最終更新:
doraemon19731979 2026年09月10日(木) 17:06:33履歴
『アップダウンクイズ』は、1963年10月6日から1985年10月6日まで、毎日放送(MBS)の製作により、NET系列の一部で、毎週日曜日19:00 - 19:30(JST)に放送されていた視聴者参加型クイズ番組である。ロート製薬の単独提供(第1回放送より)、日本航空(JAL)の協賛で放送された。
この番組は、毎日放送がラジオ単営局・新日本放送時代の1952年から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』をベースに制作された。
この番組は、毎日放送がラジオ単営局・新日本放送時代の1952年から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』をベースに制作された。
解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、早押しクイズに挑戦。10問正解(10段まで上り詰める)でハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られる。1964年4月からの海外旅行自由化を見据えて企画された。
1963年10月6日、喜劇俳優・市村俊幸の司会、当時毎日放送アナウンサーだった小池清の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『私はナンバーワン』の司会者でもあった。半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板*1、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じく毎日放送アナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれも毎日放送アナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間にわたって親しまれた。
カラー放送が行われるようになったのは1969年10月5日放送分からである。また、音声多重放送は最終回まで一貫して行われなかった。
1983年10月に放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)から俳優の西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。この回が新潟テレビ21での放送初回でもあった。番組タイトルも『新アップダウンクイズ』に変わったが、“新”は半年で消えた(ただし、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。
番組の収録は、毎日放送千里丘放送センターAスタジオで行われていた。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放送)。なお、末期は土曜日に収録された。
同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送分の39.2%(関西)、同年5月11日放送分の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。
10問正解の賞品が海外旅行であることから、JALが協賛していた。「♪ロート…」のオープニングキャッチ前に、19:00の時報とともにカウキャッチャーとして、JALのCM(JALPAKなど)が放映されていた。また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 日本航空」と表示された。 ただし、1985年8月12日の墜落事故の影響で、以降は協賛のクレジットを自粛。カウキャッチャーも事故以降は放送されず、時報とともに「♪ロート…」のオープニングキャッチとなった。
1963年10月6日、喜劇俳優・市村俊幸の司会、当時毎日放送アナウンサーだった小池清の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『私はナンバーワン』の司会者でもあった。半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板*1、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じく毎日放送アナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれも毎日放送アナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間にわたって親しまれた。
カラー放送が行われるようになったのは1969年10月5日放送分からである。また、音声多重放送は最終回まで一貫して行われなかった。
1983年10月に放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)から俳優の西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。この回が新潟テレビ21での放送初回でもあった。番組タイトルも『新アップダウンクイズ』に変わったが、“新”は半年で消えた(ただし、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。
番組の収録は、毎日放送千里丘放送センターAスタジオで行われていた。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放送)。なお、末期は土曜日に収録された。
同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送分の39.2%(関西)、同年5月11日放送分の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。
10問正解の賞品が海外旅行であることから、JALが協賛していた。「♪ロート…」のオープニングキャッチ前に、19:00の時報とともにカウキャッチャーとして、JALのCM(JALPAKなど)が放映されていた。また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 日本航空」と表示された。 ただし、1985年8月12日の墜落事故の影響で、以降は協賛のクレジットを自粛。カウキャッチャーも事故以降は放送されず、時報とともに「♪ロート…」のオープニングキャッチとなった。
- 小池が司会を務めていた時代は「ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう! ロート製薬がお送りするアップダウンクイズ、私は司会の小池清でございます」に続き、
小池 「問題を読むのは佐々木さんです」
佐々木 「皆さん、こんばんは(お元気でいらっしゃいますか)。佐々木美絵です、どうぞよろしく(お願いします)」(後期は「問題を差し上げます、佐々木美絵です」とアナウンス)というあいさつで番組が始まった。 - 後に、海外旅行が大衆化したことにより、「夢のハワイへ行きましょう!」の部分は「さぁ、ハワイへ行きましょう!」と変わった。
- オープニングテーマ曲が流れ終わると小池はゴンドラの前に立ち、上半身を画面アップ状態で挨拶をした。ネットチェンジからしばらくしてオープニング曲が変更されてから、小池は司会者席に座ってあいさつをするようになった。
- 解答者の紹介が終わると、小池時代は、「それでは、日航機によりますハワイ旅行を目指して、大いに頑張っていただきましょう!」というセリフで一問目に入った(司会が西郷になってからは「日本航空で行くハワイをめざして、皆さんしっかり頑張って下さい!」と言っていた)。
- 西郷が司会となってから、タイトルコール・出場者紹介と結果発表のアナウンスを、当時毎日放送の新人アナウンサーだった柏木宏之が担当した(1984年9月限りで降板)。
- 西郷前期では柏木アナウンサーによる「ロート製薬提供、(新)アップダウンクイズ! 司会・西郷輝彦!」のオープニングコールに続き、客席内のゲートから西郷が入場。
- 司会者と出題者のあいさつは普通の形になっていたが、タイトルを元に戻してからしばらくして「ロート製薬提供、アップダウンクイズ!」という西郷のオープニングコールの後に小池と同じ登場パターンに戻している。出場者の紹介では西郷が解答者と握手する演出があったが、タイトルを元に戻してからは解答者の自己紹介に変更された。
- 西郷司会期の、スチュワーデス大会やコンパニオン大会では、解答者が最初から解答席に座らずに直立で並列する演出が取られた。
- なお、東日本放送での1回目の放送である1975年10月5日の放送では番組冒頭に小池が「それでは宮城県の皆様に、ここで簡単にルールをご説明いたします。まず問題が出ます。そしてなるべく早くボタンを押していただいて、正解されますとゴンドラが1段上がります。よろしいですね!」と紹介し、また、2回目の放送となった1975年10月12日放送でも「それでは、先週からご覧になっている宮城県の皆様に、ここで簡単にルールをご説明いたします」とほぼ同様の紹介をしていた。
- また、次回の予告(ゲスト特集等がある回のみ)と番組終了時、当時毎日放送アナウンサーだった吉田智子による「アップダウンクイズ 第○○○回を終わります。提供は、ロート製薬でございました」というアナウンスもおなじみだった(終了時のエンドカードは、ブルーバックに「アップダウンクイズ」の白抜きタイトルロゴが右揃え(上:アップダウン、下:クイズ)でレイアウトされ、左下に白抜きで幅が狭い明朝体で“終”と書かれていた)。
- 1984年4月8日から1985年10月6日(最終回)までは、「アップダウンクイズを終わります」に変わった(後番組の『クイズ!!ひらめきパスワード』でも同様に継承された)。
- 番組のクレジットタイトルは、1970年代までは「アップダウンクイズ 終」のエンドカード前に、青地に白抜きゴシック体で「構成*堤章三 音楽*○○○○」と入るのみだったが、ゴンドラが色分けされてからは番組エンディング時にスタッフロールがナール書体で左方向に表示[9]されるようになった。
全国各地から毎回6人の視聴者(または特集などでペア6組)が解答者として出場、早押しクイズに挑戦する。見事10問正解すると、JALで行くハワイ旅行と賞金10万円(放送開始当初は20万円)を獲得できる。
一般参加の場合、「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て出場するケースが多かった。
1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がり(一部の問題では2段、または3段上がる)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまう。2回不正解したら失格となり、画面左に設けられた失格者席に座らされる。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり、正解するとゴンドラに戻ることができ、それまでの不正解数はリセットされる。なお、『新アップダウンクイズ』初期には2回不正解で失格のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。
西郷時代中期(1984年4月頃-1985年1月まで)は勝ち抜き制度が導入され、10問正解を達成すると翌週にも挑戦。1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得[14]、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与される。このルールになってから、勝ち抜きの解答者を「チャレンジ1・2・3」と呼び、1週目の10問正解者をV1と呼び、2週目の10問正解者をV2と呼び、さらに3週連続10問正解してペアでのアメリカ西海岸旅行と賞金30万円獲得者をV3と呼び、なおかつ「V3チャンピオン」と呼んでいた。西郷時代末期には勝ち抜き制度を廃止した。
一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。
一般参加の場合、「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て出場するケースが多かった。
1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がり(一部の問題では2段、または3段上がる)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまう。2回不正解したら失格となり、画面左に設けられた失格者席に座らされる。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり、正解するとゴンドラに戻ることができ、それまでの不正解数はリセットされる。なお、『新アップダウンクイズ』初期には2回不正解で失格のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。
西郷時代中期(1984年4月頃-1985年1月まで)は勝ち抜き制度が導入され、10問正解を達成すると翌週にも挑戦。1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得[14]、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与される。このルールになってから、勝ち抜きの解答者を「チャレンジ1・2・3」と呼び、1週目の10問正解者をV1と呼び、2週目の10問正解者をV2と呼び、さらに3週連続10問正解してペアでのアメリカ西海岸旅行と賞金30万円獲得者をV3と呼び、なおかつ「V3チャンピオン」と呼んでいた。西郷時代末期には勝ち抜き制度を廃止した。
一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。
1967年2月26日放送分から登場。番組の目玉コーナーといわれ、最終回まで続いた。これはかつてNHKで放送された『私の秘密』、『それは私です』のコンセプトを取り入れたものといえる。なお、当初は「ゲストクイズ」という名称だった。
スクリーンに投影したゲストのシルエットを見て、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がる。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになる。
ゲストは歌手・俳優・タレントなどの芸能人、プロ野球選手・大相撲の力士・プロボクサーなどのプロスポーツ選手、その他政治家や作家・評論家・芸術家・漫画家など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。ただし、スポンサーがロート製薬、協賛が日本航空だった関係から、放送当時に製薬会社や航空会社の同業他社の広告に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。
当初は中CM明けに行われており、開始音楽やテロップは無かったが、後にセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる。西郷時代には、中CM手前に移動、ジングルを一新し、シルエットをバックにテロップが出るようになった。一時期このクイズの正解者にはゲストからゲスト賞が進呈されていた。
スクリーンに投影したゲストのシルエットを見て、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がる。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになる。
ゲストは歌手・俳優・タレントなどの芸能人、プロ野球選手・大相撲の力士・プロボクサーなどのプロスポーツ選手、その他政治家や作家・評論家・芸術家・漫画家など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。ただし、スポンサーがロート製薬、協賛が日本航空だった関係から、放送当時に製薬会社や航空会社の同業他社の広告に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。
当初は中CM明けに行われており、開始音楽やテロップは無かったが、後にセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる。西郷時代には、中CM手前に移動、ジングルを一新し、シルエットをバックにテロップが出るようになった。一時期このクイズの正解者にはゲストからゲスト賞が進呈されていた。
シルエットクイズと同時期に登場。ボーナスクイズの一つで、毎回ゲスト本人から出題される。正解するとゴンドラが2段上がる。
当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。
ゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するのは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。
当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。
ゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するのは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。
1966年8月7日放送分から実施。画像を見ながら答えるもので、2問出題。
1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てる。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。
1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てる。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。
「最近のヒット曲」、「今の季節にふさわしい曲」など、テーマを決めて3問出題される。ほとんどは曲の「題名」を答えるものだったが、歌謡曲を「歌っている人」、あるいは「作曲者」や「歌詞の続き」を問うこともあった。
西郷時代は「サウンドクイズ」というタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に小池時代のような音楽の問題に戻った。また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで1問ずつバラバラに出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。
西郷時代は「サウンドクイズ」というタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に小池時代のような音楽の問題に戻った。また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで1問ずつバラバラに出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。
1975年10月12日放送分から設けられた。出場者の居住地にまつわる話題にちなんだ問題が出されるが、解答権は全員にある。ゴンドラが灰緑1色時代は後半に行われたが、色分けされてからは前半に出題された。
小池時代末期にあった、小学生視聴者からの投稿クイズ。投稿者には、番組特製の置時計(左に時計、右には番組セットのミニチュア)がプレゼントされた。なお、問題読み上げは当初は投稿者の肉声だったが、後に佐々木出題者が読み上げるようになった。
西郷時代後期に登場。「目で見るクイズ」の発展形で、1枚のイラストが、しりとりで次に続く名前の違うイラストへ段階的に変化していくので、何に変化していくのかを当てる。2問出題。
西郷時代からスタートした、ボーナスクイズの1つであり、従来の「ラッキークイズ」をパワーアップしたもの。当初は「ラストファイブ」のタイトルになっていた。
- 残り5問になるとチャイムが鳴り、ゴンドラ後方の電飾の奇数枠と偶数枠が交互に点滅する。
- 解答者がボタンを押すと電飾の点滅が止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が点灯していればドアチャイムが鳴り、後方背景が青から赤くなってシンクロとなり、正解すれば2段上がる。電飾が点灯していなければシンクロ失敗で正解すると1段上がる。この時の最終問題は2択形式だった。
系列は放送当時のもの。
| 放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 近畿広域圏 | 毎日放送(MBS) | NET系列 | 製作局 |
| 関東広域圏 | NETテレビ(NET) | ||
| 宮城県 | 東日本放送(KHB) | 1975年10月開局から | |
| 山形県 | 山形放送(YBC) | 日本テレビ系列 NET系列 | 1980年4月から |
| 福島県 | 福島放送(KFB) | NET系列 | 1981年10月開局から |
| 新潟県 | 新潟テレビ21(NT21) | 1983年10月開局から | |
| 静岡県 | 静岡けんみんテレビ(SKT) | 1979年7月から 1979年6月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 | |
| 中京広域圏 | 名古屋テレビ(NBN) | 1964年10月から1966年9月まで、1973年4月8日から 1973年3月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 | |
| 岡山県 | 岡山放送(OHK) | フジテレビ系列 NET系列 | 当時の免許エリアは岡山県のみ 1970年11月8日から1979年3月25日まで |
| 山口県 | 山口放送(KRY) | 日本テレビ系列 | 関門局のみ 1963年10月から1964年9月まで |
| 香川県 ↓ 香川県・岡山県 | 瀬戸内海放送(KSB) | NET系列 | 1969年4月の開局から1969年10月5日まで |
| 福岡県 | 九州朝日放送(KBC) | 1964年10月から | |
| 鹿児島県 | 鹿児島放送(KKB) | NET系列 | 1982年10月開局から |
| 毎日放送制作・NET系列 日曜19:00 - 19:30枠 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
| 私はナンバーワン (1962年1月28日 - 1963年9月29日) | アップダウンクイズ (1963年10月6日 - 1985年10月6日) | クイズ!!ひらめきパスワード (1985年10月13日 - 1992年3月29日) |
タグ

最新コメント