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yuzhoudajiangjun_552 2022年10月24日(月) 19:07:47履歴
シャジャススタン共和国
シャジャス人のルーツはロベルカ半島北部のステップ地帯から砂漠にかけて割拠していた遊牧民にあり、その祖先は古代ベルカの歴史書に名前が残る契骨族であるとする説が有力である。現存する諸資料によると、彼らはベルカ人に比べ四肢が長く、勇猛さではアルタイ族に劣るものの、より打算的で狡猾な性格であったとされる。また、放牧と狩猟を生業としつつも2世紀頃には農耕における知識も少なからず習得していたことが確認されている。
歴代のベルカ王朝との関係は非常に複雑であり、北方からの侵入や略奪を度々働くために軍事的対立は頻発したものの、契骨族の支配域では貂の毛皮や良馬が産出されたことから、ベルカ王朝にとっては有益な交易相手としての側面も備えていた。
1711年にカツゥジャ・ハン国の最高指導者ビュラク・ハンが死去すると、王位継承を巡ってブチャクハン、イーニンハン、ムズラクハンの三国へ分裂した。諸王が抗争を繰り返すことで互いに衰退していく状況を好機と見た西レーネ帝国とその傘下のアルタン・ウルスは、1735年に"大テュルク主義"を掲げて三国に対して自らの主宗下に入るよう要求した。中でもムズラクハンは早い段階からバサビア系の文化が浸透した南部を支配していたことから、共通の文化を有するアルタン・ウルスへ恭順の姿勢を見せたものの、古代ベルカ的な西方の思想が根強く残る他の二国は大テュルク主義に反発した。以降は親アルタイ派のムズラクハンと反アルタイ派のイーニン・ブチャク連合の対立構造が明確になる。
1760年代に入ると、膠着状態の打開を図ったイーニン・ブチャク連合が北の大国カリオニアに接近する。ブチャクハンはカリオニアからの後方支援を受ける約束を取り付け、物資調達の円滑化を目的とした首都カラチョフ(現アルトゥン)とカリオニアを繋ぐ新街道を建設した。この時カリオニアとの関係は良好かに思われたが、カリオニアもアルタンウルス同様に弱体化したカツゥジャ人諸王朝の征服を狙っていた。
1769年、帝政カリオニアは突如としてイーニン・ブチャク連合との同盟関係を破棄すると、ブチャクハンへと続く新街道に10万の軍隊を派兵し首都カラチョフへの侵攻を開始した。道路の舗装により主だった要害が排除され、かつカラチョフまで最短距離で到達できる新街道を用いた進軍は非常に迅速であり、カリオニアからの奇襲を受けたカラチョフは瞬く間に陥落した。カリオニアの侵攻開始から半年を経たずしてブチャク・ハン国はカリオニアの保護国となり、事態を重く見たイーニンハンは外交方針を急転換させる。対カリオニアの北部戦線へ兵力を集中させるため、西レーネ・アルタンウルス・ムズラク連合への和睦と救援を要請したイーニンハンであったが、カリオニアの内部工作により和平交渉は難航し、孤立したイーニン・ハン国もカリオニアの圧倒的な兵力と近代兵器に敗走を重ね1774年には全面降伏した。
ピオニ海東岸に位置するシャジャススタンは総面積が261,500㎢の比較的小規模な国土を有する国家であるが、その地形と気候は多様で変化に富んでいる。東西にかけての標高の変化は短い距離で生じており、国土の4分の1が山岳地帯とされる。なかでも東部の山岳地帯はガルシェント山脈の麓にあたり、トゥングリ州には最高峰のトゥングリ山(2,663m)がある。これらの山々は文化の境界線としての側面も持ち合わせており、外界から遮断された環境下で独自の習俗を守り続けてきた少数民族が多数居住する地域でもある。
また、国土の中央を東西に跨ぐエニエストル川はシャジャススタンにとって非常に重要な存在であり、現在ではピオニ海と暗海を繋ぐ運河としての交通インフラや灌漑業、観光業の一端を担っている。
気候に関しては、国内全地域を通して大陸性気候に属しており、比較的穏やかで四季もある。緯度が比較的高い為に冬は冷え込むが、ピオニ海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で曇りがちになる。年間平均気温は10°C前後である。
シャジャススタンの行政区画は、11つの州と4つの特別直轄市から成り、更に各州は複数の市級都市により構成されている。また、人口集中都市であるイーニン、アルトゥン、アカイブ?、トゥシュトゥク?は特別直轄市に指定されており、市級都市でありながら州級区画と同格に位置付けらている。
また近年では、歴史的に密接な関係にある西カリオニア連邦やアルタイ帝国との親密な関係を維持しつつ、小協商加盟国をはじめとした西カーリスト諸国との関係強化にも積極的な全方位外交を展開している。
[END]
シャジャススタンの鉄道網は、アルトゥン-トゥシュトゥク間を結ぶピオニ縦断線を基軸に各地域へ展開されるが、その多くは帝政カリオニア統治時代に敷設されたものであり、現在一部の地域では過度な設備の老朽化が問題視されている。
シャジャススタン鉄道運送省の管轄下にある国内路線の大部分は電化されていない一方で、1990年以降は人口集中都市における地下鉄開通計画が複数発表されており、中でも1993年開業予定のアルトゥン・メトロは都市部の渋滞緩和や新たな雇用創出の契機として注目されている。
主な産業としては農業、畜産業、軽工業、鉱業があげられる他、出稼ぎとしてソビエト連邦をはじめとした他の先進国で働くシャジャス人からの送金も大きな収入源となっている。
予てより旧宗主国であるソビエト連邦に大きく依存した経済構造を構築してきたが、ジャミル政権発足以降はその影響力からの脱却が図られており、独立100周年を迎えた際には通貨がルーリヴナから独自のソムへ切り替えられた。
ソビエト連邦とは一定の友好関係を保持しつつも、近年では小協商加盟国を中心に西カリオニア諸国との経済関係を強化しつつある。
シャジャススタンで民間用のインターネットが正式に導入されたのは聖暦1969年のことである。導入当初は未発達な通信インフラストラクチャや高額なプロバイダ料金により、ユーザーが都市部に住むごく一部の富裕層に限られていたが、1980年代以降には基地局の増設やプロバイダ事業の民営化、多極化が進み、インターネットの普及率も急速に増加した。1992年現在のインターネット普及率は85.7%となっている。
また、インターネットがシャジャススタンの民主化以降に登場した媒体であることから、書籍やテレビ以上に自由で政治的主題にも寛容な風潮がある。近年ではスマートフォン市場の拡大に加え、カツゥジャ語版のゴットックがリリースされるなどモバイル対応のSNSの普及が進んでおり、インターネットは若年層を中心に国民の生活に根付いたより身近な存在となりつつある。
シャジャススタンでは、カツゥジャ語が唯一の公用語として制定されている。現在カツゥジャ語の表記としてはキリル文字が主流であるが、1989年の憲法改正によりカツゥジャ文字の復活と表記の併用が発表され、2005年までに完全移行を目指すとして、カツゥジャ文字の普及が推進されている。
また、公用語であるカツゥジャ語を母語とする国民の割合は全体の82.3%であり、その他には北西カリオニア語やアルタイ語が使用されている。北西カリオニア語に関しては、1949年までカツゥジャ語と並んで公用語に制定されていた歴史を持ち、これは独立当初における政府の中枢を担っていた北西カリオニア語系住民の国外流出を防ぐための措置であったとされる。その為、現在ではウーロス族に加えて、カツゥジャ族でも一部のエリート層や高齢者は北西カリオニア語を使用することが出来る。
国旗?
| 詳細情報 | |
|---|---|
| 国の標語 | なし |
| 国歌 | 戮力協心? |
| 公用語 | カツゥジャ語 |
| 首都 | イーニン |
| 最大の都市 | アルトゥン |
| 人口 | 約1,858.8万人 |
| 憲法 | シャジャススタン共和国憲法? |
| 面積 | 261,500km2 |
| 通貨 | カール(CAL) |
| GDP | 1,200億4,502万ドル |
| 一人あたりのGDP | 6,458.2ドル |
| 政府首脳 | |
|---|---|
| 大統領 | ジャミル・ニャムノロヴ? |
| 首相 | シャギャ・ツェルナエフ? |
正式名称はシャジャス語でКатуу жерстан Республикасы(カツゥジャスタン・レスプブリカス)で、シャジャス人の民族自称名である"Катуу жер(カツゥジャ)"と「部族」を意味する"ястан (ヤスタン)"の合成語であるとされる。また、シャジャス人の起源が大陸西部の割脈砂漠にあることから、"カツゥジャ"の語源はシャジャス語での「荒涼とした地」に由来するとする説もある。
一方で国際的な場においては、シャジャススタン共和国の名称を用いられるのが一般的であるが、これは"Катуу жер(カツゥジャ)"が漢語に転写されたものであり、近代以降に西方の漢字文化圏における呼称である"黠戛肆"(Xíajíasī)が広く普及したことに起因する。
この"黠戛肆"の呼称には「狡猾で傲慢な者」といったニュアンスが含まれるため、近年では国際的な場においても正式名称である"カツゥジャスタン"が使用されることを望む国民も少なくない。
一方で国際的な場においては、シャジャススタン共和国の名称を用いられるのが一般的であるが、これは"Катуу жер(カツゥジャ)"が漢語に転写されたものであり、近代以降に西方の漢字文化圏における呼称である"黠戛肆"(Xíajíasī)が広く普及したことに起因する。
この"黠戛肆"の呼称には「狡猾で傲慢な者」といったニュアンスが含まれるため、近年では国際的な場においても正式名称である"カツゥジャスタン"が使用されることを望む国民も少なくない。
- 詳細はシャジャス人の歴史?を参照。
2世紀頃の西イオニア 緑が契骨族の支配地域
シャジャス人のルーツはロベルカ半島北部のステップ地帯から砂漠にかけて割拠していた遊牧民にあり、その祖先は古代ベルカの歴史書に名前が残る契骨族であるとする説が有力である。現存する諸資料によると、彼らはベルカ人に比べ四肢が長く、勇猛さではアルタイ族に劣るものの、より打算的で狡猾な性格であったとされる。また、放牧と狩猟を生業としつつも2世紀頃には農耕における知識も少なからず習得していたことが確認されている。
歴代のベルカ王朝との関係は非常に複雑であり、北方からの侵入や略奪を度々働くために軍事的対立は頻発したものの、契骨族の支配域では貂の毛皮や良馬が産出されたことから、ベルカ王朝にとっては有益な交易相手としての側面も備えていた。
7世紀頃になると、契骨族は伝統的な遊牧文化を継承しつつも部分的にベルカ文化を受容することで独自の習俗を形成させつつあった。9世紀頃からは独自の表意文字である契骨文字の使用が始まり、また、自らを"カツゥジャ"と名乗っていたことから、ベルカではそれを転写した"黠戛肆(シャジャス)"の呼称が定着したのもこの時期である。
その後ベルカの歴史書から彼らに関する記述は急速に数を減らし、12世紀末の「黠戛肆人が遊牧地域を東方へ移動させつつある」といった旨の記録を最後にベルカ文化圏から忽然と姿を消している。また、その半世紀後にはカーリストの歴史書にて"カツゥジャ"を名乗る遊牧民の存在が初めて登場することから、13世紀初頭におけるシャジャス人の東方進出はほぼ確実視されているが、その経緯や詳細については未だ解明されていない部分が数多く残る。*1
その後ベルカの歴史書から彼らに関する記述は急速に数を減らし、12世紀末の「黠戛肆人が遊牧地域を東方へ移動させつつある」といった旨の記録を最後にベルカ文化圏から忽然と姿を消している。また、その半世紀後にはカーリストの歴史書にて"カツゥジャ"を名乗る遊牧民の存在が初めて登場することから、13世紀初頭におけるシャジャス人の東方進出はほぼ確実視されているが、その経緯や詳細については未だ解明されていない部分が数多く残る。*1
先述の通り12世紀末に一度は歴史の表舞台から姿を消したシャジャス人であったが、半世紀後にイオニア東部でその存在が再び確認されることとなる。彼らはピオニ海沿岸のウグ族の地を征服し、1234年にはシャジャス人の王朝 趙が建国された。以後シャジャス人による定住化が進み、原住民族であるコーカソイドのウグ族との混血が進んだことで今のシャジャス人の基礎が形成された。
14世紀初頭のバルバ・ハンの治世には国号をカツゥジャ・ハン国へ改称し、17世紀頃にはピオニ海での水上交易やシルクロード交易で最盛期を迎えた。
14世紀初頭のバルバ・ハンの治世には国号をカツゥジャ・ハン国へ改称し、17世紀頃にはピオニ海での水上交易やシルクロード交易で最盛期を迎えた。
18世紀のシャジャススタン
1711年にカツゥジャ・ハン国の最高指導者ビュラク・ハンが死去すると、王位継承を巡ってブチャクハン、イーニンハン、ムズラクハンの三国へ分裂した。諸王が抗争を繰り返すことで互いに衰退していく状況を好機と見た西レーネ帝国とその傘下のアルタン・ウルスは、1735年に"大テュルク主義"を掲げて三国に対して自らの主宗下に入るよう要求した。中でもムズラクハンは早い段階からバサビア系の文化が浸透した南部を支配していたことから、共通の文化を有するアルタン・ウルスへ恭順の姿勢を見せたものの、古代ベルカ的な西方の思想が根強く残る他の二国は大テュルク主義に反発した。以降は親アルタイ派のムズラクハンと反アルタイ派のイーニン・ブチャク連合の対立構造が明確になる。
1760年代に入ると、膠着状態の打開を図ったイーニン・ブチャク連合が北の大国カリオニアに接近する。ブチャクハンはカリオニアからの後方支援を受ける約束を取り付け、物資調達の円滑化を目的とした首都カラチョフ(現アルトゥン)とカリオニアを繋ぐ新街道を建設した。この時カリオニアとの関係は良好かに思われたが、カリオニアもアルタンウルス同様に弱体化したカツゥジャ人諸王朝の征服を狙っていた。
1769年、帝政カリオニアは突如としてイーニン・ブチャク連合との同盟関係を破棄すると、ブチャクハンへと続く新街道に10万の軍隊を派兵し首都カラチョフへの侵攻を開始した。道路の舗装により主だった要害が排除され、かつカラチョフまで最短距離で到達できる新街道を用いた進軍は非常に迅速であり、カリオニアからの奇襲を受けたカラチョフは瞬く間に陥落した。カリオニアの侵攻開始から半年を経たずしてブチャク・ハン国はカリオニアの保護国となり、事態を重く見たイーニンハンは外交方針を急転換させる。対カリオニアの北部戦線へ兵力を集中させるため、西レーネ・アルタンウルス・ムズラク連合への和睦と救援を要請したイーニンハンであったが、カリオニアの内部工作により和平交渉は難航し、孤立したイーニン・ハン国もカリオニアの圧倒的な兵力と近代兵器に敗走を重ね1774年には全面降伏した。
イーニン・ブチャク連合を降した帝政カリオニアは1774年には旧ブチャク、イーニン領を軍政機関であるトルキスタン総督府として再編成した。これにより西イオニア方面の前哨基地として本格的なカツゥジャ人の統治に踏み出したカリオニアであったが、その統治は苛烈を極めたためカツゥジャ人の不満や抵抗を生むこととなった。
1776年には城塞都市ヒサールにて旧イーニンハンの忠臣として知られるイブラヒム・ギュネイ?が、翌年1777年には旧イーニン領山岳部に住むテングリ族のスライマンとマフムードが、トルキスタン総督府の専横を理由に反乱を起こし、西レーネ・アルタン・ムズラク連合もこれらの動乱に呼応し反乱軍への援軍を送った。
ヒサール反乱の主導者イブラヒムは飽くまでイーニンハンの再興を目的としていたことから、西レーネ陣営との連携に欠いたこともあり、1年足らずで鎮圧されることとなった。一方のスライマン率いるテングリ族はアルタンウルス、西レーネ双方からの支援を最大限に活かした他、山岳地形を利用したゲリラ戦によりカリオニアの大軍を翻弄し、戦局を優位に進めることができた。1778年に戦線が膠着状態に陥ると、他国との戦争も控えていたカリオニアはこれ以上の継戦が困難であると判断し、テングリ族の居住する旧イーニン領東部の放棄を決定した。
1778年、旧イーニンハンの首都 イーニンにて和平協定が締結され、旧イーニン東部は西レーネ傘下のアルタンウルスへ帰属することが約束された。
1776年には城塞都市ヒサールにて旧イーニンハンの忠臣として知られるイブラヒム・ギュネイ?が、翌年1777年には旧イーニン領山岳部に住むテングリ族のスライマンとマフムードが、トルキスタン総督府の専横を理由に反乱を起こし、西レーネ・アルタン・ムズラク連合もこれらの動乱に呼応し反乱軍への援軍を送った。
ヒサール反乱の主導者イブラヒムは飽くまでイーニンハンの再興を目的としていたことから、西レーネ陣営との連携に欠いたこともあり、1年足らずで鎮圧されることとなった。一方のスライマン率いるテングリ族はアルタンウルス、西レーネ双方からの支援を最大限に活かした他、山岳地形を利用したゲリラ戦によりカリオニアの大軍を翻弄し、戦局を優位に進めることができた。1778年に戦線が膠着状態に陥ると、他国との戦争も控えていたカリオニアはこれ以上の継戦が困難であると判断し、テングリ族の居住する旧イーニン領東部の放棄を決定した。
1778年、旧イーニンハンの首都 イーニンにて和平協定が締結され、旧イーニン東部は西レーネ傘下のアルタンウルスへ帰属することが約束された。
シャジャススタンの政治体制は共和制で、議院内閣制を敷きつつも大統領が強い権限を有する半大統領制を採用している。このような組織構造には、大国に挟まれた国際情勢下において、国民を団結させることができる求心力を持つ指導者が独立当初から求められてきた歴史的経緯が大きく影響している。
大統領の任期は6年(三選不可)で、直接選挙により議会から選出される。大統領は憲法にて「全国民の統合の象徴」と明記されており議会解散権こそ有さないものの、軍最高司令官を兼ねる他、議会における可決法案の拒否権や首相の任命権などが委ねられている。
同国の首相は、議会の承認をもって大統領が任命することとなっており、またその首相の助言を元に大統領が閣僚を任命することで"ディーヴァーン"と呼ばれる内閣が発足される。彼らの任期は大統領に委ねられており、大統領の任期満了とともに内閣は総辞職し、新たな内閣も再編成される。
立法府は116議席からなる国民評議会の一院制であり、103議席は比例代表制による直接選挙で選出される一方で、残りの13議席は諸民族の代表機関であるシャジャススタン民族代表委員会より選出される。また、民主化当初に著しい小党分立状態を招いたことから、1970年からはシャジャススタン民族代表委員会の13議席を除いた103議席に5%以上の得票率を基準とする足切り条項が設けられた。
シャジャススタン第8代大統領 ジャミル・ニャムノロヴ
大統領の任期は6年(三選不可)で、直接選挙により議会から選出される。大統領は憲法にて「全国民の統合の象徴」と明記されており議会解散権こそ有さないものの、軍最高司令官を兼ねる他、議会における可決法案の拒否権や首相の任命権などが委ねられている。
同国の首相は、議会の承認をもって大統領が任命することとなっており、またその首相の助言を元に大統領が閣僚を任命することで"ディーヴァーン"と呼ばれる内閣が発足される。彼らの任期は大統領に委ねられており、大統領の任期満了とともに内閣は総辞職し、新たな内閣も再編成される。
立法府は116議席からなる国民評議会の一院制であり、103議席は比例代表制による直接選挙で選出される一方で、残りの13議席は諸民族の代表機関であるシャジャススタン民族代表委員会より選出される。また、民主化当初に著しい小党分立状態を招いたことから、1970年からはシャジャススタン民族代表委員会の13議席を除いた103議席に5%以上の得票率を基準とする足切り条項が設けられた。
- 詳細はシャジャススタンの政党一覧を参照。
エニエストル運河(ウズガン市)
ピオニ海東岸に位置するシャジャススタンは総面積が261,500㎢の比較的小規模な国土を有する国家であるが、その地形と気候は多様で変化に富んでいる。東西にかけての標高の変化は短い距離で生じており、国土の4分の1が山岳地帯とされる。なかでも東部の山岳地帯はガルシェント山脈の麓にあたり、トゥングリ州には最高峰のトゥングリ山(2,663m)がある。これらの山々は文化の境界線としての側面も持ち合わせており、外界から遮断された環境下で独自の習俗を守り続けてきた少数民族が多数居住する地域でもある。
また、国土の中央を東西に跨ぐエニエストル川はシャジャススタンにとって非常に重要な存在であり、現在ではピオニ海と暗海を繋ぐ運河としての交通インフラや灌漑業、観光業の一端を担っている。
気候に関しては、国内全地域を通して大陸性気候に属しており、比較的穏やかで四季もある。緯度が比較的高い為に冬は冷え込むが、ピオニ海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で曇りがちになる。年間平均気温は10°C前後である。
シャジャススタンの行政区画は、11つの州と4つの特別直轄市から成り、更に各州は複数の市級都市により構成されている。また、人口集中都市であるイーニン、アルトゥン、アカイブ?、トゥシュトゥク?は特別直轄市に指定されており、市級都市でありながら州級区画と同格に位置付けらている。
| 番号 | 州/市名 | 州都 | 人口 | 地域 | 概略 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | アルトゥン市 | - | 1,974,000人 | 北西 | クバン半島東部に位置する同国最大の都市。近代から経済の中心地として栄え、帝政カリオニア統治時代の影響が残る街並みを持つことから"殲海のモスコーヴェン"と呼ばれる。 |
| 2 | ブチャク州 | ムジュヘル市 | 1,091,000人 | 古来より商業で栄えてきた街で、西カリオニア連邦の国境に位置することもあり、他の地域に比べウーロス族の割合が高い。 | |
| 3 | トルガルト州 | ヒサール市 | 875,000人 | 河北 | 州都ヒサールは、かつて帝政カリオニアの侵攻に備えて巨大な城壁が築かれた都市であり、カツゥジャ語で"砦の町"を意味する。現在では畜産業が盛ん。 |
| 4 | リマン州 | チェシメ市 | 905,000人 | 州都のチェシメはカツゥジャ語で"泉の町"を意味し、かつて治療に役立つとされた鉱水の産地であったことに由来する。現在では工業化が進められている他、州南部を流れるファイカヌル川やバイシュー湖を利用した水力発電を生業としている。 | |
| 5 | アカイブ市? | - | 778,000人 | シャジャススタン中部における産業の中心地。鉄や鉛をはじめとした鉱物の産出地であることから、金属類、機械類を生産する工業地帯の開発が進められている。 | |
| 6 | カラカル州 | バライクチ市 | 1,748,000人 | 河南 | バライクチは国内屈指の湾口都市で、殲海沿岸に位置する諸外国との水上交易が盛んな他、石油の埋蔵が確認されて以降は油田開発の拠点となっている。 |
| 7 | アオシュ州 | ウズガン市 | 2,527,000人 | エニエストル川を中心に水田が広がる穀倉地帯。 | |
| 8 | イーニン市 | - | 1,608,000人 | 同国の首都。隊商の街道と運河が交わる交通の要衝として栄えた古都であり、カツゥジャ人の文化的中心地である。 | |
| 9 | イェニダリヤ州 | ネビダグ市 | 1,387,000人 | 三国時代にイーニン・ハン国とムズラク・ハン国の係争地であったことから、古戦場としての史跡が多数存在する他、近年では殲海沿岸でのリゾート開発が進められている。 | |
| 10 | シンハンジョ州 | ナンディン市 | 745,000人 | 中央高原 | 州中央にはナンディン盆地が広がり、14世紀以降に契骨族の統治を補佐する文官(君子営)として移住してきた漢民族の末裔であるジョンヤン族が多く居住する。 |
| 11 | トゥングリ州 | イェニ・トゥグリル市 | 539,000人 | 州東部には国内最高峰のトゥングリ山がそびえ、この地に居住する少数民族のテングリ族は馴致したイヌワシを用いて狩猟を行うことで有名である。 | |
| 12 | ホアタン州 | イルクシュトム市 | 865,000人 | 大河を利用した灌漑による綿花栽培が盛んな地域であり、ホアタン綿花は世界有数の高級品種として知られる。 | |
| 13 | グーモー州 | アカス市 | 649,000人 | トルガルト州に次ぐ羊毛の産地である他、高純度な鉱塩の採掘地としても知られる。 | |
| 14 | ムズラク州 | シャルク市 | 2,181,000人 | 南中 | 州都のシャルク市は、18世紀の南北朝時代にバサビア系王朝のムズラク・ハン国が首都に定めた都市であり、現在でもアル・サライ宮殿をはじめとした数多くのバサビア風建築物が残る。 |
| 15 | トゥシュトゥク市? | - | 716,000人 | かつては河川の氾濫が絶えない地域であったが、エニエストル運河の治水事業により現在では南中地方の中心都市となっている。アルタイ族が多く居住する街としても知られる。 |
- 詳細はシャジャススタンの国際関係を参照。
また近年では、歴史的に密接な関係にある西カリオニア連邦やアルタイ帝国との親密な関係を維持しつつ、小協商加盟国をはじめとした西カーリスト諸国との関係強化にも積極的な全方位外交を展開している。
[END]
ピオニ縦断線を走るディーゼル気動車
シャジャススタンの鉄道網は、アルトゥン-トゥシュトゥク間を結ぶピオニ縦断線を基軸に各地域へ展開されるが、その多くは帝政カリオニア統治時代に敷設されたものであり、現在一部の地域では過度な設備の老朽化が問題視されている。
シャジャススタン鉄道運送省の管轄下にある国内路線の大部分は電化されていない一方で、1990年以降は人口集中都市における地下鉄開通計画が複数発表されており、中でも1993年開業予定のアルトゥン・メトロは都市部の渋滞緩和や新たな雇用創出の契機として注目されている。
現在はカツゥジャ航空がシャジャススタンのフラッグキャリアであり、アルトゥン国際空港をハブ空港としてカーリストを中心に世界各国の主要都市間を結んでいる。
- 詳細はシャジャススタン共和国軍を参照。
- 詳細はシャジャススタンの経済?を参照。
主な産業としては農業、畜産業、軽工業、鉱業があげられる他、出稼ぎとしてソビエト連邦をはじめとした他の先進国で働くシャジャス人からの送金も大きな収入源となっている。
予てより旧宗主国であるソビエト連邦に大きく依存した経済構造を構築してきたが、ジャミル政権発足以降はその影響力からの脱却が図られており、独立100周年を迎えた際には通貨がルーリヴナから独自のソムへ切り替えられた。
ソビエト連邦とは一定の友好関係を保持しつつも、近年では小協商加盟国を中心に西カリオニア諸国との経済関係を強化しつつある。
シャジャススタンの工業は、古くから天然ガスや石油などの有機鉱物資源、またそれらを利用した石油化学製品の生産に大きく依存する点に特徴をもつ。
また製造業においては、綿花を利用した衣類製造が伝統的な主要産業ではあるが、自動車や通信機器の国内需要増加に伴い、それらの国内市場も近年急速に拡大しつつある。なかでもシャジャススタンは原材料や小型部品などの川上、川中産業の発展に注力しており、代表的な企業としては電子回路基板メーカーのチャルガフ・プリンテッドサーキットや、バッテリーメーカーのイスカンデル・エナジーテック?などが挙げられる。これらの企業は国内の部品需要に対応しているだけでなく、近年では高品質を求められるカーリストの規格に見合った製造技術を実現してきており、シャジャススタンの製造業が躍進するための活路として注目されている。
また製造業においては、綿花を利用した衣類製造が伝統的な主要産業ではあるが、自動車や通信機器の国内需要増加に伴い、それらの国内市場も近年急速に拡大しつつある。なかでもシャジャススタンは原材料や小型部品などの川上、川中産業の発展に注力しており、代表的な企業としては電子回路基板メーカーのチャルガフ・プリンテッドサーキットや、バッテリーメーカーのイスカンデル・エナジーテック?などが挙げられる。これらの企業は国内の部品需要に対応しているだけでなく、近年では高品質を求められるカーリストの規格に見合った製造技術を実現してきており、シャジャススタンの製造業が躍進するための活路として注目されている。
シャジャススタンのメディアは、建国以来長年に渡り言論の自由が厳しく制約されてきた歴史を持つが、1965年のコットン革命?を発端とする民主化運動以降は、各方面のメディアで漸近的ながら自由化が推し進められている。
現在のシャジャススタン憲法では第31条にて言論と報道の自由を保証しており、如何なる報道機関に対しても政府が検閲することは禁じられている。一方でシャジャススタンが多宗教・多民族国家であり且つそれらに起因する暴動が過去にも多数勃発した経緯から、民族問題には非常に敏感であり、民族対立を煽るような言論や暴力的なプロパガンダは民族協和維持法により厳しく取り締まられている。
現在のシャジャススタン憲法では第31条にて言論と報道の自由を保証しており、如何なる報道機関に対しても政府が検閲することは禁じられている。一方でシャジャススタンが多宗教・多民族国家であり且つそれらに起因する暴動が過去にも多数勃発した経緯から、民族問題には非常に敏感であり、民族対立を煽るような言論や暴力的なプロパガンダは民族協和維持法により厳しく取り締まられている。
シャジャススタンにおけるラジオは民主化運動の最も早い段階で自由化が図られた媒体であり放送内容も多様性に富んでいることから、国民の情報源として他国に比べ重要な地位を占めている点に特徴を持つ。またテレビよりパーソナリティとの触れ合いを強く感じられることも、ラジオが依然として根強い人気を誇る要因の一つであるとされる。
1992年現在、シャジャススタンにはAM11局、FM29局が存在し、経営形式に主眼を置くと政府が所有する公共放送のKatsujia 1?とその他各地域に存在する民間放送に大別される。公共放送がニュースや教育といったトピックスを集中的に取り上げるのに対し、民間放送は音楽番組やラジオドラマといったポップカルチャーに軸を置いた放送内容となっている。主な民間放送としてはFMカツゥジャなどが挙げられる。
1992年現在、シャジャススタンにはAM11局、FM29局が存在し、経営形式に主眼を置くと政府が所有する公共放送のKatsujia 1?とその他各地域に存在する民間放送に大別される。公共放送がニュースや教育といったトピックスを集中的に取り上げるのに対し、民間放送は音楽番組やラジオドラマといったポップカルチャーに軸を置いた放送内容となっている。主な民間放送としてはFMカツゥジャなどが挙げられる。
ヒサール郊外のネットカフェ
自宅のネット環境が整っていない若年者に人気である
自宅のネット環境が整っていない若年者に人気である
シャジャススタンで民間用のインターネットが正式に導入されたのは聖暦1969年のことである。導入当初は未発達な通信インフラストラクチャや高額なプロバイダ料金により、ユーザーが都市部に住むごく一部の富裕層に限られていたが、1980年代以降には基地局の増設やプロバイダ事業の民営化、多極化が進み、インターネットの普及率も急速に増加した。1992年現在のインターネット普及率は85.7%となっている。
また、インターネットがシャジャススタンの民主化以降に登場した媒体であることから、書籍やテレビ以上に自由で政治的主題にも寛容な風潮がある。近年ではスマートフォン市場の拡大に加え、カツゥジャ語版のゴットックがリリースされるなどモバイル対応のSNSの普及が進んでおり、インターネットは若年層を中心に国民の生活に根付いたより身近な存在となりつつある。
シャジャススタンは13の民族からなる多民族国家であり、1992年における統計では、カツゥジャ族が83.4%、アルタイ族が7.8%、ウーロス族*2が5.1%、テングリ族1.7%、ジョンヤン族0.9%といった民族構成となっている。
地域ごとでの民族分布差も大きく、首都イーニンを含むエニエストル川周辺を中心とした河南地方の住民は殆どがカツゥジャ族である一方で、アルトゥンやムジュヘルなどの北西地方にはウーロス族が、旧アルタイ帝国の支配下にあった南中地方にはアルタイ族が多くが住む。また、東部の山岳地帯にはテングリ族をはじめとした少数民族が集中しており、古来から受け継がれる独自の伝統や習俗に倣った生活を続ける集団も少なからず存在する。
地域ごとでの民族分布差も大きく、首都イーニンを含むエニエストル川周辺を中心とした河南地方の住民は殆どがカツゥジャ族である一方で、アルトゥンやムジュヘルなどの北西地方にはウーロス族が、旧アルタイ帝国の支配下にあった南中地方にはアルタイ族が多くが住む。また、東部の山岳地帯にはテングリ族をはじめとした少数民族が集中しており、古来から受け継がれる独自の伝統や習俗に倣った生活を続ける集団も少なからず存在する。
シャジャススタンでは、カツゥジャ語が唯一の公用語として制定されている。現在カツゥジャ語の表記としてはキリル文字が主流であるが、1989年の憲法改正によりカツゥジャ文字の復活と表記の併用が発表され、2005年までに完全移行を目指すとして、カツゥジャ文字の普及が推進されている。
また、公用語であるカツゥジャ語を母語とする国民の割合は全体の82.3%であり、その他には北西カリオニア語やアルタイ語が使用されている。北西カリオニア語に関しては、1949年までカツゥジャ語と並んで公用語に制定されていた歴史を持ち、これは独立当初における政府の中枢を担っていた北西カリオニア語系住民の国外流出を防ぐための措置であったとされる。その為、現在ではウーロス族に加えて、カツゥジャ族でも一部のエリート層や高齢者は北西カリオニア語を使用することが出来る。
- 詳細はシャジャススタンの音楽?を参照。
- 詳細はシャジャススタンの料理?を参照。
- 詳細はシャジャススタンのスポーツを参照。
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