雅ちゃんがももちの胸を触るセクハラ - もも色☆ふらっしゅ!(母の日編)
451名無し募集中。。。2018/05/07(月) 00:24:45.360

ゆっくり歩いていても汗ばむような陽気だった。
こめかみに汗が吹き、貼り付いた髪の隙間から一筋流れ落ちてくるのを感じて、みやは目を細めた。
拭いたい。
しかし両手はお買い物の袋で塞がっていた。
ちょっとそのへんに荷物を置いて拭くか、一瞬立ち止まり思案した。
その一時でさらに汗が吹き出す。額がじりじりと灼かれるような感覚に
みやは袋の取っ手を握り直すと足を速めた。伝った汗が顎から落ちていくのがわかった。

みやは夢想した。最高にクールな世界に行きたい。
そこはひんやりと心地いい空間で、さらっさらで、不快なものは何もないのだ。
冷凍庫のアイスは今いくつ入っていただろうか。
エアコンを最強にしよう。それから顔を洗って、さっぱりしたら、アイスを食べればいい。
ナイスアイデア。
小走りになりながら、みやは公園の角を曲がった。あと5分。
ぶら下げている特売のティッシュペーパーががつがつと腿に当たる。
だから、こんなかさばるものは通販で良かったのに。

「え、高過ぎでしょ」と、ももは言った。
「楽じゃん。ポチっとしたら届けてくれるんだし」
「いやいや、ちょっと待って。見てよこのチラシ」
ほれほれと差し出してくるのを、仕方なく手に取った。
「この薬局行ったことない。駅の反対側だし」
「いいから見てよ、今、みやがポチっとしようとしてる5箱組と比べてみなよ」
「まあ……まぁ?200円くらい違うかもしれないけど」
ももはため息をついた。
「みや全然わかってない。そっちプラス送料かかるんだよ」
みやはももの手にチラシを押し付けた。
「みやのお金で買うんだからいいじゃん」
ももはくしゃくしゃになったチラシのシワをていねいに伸ばしながらテーブルに置き、向き直った。
「みやはお金ももちになりたくないの?」
「え?」
「1円を笑う者は1円に泣くって聞いた事ない?」
「なにそれ。ぜんぜん聞いた事ないけど」
「えっと……説明は省くけど、とにかく、こんな高いティッシュをポチっとするのは」
「うるさいなぁ。むすぶちゃんとやなみんがいてくれたら優しく『ポチっとしていいよ』って言ってくれるのに」
「ダメ!みや……悪魔の甘言に惑わされないで」
「あんたも悪魔じゃん!」

ももが強引にノートパソコンの蓋を閉じ、胸に抱えたまま離さないので取っ組み合いになったのだが
目をギュッと閉じてイヤイヤしているももを見ていたらなんだかアホらしくもなり
天気も良いし買い物に出かけても良いかと気持ちを切り替えたのだった。
外がここまで暑いとは思わなかった。

「やれやれ。着いた着いた」
日差しを照り返す家の屋根が見えて、みやは思わず独り言を零した。
息が上がっていた。足下を見ながら一歩一歩進む。
門の前に辿り着き、顔を上げると
玄関を巨大なピンクのクマが塞いでいた。

126名無し募集中。。。2018/05/10(木) 23:07:55.070

そのクマ、巨大なクマのぬいぐるみは、玄関のドアを完全に覆うように立ち塞がっていた。
幻覚か幻だろうか。みやは門を入ったところで立ち尽くしたまま
遠目にそのクマの小粒でつぶらな瞳を見つめた。クマは笑っているように見えた。
3回ゆっくり呼吸する。
その瞳に邪気がないことを確認してから、みやは恐る恐るアプローチを踏み出した。
額の汗はすっかり引き、かわりに手汗がじっとりと滲んでいる。
視線を据えたまま距離を詰めていった。

クマの手はだらりと垂れ下がり、生気はなかったが、とにかく大きい。2メートル以上はありそうだ。
ピンク色の毛足がもふもふしている。
ゆっくりと足を進めたみやは、遂にクマと間近に向かい合うと、両脇にそっと荷物を下ろし
目の前の、ぽってりと張り出したお腹部分にそろそろと手を伸ばした。

「おう、帰ってきてくれてよかったわ」
不意に頭上から声が降ってきて、みやは息を呑むと跳ねるように後ずさった。
見上げると、やっぱりクマは笑っている。
「え、あ、喋るクマなんだ」
思わず呟くと、クマは肩を落とした。
「ぬいぐるみが喋るわけないだろうが。こっち見ろよ」
クマの頭の上で黒いものが動いた。
みやはさらに後ずさり、つま先立つようにその頭上を見た。
「喋るぬいぐるみとか頭の中お花畑かよ」
ポーチの天井からぶら下げているライトと、クマの頭のてっぺんを黒いものが繋いでいる。
みやは両手を頬に当てた。
「いや……あの、ふつー、コウモリもしゃべんないと思う。たぶん」

蝙蝠はふんっと鼻を鳴らした。
よく見れば、ライトに伸ばした片足を絡め、傘のように広げた羽でクマの頭を掴んでぶら下げている。
目が合った。

127名無し募集中。。。2018/05/10(木) 23:10:01.730

「喋るだろ。現に喋ってんだろ。呼び鈴鳴らしても鳴らしても誰も出ねえし
頼まれ物を放置して帰るわけにもいかないし
『そんなに重くないよぉ』とか言われたけどそうは言ってもずっと下げてたらズッシリくるわけよわかる?
筋肉ないんだから勘弁して欲しいわ。
通行人に見咎められて通報でもされたらどうすんだよ」
「……持って帰れば」
そう言うと、蝙蝠のグレーの目がギロリと動いた。
「それと、思ったんだけど、ぬいぐるみが喋る方が夢があっていいと思う」
みやと蝙蝠は少しの間睨み合った。

「夢がなくて悪かったな。このクマはキャッスルから桃子へプレゼントだ」
そう言うと、蝙蝠はクマの頭を蹴るように羽を広げた。
前屈みに倒れてきたクマを、みやは慌てて抱きとめる。
キャッスル。クリスマスに連れて行かれたあの魔窟。みやは城での出来事を思い返すと、ぶるっと肩を震わせた。
「じゃ、渡したからな」
「ちょっと!こんな、魔界からのプレゼントなんか受け取れない」
「あ?……子どもらからだぞ」
ぬいぐるみの柔らかな毛足が、みやの頬を擦った。
ももの子どもたち。元気にしているんだろうか。
「まだ、あのお城にいるんだ」
「クリスマスの詫びにって言ってたかな」
「なんで?あの子たち、ももに何も悪い事してないと思うけど」
「俺に訊くなよ」
天井のライトにぶら下がったまま、蝙蝠は毛繕いを始めた。

みやはクマの首を抱き、引き摺りながら、玄関の鍵を開けた。
「ねー、ちょっと、ドア押さえててくんない?中に入れるから」
片足で扉を押しのけながらみやが言うと、蝙蝠は「はぁ?」と声を上げた。
「ニンゲンにまで使われてたまるか」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「じゃあ礼に何か寄越せ」
「え……っと、ティッシュ一箱なら」
みやは買い物袋を指差した。
「なんだそれ?ガソリンスタンドの景品かよ。しょっぼ!いらね」
悪態をつきながら蝙蝠は羽を伸ばし、開いた扉の端に爪を引っ掛けている。
みやはぬいぐるみの大きな体を玄関内に引き摺り込むと、扉を押さえ、蝙蝠を見上げた。
「ね……言っといてなんだけど、優しい。ありがとう」
「あぁ。そうだな。桃子にも伝えてくれよ。優しいコウモリさんがお手伝いしてくれたって」
「……呼ぼうか?」
「マジ」
みやは買い物袋からティッシュを一箱引き抜いた。
「なんちゃって。うそーん」
玄関の外にひゅっと放ると、大急ぎでドアを閉める。
外からカリカリと引っ掻く音がするのを無視して鍵をかけ
確かめるように貼付けてある銀のフォークを何度か撫でた。
なに?『桃子、桃子』って。
知らず知らず、みやの眉間にはぎゅーっとシワが寄っていた。

255名無し募集中。。。2018/05/13(日) 22:05:53.880

リビングの扉を通すのも一苦労だった。
巨大なピンク色のぬいぐるみは室内を圧倒し、みやは途方に暮れた。
少し考えてから、窓辺に座らせると、床に伸びた脚はまるで抱き枕が2本転がっているようだ。
そこまでやって、みやはやっと室内のエアコンを強にした。
ゴーっと音が立って、大きな仕事を終えたような達成感にみやは額の汗を拭う。
そうだ。顔を洗って、アイスを食べなくちゃ。
振り返ると、リビングの入り口にももが立っていた。
クマさん柄のパジャマ上下を着ている。冬にみやが買ってあげたモカモカパジャマだ。
もう暑いから着なくていいと何度も言っているのに、まだ寒い、まだ寒いからと手放さない。
奇しくも完成したピンクのクマさんコーディネートに、みやの口許はゆるんだ。

「なにそれ……みや、まさかとは思うけど、ティッシュのついでに衝動買いとか」
ももの言葉にみやは慌てて頭を振った。
「ちがうちがう。なんか、帰ってきたらコウモリがうちの前にいて」
「コウモリ……」
「あの、あのお城から運んできたみたいよ。ももにって」
ももは訝しげな顔でこちらを見ていた。
「なんで、そんなもの受け取るの」
「そりゃー、受け取るでしょ。だって、子どもたちからだって」
「え」
「プレゼントだって」

立ち尽くしているももに近づき、その肩を軽くつついてやると、ももの顔が歪んだ。
怒り出しそうな、泣き出しそうな、困ったような顔をして
ももは窓辺にゆっくりと近づくと、クマのぬいぐるみを抱き締めた。
それから、匂いを嗅いだ。
「えっと、子どもたちの匂いでもする?」
「なんか、イイ匂いする」
みやはももを置いて離れると、ソファに座って脚を組んだ。やっと効いていたエアコンの涼しい風に一息つく。
せっかく座らせたクマはももに押し倒され、フローリングに長い手足を投げ出していた。
その上に伸し掛かり、顔を押し付けているももの様子を、みやはしばらく眺めた。

「ね、最近全然遊びに来ないと思ってたけど、子どもたちみんな、まだあのお城にいたんだね」
そう言うと、ももは顔を上げた。
「そう、思ったんだけど、クリスマスの後始末でもさせられてるかもね」
「どういうこと?」
「そりゃ……何て言っても、私を逃がしちゃったんだからさ」
ももは口許を歪めて笑い、体を起こすと、クマの大きな片手を膝に抱いた。

257名無し募集中。。。2018/05/13(日) 22:10:10.210

「軟禁されて、使役でもさせられてるかも」
「それって……ねえ、大丈夫なの?」
肩を強張らせ、乗り出したみやを見て、少し驚いたようにももは瞬いた。
「こんなぬいぐるみとお手紙くれるくらいだから、大丈夫じゃないの」
どこから取り出したのか、ももの手には封筒があった。
「それ、助けてとか、書いてるんじゃない」
「そんなこと言ってくるわけない」
ももはそう言いながら封筒を開くと、色とりどりのカードを取り出した。
一枚一枚に目を通しては、目を細める、ももの口許が微かにほころんでいるのを見て
みやはようやく肩の力を抜いた。
あの子たちなら、どんな境遇であっても楽しくやっているのかもしれないけれど。

「やっぱまだ、よくわかんないな」
「何が?」
「魔界のルールっていうか」
「そんなの私だって知らないよ。お城にいるなら城主が勝手に決めてるだけ」
「リカちゃん?」
みやの言葉に、ももの唇の端がピクっと動いた。
もものこと、めちゃくちゃ可愛がってたらしい。ということしか、みやは知らない。
それ以上訊くなと制された気がして、みやは口を噤んだ。

すっかり午後の日差しになっている。
みやは立ち上がると、アイスを取りにキッチンに向かった。
冷凍庫の引き出しを開けて、箱入りのアイスバーを探る。包みを開けると、みやはバーを抜き出した。
ふと、これって剣みたい、と思い、みやの表情は固まった。
今や、クリスマスのあの出来事が夢のようにも思える。
悪魔退治に出て行ったのはあれが最後だ。

少し時間を置いて考えようと思っているうちに冬は終わり、春も過ぎた。
「別にのんびりするのは構わんっちゃけど、なまくら刀にしたら許さんけんね」
ある時ふらりと訪ねてきたれいなは、そう言い置いていった。
れいなから譲り受けた聖剣は常に懐にある。
思うだけで現れるこの魔法のような剣を、師匠は最初にどうやって手に入れたのか
いくら訊いてもニヤリと笑うだけで教えてくれない。
これがある限り、廃業するつもりなどないけれど。

「で、どうするつもり?」
不意にかけられた声に、みやはアイスを取り落としそうになった。
「いや、あの、悪魔バスターっていっても、いろんなやり方があるんじゃないかって」
「……何の話よ。あのクマ、あのままリビングに置いといていいの?」
「えっあっ、うん。えっと、そう、2階は天井低いし」
慌てて返すと、ももはみやがアイスを持っている手を掴み
あーんと口を開けてバーの先に食らいついた。

260名無し募集中。。。2018/05/13(日) 22:15:29.600

夜から雨になっていた。
ベッドに入ってからも、みやはなかなか寝付けなかった。
ももは横で寝息を立てている。
ただの、人間の女の子のように。
あのとき「このままニンゲンになっちゃいそう」と呟いたそのままに。
ももがこの家に来てから願い続けた日々を、今、手に入れているのかもしれないのに
どうしてか落ち着かない。
そもそも、ミニマムな平和に満足できるような性格なら、悪魔バスターになんてなっちゃいない。
みやはゆっくりと起き上がった。
このままでいいんじゃないか。このままじゃいけないんじゃないか。
堂々巡り。
そっとベッドから滑り降りると、みやは寝室を出た。

階段を降りるうちに、雨音が止んでいるのに気付いた。
随分気温が下がっている。みやはぶるっと体を震わせた。
水を一口、と思ったが、なにか温かいものを入れてもいいかもしれない。
キッチンに繋がるリビングの扉の取っ手に触れたとき
脳裏にれいなの声が蘇った。
『なまくら刀にしたら許さんけんね』
ギュッと心臓が縮み上がった。みやは顔を上げて気配を探る。
信じられない。ここまで何も気付かないなんて。
歯を食いしばり、そのまま大きく扉を押し開いた。

リビングに一歩踏み入れた途端、異様な気配にみやはたじろいだ。
間接照明だけの薄暗い室内、ソファの上の黒いシルエットがこちらを確認したのがわかった。
その周囲に禍々しい気がゆらめいて、みやは頬を引きつらせた。

遭遇してはならないもの。
これまでに対峙したどの悪魔よりきっと手強い、いや、戦うまでもなく
これは既に取り返しのつかない場面で、もう、命を取られているんじゃないかとまで、みやは思った。
そんな筈はない。ゆっくりと息を吸う。
次第に目が慣れてくると、その黒いシルエットは女性の姿を浮かび上がらせた。
座面に置かれた素足。揃えた膝頭が部屋の灯を鈍く反射している。
腰回りはぴったりとした黒いショートパンツで覆われていた。
腰から上は装飾のないビスチェが皮膚の一部のように貼り付き、ボディラインを際立たせている。
肉感的な少女のようにも、無垢な女のようにも見えた。
姿を捉えたことで、ようやくみやは少しだけ落ち着きを取り戻す。
その悪魔は、拗ねた子どものように口許をきゅっと結び、顎を引いてこちらを睨んでいた。

みやは唾をこくんと飲み込んだ。脳裏に閃くものがあった。
「あの……もしかして、リカちゃんですか?」
悪魔は唇を薄く開き、顎を上げた。
「……へぇ、あたしのこと、よくそんな軽々しく呼べたもんねえ」
舌足らずで甲高い声音が、みやの頬を引っ掻いた。

210名無し募集中。。。2018/05/28(月) 01:56:01.520

ソファの背後に、長く伸びたクマのぬいぐるみの足が見えた。
俯せになっているクマの背中は大きく切り裂かれたように口を開けている。
みやはリビングの入り口で動けぬまま、必死に、思い返そうとしていた。

クリスマスにあの城で聞いた話。子どもたちは、何て言っていたっけ。
あの時はよくわからないままどこか聞き流していた、城主のエピソード。
怖がって口々に騒ぐ様は、まるで学校の怪談でも言い合っているような
思い出す度に少し笑ってしまうくらい、微笑ましいものだったのに。
あの子たちがあれほど怯えていたその存在に、今こうして面と向かってしまえば
正直、立っているのがやっとだった。部屋の中で膨れ上がった瘴気に気圧されて、何より心が萎えていくのがわかった。
聞いた話の中に何かヒントはなかっただろうか。
何か、例えばこの悪魔の弱点とか。
唇を噛む。最初から辿ってもそんな話など欠片もなかった。あの時聞いたのは、この悪魔が
ももを恋しがっていたことだけ。

「ももを、連れ戻しに来たんですか」
言葉はつっかえ、声が少し掠れた。みやの台詞を聞いて梨華は片眉を上げた。
「ねぇ、どうして、起きてきちゃったの?」
可愛らしい声に肌を切られたような痛みが走り、みやは思わず二の腕を押さえた。気のせいだ。
みやが俯くと、ソファの軋む小さな音が聞こえた。
「あなたが寝てる間に、桃子の目を覚まして、そぅっと連れ帰ろうと思ってただけなのに」
無邪気で、拗ねたような声音だった。

あの城から帰って以来“リカちゃん”のことは、気になって何度か訊いてみたことがある。ももは頑に口を割らなかった。
「どうしてあのお城はリカちゃんて名前がついてるの?」と訊いたとき
「城主の名前」と返された。みやが知っているのは唯一それだけだ。
小さい女の子が遊ぶお人形の名前。可愛く弾むような響きは、語られた恐ろしい城主とは随分かけ離れているようにも思えた。
みやはそこから何の想像もできなかった。
ももの背後にある魔界について、初めてリアルに意識したのがあの城の存在であり
これからもあの世界が干渉してくるのではないか、時々そんな風にも思ったりしたが
あれきり、まるで人間と化してしまったももとの、ただ平穏な生活が続くうち
いつしか彼女に対する興味も薄れていた。
心の準備など、まるでできていなかった。

211名無し募集中。。。2018/05/28(月) 02:00:23.670

「そんな、勝手に連れてかれたら、困ります」
ようやく言葉にすると、みやは手のひらが熱くなるのを感じた。
来て!今来てくれなきゃ、何の意味もない。萎える心を奮い立たせる。
なまくら刀になんか、してないからね。

みやの右手に握られた聖剣を見て、梨華は興味深げに身を乗り出した。
「あー!それね、知ってる。スタビちゃんご自慢の天使の剣でしょ?ミヤビヒルド」
みやは唇を噛んでいた。
自分からいくら名乗っても誰からも呼ばれなかったスターミヤビちゃん略してスタビちゃんの名を
初めて人から呼ばれた。いや、人じゃなくて悪魔だけど。

「スタビちゃんって呼んでくれてありがとう」
「あらぁ、どういたしまして」
「だけど、私のうちで、勝手はさせないから」
梨華はソファの上に立ち上がった。
「だから、嫌だったのよね。あなたと会うの」
みやは両手で聖剣を握り、構えると、梨華と向かい合うようにソファの対面に回る。
仄暗い闇の中、見下ろしてくる梨華の視線を跳ね返そうと眉間に力を入れた。

「それ、もしかしてあたしを消すつもりとか?」
「このまま、出てってくれるなら何もしない」
「バカじゃないの?」
両手の中で聖剣が突然凄まじい重みを持ち、取り落としそうになったみやは慌ててその柄を握り直した。
咄嗟に目で追った切っ先が震えている。
「第三の天の力を持ってしても、悪魔バスターなんて所詮ニンゲンでしょ」
顔を上げると、梨華は得心したように頷いていた。
「可愛い桃子のペットをどうこうするつもりなんてなかったんだけど」
「それ全然笑えない」
「怖い?」
「ペットじゃないし」
「じゃあ、何だっていうの」
梨華がソファの上から飛び降りると、その振動がみやの足裏に響いた。

落ちた切っ先は床に突き刺さりそうだった。
力を込めても両腕の震えは増すばかりで、みやは思わず目を瞑る。
気配が目の前まで来たら、渾身の力を込めて振り回すしかない。そう、覚悟を決めた。
梨華はそれきり一言も発さなかった。
蠢いていた瘴気はひたりと動きを止め、動かないことで、みやの全身を威圧していた。
強く引っ張られるような重みは床に届く寸前で均衡を保っている。それは両手をただ奪われているだけのようにも思えた。
いつまで、こうしていればいいの。みやの額にうっすらと汗が滲んだ。

212名無し募集中。。。2018/05/28(月) 02:04:43.100

不意にぱちんと音がした。
瞼の裏が明るくなり、はっと目を開けると、刺すような眩しい光にみやは目を細めた。
灯のスイッチに手をやり、入り口に、ももが立っている。
「なんで」という呟きが聞こえた。

握りしめていた聖剣の重みが不意に消え、勢いよく空を切る剣を追うようにみやはよろけた。
「落としちゃ駄目!」
ももの鋭い声に、慌てて体勢を戻すと、みやは恐る恐る剣を構え直し、その先を再び梨華に向ける。
あらためてその姿を見た。蠱惑的なスタイル、整った容貌は、絵に描いたお人形のようだった。
梨華はみやにちらりと視線を向け
それから、ゆっくりとももの方へ向き直った。

「なんでって、迎え入れてくれたのは桃子でしょ」
「そんなことした覚えないですけど」
「この、ピンクのクマさんが、子どもたちからのプレゼントでしかないなんて、まさか本気で思ってた?」
ももは無表情のまま、それでも唇の端がヒクっと動くのが見えた。
「私が、私が家の中に入れちゃったから」
思わずみやが言うと、ももは視線を梨華に据えたまま小さく頭を振った。
「あの子たちからのプレゼントなのは本当だったし」

「ねえ、桃子、あんまり困らせないでよ」
梨華はため息をつき、肩を落とす。
「どっちがですか」
「そっちでしょ?!ニンゲンなんかと一緒に住んで、そんな怠けた子になるなんて」
「そんなつもりはありませんけど」
「例えば、それ、100歩譲ってそのパジャマはいいよ。可愛いし。
けどあたしはね、基本的には悪魔は悪魔としてのスタイリングがあると思うわけ。
見た目じゃない、中身だって言うんだったらそれもわかる。わかるよ。けどね、ねぇ、あたしの言ってることわかる?」
「似合いません?」
「……似合ってる。そうじゃなくて、あーもうっ」
梨華は頬を膨らませ、腰に手を当てた。
「桃子はここで、一体何してるって言うの。何の目的があってここにいるの。これが桃子の手段だって言うの」
「それは」
「こんなこと言いたくないけど、もうちょっとできる子だと思ってた」

その言葉に、ももの顔がぐにゃりと歪んだのが見えた。
次の瞬間、ももが壁際に掛けていたリモコンを片手で引っ掴み、梨華に向かって投げつける。
リモコンは梨華には当たらず、音もなくソファの背もたれにぶつかって落ちた。

213名無し募集中。。。2018/05/28(月) 02:09:38.570

まるで、癇癪を起こした子どものようだった。
みやは呆然と見ているしかなかった。まるで動じていない様子の梨華に向かって
ももは脇のキャビネットの上に置いてあるものを次々と手当たり次第に投げつける。
写真立て、ライト、フェイクグリーン、何一つ当たらない。
ももの手が繊細なガラスの一輪挿しを掴んだ瞬間、それが今にも割れそうで、みやは悲鳴を上げた。
はっとしたももの動きが止まる。
「ね、もも」
思わず言いかけたみやの目の端で、それまで微動だにしなかった梨華が急に動いた。

あまりにも素早く、止める間もなかった。
音もなく近づいた梨華の拳が、片手を振り上げたまま固まっているもものお腹にめり込むと
声も上げず、ももの体はがくんと前屈みに折れた。一瞬のことだった。
崩れ落ちた腰を抱き抱えた梨華の顔は、不機嫌そうに歪められていた。

みやが一歩踏み出すと、梨華がこちらに顔を向けた。
「ね、ちょっと、手伝ってくれる」
「……何、したの」
「もういい。こんなの全然スマートじゃないけど、この子の足持ってよ。ゲートに放り込むから」
梨華は顎をしゃくって、窓際のクマを指し示す。
みやは首を振った。
「できません」
「あたしの言うことがきけないっていうの」
「……気を失ってる間に連れてくなんて、フェアじゃない」

少し間があった。梨華は「あっそ」と呟くと、ももの体を抱いたまま後ずさり、ソファに腰を下ろす。
「じゃあ、桃子の口から『帰る』って言わせればいいわけ?」
梨華は膝の上にあるももの体を仰向けに抱き直すと、片手で頬に触れ、上を向かせた。
親指をももの唇に置くと、撫でるように口を開かせる。
みやは両手を握りしめた。
「……本心から、そう言うなら」
その言葉を聞き、梨華は声を上げて笑った。その笑い声は全身を突き刺し、みやは顔を顰めた。
「本心?ニンゲン風情に、悪魔の本心が読み取れるっていうの」
ぎゅっと指を握り込むと、みやは顔を上げた。
「悪魔の考えてることがわからなくても、もものことなら、わかるし」
「……へぇ」
「絶対、そんなこと言わないから」
睨みつけると、梨華はみやの表情を掬い上げるように視線を合わせ、目を細めて微笑んだ。

246名無し募集中。。。2018/05/28(月) 20:49:33.270

「ねえスタビちゃん、桃子って悪魔なの、知ってた?」
「知ってます」
「ほんとにぃ?」
梨華にそう言われて、みやは言葉に詰まった。
聖剣の柄をずっと握りしめている両手の平は熱を帯びたまま、じっとり汗が滲んでいる。
「……みやが悪魔バスターなのに、もものこと祓わないとか、そういうことなら」
「ううん、そういうことじゃなくて」
梨華は膝の上に横たわるももの、寝癖の跳ねた髪を指先で弄っていた。
「ももが悪魔だから、一緒にいるんだと思う。……たぶん」
梨華は顔を上げた。
「その剣、仕舞えば?どうせ、桃子ごとあたしを斬ったりなんかできないでしょ」
その通りだった。せいぜい防御になるかどうかという程度。攻める、増してや斬りつけるなど
梨華を対面にして、今やできる気はしない。
みやが剣を収め、向かい合うソファに腰掛けると、梨華はももの髪を弄る手を止めた。
「この子は、あたしが拾って育てたの」

それから、みやは少しの間、梨華が語るのをただ黙って聞くことになった。

空を、見上げてたの、この子。巣から落ちた生まれたての雛みたいだった。
天を崇められなかった出来損ない。そのまま放っておけば人間界に留まるだろうところを
あたしは引き摺り下ろした。あんまり白くて美味しそうだったから。
ほんとに、食べちゃおうかっていうくらい、可愛かったんだから。
まあ、それからずいぶん手を焼いたけどね。そもそも服従心がないから堕とされた子だし、そこはしょうがないけど。
礼儀もなにもないんだから。
けど、なんかちゃっかりしてて、自分をアピールするのが上手だったから
夢魔にしてあげることにしたの。
我ながらいい選択だったな。ニンゲンをいっぱい惑わせなさいって言ったら、この子笑った。悪そうな顔してさ。
そしてあたしは全力を尽くして、桃子の、夢魔としての魅力、テクニックをここまで、完っ璧に磨き上げた。
最強の夢魔に仕立てあげたの。

梨華は自分の言葉に酔ったかのように顔を上げ、うっとりと頭を振った。

みやは、ももと初めて会ったときのことを思い出した。
「いや……それほどでもなかったかと」
「ちょっと!言われてんだけど」
梨華はももの耳をつまんで引っ張った。しかし、瞼は固く閉じられたまま、何も反応しない。
みやは心配になって、ももの顔を凝視した。
「生きてますよね」
「あのね、悪魔が悪魔を死なせることなんかないの。ニンゲンみたいに身内殺しなんてしませんからね?」
「そう、そうなんだ」
みやが息をつくと、梨華は口の端を上げて笑った。
「で、ここまで言えばそろそろわかった?あたしには、この子を連れ帰る権利があるの」

249名無し募集中。。。2018/05/28(月) 20:53:50.730

そんな権利、認めるわけにはいかない。
みやは梨華をじっと見据えた。
「……自由意志で帰るなら、それは止められないけど、やっぱり、ももは帰るなんて言わないと思う」
ももの意思で。そう言い張る以外にこの状況をひっくり返す術はないように思えた。
ねえ、もも、早く起きてよ。
みやは焦れる思いで、梨華の膝に抱かれているももの横顔を見た。

「じゃ聞くけど、どうしてないと思うわけ?あたしと桃子のこれまでの時間、蜜月、宿命を覆すだけのものがそっちにある?ないでしょ」
「知らないで言わないでください」
梨華は苛ついたように目を細めた。
「残念だけどあたしが知らないことなんてないんだよね」
「みやしか知らないことだってあるし」
「へぇ。……スタビちゃんが知ってると思ってる桃子のすべて、あたしが造ったものだとしても?」

みやは返す言葉を必死に探した。
梨華の手がももの肩を撫でている。見ていられない。耐え切れず目を伏せる。
みやが黙ったのを見て、梨華の声音は躍った。
「そう。悪いけど、あなたが知ってると思ってる桃子は、あたしが育てた悪魔なの。
やっぱり何もわかってないんじゃない?
キスの仕方から体の触り方までぜーんぶ、あたしがイチから教えてあげたものなんだからね」

はっと顔を上げると、勝ち誇ったような梨華の顔があった。
みやは指先で唇を擦った。口を開きかけ、閉じた。
「なに?何か言いたいことがあるなら言えば。何か聞きたいことでもあれば教えてあげるけど?」
挑発的に重ねられる言葉に、みやは思わず口を開いていた。

「あの、ももはどこが一番感じるか、知ってます?」
梨華は「え?」と声を漏らし、そのまま固まった。
「なんか、聞いてると、する方の話ばっかりしてるみたいだけど、されてる時のももの」
そこまで言いかけ、半開きのままの梨華の唇が戦慄いているのを見て、みやは内心に焦りを覚えた。
「いや、なんでもない、今の話ナシで」
慌てて口を手で覆った。
うっかり挑発に乗ってしまったことを後悔した。ここでさらに怒らせるのはどう考えても得策ではない気がする。
これ以上煽ったら、嫉妬に駆られて梨華が何をするかわからない。
ゾっとしてみやは膝を震わせ、恐る恐る梨華の表情を窺った。

「な……何よそれ。ちょっと聞かせなさいよ」
梨華は好奇心を抑えきれないといった顔で、動かないももの体を抱えたまま身を乗り出したのだった。

251名無し募集中。。。2018/05/28(月) 20:58:37.680

みやの話に、梨華はすっかり興の乗った風で、何度も相槌を打った。
「あ、へぇー、そうなんだ。そんななんだ」
「なんかいちいち嫌がってみせるんだけど、絶対好きでしょみたいな」
「なるほどねぇ。この子ね、そういうとこあるんだよね」

梨華はすっかり油断しているようだった。ももが目覚めるまでの時間稼ぎ。
乗ってくれたのを幸いと、みやは次々言葉を滑らせた。
「そう、そういうとこあるから」
「で?そうしたら桃子はどうなるの」
「え?んー……」
「ねえ、ここまできて出し惜しみはないでしょ」

時折躊躇って見せながら、みやはももの様子を探っていた。
この状況、早くどうにかしてよ。
こっちはもう、引っ込みつかないんだからね。
いいの?どこまで話させる気?

「あ、待って、あたしが知ってる桃子の話あった」
「え、なんですか」
「でもこれスタビちゃんはもう知ってるかな」
「知らないかも!聞きたーい」
「そう?じゃあ言うけど、桃子ってね、ああ言えばこう返すみたいなとこあるけど、すっごく弱い言葉があって」
急に梨華はビクッと肩を震わせ、懐を見た。

「……ふたりとも、いい加減にしてよね」
気を失っていた筈のももの首筋は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。

「桃子ってば、なぁに?寝たフリして聞いてたわけ」
「は?今起きたんですけど!やだもう信じらんない、ほんっと信じらんないんだけど」
ももは梨華の膝から滑り降りると、胸を庇うように両腕を掻き合わせ、後ずさった。
「ももが起きないから」
みやが言うと
「ちょっとお昼寝してたみたいに言わないでくれる」と、ももは震えながらみやを睨みつけた。

梨華がソファから立ち上がり、ももの方へ一歩踏み出す。
「そう、ちょっとお昼寝してる間に連れて帰ろうかと思ったんだけど
スタビちゃんが、桃子の意思を聞いてからじゃなきゃって言うから」

その言葉に、ももの視線が、考えるように動いた。
少しの間があった。
「みや」
「え、なに」
「……あとはこっちで話すからさ、みや上に上がってていいよ」
ももが、そう言った瞬間、みやの視界は真っ黒に塗り潰された。

296名無し募集中。。。2018/05/29(火) 22:37:46.590

真っ黒だった。この黒は何だろう、と、みやは思った。
『あとはこっちで話すから、上に上がってて』
ももがそう言ってすぐだったから、二階にでも飛ばされたのかと一瞬、思った。
違う。

みやはさっきから動いていない。リビングのソファに座ったままだ。
周りで気が動いた。黒い気が部屋いっぱいにわだかまっている。
みやは立ち上がって、よろけながら目の前の黒を掻き分けた。

泥の中を歩くような感触。足は一向に進まない。
「もも」
言葉は音にならず、闇に呑み込まれた。
みやは焦る気持ちを必死に押し留める。そうか、そうだ。どうして。

ももが帰らないと口にすればそれで片がつく。なんて、どうして思っていたんだろう。

それこそが、梨華を最も怒らせる台詞に違いなかった。
ももの言葉から、思う返事が得られないと悟った梨華の
この黒は、怒りだ。

理解した瞬間、可視化されていた黒が引く。
みやはソファの横に立っていた。目眩がして、背もたれに触れた指先で体を支える。
ももと、梨華は向かい合ったままだった。

「あたしのこと要らないなんて、言わせない」
梨華の声は低く、震えていた。
「まだ何も言ってない」
「まだ?結局、そう言うつもりなんじゃないの」
「言葉尻取るのやめてもらえます?」
「じゃあ、今すぐあたしと一緒に帰るのね?」

張り詰めた空気にみやはただ息を殺し、その光景を見つめていた。

ももは指先で耳の後ろを掻いた。
「あぁ、んー……今は、ちょっとなぁ」
「……そんなこと言って、帰ってこないじゃない。
あたしがここに来なかったら、思い出しもしないんでしょ」
「みや、上がっててって言ったじゃん」
不意に言葉を向けられて、みやはビクッと肩を揺らした。
こちらを向いた梨華と目が合った。

298名無し募集中。。。2018/05/29(火) 22:45:26.500

「どうして、どうしてこの子なの。なんでこのニンゲンはここにいるの」
艶やかな黒い瞳に射抜かれ、みやは目を逸らすことができなかった。
「みやはずっとここに住んでるの。私が押し掛けてるだけで、ここにいるのが当たり前なの」
「場所の話なんかしてない!わかってるくせに、わかってるくせに、桃子」
「だから、まだ何も言ってない」
「これから言うんでしょ。そんなの聞かない!」

ももはため息をついた。
「その直情的なの、やめた方が絶対いいって、ももずっと言ってるのに。だから必要以上に怖がられてるって」
「なにその言い方。なによ!あたしが怒ったらいけないわけ!」

甲高く、空気を切り裂くような声に、みやは全身の皮膚が引き攣るような感覚を覚えた。
「……やっぱり、この子のせい。このニンゲンのせいで、桃子は何もかも忘れて、怠けて!」
梨華の顔が歪む。

「みや早く行って!」
鋭い声で我に返る。みやは一歩後ずさり、リビングの扉へ向かおうとした。
なのに、唇を噛み、みやを睨め付ける瞳から、目を離せない。
梨華の唇が僅かに開き、ゆっくり動いた。

「もういい。今から100年、歌ってやる」

その言葉を聞くやいなや、横からぶつかってきたももの体が、力任せにみやを転ばせた。
すぐさま頭を掴まれたと思うと、両耳を塞がれる。
ももの指、その指先が、耳の穴に深く捩じ込まれ、両側から凄まじい力がかかる。
そのあまりの痛みにみやは顔を歪ませ片目を瞑った。
「も、も……」
薄く開いた片目だけで見上げた、ももの顔は蒼白で
歯を食いしばり、こちらを見下ろしてくる目元が歪んでいるのがわかった。
「……った、痛、い」

両脇からかかる圧、頭蓋を潰されそうな痛みの向こう側から、それは微かに聞こえた。
ロングトーンで紡ぐ高周波。
意識した途端にその音色はうねり、頭の中をめちゃくちゃに掻き回されるような衝撃に、みやは全身を仰け反らせた。

301名無し募集中。。。2018/05/29(火) 22:50:39.070

セイレーン。誰かから聞いた話をおぼろげに覚えている。その美しい歌声が船乗りを惑わすという人魚の神話。
梨華の声音が、何度も肌を引っ掻いていたことを思い出した。
聞いちゃいけない。
聞こえたら、終わる。

みやは咄嗟に自分の両手を耳にやり、ももの指の上から塞ぐように押し付けた。
ももの体重がかかる。密着したまま床に体を押し付けられ、その顔を間近に見た。
初めて、ももの瞳に帯びる燐光を見た。
耳の奥の痛みが遠のき、全ての音が、遮断される。
跳ね上がった心音だけがノイズになって、みやの鼓膜を揺らした。

悪魔って、人の心の隙間に入り込んで来るから、溺れた人は最悪葬られてしまうけれど
それってつまり、人が自分自身に害をなすよう導く者でしかない。直接手なんか下さないんだよね。

いつだったか、ももが言っていた。
実際、みやがこれまで祓ってきたたくさんの悪魔もそうだった。
じゃあ、今起こっていることは何だろう。
みやは何の誘惑に負けて、何を心に侵入させて、何を自分に許して
今、唐突に、こんな間近に死を見せられているんだろう。

ももの目を見上げる。その頭の背後から、近づいてくる梨華の顔が見えた。
微かに微笑んだ唇が動いている。歌う喜びにその眼差しは輝いていた。
すぐさま、お腹から全身に鈍い衝撃が走り、みやは思わず呻いていた。
梨華の足が、ももの背中を踏みつけている。
ももは一瞬目を細め、それから視線をゆっくりとみやに向けた。みやは頷くことしかできなかった。

梨華の足が動いている。
なぞっている。何度も何度も、ももの背中の、千切られた羽の痕をなぞっているのだ。
思い出せ。思い出せ。思い出せ、お前が何者なのか。

みやはぎゅっと目を瞑った。

304名無し募集中。。。2018/05/29(火) 22:55:55.560

瞼の裏で際限なく広がっていくピンク色の幾何学模様。音のない世界。
もしかして、100年、このままここにこうしているんだろうか。
みやが息絶えるまで、梨華はこうして私たちを踏みつけているつもりだろうか。
ももの体だけが温かい。
みやは指先を丸めて、両耳を塞いでいるももの指の間に絡ませた。苦しそうな吐息がかかる。
もし今、ももが痛みを一手に引き受けているんだとしたら
だとしたらそんなの、100年も耐えられない。

そう思ってすぐ、みやは心の中で笑った。
待った、そんなに生きてらんない。3日がせいぜいかもしれない。
だって私、ただの人間なんだよね。

瞼をゆっくりと開ける。絡めた指を引っぱると、ももの目が見開かれた。唇が動く。
「みや」
そう呼ぶ声は聞こえない。今、それだけが悲しい。
みやは両耳を塞ぐももの手を引きはがそうと力をこめた。
あ、今、絶対バカって言ったでしょ。聞こえないから無視するけど。
そんな叫んだって無駄だからね。
痛いの嫌いでしょ。だから今すぐ開放してあげるって言ってんの。

みやは、指を一旦解くと、ももの両手首を掴み直した。

思うんだけど、リカちゃんと目を合わせた瞬間に、もう終わってたんじゃないかな。
あの歌声はきっと、みやのこれまでの弱さとか、狡い気持ちとか
全部掘り起こして、混ぜて、頭の中に刺して、みやに死を誘うんだと思う。
このまま、ももを苦しめながら3日生きられるとしても。
たったの数日ったって嫌じゃん。みやだって、3日も踏まれ続けて死んでくなんて嫌だし。
あ、でもその前に

最後に
キスして欲しい。

頬が自然に緩むと、ももと目が合った。
ももの困ったような顔が近づく。鼻先が当たった。
頬に、ももの髪が落ちる。
唇の先が触れると、みやは再び目を閉じた。
ほんの少し、触れたところから泣きそうなくらい痺れる。
押し当てた唇の隙間から舌先を差し込むと、甘い桃の香りが零れた。
あぁ、このまま100年、キスしてたい。

濡れた唇が、ふっと冷えた。

307名無し募集中。。。2018/05/29(火) 22:59:35.100

顔が離れ、掴んでいたももの手首がぐいと引っ張られる。
目を開くと、梨華の手がももの髪を掴み、引き上げていた。
恐怖に喉から声が漏れた。それが叫びになったか、みやにはわからない。
塞がれている耳の奥、それでも、ももの指先はしっかりと鼓膜を押さえつけていた。

みやは震えながら、必死にももの手首を引き寄せようと力をこめた。
駄目。今死んだら、ももを守れない。

ももはいろいろ考えてるの。みやは知ってる。
何考えてるかは知らないけど、リカちゃんの気持ちに沿うのかどうか、それはわかんないけど
絶対、怠けてなんかない。

ももが首を捻り、歌い続ける梨華を見上げて何か言っている。
そう、言ってやればいい。ももはできる子でしょ。
言ってやれ。
悪魔の、プライドをかけて。

突然、梨華の表情が動いてみやは息を呑んだ。
梨華がぱっと手を開くと、零れ落ちた髪がももの顔を覆った。
ももは首を一振りすると俯き、深く深く息を吐く。
みやは手首を撫で、梨華を見上げた。

その唇は歌うのをやめ、への字に結ばれていた。

耳から指が引き抜かれる。顔を見ると、ももはぐったりとしていた。
片手をついて体を起こす。
梨華はいつの間にか、窓辺に立っていた。

「今日のところは、一人で帰ってあげる」
そう、梨華は言った。

梨華がクマのぬいぐるみの背中を両手で大きく開き、足を踏み入れ
それから、その姿がすっかり見えなくなるまで
みやは身動きひとつできなかった。
ももも一言も発さず、みやの横に立ってそれを眺めていた。

「もう、大丈夫かな」
ようやくみやがそう言うと
「いいんじゃない」
ももはそう言い、窓辺に近づく。
クマの頭をむんずと掴むと、ソファを避けるようにずるずる引き摺りながら、リビングを出て行った。
様子を見ていたみやは、慌てて立ち上がり、その後を追う。
廊下に出ると、ももは玄関で待っていた。
「外に出すから、開けて」

310名無し募集中。。。2018/05/29(火) 23:05:05.930

庭に出た。
ももはクマを引き摺りながら大股に歩き、庭の芝生の真ん中あたりで足を止めると地面を見下ろした。
視線の先を見ると、小さな蝙蝠が仰向けになって転がっている。
「あれ、このコウモリ」
みやはしゃがみこむと、その顔を見た。
子犬のような顔をしたその蝙蝠は、クマを持ってきた使い魔に違いなかった。

ももは片足を上げると、蝙蝠を爪先で容赦なく踏みつけた。そのままぐりぐりと揺らす。
「この役立たず」と、ももが言うと
蝙蝠は羽をバタつかせ、目をぱちりと開けた。
「そう言うなよ。まさか歌い出すとは思わなかったわ」

「これ持って帰ってくれる」
「待てよ、今日の今日かよ。もう疲れてんだよ」
「家ん中にゲート置いとくわけにいかないでしょ」
ももは蝙蝠の体を掴むと、その足を摘んで爪を開かせ、クマの頭に括り付けた。
「そーいえばさ、この間何か言いかけてたじゃん。なんだっけ『お前のためなら』?」
「あ、そうだ、ももの顔見れて良かったねー。会いたがってたもんねー」
「へー、そんな事言ってたんだ」
ももは蝙蝠の額を小突いた。
「途中で捨てたら許さないからね」

夜明け前の空を、ピンク色の巨大なクマが泳いでいった。
みやが眺めているうちに、ももは踵を返し、玄関に戻っていく。

先を行くももの後ろから声をかけた。
「ねえ、リカちゃんに何て言ってたの」
「ん?」
「耳塞がれてて何も聞こえなかった。何て言って止めさせた?」
ももは立ち止まり、振り返った。

「……おかーさん、ありがとう」
すぐに口許が緩んだ。悪そうな顔。

「嘘だ。なんかもっといっぱい喋ってたじゃん」
「まーまー、そんなようなもんだよ」
ももは笑うと、みやの手を引いた。

その小さな手を、みやはそっと握り返した。