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ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(Владимир Владимирович Путин)は、1952年10月7日にソヴィエト連邦のレニングラード(現サンクトペテルブルク)にて、父ウラジーミルと母マリヤの間に第三子として生まれる。だが、二人の兄はプーチンが生まれる前に亡くなっていたので、プーチンは一人っ子として育った。父は熱心な共産主義者で、母は敬虔なロシア正教徒、父方の祖父はラスプーチンやレーニン、スターリンに給仕していた料理人だった。幼少期のプーチンはあまり裕福ではなく、レニングラードの共同アパートで暮らしていたという。小学生時代は記憶力がよく頭の回転が速かったが、頑固で問題ばかり起こす相当な悪童だった。しかし、年を重ねていくにつれて成績が上がっていき、小学生にしてドイツ語や柔道、サンボを習い始めた。小学校卒業後は化学の中東専門学校に進学した。
やがてプーチンはスパイに憧れを抱き、14歳の時にソ連の諜報機関であったKGB支部を訪れ、職員にどうしたらKGBに就職できるか尋ねた。職員はプーチン少年の質問に真摯に答え、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利なこと、スポーツに堪能であると有利であること、行動や思想面に問題があってはならないことなどを助言し、プーチンは助言を忠実に守って生活した。
やがてプーチンはスパイに憧れを抱き、14歳の時にソ連の諜報機関であったKGB支部を訪れ、職員にどうしたらKGBに就職できるか尋ねた。職員はプーチン少年の質問に真摯に答え、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利なこと、スポーツに堪能であると有利であること、行動や思想面に問題があってはならないことなどを助言し、プーチンは助言を忠実に守って生活した。
KGBからリクルートを受けたプーチンは、大学卒業後にKGBに就職した。それと同時にソ連共産党にも入党している。KGB就職後は様々な研修を受けたあと、ドイツ語が堪能だったために東ドイツのドレスデンへと派遣される。KGB時代のプーチンは特別有能なわけではなく、平凡で質素な生活を送っていた。しかし、東ベルリンにあったソ連大使館が民衆に包囲され、抗議デモが行われると、何とかデモを鎮圧したかったプーチンは、拳銃を掲げたまま、「殺されたい奴は、前に出ろ」と叫び、このひと声で抗議活動が止んだという。その後東西ドイツ統一によりプーチンはレニングラードに戻り、大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。
ソ連崩壊間際の1991年にKGBを退職し、サンクトペテルブルク市長に当選したサプチャークの元で副市長に就任し、影の実力者と活躍したため「灰色の枢機卿」とよばれるようになった。しかし、サプチャークが市長選挙に敗北して辞職すると、プーチンはロシア大統領府に抜擢され、モスクワに異動した。異動後のプーチンはどんどん出世していき、KGBの後任組織であるFSBの長官に就任する。この時、当時のロシア大統領ボリス・エリツィンのマネーロンダリング疑惑を捜査していた検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相のエリツィンエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。
プーチンはエリツィンにより首相に任命される。首相に就任すると第二次チェチェン紛争の制圧に尽力した。記者会見で言い放った「テロリストはどこまでも追跡する。たとえ便所にいてもやつらを捕まえてぶち殺す」という発言が話題を呼び、「強いリーダー」として国民の支持を得る。
プーチンはエリツィンにより首相に任命される。首相に就任すると第二次チェチェン紛争の制圧に尽力した。記者会見で言い放った「テロリストはどこまでも追跡する。たとえ便所にいてもやつらを捕まえてぶち殺す」という発言が話題を呼び、「強いリーダー」として国民の支持を得る。
1999年にプーチンはエリツィンにより大統領代行に指名され、その後の大統領選挙で過半数の得票を得て大統領に就任する。プーチンはソ連時代の「強いロシア」の再建を目標とし、数々の改革を断行する。まず、地方行政が暴走していたため、中央集権化を推進し、「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。また、ソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定した。さらに、エリツィン時代、ソ連崩壊に伴う超急進的な資本主義化と1998年のロシア金融危機により大混乱していた経済を立て直すべく、抜本的な改革を実行した。まず、政権と癒着し、マスコミとロシア経済を支配していたために腐敗し、脱税を繰り返し、ロシア経済と軍が崩壊寸前にまで陥った原因である新興財閥オリガルヒと対決した。プーチンはオリガルヒと癒着していた人物を政府から追い出し、代わりに警察・軍出身者を登用し、財政再建のために脱税を厳しく取り締まり、オリガルヒを逮捕し制圧した。こうしてロシア経済と軍の再建を成功させ、オリガルヒ系政党を少数派に追い込み、与党統一ロシアからの支持を受けてプーチンの権力基盤は盤石となった。また、原油価格が上昇し続けていたため、天然資源をどんどん輸出していったり、税制改革を実行したり、脱税を取り締まることによってロシア経済は急速に回復していった。
プーチンは二期目となる2004年大統領選挙に7割以上の得票率で圧勝した。プーチンは大統領権限を強化し、中央集権化をさらに進めた。ロシア経済は原油価格の上昇に支えられて成長していたが、エネルギー資源に依存した成長だったため、産業の多角化を図って経済特区を設定した。8年間のプーチン政権によりロシア経済は危機を脱して大きく成長し、GDPは6倍に成長し、貧困率は半分になった。この著しい経済成長により、ロシアはブラジル、インド、中国、南アフリカとともに「BRICS」と呼ばれるようになる。また、海外債務を完済し、原油価格の下落の備えや国民福祉向上のために、「準備基金」と「国民福祉基金」を設立した。それでもロシア国民の貧困率や死亡率は未だ高く、そのため子育て支援や住宅ローンの規模拡大、給料増額など、保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行った。しかし、その経済成長達成の裏でその政治手法が強権的・独裁的だとして欧米諸国から強い非難を浴びることになる。オリガルヒが投獄された後、オリガルヒが所有していた会社を政府の強い影響下においたことは大きな波紋を呼んだ。第二次チェチェン戦争では、ロシア軍が強盗・強姦をはたらいとして人権団体から批判された。また、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも、欧米諸国にマイナスイメージを持たれる一因になった。ある元KGB職員の男性は、亡命先のイギリスで食事に多量の放射性物質が混入していたことが死因となって死亡しているが、これはロシア政府による暗殺だという見方が強い。プーチンはこのころから開発独裁者としての道を突き進むことになる。ロシアでは憲法で大統領の3選が禁止されているため、プーチンは後任としてドミトリー・メドヴェージェフを指名した。メドヴェージェフは2008年大統領選挙で7割以上の得票率で圧勝し、プーチン自身は首相に就任した。
大統領を辞職したプーチンだったが、実質的な最高指導者は依然としてプーチンであった。2008年のリーマン・ショックから端を発する世界金融危機では、対応に積極的な姿勢を見せ、外貨準備や前述の「準備基金」と「国民福祉基金」を利用して景気対策を行うことを提言した。2011年に行われたロシア下院選挙において、国際監視団を派遣した欧州安全保障協力機構はプーチンが党首を務める統一ロシアが水増しなどの不正を働いたと発表した。ロシア政府高官も一部で不正があったことを認めたため、各地で政権を批判するデモが行われた。これを受けてプーチンは党首の座を退き、統一ロシアから距離を置き始めた。
2012年ロシア大統領選挙に出馬したプーチンは6割以上の得票率で当選した。今任期から大統領の任期は4年から6年に延長された。2014年、ウクライナで親露政権を打倒したユーロマイダン革命が発生すると、プーチンはロシア系住民の保護を理由に、ロシア系住民が多いクリミア半島に侵攻し、これを住民投票を経て併合した。しかし、ウクライナ憲法では『領土変更はウクライナ全土が対象の国民投票を経て実行される』と定められているが、クリミア半島併合時に行われた住民投票の対象地域はクリミア半島だけだったこと、住民投票や併合条約に調印したクリミア半島の議会はロシア軍の監視を受けていたことなどの問題点が数多くあり、併合は国際的な承認を得られていない。またこの併合によりアメリカから経済制裁を受けたロシア経済は停滞し、国民から批判されることになる。
2018年の大統領選挙では7割以上の得票率を得て再選されたが、一部で不正があったとの報告もある。2022年、ウクライナがNATO加盟に意欲的だったため、ウクライナの中立化と非軍事化を求めてプーチンは特別軍事作戦を承認し、ウクライナ侵攻が開始された。侵攻と同時にロシア全土で抗議運動が巻き起こったが、政府は激しくそれらを弾圧し、多くの国民が逮捕された。プーチンは、「我々(特にロシア民族はそうなのだが、いかなる民族も)は、真の愛国者たちと裏切り者を区別でき、たまたま口の中に入ったハエのように、やつら(裏切り者)を吐き出すことができる」などと述べた。2023年にはロシアの民間軍事会社ワグネルが蜂起しモスクワへ進軍を行うが失敗した。プーチンは、「反逆者として武装反乱を準備し、テロリストの手段をとった者は全員が処罰される」と述べた。その後、ワグネルの創設者であるエフゲニー・プリゴジンは飛行機事故で死亡した。翌年にはロシア反政権運動の指導者アレクセイ・ナワリヌイが、収監されていた北極圏の刑務所で死亡したとロシアの刑務所当局は発表した。
2024年の大統領選挙では、プーチンは9割近い得票率を得て再選された。今回の選挙から、ロシアがウクライナから一方的に併合したドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロージェ州、ヘルソン州の一部住民が初めて投票に参加した。本来、大統領は憲法で連続3選を禁じられているが、2020年の憲法改正により、現職や大統領経験者についてはリセットされたため、すでに連続して2期12年務めていたプーチンも立候補が可能となった。反体制派の立候補表明者は必要な名簿に不備があるといった理由をつけられ立候補すら認められなかったため、プーチン以外の立候補者3名はいずれもプーチンが政権を握り続けることに異議を唱えずウクライナ侵略にも賛成する体制内野党の立候補者でしかなく、プーチンが当選すること自体は確実視されていた。また、一部でプーチン陣営に2,200万票の大幅な水増しがあったとも報告されている。仮に2030年までの任期を全う出来れば、国家元首の在任期間ではヨシフ・スターリンと並ぶことになる。
プーチンはソ連時代の「強いロシア」の再建を目指しており、国民の愛国心に訴え、政府に対する求心力を強化しようとする政治家として知られる。だが、徹底的宗教弾圧を行ったソ連とは対象的にロシア正教会を保護しており、プーチン自身も正教会首席エクソシストである。また、イスラム教に関しては武装イスラーム勢力に対しては対決姿勢を見せているが、穏健派イスラームとは協力関係を築いている。さらに、ユダヤ教も庇護しており、ロシア国内にはユダヤ自治州がある。
ソ連時代に引き続いてアメリカとは対立しているロシアだが、「テロとの闘い」に関してはアメリカと協調している。プーチンは同時多発テロ後にアメリカ軍がアフガニスタンに侵攻を行う際に、反対派を押し切ってアメリカを支援している。ロシアは、アメリカと協力して国際的なテロ包囲網を構築することでチェチェン勢力のテロ攻撃を封じ込もうとしたからであった。反対にアメリカも、ロシアがウクライナ侵攻中でもテロに関する情報はロシアと共有している。しかしプーチンはアメリカの一極支配には抵抗する構えを見せている。日本とは、北方領土問題では揉めているものの、友好的まではいかないものの基本的に対立もしていない。プーチンは投資の誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視しているためだ。北方領土に関しても、色丹島と歯舞群島は返還してもよいとある程度の譲歩は見せいている。また、プーチンは個人的に安倍晋三と仲が良いらしく、安倍晋三曰く、プーチンとは同じ未来を見ているそうだ。旧ソ連諸国に関しては、強硬な手段を取ることも少なくない。親露から親欧米へ転換したウクライナやグルジア(現ジョージア)に対しては、ウクライナにはクリミア併合とウクライナ戦争、グルジアには南オセチア侵攻を強行した。ちなみに、グルジアとの紛争中、プーチンはフランス大統領に向けて「グルジアのミヘイル・サアカシェビリ大統領の金玉を縛って吊し上げてやる」と言ったらしい。軍事力を行使してでも、旧ソ連諸国が欧米と仲良くすることは許さないようだ。中国との関係は、基本的に友好であり、最大の貿易相手国でもある。中露国境問題も実効支配地域を割譲することで中国に譲歩する形で解決し、平和条約である中露善隣友好協力条約を結んでいる。中国の協力でロシア国内にネット検閲を推し進め、中国が掲げる一帯一路構想にもロシアは参加している。
ソ連時代に引き続いてアメリカとは対立しているロシアだが、「テロとの闘い」に関してはアメリカと協調している。プーチンは同時多発テロ後にアメリカ軍がアフガニスタンに侵攻を行う際に、反対派を押し切ってアメリカを支援している。ロシアは、アメリカと協力して国際的なテロ包囲網を構築することでチェチェン勢力のテロ攻撃を封じ込もうとしたからであった。反対にアメリカも、ロシアがウクライナ侵攻中でもテロに関する情報はロシアと共有している。しかしプーチンはアメリカの一極支配には抵抗する構えを見せている。日本とは、北方領土問題では揉めているものの、友好的まではいかないものの基本的に対立もしていない。プーチンは投資の誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視しているためだ。北方領土に関しても、色丹島と歯舞群島は返還してもよいとある程度の譲歩は見せいている。また、プーチンは個人的に安倍晋三と仲が良いらしく、安倍晋三曰く、プーチンとは同じ未来を見ているそうだ。旧ソ連諸国に関しては、強硬な手段を取ることも少なくない。親露から親欧米へ転換したウクライナやグルジア(現ジョージア)に対しては、ウクライナにはクリミア併合とウクライナ戦争、グルジアには南オセチア侵攻を強行した。ちなみに、グルジアとの紛争中、プーチンはフランス大統領に向けて「グルジアのミヘイル・サアカシェビリ大統領の金玉を縛って吊し上げてやる」と言ったらしい。軍事力を行使してでも、旧ソ連諸国が欧米と仲良くすることは許さないようだ。中国との関係は、基本的に友好であり、最大の貿易相手国でもある。中露国境問題も実効支配地域を割譲することで中国に譲歩する形で解決し、平和条約である中露善隣友好協力条約を結んでいる。中国の協力でロシア国内にネット検閲を推し進め、中国が掲げる一帯一路構想にもロシアは参加している。
プーチン政権は独裁色が強いとロシア国外のメディアで報じられることがある。ロシア情報公開擁護財団によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している。この件に関しては、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。また、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進し、スターリンと並ぶほどの長期政権を築いたプーチンの姿勢は権威主義的であると言われ、「ツァーリ(ロシア皇帝)」、「スターリン」と呼ばれることもある。しかし、TIME誌に「自由より先に秩序を選択した」とあるように、エリツィン政権で治安が悪化し経済も崩壊し、ソ連崩壊に次ぐ第二のロシア連邦崩壊寸前まで行ったロシアを、ロシア社会に強力な指導力で秩序と安定をもたらした開発独裁者という見方もでき、エリツィン時代の生活を知る国民から一定の支持を受ける要因となっている。
プーチンはKGBの元エージェントであり、歩く時に右手を振らないのも、すぐに銃を構えることができるようにKGB時代に叩き込まれた名残らしい。またかつての同僚によると、プーチンは礼儀正しく、遠慮深く、落ち着いた人物であったという。しかし、カメラの前では無表情で振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きであったりする。さらに、プーチンは遅刻魔であることでも有名で、ドイツのメルケル首相を4時間15分も待たせたり、すでに遅れているというのに武術愛好家と語らったせいで韓国の朴槿恵大統領との首脳会談に30分遅れたりしている。
プーチンは釣りが趣味であり競馬のファンでもある。また犬好きで、自身も「コニー」という名前のラブラドール・レトリーバーを飼っている。そのため、トルクメニスタンのベルディムハメドフ大統領との会談でアラバイ犬の子どもをプレゼントされた際、ベルディムハメドフ大統領がカメラマンに向けて子犬の首根っこをつかんで高く持ち上げたのを見てギョッとした表情を見せ、その後急いで子犬を受け取り、優しく抱きかかえたという一幕があった。煙草は吸わず、酒もほとんど飲まない。愛車は母親が抽選で当てプレゼントされたZAZ-968(1972年モデル)、ラーダ・ニーヴァなどのロシアおよび旧ソ連圏の自動車である。尊敬している人物はロシア皇帝のピョートル1世とエカチェリーナ2世である。
プーチンは小学生のときから柔道とサンボをしており、柔道に関してはソ連時代にはソ連全国大会で3位になったこともある。段位は柔道八段である。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。2005年よりヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務め、また国際柔道連盟の名誉会長でもあったが、ウクライナ侵攻により解任されている。柔道について「柔道は単なるスポーツでは無い。柔道は哲学だ」と語っており、大統領就任前に『プーチンと学ぶ柔道』という本を出版するほど柔道好きである。2000年に来日した時は柔道の練習に飛び入り参加し、プーチン自身が日本の中学生に投げられた。投げられた後プーチンは中学生を投げた。投げられるプーチンの姿は印象的で、その写真や映像は世界中に報道された。警備員やSPは稽古とはいえ大統領が投げられるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。講道館より柔道六段の名誉段位贈呈を提示された時は、「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、1日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」と述べて丁重に辞退するなど、柔道に対して非常に真摯に向き合っている。
プーチンは釣りが趣味であり競馬のファンでもある。また犬好きで、自身も「コニー」という名前のラブラドール・レトリーバーを飼っている。そのため、トルクメニスタンのベルディムハメドフ大統領との会談でアラバイ犬の子どもをプレゼントされた際、ベルディムハメドフ大統領がカメラマンに向けて子犬の首根っこをつかんで高く持ち上げたのを見てギョッとした表情を見せ、その後急いで子犬を受け取り、優しく抱きかかえたという一幕があった。煙草は吸わず、酒もほとんど飲まない。愛車は母親が抽選で当てプレゼントされたZAZ-968(1972年モデル)、ラーダ・ニーヴァなどのロシアおよび旧ソ連圏の自動車である。尊敬している人物はロシア皇帝のピョートル1世とエカチェリーナ2世である。
プーチンは小学生のときから柔道とサンボをしており、柔道に関してはソ連時代にはソ連全国大会で3位になったこともある。段位は柔道八段である。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。2005年よりヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務め、また国際柔道連盟の名誉会長でもあったが、ウクライナ侵攻により解任されている。柔道について「柔道は単なるスポーツでは無い。柔道は哲学だ」と語っており、大統領就任前に『プーチンと学ぶ柔道』という本を出版するほど柔道好きである。2000年に来日した時は柔道の練習に飛び入り参加し、プーチン自身が日本の中学生に投げられた。投げられた後プーチンは中学生を投げた。投げられるプーチンの姿は印象的で、その写真や映像は世界中に報道された。警備員やSPは稽古とはいえ大統領が投げられるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。講道館より柔道六段の名誉段位贈呈を提示された時は、「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、1日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」と述べて丁重に辞退するなど、柔道に対して非常に真摯に向き合っている。
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