを増して、あっという間に二人の全身を濡らした。
雨宿りをしようとして桃子の手を引いたのは、ほとんど無意識。
二人で近くの木の陰へと退避した後で、不意につながった先の体温に気がついた。

「——じゃ、みやを——せにしてあげら——ない」

桃子が何かを発したようだったが、雨粒が葉っぱに打ち付ける音が邪魔をする。
聞き返すために桃子の横顔を伺おうとした先で、桃子の視線と出くわした。
見つめ合う形になったのは、1秒に満たない程度の時間。
ふっと、桃子が微笑んだように見えたのは気のせいだったのだろうか。

「これ、使って」

桃子は鞄から何やら取り出して、いきなり雅の手に押し付ける。

「は? え、これ」

白っぽい小ぶりな折り畳み傘。
押し付けられたそれに視線が奪われた一瞬の間に、ぱしゃんと水が跳ねる音が聞こえた。
雅が急いで目をやった時には、もう遅い。
滝のようになっている中へとまぎれて消えていく小柄な後ろ姿。

「……うちが使ったら、ももが使えないじゃん」

桃子はどういう心境で、この折り畳み傘を渡してきたのだろう。
それを優しさと捉えていいのかどうかさえ、今の雅には判断がつかなかった。
ただ一つ言えるのは、こんな雨の中で、傘もなしに走って帰る行為が大馬鹿だということだった。

貸してもらった傘はなぜだか差すことができなくて、濡れ鼠になって帰宅したら母親に驚かれた。
傘が壊れたのだと適当な言い訳を並べる一方で、頭は桃子が無事に帰宅したのかどうかだけを気にしていた。
通り雨だったせいもあって、雅が家につく頃には雨は止んでいた。桃子は、どうだっただろう。
濡れて色が変わっていく背中が、はっきりと頭に刻み込まれていた。
風邪をひくとまずいからと、すぐに風呂場に突っ込まれる。
熱いシャワーを頭から浴びると、何かがせり上がってくるのが分かった。

「ばか、やろー……」

もやもやとした感情は、不恰好なままでこぼれ落ちる。
一度そうなってしまえば、抑えることなどできはしなかった。

「もものっ! ばかやろーっ!」

どうせ誰かに聞かれてなどいない、見られてもいない。
後頭部に衝突する水滴に身を任せて、雅は思い切り叫んだ。

473 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/10(金) 12:50:42.45 0

目の前には山盛りのポテト。
Lサイズのオレンジジュースと、ソフトクリーム。
そして、やれやれといった表情の千奈美。

「よく食べるね」
「……自分でもちょっとやりすぎたなって思ってる」

半分くらい勢いに任せて注文したは良いが、改めて並べてみるとかなりの量だった。
千奈美に手伝ってもらったとしても、食べきれるかどうか。

「まー食べるけどさ」

千奈美の細長い指が、二本まとめてフライドポテトをつまんだ。
それを眺めながら、雅は持っていたソフトクリームを掬う。
まだ、冷たくて甘いものの方が喉を通りやすそうだった。

「で? なんか用?」
「そうなる?」
「いやいや、呼び出したのみやじゃん」
「ま、ね」

舌の上で甘さを転がしながら、ぼんやりと返事をする。
一世一代の告白をあっさりと断られたのが昨日のこと。
ぐるぐると体に渦巻く感情は、シャワー程度では洗い流せるはずもない。
ただ、それをどう言語化して良いかも分からないまま、一晩を過ごしてしまった。
おかげで寝不足だ、ふわあ、とあくびを一つ。
それが目に入ったのか、千奈美がふっと苦笑を漏らす。

「なんかありましたーって感じ?」
「そう見える?」
「わりとね」

妙に問いただすこともなく、いつも通りの空気でいてくれることにほっとした。
そんな千奈美の距離感に、今までも何度か救われてきたな、なんてことを不意に思う。

「あのさ」
「うん?」

だから、とりあえず思うがままに話してみることにした。
まだ整理できていなくて、多少ぐちゃぐちゃだったとしても。

「好きな人ができたって言ったら、どう思う?」
「え、マジ?」
「ん、マジ」

へえ、と千奈美がこぼす。
もう一本、とポテトが口に運ばれて。

「どんな人? イケメン?」

千奈美にとっては、きっと何気ない問いだった。
けれど、雅にとってそれは斜め上からの変化球。

「……そうなるか、フツーは」
「ん?」

474 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/10(金) 12:51:23.68 0

頭に浮かんだ言葉を、思わずそのまま口にしていた。
聞き返す千奈美には何でもないと手を振って、雅はよいしょと座り直す。

「写真とかは? 見せてよ」
「あー、ない」
「え、ないの?」

言われて初めて、桃子の写真は一枚も持っていないということに気がついた。

「みやのことだから、ツーショとかめっちゃ撮ってるかと思ってた」
「全然ない」
「……マジ?」
「うん」

一枚ぐらい撮っておけばよかったという後悔がちらりとよぎった
もしかしたら、もう一枚も撮れないかもしれない。
そう思うと、ひどく惜しい気持ちに襲われた。
ああ、欲しくなるんだ、写真って。
今更ながら、桃子の気持ちが理解できたような気がした。
もう遅いのかもしれない、とも。

「え、まって。……つきあってんだよ、ね?」
「昨日振られた」
「はぁ?!」

あまりにも大げさな驚き方をするものだから、ついつい笑ってしまった。
笑い事じゃなくない?!と千奈美からは返ってきたけれど。

「めっずらし。みやから言ったの?」
「そ。で、振られた」
「それが昨日?」
「昨日」
「……ちょータイムリーだね」
「でしょ?」

思えば、中学時代は全部、向こうから言い寄ってきたのを受け入れただけだった。
一緒にいる時間が長くなれば、少しは恋らしい感情も芽生えるかもしれないと期待していた。
けれど、結局それらは友情以上には育たなかった。

「みやに好きな人いるとか、全然気づかなかった」
「そう? 千奈美は気づいてるかと思ってた」
「は? ……え?」

まさか、と千奈美の顔色が変わったのを感じて。

「えっと……聞いてもいい?」
「ん」
「それって、その……嗣永さん?」

ぱちりと視線がかち合って、心臓が大きく一つ脈を打つ。
肯定してしまうのは簡単だったけれど、不意に喉に渇きを覚えてオレンジジュースに口をつける。
きゅっと詰まりそうになった液体を半ば無理矢理に飲み込んで、雅はそっと頷いた。

「そう、だよ」

475 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/10(金) 12:52:15.68 0

次に出てくる千奈美の言葉を、確かめるのが怖い。
徐々に広がる指先の冷たさを誤魔化すように、太ももの下に敷いた。
頬杖をついて千奈美の視線が、ゆらりと横へと移動する。

「——の、バカ」
「え?」

眉間に軽く皺を寄せた千奈美の言葉は、誰に向けられたものだったのだろう。

「いや。みやの告白、断るとかバカだなあって思って」

それを聞いて、千奈美は相手が誰かを察した上で、その事実自体は受け入れてくれたのだと解釈した。
モヤモヤしている気分が晴れることはなかったが、それだけで多少は胸が軽くなる。

「ま、断られたのは事実だからさ」
「だって! 向こうはみやのこと、好きっぽい感じじゃなかったの?」
「それは——」

その答えは、正直なところ"分からない"。
振られたのだから好きではないのかもしれないが、雅はどうしてもそうは思えなかった。
嫌われていたとしたら。
例えば、"みや"なんて呼んでくれないだろう。
昼休憩を一緒に過ごしたりもしなければ、きっと歌ってほしいとも言わない。
二人きりのお出かけに誘っただけで、あんな風に喜んでくれることもない。
バンドだって、断る道もあったはず。
そして——あんな風に写真を集めたりもしない。

「……好かれてる、とは思う」

だから、余計に断られたことが理解できなかった。
問題は、その理由が納得しがたいものだということ。
なぜ納得できないのかと言われると、言葉に窮してしまうけれど。

「嗣永さんは、なんて?」

女の子同士だし、とか。
結婚できないから、とか。
子どもも作れないんだよ、とか。
好きだけじゃどうしようもないこともある、とか。
昨晩、布団の中で幾度となく反芻した桃子の言葉をそのまま告げる。
それらを聞きながら、千奈美の眉間の皺がさらに深くなるのを見た。

「それ、マジで言われたの?」

雅が首肯すると、深いため息が聞こえてくる。
両手で顔を覆い、千奈美はそのまま天井を仰いだ。

476 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/10(金) 12:52:49.59 0

「そっかー……それで振られたってわけ?」

こくりと頷くと、千奈美は再び大きな息を吐いた。

「でも、なんかムカついてんの」
「まあ、間違ってない」
「分かる?」
「なんとなくね」

それでやけ食いかあ、と千奈美の中では出来事同士がつながったらしい。
だから付き合ってよと促すと、ポテトが再び千奈美の口の中へ消えていく。
雅もそれに倣ってポテトをつまんでみたが、口に広がる油の匂いは望んでいたものではなく、すぐにジュースを口に含むことになった。

「みやは? 結婚とか、子どもとか」
「あんま、想像できない」
「だよねえ」

だんだんと落ち着いてきた空気の中で、千奈美からぽつりと投げかけられる問い。
それについては、昨日の晩に何度も考えてみた。
けれど、それらはどれも自分から程遠い場所にあって、具体的なイメージにはなり得なかった。

「まださ、結婚するとか子ども作るとか遠くない?」

分かる、と人差し指の代わりにポテトが突き出される。
あーでもさ、という言葉と共に、差し出されたポテトは千奈美の口へ。

「そんなとこまで想像してたってこと?」

それは今まで考えもしなかった方向性で、けれど一定の説得力があった。
そうなるのか、と虚を突かれたような気がした。
考えてくれたのだろうか。そんなところまで?
想像すら及ばない遠い未来まで、一緒にいることを。

「……なんかちょっと今、すっきりしたかも」
「そう?」

好きだけじゃどうしようもないこと。
社会的な制度やら、世間的な視線やら。
雅には難しくてよく分からないが、なまじ頭の良い桃子のことだ、そんなことも全て見えてしまったのかもしれない。

477 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/02/10(金) 12:53:18.84 0

「好きだけじゃ、どうしようもない、ね」

そう考えたところで、桃子が挙げた理由を飲み込めたわけではないけれど。

「まー、大変なことがあるのは本当じゃない?」
「それって別に、誰でもそうじゃない?」
「あは、そーかも」

女の子同士だから、特別に何か辛いことが起こるとは思えなかった。
それが、桃子の言う"何も分かってない"なら、それでもいい。

「つーか、そういうの勝手に決めんなって思わない?」
「思う思う」

千奈美に言いながら、ちょっとだけ自分の気持ちの端っこがつかめたような気がした。
結局のところ、桃子は勝手に雅のことを想像して、勝手に断るという選択肢を取ったにすぎない。

「も……嗣永さんってさあ、ネガティブ入ってそうだよね」
「あー、分かる」
「自分といたら不幸になるみたいなさ」
「あり得る」

俺じゃお前を幸せにできない、なんてドラマで見たようなセリフが浮かぶ。
いかにも、桃子が考えそうなことだ。
雨の中で遠くなっていく背中が脳裏をよぎる。
自分勝手。
わからずや。
おくびょーもの。

「そーゆーの、腹立つ」

続く言葉は、するりと滑らかに形になった。

「だってそんなん、うちが決めることじゃん?」
「言えてる」

それ、言えばいいんじゃないの?
千奈美に言われなくとも、そのつもりだった。
このまま終わるなんて、やっぱり嫌だから。
帰ったらすぐにでもメールを送ろう、と心に決めた。


コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

どなたでも編集できます