自分の好みで感想を書いてます。ネタバレもありです。

リボン

中学生女子には内緒ですが、会社員のおじさんにとって、お昼ごはんを毎日、誰と一緒に食べに行くかは、とても重要なことなのです。たいていは、いつもの同僚とつるんでいますが、仕事がぴったり一緒に終わらなかったりするので、ちょっと待たされることもあります。でも、待っているんだいつまでも。自動販売機にミルクティーを買いにいくときも、トイレで用を足すときも、できれば同僚と一緒がいいのです。喫煙コーナーでたわいもないおしゃべりをしたり、他の同僚の噂話に華を咲かせたり、ともかく、おじさん同士、はしゃいだり、いちゃいちゃしていたいのです。あ、それでも怪しい関係じゃないんですよ。ただ、そういうのが楽しいのです。にわかには信じられないかも知れませんが、会社員のスキンシップは、中学生女子以上にディープで、そして、一緒にお昼休みを過ごす仲間がいない時の所在なさと言ったら、結構、キビしいものがあるわけです。しかし同僚との心の絆はどこまで強いのか・・・。ということで、会社員のおじさんであっても、まるで先生から「好きな人同士、班になってください」と宣言された時のような、そこはかとない緊張感で、今を生きているのです。そういった意味では、「一人でお昼ごはんを食べる覚悟」を常に持っていると言われる、派遣社員女子の方がハードボイルドな生き方を実践していますね。と、ここまで前フリを書いてみて、この文章は、どうつながるのか行く先を見失ったので、本編のまとめに入ります。どうしたんだ、今日のオレは。

卒業式の後、卒業する憧れの先輩から、制服のリボンをもらうのが、亜樹の所属する卓球部の伝統でした。誰からもリボンを欲しいと言われない先輩が出ないように、ちゃんとメンバーの割り振りをするのが、後輩としてのつとめ。中学生なりに気を使っているのです。亜樹が「担当」になったのは、池橋先輩。彼氏保有率の高い卓球部で、彼氏もいなければ、試合にも全然、勝てない、そんなどうにも冴えない人に、尊敬している先輩のリボンが欲しいんです、なんて、言わなければならない立場も辛ければ、言われる方も気まずい。そして、他の先輩たちとはちょっと違っている池橋先輩が告げた言葉は、亜樹に自分自身を考えさせるものになりました・・・。この物語は、中学生女子的な間の悪さ満載の作品です。どうしてそんなに間が悪いのかというと、「覚悟」が決まっていないからですね。悪循環をぐるぐると回っている時期のリアルが、どうにも心苦しい。教室でどのグループに入っているかが一大事。一緒にいる友だちをキープしておかないと心配。仲の良かった友だちから裏切られても、平気なフリする。傷ついたところは見せない。でも、本当は、気にしている。ちょっと親しくなった新しい友だちを、まだ苗字で呼んでいることが気にかかる。自分が何をしたいのかわからない。そして、将来・・・。将来、なにをしたいのだろう。わからない。だから、自分がなにをしたいのか見つけられそうな高校を選ぶべきなのかな。亜樹の頭の中は、実に、中学生らしい等身大の悩みで目一杯、揺れています。自分がなにものかわからず、なにをやっても中途半端。だから、将来のために努力しないと・・・。そんな亜樹に、幼馴染の佐々木君は言うのです。大人になってからの時間の方が長いんだから、将来なんて、ゆっくり決めたらいいんじゃん。今しかできないことを、今、やったらどう。なるほど、それもまた一理ある。なかなか一足飛びに達観することもできないし、自分の生き方のスタイルを決めかねて、周囲の歩調を気にしながら生きている、それでも、少しずつ変わっている?。そんな中学生の心の揺れが描かれたヤングアダルト作品です。さて、あれから一年後、亜樹は、自分の卒業式で、リボンを欲しいと言ってくれる卓球部の後輩に、なんと答えるのか。ささやかな成長だけれど、大切な第一歩。いや、人生の覚悟は、一日にしてならないものですよ。きっと。

本書は、進研ゼミ、中三受験講座「中3チャレンジ組」に連載された作品を単行本化したものだそうです。チャレンンジ、と言えば進研ゼミ、ということで、実に懐かしい響きがあります。まさに、中学生三年生が読むために書かれた中三小説なのですね。あの草野たきさんの作品にしては、もうひとつ、鋭く切り込んでこない感じが否めず、児童文学としては凡庸な感があるのですが、スタンダードな中学三年生の悩みであり、たわいもないからこそ切実な問題を描いているのかも知れません。亜樹のお姉さんや、お母さん、それぞれの葛藤が並行して描かれ、家族や、先輩、友だちの態度や言葉に影響されながらも、亜樹が自分の心をきめていく成長の過程が、真面目に描かれている作品です。人とのお付き合いなんて、まあ、ほどほどの適当で良いのではないかと思うし、昼休み、一人で本を読んでいたっていいじゃない。無論、思いっきりディープに人とつきあってもいい。そうした選択枝を踏まえた上で、おじさんたちはつるみたがるし、派遣社員女子は覚悟を決めて一人ごはん、という、人生の決断をくだしていたり、受け流したりして、日々は去っていきます。まあ、色々とあるが大丈夫だよ中学生諸君、と言ってあげたいです。大人になると、今より、ちょっとだけ、好きなように生きられますから。ただ、覚悟は必要ですね、色々な意味で。なんだか、今日は、肩の力が抜けた感想でした。たまには、こんなスタイルを、気まぐれに選んでみるのも良いかな。いや、ルールなんてないんですよ。

彼岸花はきつねのかんざし

日本児童文学の中の「きつね」について考えると、おおよそ「死」にたどり着いてしまいます。もうどうしたらいいのやらの『ごんぎつね』(新美南吉)や、さらにわからない『土神と狐』(宮澤賢治)では、紆余曲折の物語の末、きつねたちは、脈略もなく問答無用に殺されてしまいます。この被害者たちの、ちょっとお間抜けな感じさえする唐突な死に、童話を読む子どもとして何を思うべきだったかは、今もって謎です。投げっぱなしの物語を、無理矢理、「教訓」に繋げないところに鑑賞の広がりはある、という良い例ではないのかと思います(本当かな)。後の時代に書かれた、いくつかの「きつね」の童話も、お母さんが殺されていたり、子どもが死んでいたり、哀しみに溢れすぎていますね。何故、きつねばかりがこんな目に遭うのか。とはいえ、きつねという存在に仮託された「人間的な悲しみ」が、あまりにも哀れを誘いすぎると、いささか興ざめな気もするのです。本来、きつねの持つ「何を考えているのかわからない」奔放なキャラクター性や、気まぐれぶりが、擬人化によって希薄になってしまう気がするのです。日本児童文学の中のきつね像は、ヨーロッパ的なそれのように、狡猾なワルというよりは、悪ノリと気ままさで、邪気もなく、運が悪けりゃ、ばったりと死んでしまったりする破天荒さが身上なのではないかと思っています。哀れむべき小さきモノたち、みたいなウェットさを持たずに、ギリギリのユーモアを仕掛けてくる、命知らずの潔さもまた魅力です。文学性や芸術性を欠いたベタな童話がもてはやされれば、きっと擬人化されたウェットなきつねが増えてしまう。これは、憂うべきことではないかと思うのです。今回、朽木祥さんが書かれた「きつね」は、「何を考えているのかわからない」挑発的なヤツで、かなり気に入っています。『あたし、わりあい、上手に化かせるんだよ』と人間の女の子に挑む、この子ぎつねは、一体、どんな、きつね的衝動につき動かされているのか。「東京からきた転校生」のような、しゃきしゃきとした言葉で話しかけてくる、この子ぎつねの本意はどこにあるのでしょう。この理解不能な、手ごわそうな感じが良いのです。女の子と子ぎつねの、不思議な交流を軸に物語は進みます。野山で遊びまわり、牧歌的な喜びを満喫する、一人と一匹。それでもやはり、この、きつねの物語にも「死」が待っています。しかも、原子爆弾が落ちてくるという、問答無用な、あまりにも圧倒的な死です。脈略のない理不尽さ。ここにあるのは、ウェットな哀しみではなく、ただの不条理です。あるいは、言語道断な絶望、かも知れない。怒りや哀しみといった感情の底が抜けてしまった果てにある気持ち。南吉や賢治のきつねたちでさえも、何故、殺されなくてはならなかったのか納得できる理由はないと思います。ましてや、強力な爆発と放射能を浴びる理由なんて・・・。突然の嵐のように殺される、不条理な死をどう考えるべきか。この物語の余白には、饒舌すぎるほど、たくさんのことが書かれているのですが、それは、突然、死んじゃうのは悲しいよね、ということでも、戦争反対や平和主義のお題目でもありません。多分、そうしたものを越えたところにある、哀しみとか、祈りとか、願いとか、言葉にならない何かなのです。そこに、「物語」によって、物語られる意味がある。静かな言葉で、ひそやかに、そしてユーモラスに物語は、綴られ、積み上げられていきます。朽木祥さんの情景と心象をふうわりと優雅に重ね合わせる、詩のような表現は、相変わらず見事で、美しい。それゆえに、震撼させられてしまう、恐ろしい作品なのです。

戦時下の広島。也子(かのこ)も、春から小学四年生。れんげ畑で、子ぎつねを見つけたのは、この間のこと。まあるい目をしたふわふわのしっぽの、かわいい子ぎつね。おばあちゃんは、おきつねさまに化かされないように、ふらふら道草をくってはいけないよと言います。だけど、也子は、ついうっかり、入ってはいけないと言われた竹やぶにはいってしまうのです。そこで、出会ったのは、あのれんげ畑で見かけた子ぎつね。けれど、その子は、まだ、「おきつねさま」じゃないと言う。『あんた、あたしに化かされたい?』と聞かれたけれど、無論、也子は断ります。それから、ときどき、也子は、子ぎつねと出会うことになります。彼岸花のかんざしを飾った高島田のきつねの、はなよめさんの嫁入りを見たのは、あれは化かされていたからなのでしょうか。也子が過ごす、おばあちゃんや、お母さんとの日常の営みも、とても丁寧に描写されていて、戦時下ではあるのだけれど、その穏やかな毎日には愛おしさを感じます。野山のある自然の中で過ごす、也子の日々。そして、子ぎつねとの交流。でも、あの夏の日、突然、爆弾が落ちてきて、すべてを破壊してしまうのです。何故、化かされてあげなかったのだろう・・・。也子の胸に去来する思い。生意気な年下の女の子のように、挑んでくる子ぎつねの態度が、とても可愛らしく、素直に言うことを聞くような動物じゃないところも、とてもいい感じです。だからこそ、戦争のような人間の勝手な思惑が、すべてを塗りつぶしてしまういくことに、痛みを覚えてしまうのです。

化かすもの、というと、きつねだけではなく、たぬきのことも思い出されます。小学生の頃、大好きで、何度も繰り返し読んだのが山中恒さんの『このつぎなあに』でした。出稼ぎに出た息子を待ちながら、一人さびしく山の中で暮らしているおじいさんのところに、たぬきが色々な怪物に化けて、訪ねてくる。その都度、おじいさんを怖がらせて、おむすびを要求するのですが、いつもシッポが出ていたりして、たぬきということはバレバレ。でも、おじいさんは、わざとだまされて、怖がったふりをする、というお話。この作品、最後が、もう泣けてしかたがないのです。たぬきがバカでねー。優しくて、切ないお話です。童話に出てくる動物たちは、きっと「子ども」なのだ、と思います。人間(おとな)を化かした気でいるけれど、だいたい見透かされているのです。たぬきは、ちょっとトロい子。きつねは、さかしくて小生意気な子、というところでしょうか。大人の理屈でモノを考えない「子ども」たち。でも、児童文学の中で会いたい子ども、というものは、大人にとって「都合の良い子」じゃなくて、そんな手放しな子どもたちではないのか。あまりコントロール不能すぎるのも困るけれど、動物(こども)を、物語の中で擬人化(おとな化)しすぎない「間合い」は、パスタを茹で過ぎないゆで加減のようなものかも知れません。人間(おとな)の感覚を仮託されすぎず、愛らしくも、品行方正にはなって欲しくないのが、子どもというものへの願いなのかも知れません。そう考えていくと、動物童話の動物は、もっと動物的で良いのではないかと。そして、突然の暴力で奪われてしまう、動物たちの命のか弱さを、思ってしまうのです。

マックカードなび

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jUyvQx A big thank you for your blog.Much thanks again. Will read on...

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Posted by awesome things! 2014年03月07日(金) 00:02:40
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