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otonjji256 2022年10月12日(水) 13:51:02履歴
| ポマレ朝ラピタ王国 އަ އު ޕ އު ނ އި މ އޫ އި އޮ ލ އަ ޕ އި ޓ އަ(Aupuni Mōʻī o Lapita) | |
|---|---|
| 国旗・国章 | |
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| 詳細情報 | |
| 国の標語 | Ua Mau ke Ea o ka ʻĀina i ka Pono (ラピタ語:土地の生命は正義によって永らえる) |
| 国歌 | 法定国歌は無し |
| 公用語 | ラピタ語他 |
| 首都 | タアロア |
| 最大の都市 | タアロア |
| 人口 | 約943,400人(1990年度) |
| 憲法 | ラピタ王国憲法? |
| 面積 | 約73,600㎢(陸地面積) |
| 通貨 | 現在は無し。貿易向けにラピタ・ピアストルを発行していた先例あり |
| GDP | 貨幣経済が未発達の為換算不可 |
| 王国政府 | |
|---|---|
| 国王 | ポマレ10世? |
| 摂政 | ジョアシャン・リホリホ・ポマレ? |
主要な領域は王国領域の東部に位置するラピタ島と、その北に存在するライアテア島、マナルウイ島、ボラボラ島の4つ(サンタクルス群島。四つの島が十字架状に存在する為))であり、この他に属島として合わせて約450個の島・環礁を抱える。(環礁内の微細な様々を含めば、約3,600個に達すると推定。うち有人の島及び環礁は83)
この内全人口の約8割が上記4つの島に居住し、特にラピタ島には全人口の約半数が居住している。
これらの島々は、国土の東南に本土の島が位置し、そこから北西に向かう様にして小群島が伸びる形をしている。
この内全人口の約8割が上記4つの島に居住し、特にラピタ島には全人口の約半数が居住している。
これらの島々は、国土の東南に本土の島が位置し、そこから北西に向かう様にして小群島が伸びる形をしている。
ラピタ島はホットスポット上に位置し、多数の活火山を有する王国最大の島である。島内最高峰は中央(現地では世界の背と呼ばれる)に聳える標高4,213メートルのオロヘナ山。島内には複数の山脈と、火山の活動によって形成された渓谷や温泉地が多く存在する一方、年間降水量は凡そ3,000mmと世界有数の多さを誇り、島の凡そ7割は熱帯雨林に覆われた険阻な山岳が占める。
オロヘナ山を擁する大山脈の北西側には、島の面積の20%を占める広大な平野部(マタバイ平野)があり、現在ではそこに王国の首都タアロアと政府機関が置かれている。
また、山脈周辺からは幾つかの大河が流れ、農業を潤すと同時に様々な固有種の住処となっている。
主な産業は自給自足の為の農業と、温泉による湯治、そして島の各地にある貴金属・ルビー鉱脈の小規模な採掘である。
オロヘナ山を擁する大山脈の北西側には、島の面積の20%を占める広大な平野部(マタバイ平野)があり、現在ではそこに王国の首都タアロアと政府機関が置かれている。
また、山脈周辺からは幾つかの大河が流れ、農業を潤すと同時に様々な固有種の住処となっている。
主な産業は自給自足の為の農業と、温泉による湯治、そして島の各地にある貴金属・ルビー鉱脈の小規模な採掘である。
ラピタ島の北西に位置するライアテア島も同じく火山性の島であり、標高2,720メートルのロアテリア山を中心として火山灰の堆積した土壌と、その上に育つ熱帯雨林が広がっている。
ラピタ島に比べて地形が平らであり、比較的早期に統一がなされた。
王国有数の穀倉地帯であり、食糧生産で重要な立場を占める。特産物はタロイモと豚肉。
ラピタ島に比べて地形が平らであり、比較的早期に統一がなされた。
王国有数の穀倉地帯であり、食糧生産で重要な立場を占める。特産物はタロイモと豚肉。
ラピタ島の北東に位置する島。ライアテア島とはボラボラ島を挟んで向かい合う位置にある。
火山性の島ではない為、他の島と違って極端に地形が平らである。
熱帯雨林気候であることに変わりはないが、他の島には居ない巨大な蛇が棲んでおり、大型の哺乳類に代わる生態ニッチを占めている。
また、周辺に世界有数のサンゴ礁が形成されており、豊富な海洋資源の源泉となっている。
火山性の島ではない為、他の島と違って極端に地形が平らである。
熱帯雨林気候であることに変わりはないが、他の島には居ない巨大な蛇が棲んでおり、大型の哺乳類に代わる生態ニッチを占めている。
また、周辺に世界有数のサンゴ礁が形成されており、豊富な海洋資源の源泉となっている。
マナルウイ島とライアテア島の中間に位置する島。サンゴ礁に囲まれた険しい山岳の島であり、風光明媚な保養地でもある。
エメラルドの鉱山があるが、それ以上にアホウドリの群生地として著名であり、堆積したフンから作られるグアノが特産物。
エメラルドの鉱山があるが、それ以上にアホウドリの群生地として著名であり、堆積したフンから作られるグアノが特産物。
その他、有人無人合わせて400以上の微細な有人島・環礁が周辺海域にある。これらの島々は豊富な海洋資源の他、サファイア、ダイヤモンドなどの宝石類の地下鉱脈を埋蔵しており、小規模ながら採掘が行われ、国の財政を潤している。
トゥアナケ諸島はラピタ島の南に位置する無人島群で、農業には向かず鉱物資源にも乏しいことから放置されてきたが、聖暦1987年にベルカ連邦を主体とした金山の廃石を青化法でリサイクルする国際会社の用地として租借が認められ、現在では凡そ2万人が居住する王国の一大経済拠点となっている。
諸島には本土とは対照的な近代的建築、設備が溢れており、事実上の治外法権も認められたほぼ外国の様相を呈している。
諸島には本土とは対照的な近代的建築、設備が溢れており、事実上の治外法権も認められたほぼ外国の様相を呈している。
手付かずの熱帯雨林や周辺海域には、世界でも稀な程多様な生態系が形成され、生物の多くは固有種である。
その代表的なものは、ラピタ島に棲む最後の恐鳥類リコオルニスや、ティナカワイルカ(汽水域に主に生息。偶に上流へ遡上する)などが知られている。
ラピタ王国内の既発見固有種の一覧
・ハカワイオオワシ(ラピタ王国固有種。翼開長1.8メートルに達する巨大な猛禽類。ラピタ島・マナルウイ島で繁殖する)
・プエオフクロウ(ラピタ島固有種)
・ラピタガラス(アララとも。王国の国鳥でもある)
・リコオルニス・ラピタエンシス(ラピタ島固有種。最大体高2メートルの飛べない鳥。意外にも木の実を中心に食べる雑食。偶に小動物やイノシシの肉を漁る。この星で最後に生き残った恐鳥類とも)
・マナルウイモオボア(マナルウイ島固有種。最大で3メートルになる大型の蛇)
・ティナカワイルカ(ラピタ島固有種)
・ラピタオウギハクジラ(周辺海域固有種。生体捕獲例無し)
他
また、周辺にはまだまだ未発見の新種が多数存在すると考えられている。
その代表的なものは、ラピタ島に棲む最後の恐鳥類リコオルニスや、ティナカワイルカ(汽水域に主に生息。偶に上流へ遡上する)などが知られている。
ラピタ王国内の既発見固有種の一覧
・ハカワイオオワシ(ラピタ王国固有種。翼開長1.8メートルに達する巨大な猛禽類。ラピタ島・マナルウイ島で繁殖する)
・プエオフクロウ(ラピタ島固有種)
・ラピタガラス(アララとも。王国の国鳥でもある)
・リコオルニス・ラピタエンシス(ラピタ島固有種。最大体高2メートルの飛べない鳥。意外にも木の実を中心に食べる雑食。偶に小動物やイノシシの肉を漁る。この星で最後に生き残った恐鳥類とも)
・マナルウイモオボア(マナルウイ島固有種。最大で3メートルになる大型の蛇)
・ティナカワイルカ(ラピタ島固有種)
・ラピタオウギハクジラ(周辺海域固有種。生体捕獲例無し)
他
また、周辺にはまだまだ未発見の新種が多数存在すると考えられている。
ラピタ王国の領域を囲む様に流れている非常に強い海流。現地語の名称は「海竜の背」。
最も強い場所は、近代の蒸気船の出力を持ってしても横断が困難であり、長きに渡って王国を侵略から守る天然の盾となっていた。
一方、周辺を吹く風と流れの方向性を利用すれば、非常に速いスピードで航行することも可能であり、近隣諸国の貿易商人によって利用されてきた側面もある。
最も強い場所は、近代の蒸気船の出力を持ってしても横断が困難であり、長きに渡って王国を侵略から守る天然の盾となっていた。
一方、周辺を吹く風と流れの方向性を利用すれば、非常に速いスピードで航行することも可能であり、近隣諸国の貿易商人によって利用されてきた側面もある。
大規模な調査が行われたことが無い為、正確な資源埋蔵量は明らかにされていないが、外国支援のもと王国政府が行った調査では、ラピタ島には多数の金山、ライアテア島にも多くの銀山が確認されており、それぞれ世界でも有数の埋蔵量を持つと推定されている。
また、レアメタルについても、チタンの鉱石が豊富に存在する可能性が示されており、現在の小規模かつ原始的な手法から、近代的な大規模鉱業に移行すれば、これらの資源を大量かつ効率的に増産し、一気に資源大国になりうると期待されている。
一方で、王国政府は多数の国民と固有種が住む熱帯雨林の大規模な破壊を伴う開発には慎重であり、今のところ精錬技術の向上による増産のみにとどめている。
また、レアメタルについても、チタンの鉱石が豊富に存在する可能性が示されており、現在の小規模かつ原始的な手法から、近代的な大規模鉱業に移行すれば、これらの資源を大量かつ効率的に増産し、一気に資源大国になりうると期待されている。
一方で、王国政府は多数の国民と固有種が住む熱帯雨林の大規模な破壊を伴う開発には慎重であり、今のところ精錬技術の向上による増産のみにとどめている。
ラピタ島とその周辺にいつ頃人が住み始めたかについては、未だに定説を見ない。伝承によれば、ピリカ・アイエアなる人物に率いられたカヌー船団が、現在のマタバイ湾に上陸し、以降島全域に人々が居住し始めたとされる。
考古学的な証拠としては、ラピタ北東部で出土した石器群や遺跡の数々は、少なくとも2000年前にはこの島に最初の人類が到達したことを示している。
が、それらの様式はイオニア州の他の国家のそれとは似ていない全く独自のものであり、関連性は掴めていない。
だが、いずれにしても今から凡そ1000年前の段階では、既に島はいくつかの小首長国に分断され、断続的な戦闘を伴う、中世的な群雄割拠の時代に突入していたことは確実な様である。
(この時代については文字が無いために、詳しい歴史は伝承や伝説の断片から推察するより他に無いが、ポマレ1世の祖父とされる、ピリカ首長ロノイマカヒキ・ヴァア・アトゥア以降の首長については、実在がほぼ確実視されているとともに、彼らの時代においては、島は大まかに七つの大国と、それらに従属する二〇余の小国に分裂していたとされている。これらについては、年代記の冒頭や各地に散らばる伝承を編んだ歴史書から読み取ることができ、現在研究が進められている)
詳細は統一以前のラピタ島の歴史を参照
考古学的な証拠としては、ラピタ北東部で出土した石器群や遺跡の数々は、少なくとも2000年前にはこの島に最初の人類が到達したことを示している。
が、それらの様式はイオニア州の他の国家のそれとは似ていない全く独自のものであり、関連性は掴めていない。
だが、いずれにしても今から凡そ1000年前の段階では、既に島はいくつかの小首長国に分断され、断続的な戦闘を伴う、中世的な群雄割拠の時代に突入していたことは確実な様である。
(この時代については文字が無いために、詳しい歴史は伝承や伝説の断片から推察するより他に無いが、ポマレ1世の祖父とされる、ピリカ首長ロノイマカヒキ・ヴァア・アトゥア以降の首長については、実在がほぼ確実視されているとともに、彼らの時代においては、島は大まかに七つの大国と、それらに従属する二〇余の小国に分裂していたとされている。これらについては、年代記の冒頭や各地に散らばる伝承を編んだ歴史書から読み取ることができ、現在研究が進められている)
詳細は統一以前のラピタ島の歴史を参照
ラピタ島を有史以来初めて統一したポマレ1世は、本名をティナといい、伝承によれば島を開拓した伝説の指導者ピリカ・アイエアの子孫であるとされる。
彼自身が編纂を開始し、孫のポマレ3世が完成させた叙事詩「ピリカ叙事詩」、並びに後世に執筆された「ポマレ年代記」によれば、ポマレ1世は次の様な人物であった。
彼は真名をティナと云う。祖はピリカ・アイエア、父はテウ・トゥヌイエアイテ・アトゥア、と云いマタバイ・ピリカ国のアリイ(君主・首長)であった。…生まれながらにして髪は白波の如く、肌もまた雲の如く白し。声はオオルリのそれに似る。容貌は精悍にして優美、乙女をして羞入らせ、戦士をして恐れせしむ…
マタバイは現在のラピタ王国の首都が位置する島内唯一といって良い平野部であり、同湾は天然の良港として交易の中心地でもあった。
故にティナとその一族は経済力においてラピタ島随一の規模を持っており、それが島の武力統一に大きな役割を果たしたことは疑い無いだろう。
ティナは生まれた後、すぐに父親によって後継者に立てられ、タアロアに小さなパー(村の意)を与えられた。彼はその地で10歳までの時を過ごし、統治者・将軍としての知識を得、優れた才能を開花させたという。
彼自身が編纂を開始し、孫のポマレ3世が完成させた叙事詩「ピリカ叙事詩」、並びに後世に執筆された「ポマレ年代記」によれば、ポマレ1世は次の様な人物であった。
彼は真名をティナと云う。祖はピリカ・アイエア、父はテウ・トゥヌイエアイテ・アトゥア、と云いマタバイ・ピリカ国のアリイ(君主・首長)であった。…生まれながらにして髪は白波の如く、肌もまた雲の如く白し。声はオオルリのそれに似る。容貌は精悍にして優美、乙女をして羞入らせ、戦士をして恐れせしむ…
マタバイは現在のラピタ王国の首都が位置する島内唯一といって良い平野部であり、同湾は天然の良港として交易の中心地でもあった。
故にティナとその一族は経済力においてラピタ島随一の規模を持っており、それが島の武力統一に大きな役割を果たしたことは疑い無いだろう。
ティナは生まれた後、すぐに父親によって後継者に立てられ、タアロアに小さなパー(村の意)を与えられた。彼はその地で10歳までの時を過ごし、統治者・将軍としての知識を得、優れた才能を開花させたという。
ティナが10歳の時、マタバイを治める父親と、南側の山岳地に領地を持つコロキ・マ・パキという名の首長との間に紛争が生じた。
叙事詩によれば、コロキと父との戦いは3年に及び、遂に父が戦死してしまったという。
これにより、マタバイの首長の座はティナに渡ったが、13歳の少年に期待する者など誰もいなかった。しかし、この戦いが少年を島の覇王に押し上げることとなる。
ティナは一人アリイとなる。コロキ・マ・パキは三百人の戦士と共にタアロアに攻め寄せた。対してティナは百人の精鋭と共にパーを出て、油断し切った敵を奇襲した。コロキは混乱の中で討ち取られ、残余のものは逃げ散りぬ…
タアロアの戦いにおいて、ティナは自ら槍を振るい、10人以上の敵の首を取ったという。この時、彼の振り乱した長い白髪だけが月に煌めき、恐れ慄いた敵が彼を指して「ポマレ!」と叫び、その日から彼は「白髪」を意味するポマレと呼ばれる様になったとされる。
ポマレ1世となったティナは、その後コロキの首を掲げて彼の領地を占領し、そのまま併呑した。コロキの領地には豊富な鉄の鉱山が存在し、これを得た彼はさらに強力な軍隊を編成することが可能となった。
一方、13歳の少年がラピタ島の北西部にまたがる大勢力を築いたことを知った周辺の首長達は恐れ慄き、こぞって包囲網を結成しようとした。この動きを察した彼は、自身の麾下で謀略に優れたタマトアという男を用い、首長達を疑心暗鬼に陥らせたという。
タマトアは、谷から谷へ密かに跳び、大勢のアリイに囁いて回った。曰く「ポマレに下らば所領は保証する。しかし、包囲網に加わらば、お前の軍が居らぬ間に他の者が領地を奪うだろう。そして軍も我らがアリイに滅ぼされるであろう」と。噂が広まり、ポマレを滅ぼさんとした者たちは、互いに疑い合い、軍を動かすことあたわず…
これにより、包囲網とポマレ1世との間の睨み合いは2年間の長きに渡って続いた。この緊張状態の中、ポマレ1世は内政を整備し、諸外国との通交を深め、いざという時の支援を取り付けて戦争の支度を整えていたとされる。
そして、2年後包囲網の一翼を担っていたタンガラフ・マヤという首長が離脱を宣言したのを皮切りに、包囲網の中で激しい内部分裂が発生。この気に乗じて彼は包囲網の首長達を各個撃破・降伏させて行き、20歳までに島の北西から北東・南西部、合わせてラピタ島の三分の二を支配下に収めることに成功した。
叙事詩によれば、コロキと父との戦いは3年に及び、遂に父が戦死してしまったという。
これにより、マタバイの首長の座はティナに渡ったが、13歳の少年に期待する者など誰もいなかった。しかし、この戦いが少年を島の覇王に押し上げることとなる。
ティナは一人アリイとなる。コロキ・マ・パキは三百人の戦士と共にタアロアに攻め寄せた。対してティナは百人の精鋭と共にパーを出て、油断し切った敵を奇襲した。コロキは混乱の中で討ち取られ、残余のものは逃げ散りぬ…
タアロアの戦いにおいて、ティナは自ら槍を振るい、10人以上の敵の首を取ったという。この時、彼の振り乱した長い白髪だけが月に煌めき、恐れ慄いた敵が彼を指して「ポマレ!」と叫び、その日から彼は「白髪」を意味するポマレと呼ばれる様になったとされる。
ポマレ1世となったティナは、その後コロキの首を掲げて彼の領地を占領し、そのまま併呑した。コロキの領地には豊富な鉄の鉱山が存在し、これを得た彼はさらに強力な軍隊を編成することが可能となった。
一方、13歳の少年がラピタ島の北西部にまたがる大勢力を築いたことを知った周辺の首長達は恐れ慄き、こぞって包囲網を結成しようとした。この動きを察した彼は、自身の麾下で謀略に優れたタマトアという男を用い、首長達を疑心暗鬼に陥らせたという。
タマトアは、谷から谷へ密かに跳び、大勢のアリイに囁いて回った。曰く「ポマレに下らば所領は保証する。しかし、包囲網に加わらば、お前の軍が居らぬ間に他の者が領地を奪うだろう。そして軍も我らがアリイに滅ぼされるであろう」と。噂が広まり、ポマレを滅ぼさんとした者たちは、互いに疑い合い、軍を動かすことあたわず…
これにより、包囲網とポマレ1世との間の睨み合いは2年間の長きに渡って続いた。この緊張状態の中、ポマレ1世は内政を整備し、諸外国との通交を深め、いざという時の支援を取り付けて戦争の支度を整えていたとされる。
そして、2年後包囲網の一翼を担っていたタンガラフ・マヤという首長が離脱を宣言したのを皮切りに、包囲網の中で激しい内部分裂が発生。この気に乗じて彼は包囲網の首長達を各個撃破・降伏させて行き、20歳までに島の北西から北東・南西部、合わせてラピタ島の三分の二を支配下に収めることに成功した。
ポマレ1世が包囲網との戦いを続けている間、ラピタ島の南東部で地歩を固めていたもう一人の統一者が居た。その名はロゴ・トゥム・ヘレと言い、伝承によれば彼は類い稀な武勇と狡猾な智慧を持ち、1人の農民から遂に首長にまで上り詰めた一代の梟雄であったという。
ロゴ・トゥム・ヘレは、ポマレ1世と敵対する首長を密かに支援し、戦を長引かせる一方で、自身の周辺の首長をその武勇で切り従え、包囲網が完全に崩壊した頃には現在のハワーラ(ラピタ島南東部の街)を中心とした確固たる地盤を築き上げていた。
そして、ポマレ1世の勢力圏と境を接した時、彼は次の様に提案したという。
ロゴ・トゥム・ヘレは、次の如く云った。「互いの境を侵さず、世界をポマレと我とで二分しよう。さすれば全ての民が平和を謳歌できるぞ」
領土の急拡大に伴う政治の再編成を必要としていたポマレ1世はこれを受け入れ、両者の間に約定が結ばれた。しかし、ロゴはこの裏で謀略を張り巡らし、ポマレ陣営の切り崩しを図っていた。
そして、3年間の偽りの平穏の後、事態は急転する。
三年の後、ロゴに使嗾されし賊が蜂起し、ポマレに刃を向ける。彼は信頼せる戦士トゥア・ア・アハに兵を与えてこれを治めさせようとしたが、トゥアは突如矛を逆しまにしてポマレを撃たんとした。ロゴは卑劣にも彼の姉を連れ去り、己が妻としたのである…
この叛乱(パヤンガの乱)に乗じて、ロゴはポマレ領に兵を進め、ポマレ1世との直接対決に乗り出した。ポマレ1世は、自ら兵を率いて敵を打ち破ろうとしたが、ロゴは各地で奇襲的に反乱と軍事行動を繰り返し、彼とその民を疲弊させていった。
そして、遂にマルド・ヌーの戦いにおいて、病に倒れた彼とその軍勢を撃破することに成功し、一挙にその領土を奪取することに成功したのである。
若い統治者の不敗神話によって統率されてきた民と軍隊は、勝勢の間は並外れた強さを発揮したが、敗勢の粘り強さは無く、驚く程の速さで瓦解していった。
マルド・ヌーの敗戦以降、ポマレ軍は潰走を続け、叛乱勃発から4年後には、遂に本拠地タアロアを残すのみとなってしまった。
しかし、ポマレ1世は諦めることなく抗戦を続け、味方の到来まで遂に持ち堪えたのである。
タアロアに追い詰められたポマレ1世は、長きに渡る戦いで傷つき、疲弊していたが、目は光を失わず、民を指揮する声は涸れていなかった。そして、4年後の2月、待ち望んだ助けを得たのである。隣島のマナルウイ島のタポウとライアテア島のツェカピマ・ヒキと云う二人のアリイが兵を連れて島へ上陸し、ポマレに助勢を申し出た…
この二人の首長は、ポマレ1世が作り上げてきた友誼の輪に引き寄せられた者達であり、多くの兵力と優れた才覚を持っていた。
彼らの上陸によって戦況は逆転し、ポマレ軍は再び攻勢に転じた。
手始めにナマカの戦いでロゴの軍を撃砕したポマレ軍は、その後凄まじいスピードで旧領を解放していった。伝承に曰く、その間に生じた7つの大戦は全てポマレ軍の勝利に終わり、1年後にはロゴは根拠地のハワーラを中心とした南東の僅かな地域に追い詰められていた。
聖暦1706年、最後の苛烈な戦闘の末彼は一族共々自決して果て、17年に渡る戦争は終結し、ここにポマレ1世による初の統一王国が樹立されたのである。
ロゴ・トゥム・ヘレは、ポマレ1世と敵対する首長を密かに支援し、戦を長引かせる一方で、自身の周辺の首長をその武勇で切り従え、包囲網が完全に崩壊した頃には現在のハワーラ(ラピタ島南東部の街)を中心とした確固たる地盤を築き上げていた。
そして、ポマレ1世の勢力圏と境を接した時、彼は次の様に提案したという。
ロゴ・トゥム・ヘレは、次の如く云った。「互いの境を侵さず、世界をポマレと我とで二分しよう。さすれば全ての民が平和を謳歌できるぞ」
領土の急拡大に伴う政治の再編成を必要としていたポマレ1世はこれを受け入れ、両者の間に約定が結ばれた。しかし、ロゴはこの裏で謀略を張り巡らし、ポマレ陣営の切り崩しを図っていた。
そして、3年間の偽りの平穏の後、事態は急転する。
三年の後、ロゴに使嗾されし賊が蜂起し、ポマレに刃を向ける。彼は信頼せる戦士トゥア・ア・アハに兵を与えてこれを治めさせようとしたが、トゥアは突如矛を逆しまにしてポマレを撃たんとした。ロゴは卑劣にも彼の姉を連れ去り、己が妻としたのである…
この叛乱(パヤンガの乱)に乗じて、ロゴはポマレ領に兵を進め、ポマレ1世との直接対決に乗り出した。ポマレ1世は、自ら兵を率いて敵を打ち破ろうとしたが、ロゴは各地で奇襲的に反乱と軍事行動を繰り返し、彼とその民を疲弊させていった。
そして、遂にマルド・ヌーの戦いにおいて、病に倒れた彼とその軍勢を撃破することに成功し、一挙にその領土を奪取することに成功したのである。
若い統治者の不敗神話によって統率されてきた民と軍隊は、勝勢の間は並外れた強さを発揮したが、敗勢の粘り強さは無く、驚く程の速さで瓦解していった。
マルド・ヌーの敗戦以降、ポマレ軍は潰走を続け、叛乱勃発から4年後には、遂に本拠地タアロアを残すのみとなってしまった。
しかし、ポマレ1世は諦めることなく抗戦を続け、味方の到来まで遂に持ち堪えたのである。
タアロアに追い詰められたポマレ1世は、長きに渡る戦いで傷つき、疲弊していたが、目は光を失わず、民を指揮する声は涸れていなかった。そして、4年後の2月、待ち望んだ助けを得たのである。隣島のマナルウイ島のタポウとライアテア島のツェカピマ・ヒキと云う二人のアリイが兵を連れて島へ上陸し、ポマレに助勢を申し出た…
この二人の首長は、ポマレ1世が作り上げてきた友誼の輪に引き寄せられた者達であり、多くの兵力と優れた才覚を持っていた。
彼らの上陸によって戦況は逆転し、ポマレ軍は再び攻勢に転じた。
手始めにナマカの戦いでロゴの軍を撃砕したポマレ軍は、その後凄まじいスピードで旧領を解放していった。伝承に曰く、その間に生じた7つの大戦は全てポマレ軍の勝利に終わり、1年後にはロゴは根拠地のハワーラを中心とした南東の僅かな地域に追い詰められていた。
聖暦1706年、最後の苛烈な戦闘の末彼は一族共々自決して果て、17年に渡る戦争は終結し、ここにポマレ1世による初の統一王国が樹立されたのである。

ポマレ2世
統一ラピタ王国を建国し、「全ラピタのアリイ」(アリイ・ヌイと尊称される)に就任したポマレ1世は僅か5年の在位の後、33歳の若さで病死した。
王位は彼と異母妹ヒナとの間の息子、リホリホがポマレ2世として継ぐこととなったが、当時4歳の幼児であることから、建国の功臣タマトアとマナルウイのアリイであるタポウが摂政に立てられ、政務を代行することとなった。
彼らはポマレ2世が16歳になるまで摂政を務め、その後は大臣の地位に退くこととなっていたが、やがて2人の間には強い確執が生まれ、王朝内部で暗闘が繰り広げられることとなる。
そんな中で成長したポマレ2世は、父譲りの才覚と、真逆な好戦的で残忍な性格を持つ人物となり、16歳で政治の実権を握るや陰謀の勝者として専権を奮っていたタマトアを誅殺した。
その後名実共に独裁者となった彼は、父王に従って保護された歴史ある諸首長家を次々と取り潰し、ポマレ王朝の一族を後釜に据えた。その処置は徹底的であり、女以外の在地支配層は悉く根絶され、生き残った女達は王家の子を産んで正当性を付与することを強いられた。
25歳までにラピタ島全域を一門支配の中に入れたポマレ2世は、次は海外へと目を向け周辺諸島への軍事行動に着手する。
手始めに彼はライアテア島を征服し、父王を助けた首長の一族を皆殺しにするという暴挙に出た。これによって周辺の島々の統治者達の態度は二分され、ポマレ王朝に従うかかつての様に連合して迎え撃つかのいずれかとなったのだ。
その中心となったのはかつての暗闘の敗北者であるマナルウイのタポウであったが、彼はこの寄せ集めの勢力をよく纏め、攻め寄せるポマレ軍を5年にわたって跳ね除け続けた。
しかし、遂にテトゥパイアの海戦で致命的な敗北を喫したタポウは入水し、マナルウイ島は王国の正式な領土となった。これ以降ポマレ2世はほぼ戦うことなく周辺の小さな島々を征服し、遂に王国の最大版図を築き上げるに至った。
そして現地支配層の娘と自身、或いは王族を婚姻させて封建統治体制を敷き、王朝の支配を揺るぎないものとしたのである。
即位から43年後、ポマレ2世は亡くなった。陰謀と詐術と戦争に彩られた生涯の終わりは、父の復讐を志す王妃ータポウの娘で彼の王妃となっていたーの毒刃によって、心臓を貫かれることであった。享年47歳。
ここまでの経緯は当初厳重に秘されたが、次の代に完成を見たピリカ叙事詩によって白日の下に晒され、それを基に編纂されたポマレ年代記にも記されている。

ポマレ3世
ポマレ2世の暗殺後、王位を継承したのは21歳の第3王子であるマヒヌラニであった。彼は当初父王の代理としてハワーラの首長を務めていたが、2人の兄が相次いで病死と粛清で世を去った為、王位継承者となったのである。
ポマレ3世として即位した彼は、その後平穏と親愛を国にもたらし、凡そ50年の長期に渡る太平の時代を開いたと後世高く評価されることとなる。
彼が即位した当初、ラピタ王国は領土こそ最大であったが国は分裂の危機にあった。50万近い人口を抱えた王国は、父王の過酷な統治によって疲れ果て、同時にタガが外れたことで叛乱の機運が各地で高まっていた。
彼はこれを驚くべき手段で収拾してみせた。その手段とは、史上初の行幸である。
今までのラピタ王国の社会においてアリイとは、一種の神権政治の長であり、政治的指導者であると同時に宗教的指導者でもあった。彼らは全ての神官の上に立つ最高司祭であり、その神秘性を維持する為に身分の低い下々との接触は厳しく制限されてきたのである。
しかし、ポマレ3世はその伝統を容易く破壊し、自ら各地の島や領域を回ることで「民衆の父たる王」、「親しみ易い友としての王」という新しいイメージを作ることに成功した。
彼は各地を回って親しく下々の者達と交流し、その不満や不安を吸い上げて政策に反映することで、崩壊の危機にあった王国を見事にまとめ上げたのである。
その後も彼は民衆に対して善政を敷き、国土から山賊や海賊は姿を消した。年代記の伝えるところでは、53年間の統治の間兵乱は一度も無く、戦士達は暇を持て余していたという。
そして、彼の代において王国は最盛期を迎え、人口も100万人以上に達したと推定されている。
また、ポマレ3世の特筆すべき功績はこれだけではない。彼は優れた王であると同時に、優れた文人・詩人でもあった。
彼は初代ポマレ1世が細々と開始していた、国家の歴史と伝承を後世に伝える大叙事詩である「ピリカ叙事詩」の編纂事業を再稼働させ、自身が先頭となって国を挙げてこれに取り組んだ。
特に彼本人によって作られた1世の治世末期から2世の時代の前半までの部分は、中世ラピタ語文化の白眉とも言うべき出来栄えであり、世界の韻文詞の中でも燦然と輝く傑作と評されている。
そして、この王の文化的功績は単なる傑作だけでは終わらない。彼の才能に惹きつけられた多くの文人が宮廷にサロンを形成し、一つの豪華絢爛なラピタ王朝文化が花開いたのだ。
この時代を代表する文化人の1人として、第七王女であるリコ・ティナ・ポマレ(リコはラピタ語で『輝き』を意味する)が挙げられるだろう。曾祖父を彷彿とさせる先天的な白い肌と白い髪、そして類い稀な美しさを持った彼女は、17歳にして現在も用いられるラピタ文字を発明し、その後の王国の歴史を大きく変えたのである。
元来ラピタの人々は文字を持たず、口承で文化や知識を伝えていたが、ポマレ3世の時代に至ってそのスタイルは大きく変化し、今までは概念さえ存在しなかった新しい分野における文化や芸術が次々と開拓されたのだった。
リコ・ポマレによってラピタ文字が開発され、長大な叙事詩を記述して後世に残すことが出来るようになったことは、宮廷だけでなく国全体での文化的レベルの著しい上昇を引き起こした。
限られた人間のものであった歴史、祭祀の知識は無論のこと、各地の伝承や説話が布や石碑に残されることで確実に後世に伝わる様になった他、民衆の中からも文化の担い手が現れる様になったのである。そうした人々は、ポマレ3世の死後に本格的に活躍を始め、4世から5世にかけての民衆文化の隆盛を作り上げることとなる。
この様に、ポマレ3世の時代は政治的・文化的なラピタ王国の最盛期であり、この時代に王国はあらゆる面で飛躍的な発展を遂げた。後世の文学作品においてもこの時代をモデル、舞台としたものは数多く、今尚理想的な時代として規範とされている。
彼は初代ポマレ1世が細々と開始していた、国家の歴史と伝承を後世に伝える大叙事詩である「ピリカ叙事詩」の編纂事業を再稼働させ、自身が先頭となって国を挙げてこれに取り組んだ。
特に彼本人によって作られた1世の治世末期から2世の時代の前半までの部分は、中世ラピタ語文化の白眉とも言うべき出来栄えであり、世界の韻文詞の中でも燦然と輝く傑作と評されている。
そして、この王の文化的功績は単なる傑作だけでは終わらない。彼の才能に惹きつけられた多くの文人が宮廷にサロンを形成し、一つの豪華絢爛なラピタ王朝文化が花開いたのだ。
この時代を代表する文化人の1人として、第七王女であるリコ・ティナ・ポマレ(リコはラピタ語で『輝き』を意味する)が挙げられるだろう。曾祖父を彷彿とさせる先天的な白い肌と白い髪、そして類い稀な美しさを持った彼女は、17歳にして現在も用いられるラピタ文字を発明し、その後の王国の歴史を大きく変えたのである。
元来ラピタの人々は文字を持たず、口承で文化や知識を伝えていたが、ポマレ3世の時代に至ってそのスタイルは大きく変化し、今までは概念さえ存在しなかった新しい分野における文化や芸術が次々と開拓されたのだった。
リコ・ポマレによってラピタ文字が開発され、長大な叙事詩を記述して後世に残すことが出来るようになったことは、宮廷だけでなく国全体での文化的レベルの著しい上昇を引き起こした。
限られた人間のものであった歴史、祭祀の知識は無論のこと、各地の伝承や説話が布や石碑に残されることで確実に後世に伝わる様になった他、民衆の中からも文化の担い手が現れる様になったのである。そうした人々は、ポマレ3世の死後に本格的に活躍を始め、4世から5世にかけての民衆文化の隆盛を作り上げることとなる。
この様に、ポマレ3世の時代は政治的・文化的なラピタ王国の最盛期であり、この時代に王国はあらゆる面で飛躍的な発展を遂げた。後世の文学作品においてもこの時代をモデル、舞台としたものは数多く、今尚理想的な時代として規範とされている。

ポマレ4世
ポマレ3世が在位53年の果てに享年74歳で病死すると、王位を継いだのは第6王子のカワナナコア王子であり、この時18歳であった。
カワナナコアは当時最高司祭を務めていた24歳の姉、リコ・ポマレの手で王に推戴され、ポマレ4世となる。
ポマレ4世は、政治的には有能な人物であったが文化的な才能は引き継がず、父王の代に隆盛を極めた宮廷サロンは衰退を余儀なくされた。しかし、その代わり優秀な文人達が民衆の中に戻り、彼らによって担われる新しい文化の形成を後押しすることとなる。
そんな彼の時代を特徴づけるのは、当時積極的に進められた諸外国との外交樹立政策であろう。
今まで小規模に行われてきた同文化圏との交易が、大陸の異文化諸国にまで拡大し、世界にその名を知られる様になったのは彼の時代である。
彼無くしてラピタ王国の交易立国と、それを基盤にした経済の発展と後世の近代化は有り得ず、そうした文脈で見れば彼もまた王国の今を作った父と言えるだろう。
が、外交に対して優れた理解と才能を有していた一方で、ポマレ4世はある種外国信仰といってもいい親外心情を有しており、舶来品蒐集から始まった悪癖が財政を傾かせると同時に、王国の伝統的な文化の抑圧を行う様になってしまった。
まず彼は服装を伝統的な物から洋装に改める勅令を出し、続いて伝統的な政治構造を近代化させるべく改革を始めた。当然ながらそれらの施策は神官や首長層を中心とした保守派の憤激を買い、また外国から持ち込まれた疫病によって家族を失った民衆も、外国への憎悪を募らせていった。そして、改革の手が伝統宗教の廃絶まで及んだ時遂に爆発したのである。
ラピタ島北部の首長で王家に比較的近い類縁だったテ・ラウパラハに率いられた叛乱軍に攻め込まれ、ポマレ4世は在位16年にして廃位された。国王が内部からの叛乱によって打倒された事例は後にも先にもこれだけである。
テ・ラウパラハは、男児無き4世と実妹の娘であるカイウラニ王女をポマレ5世として女王に立て、自らはその王配としてロノク・ポマレと称した。その時代は徹底的な旧態復帰と鎖国に近い孤立主義によって特徴付けられ、交易帝国圏は一時的にその活力を失うこととなった。


王国初の女王ポマレ5世と、後を継いだ6世
初のラピタ女王となったポマレ5世であるが、彼女自身が何かしら特筆すべき政治的功績を残したという記録は無い。その13年間の統治の間、政治的権限は悉く王配が代行していたからである。
歴史家の間では、彼女は「灰色の女王」と呼ばれており、その時代は優れた善政も致命的な失政もなく、万事先例優先の波乱無き守旧の時代と評されている。
尤も、逆に言えば、疫病による急激な人口減少と、兵乱の傷跡が残る国の平和を維持するという難行を成し遂げた彼女と、王配ロノク・ポマレの政治的能力は相応に有能であり、鎖国による外圧を見事跳ね除けた点と、先王の時代に流入してきた外国の知識を受け入れて発展の材料と成した点は評価に値するだろう。
ポマレ5世が29歳で没すると、ロノクは新王として彼女と自分の長男であるルナリロ王子をポマレ6世として立て、自身は王父としてそのまま政治を見た。
ポマレ6世は政治的な天才では無かったが、民衆に対する深い慈悲と親愛の心を持つ人物であり、その事情さえなければ善政を敷く明君となっただろう。
伝統的な近親婚の影響か、彼は重大な言語障害を負っており、言葉を発してコミュニケーションを取ることも、或いは詔書を自身で起草することも満足に出来なかった。その為政治は引き続きロノク王配と後を引き継いだ諸摂政が行い、彼が優れた才能を発揮する余地は無かった。
一方で、彼は卓越した芸術的感受性と表現力を有しており、絵画や音楽によって自身の心情や考えを万民に示した。特に統治初期の作品群は、彼の家族・民衆に対する尽きない愛情と、雄大な故郷を讃える素朴な思いに満ちており、代表作とされる「アーヒヒ・ラピタ」(「一つに結ばれしラピタ」の意。初の西洋式手法による楽曲)、や「ピリカ・ティナ賛歌」(ピリカ叙事詩に曲を付けたもの)は今尚彼への敬愛と共に国中で歌われている。
遥かなる海の果て この世界の善き物を散りばめて
国は富みて民は豊かなり 王は皆と共にこれを守るなり
偉大なる神々よ とこしえの平穏を故郷に与え給え
我が愛しきラピタの絆よ たとうべしポマレの御名を
王国は一つに結ばれて 二度と離るることは無し!
(「アーヒヒ・ラピタ」第一番。作詞はポマレ6世の王妃リリウ・パキ)
が、ポマレ6世自身が如何に民衆を思う賢王であったとしても、彼の代理人は必ずしもそうでは無かった。彼らは王朝への忠誠よりも自己の政治的欲望を優先し、民衆への慈愛よりも自己保身に走る小利の徒であった。
ロノクとその後を引き継いだク・ラハラハを中心としたポマレ2世以来の苛烈な政争と、王の名を借りた好き放題の悪政は確実に王の心を蝕み、段々と政治からの逃避を深めさせた。
そして、最愛の王妃と息子達が政治的陰謀の果てに生じたテロの標的となり、王妃が重傷を負ったことはその精神に致命傷を与え、遂に王位の放擲と遁世を決断させた。
在位24年、ポマレ6世は「友よ 王国を頼む」という一行の詔書を残して退位し、家族共々ライアテア島に隠棲した。
王宮の執務室には描きかけのキャンバスが残されており、そこには長きに渡る王の苦悶と政治の中で負った心の傷が生々しく表現されていたという。
「失望」と仮タイトルをつけられたその作品は、現在は国立美術館に収められ、王の中期の代表作として美術史上に名を残している。
以降彼とその家族は公の場に姿を表すことなく、本人は退位から12年後に48歳で亡くなった。その最期は詳しく知られてはいないが、彼が変名で発表した後期の作品群から察する限り、平穏と幸福に満ちたものであった様である。
ポマレ6世の電撃的な退位は彼を傀儡としか見做していなかった廷臣達に大きな衝撃を与えると共に、今まで従順であった民衆達の心に火を付けた。
民衆達は文化の担い手、そして4世の頃に流入した西洋知識を身につけた知識人達を先頭に革命の狼煙を上げ、新たなる王国の時代を切り開くこととなる。

ポマレ7世
ポマレ6世の退位と家族を連れての隠棲は、一時的に王国の機能停止をもたらした。政治家達の権力は一応は政治も宗教の最高権者たる王の支持と命令に拠っており、1世以来の祭政一致の絶対君主制を堅持するこの国では、それ無くして国民の支持と従順とを得ることはできなかった。
言うなれば彼らは自身を守護する政治上の盾と宗教上の剣を失ったのである。
闇の中で再び激しいぶつかり合いが演じられ、10日間の空位の後に擁立されたのは、先々王ポマレ5世の異母妹の孫息子(大甥)であるアレクサンダー・カヘキリ王子であった。この西洋風の名前を持つ王子は、当時まだ5歳の幼年であり、都合の良いことに祖母と母とを若くして亡くしていた。この政治的バックボーンを持たない幼児を玉座に据えることで、彼らは再び長期の独裁を確立しようとしたのである。
しかし、彼がポマレ7世として即位し、引き続きク・ラハラハが摂政を務めることを国内外に示すと、轟々たる非難が政府に叩きつけられた。
民衆は長く続いた苛政と、自らが慕うポマレ王家が権力の傀儡とされている事実に凄まじい怒りをあらわにし、西洋式の教育を身につけた医師や職人層(カフナ階級)を中心に、激しい反政府運動を繰り広げた。
医師(カフナ・ロミロミ)階層出身のル・レケレケは、「友を黄金の檻から助け出そう!」と民衆を鼓舞し、数万人の民衆を率いてハワイキ宮殿(現在の王宮)を包囲した。
同時に他の島でも激しい闘争が起こり、マナルウイ島では島を治めるアリイのタポウ3世が反政府運動に寝返り、ライアテア島、ボラボラ島なども次々と続いた。
そして30日間に及ぶ激しい争いの末、ク・ラハラハ率いる王国政府は瓦解し、民衆達は王宮を解放。ポマレ7世の名の下に新しい秩序を王国に敷くことを宣言した。
ル・レケレケを首班とした王国新政府は、「ラピタ立憲革命宣言」を発布し、次の様な政治改革方針を表明した。
・王国憲法を制定し、全ての政府機関をこの監督下に置く
・二院制の議会を置き、国王の諮問機関とする
・明確な成文法を定め、恣意的な処罰を廃止する
・王の名の下に、万民に開かれた学校を設立する
・諸外国と親しく通交し、王国を世界に飛び立たせる
これを受けて聖暦1868年に現在の王国長老院と民衆院の二つの議会が設立され、この選出を元にして摂政以下諸大臣が任命される事実上の議院内閣制が施行された。
その後国を挙げて作られた王国憲法がポマレ7世の勅命によって公布され、ラピタ王国は絶対君主制から立憲君主制の記念すべきシフトを成し遂げたのだった。
革命から10年、ポマレ7世即位から15年の節目となる年の3月。革命記念日を盛大に祝う式典において、前代未聞の大事件が発生した。
国王が再び暗殺されたのである。ポマレ2世以来、150年以上にもわたる王朝の平和が崩れた瞬間だった。
ポマレ7世はハワイキ宮殿を出た後、憲政の象徴となった議会議事堂に向かい、演説を行う予定であったがその途中で爆弾テロにより爆殺されたのである。
その場で捉えられた犯人は、マナルウイ島出身のアリイの一門であり、過激な保守派でもあった。
国王は現場で即死が確認され、憲政政府は直ちに太子格であった僅か3歳のラハイナ王女をポマレ8世として擁立したが、この混乱を奇貨として、全国で保守派による武力蜂起が発生した。
アスタ戦争の幕開けである。
国王が再び暗殺されたのである。ポマレ2世以来、150年以上にもわたる王朝の平和が崩れた瞬間だった。
ポマレ7世はハワイキ宮殿を出た後、憲政の象徴となった議会議事堂に向かい、演説を行う予定であったがその途中で爆弾テロにより爆殺されたのである。
その場で捉えられた犯人は、マナルウイ島出身のアリイの一門であり、過激な保守派でもあった。
国王は現場で即死が確認され、憲政政府は直ちに太子格であった僅か3歳のラハイナ王女をポマレ8世として擁立したが、この混乱を奇貨として、全国で保守派による武力蜂起が発生した。
アスタ戦争の幕開けである。
アスタ戦争は、平和を謳歌していた王国にとって久方ぶりの内戦であった。だが、前後の社会構造を見れば、起こるべくして起こったというべきだろう。
当時の王国中央政府は、極めて強引な手法で改革を進めていた。特に第3代憲政摂政のケクウァノアは、外国との差を縮めるべく早急な社会変革と工業化を進めることを掲げ、旧来から社会に大きな影響力を持ってきた身分制度の完全な解体を宣言した。
この宣言ほど凡ゆる階層から反発を受けたものも無いであろう。アリイ層は自己の特権を守る為、またカフナ層以下中流層は、奴隷階級の者達を嫌って反対し、そして当の奴隷の多くも社会的保障の喪失を恐れて反対の姿勢を示した。
しかし、ケクウァノアは反対を押し切って改憲議案を民衆院に提出し、強引に可決。さらに長老院に圧力をかけて、立憲革命記念日までの成立を強要しようとしたのである。
そして、前日の会議においてそれが可決され、彼は国王の演説の後に正式な発表を行う予定であった。
その矢先である。国王を失った政府は正統性に強かな傷を負わされ、累卵の危うきに立たされた。
ケクウァノアは、直ちにポマレ8世の即位を宣明すると、即日緊急勅令に基づいて戒厳令を発した。命令に従って招集された近代化軍と諸国の戦士達は、当時の王国にとって最も頼れる盾になるはずであった。…盾本人が使用者に牙を剥かない限りは。
軍の総司令官を務めていたロト・カプワイア・ポマレは、王国全土に対して次の様に布告し、公然と叛旗を翻したのである。
「本日王国軍は、国王陛下への忠節を全うすべく、先王弑逆を実行した憲政政府を名乗る反徒を討伐する戦闘に入れり」
王国軍の離反は他に武力を持たない憲政政府に致命的な一撃を与えた。彼らは王都を脱出し、忠実な部隊と義勇戦士たちを纏めて山岳部に潜伏して、ポマレ1世宜しく外からの助けを待とうとしたが、150年前はいざ知らず、近代化を果たした諸国が時代遅れの先住民の小国の内戦に介入する理由など無かった。
1年半に及ぶ戦乱の末、ケクウァノアは殺害され、正統な憲政政府は消滅し、ロト・カプワイアによる臨時政府が成立した。
彼はポマレ8世の名において軍の独裁を確立し、この小国を今までに無い「近代的手法」で統治した。尤もその目的は、王国を中世まで逆戻りさせることであったのだが。
当時の王国中央政府は、極めて強引な手法で改革を進めていた。特に第3代憲政摂政のケクウァノアは、外国との差を縮めるべく早急な社会変革と工業化を進めることを掲げ、旧来から社会に大きな影響力を持ってきた身分制度の完全な解体を宣言した。
この宣言ほど凡ゆる階層から反発を受けたものも無いであろう。アリイ層は自己の特権を守る為、またカフナ層以下中流層は、奴隷階級の者達を嫌って反対し、そして当の奴隷の多くも社会的保障の喪失を恐れて反対の姿勢を示した。
しかし、ケクウァノアは反対を押し切って改憲議案を民衆院に提出し、強引に可決。さらに長老院に圧力をかけて、立憲革命記念日までの成立を強要しようとしたのである。
そして、前日の会議においてそれが可決され、彼は国王の演説の後に正式な発表を行う予定であった。
その矢先である。国王を失った政府は正統性に強かな傷を負わされ、累卵の危うきに立たされた。
ケクウァノアは、直ちにポマレ8世の即位を宣明すると、即日緊急勅令に基づいて戒厳令を発した。命令に従って招集された近代化軍と諸国の戦士達は、当時の王国にとって最も頼れる盾になるはずであった。…盾本人が使用者に牙を剥かない限りは。
軍の総司令官を務めていたロト・カプワイア・ポマレは、王国全土に対して次の様に布告し、公然と叛旗を翻したのである。
「本日王国軍は、国王陛下への忠節を全うすべく、先王弑逆を実行した憲政政府を名乗る反徒を討伐する戦闘に入れり」
王国軍の離反は他に武力を持たない憲政政府に致命的な一撃を与えた。彼らは王都を脱出し、忠実な部隊と義勇戦士たちを纏めて山岳部に潜伏して、ポマレ1世宜しく外からの助けを待とうとしたが、150年前はいざ知らず、近代化を果たした諸国が時代遅れの先住民の小国の内戦に介入する理由など無かった。
1年半に及ぶ戦乱の末、ケクウァノアは殺害され、正統な憲政政府は消滅し、ロト・カプワイアによる臨時政府が成立した。
彼はポマレ8世の名において軍の独裁を確立し、この小国を今までに無い「近代的手法」で統治した。尤もその目的は、王国を中世まで逆戻りさせることであったのだが。
ロト・カプワイアは、摂政に就任し形式上は憲法を尊重する姿勢を見せた。
長老院と民衆院からなる王国議会に諮問し、その同意の下で政治を進めたのだ。また、彼自身も立憲革命前夜において、外国から伝来した書物によって近代政治の知識を身に付けた開明的な王族であり、その思考は必ずしも保守派から連想される様な堅苦しい時代遅れのものではなかった。
が、彼にとって身分制度の廃止等と言った長きにわたる伝統の廃止は到底受け入れられなかった。彼は開明的な人物であったが、それ以前に伝統と信仰とを重んじる「王族」だったのである。
そして、彼の35年にわたる執政により、立憲革命が築き上げた近代化の下地は無に帰し、交易帝国圏は再び縮小と冬の時代を迎えた。第二次鎖国期である。
第二次鎖国期が以前のポマレ5世から始まる時代と異なるのは、その鎖国に関してしっかりと法的な根拠が与えられたことだろう。ロト・カプワイアは憲法を改正し、次の様に記した。
ラピタ王国は外国に対し神聖不可侵であり、如何なる国に対しても通交することを得ず…これは万世不変の原理であり、ポマレの世が続く限り守らるるべし
この改正により、交易所から異文化圏の商人は締め出され、外国技術を学ぶ道は断たれた。これらの点について、歴史学者クリストファー・オウムアムア・ポマレは次の様に評している。
仮に憲政政府が一ヵ国でも近代国家と正式な国交を結び、公使館を置いていたとすれば、ロト・カプワイア・ポマレはここまで乱暴な鎖国策を取ることは出来なかったはずである。また、交易商の締め出しにより貴重な取引機会が失われたとすれば、その母国が外圧により施政方針を撤回させられたはずである。この軍事的鎖国政策の実行が示すのは、当時ラピタ王国が「いかに世界に必要とされていなかったか」を示すものと言えよう…
この鎖国体制への回帰に対し、世界各国は全く注目することはなかった。ラピタ王国は、1人寂しく門を開け放ち、そしてまた閉じたのである。
長老院と民衆院からなる王国議会に諮問し、その同意の下で政治を進めたのだ。また、彼自身も立憲革命前夜において、外国から伝来した書物によって近代政治の知識を身に付けた開明的な王族であり、その思考は必ずしも保守派から連想される様な堅苦しい時代遅れのものではなかった。
が、彼にとって身分制度の廃止等と言った長きにわたる伝統の廃止は到底受け入れられなかった。彼は開明的な人物であったが、それ以前に伝統と信仰とを重んじる「王族」だったのである。
そして、彼の35年にわたる執政により、立憲革命が築き上げた近代化の下地は無に帰し、交易帝国圏は再び縮小と冬の時代を迎えた。第二次鎖国期である。
第二次鎖国期が以前のポマレ5世から始まる時代と異なるのは、その鎖国に関してしっかりと法的な根拠が与えられたことだろう。ロト・カプワイアは憲法を改正し、次の様に記した。
ラピタ王国は外国に対し神聖不可侵であり、如何なる国に対しても通交することを得ず…これは万世不変の原理であり、ポマレの世が続く限り守らるるべし
この改正により、交易所から異文化圏の商人は締め出され、外国技術を学ぶ道は断たれた。これらの点について、歴史学者クリストファー・オウムアムア・ポマレは次の様に評している。
仮に憲政政府が一ヵ国でも近代国家と正式な国交を結び、公使館を置いていたとすれば、ロト・カプワイア・ポマレはここまで乱暴な鎖国策を取ることは出来なかったはずである。また、交易商の締め出しにより貴重な取引機会が失われたとすれば、その母国が外圧により施政方針を撤回させられたはずである。この軍事的鎖国政策の実行が示すのは、当時ラピタ王国が「いかに世界に必要とされていなかったか」を示すものと言えよう…
この鎖国体制への回帰に対し、世界各国は全く注目することはなかった。ラピタ王国は、1人寂しく門を開け放ち、そしてまた閉じたのである。
ロト・カプワイアの死の3年後、ポマレ8世は疫病によって急死した。跡を継いだのは彼女の息子である20歳のカナイナ王子であり、恙無くポマレ9世として即位した。
摂政の地位についたのはロト・カプワイアの子飼いの武将であったジェームズ・カナイナヒ、続いてタプタプアテアのアリイであるング・グライが就任した。
この時代は後世孤独の時代と呼ばれる。貿易は極めて小規模に抑えられ、文物の流入は最低限に留められた。外国船は半ばこの国を見捨て、時折訪れる緊急の物資補給や救助の他は外の世界との関わりは一切絶たれた。
この時代の民衆文化は、そんな世相を反映してか、古典作品の再版や内向的・悲観的な作品が増え、外に視線を向ける物や、外国の影響を思わせる物はほぼ作られなかった。
だが、古典作品の再研究や内向的な文化傾向は、古来のラピタ思想の復興と、更なる深化をもたらした。
女流作家にして神官、アウヘア・ケカウルオヒが著した対話篇「リコ・ティナの議論」は、リコ・ポマレ王女を主人公とした対話議論を通し、かつてのラピタで支配的であった思想と、現代の新しい思想の違いを考察した名著と評され、「ラピタ哲学の原点」と位置付けられた。
また、カウバ出身の神官ダッキス・カウムもケカウルオヒ同様優れた哲学の論考著作を残し、孤独の時代において文化の火を絶やさぬ様活動を続けた。
これらの文化人達の活動により、ポマレ9世の時代は先例主義に陥った停滞政治の面よりも、環境が育んだ今までとは異なる文化的な輝きが評価され、「哲学の時代」、「思考の時代」という異名も与えられている。
摂政の地位についたのはロト・カプワイアの子飼いの武将であったジェームズ・カナイナヒ、続いてタプタプアテアのアリイであるング・グライが就任した。
この時代は後世孤独の時代と呼ばれる。貿易は極めて小規模に抑えられ、文物の流入は最低限に留められた。外国船は半ばこの国を見捨て、時折訪れる緊急の物資補給や救助の他は外の世界との関わりは一切絶たれた。
この時代の民衆文化は、そんな世相を反映してか、古典作品の再版や内向的・悲観的な作品が増え、外に視線を向ける物や、外国の影響を思わせる物はほぼ作られなかった。
だが、古典作品の再研究や内向的な文化傾向は、古来のラピタ思想の復興と、更なる深化をもたらした。
女流作家にして神官、アウヘア・ケカウルオヒが著した対話篇「リコ・ティナの議論」は、リコ・ポマレ王女を主人公とした対話議論を通し、かつてのラピタで支配的であった思想と、現代の新しい思想の違いを考察した名著と評され、「ラピタ哲学の原点」と位置付けられた。
また、カウバ出身の神官ダッキス・カウムもケカウルオヒ同様優れた哲学の論考著作を残し、孤独の時代において文化の火を絶やさぬ様活動を続けた。
これらの文化人達の活動により、ポマレ9世の時代は先例主義に陥った停滞政治の面よりも、環境が育んだ今までとは異なる文化的な輝きが評価され、「哲学の時代」、「思考の時代」という異名も与えられている。
ポマレ9世の47年間に及ぶ統治は、よく言えば波乱の無い、悪く言えば退屈な時代として過ぎ去った。彼がハワイキ宮殿でひっそりと亡くなった時も、国民が嘆き悲しむことは殆ど無かった。
前述のクリストファー・ポマレはこの政治的状況を、「立憲時代から見え隠れしていた政治的無関心の極致」と表現している。
凡そ100年に及ぶ第二次鎖国期は、立憲時代の僅かな政治的活力さえも失わしめた。元々王家への純粋な敬愛の念で動いていた民衆にとって、憲法であるとか自由であるとかそうした高尚な物は必要ではなかったし、時代が下るに連れて知識人階級でさえもそうしたものを必要としなくなっていった。議会は先例処理と下らない政争によって空転を続け、しかもその政争も高々人口50万の小国の範囲を出るものではなかった…
その様な状況で、ポマレ10世は即位した。父はポマレ9世、母親はその実妹ヌヒアイアイ王女。そして、即位した時の年齢は18歳である。
彼が長きに渡る鎖国時代を終わらせ、更に激変した世界の中に王国を投げ込む国王になるとは、この時誰も予想していなかった。
前述のクリストファー・ポマレはこの政治的状況を、「立憲時代から見え隠れしていた政治的無関心の極致」と表現している。
凡そ100年に及ぶ第二次鎖国期は、立憲時代の僅かな政治的活力さえも失わしめた。元々王家への純粋な敬愛の念で動いていた民衆にとって、憲法であるとか自由であるとかそうした高尚な物は必要ではなかったし、時代が下るに連れて知識人階級でさえもそうしたものを必要としなくなっていった。議会は先例処理と下らない政争によって空転を続け、しかもその政争も高々人口50万の小国の範囲を出るものではなかった…
その様な状況で、ポマレ10世は即位した。父はポマレ9世、母親はその実妹ヌヒアイアイ王女。そして、即位した時の年齢は18歳である。
彼が長きに渡る鎖国時代を終わらせ、更に激変した世界の中に王国を投げ込む国王になるとは、この時誰も予想していなかった。
ポマレ10世が即位してから22年目の3月。ラピタ島のタアロアに程近い砂浜に、一隻の船が漂着した。
船の名はバルニバービといい、マウサネシア船籍の小型民間捕鯨船だった。この船はグスティ船長以下12人の船員を乗せて10隻からなる捕鯨船団の一角を成し、世界有数の漁場であるラピタ王国近海を訪れていたのである。
しかし、彼らは不幸にも嵐に遭遇して船団からはぐれ、そのままジェニングス=ベラミー海流に乗って漂流し、結果としてラピタ島に漂着した。無論その頃王国は依然として鎖国を堅持して他国との通交を持っていなかった為、船員達が王国の存在を知るはずはない。
彼らにとってラピタ周辺は、「近寄ってはならない先住民の島」程度の認識に過ぎなかった。
一方、ラピタ王国側は意外にもこの事態には冷静であった。何故なら、鎖国以来この様な事態は決して絶無では無く、王国政府から既に各島に外国人漂着時の対応について指示が出されていたからである。
ラピタ王国において発布された「漂流者救難法」の内容は、「漂流者にはまず水と壊血病の治療の為オレンジを与えるべし」といった様に、そのままマニュアルとして通用する部分が多く、これに従って各地の住民達が冷静に対処した結果、今まで重大なトラブルは発生してこなかった。
今回もその様に処理し、漂流者達が回復して島を立ち去るまで面倒を見れば、それで済むはずであった。
3月19日、偶然その場に居合わせた王女一行によって船が発見されるや、王国政府は直ちに対応を開始した。
発見者となったポマレ10世の王女、リリィ(リリウオカラニ)・ティナ・ポマレは、12歳の時の大事件を、後にこう振り返っている。
マタバイ湾の外側の、誰も寄り付かない様な場所に、一隻船が乗り上げていた。船体が硬い黒鉄で出来ていたから、異国船だとすぐに分かった。…私はクリス(歴史学者クリストファー・ポマレ。当時は王女の付き人で友人の1人だった)を伴って船に近寄ると、ちょうど中から出てきたボロボロの服の船員と鉢合わせした。…その人の髪の毛は鮮やかな紺色で、見た目は女性の様に可愛らしく整っていた…震える手で、集めてきたオレンジのカゴを差し出すと、彼らは不思議そうな顔をした。毒ではない、と示すために皮を剥いて一欠片食べて、また差し出すと、信用してくれたらしく他の船員達も呼び集めて、皆で食べ始めた。…少ししたら役人を呼ぼうと思っていたら、誰かが見つけたらしく直ぐに大勢の兵士と共に駆けつけてきた。私は呑気に手を振ったが、強引に連れ戻されてひどいお説教を食らった…
この時同行していたクリスことクリストファー・ポマレも日記に記述を残している。
王女様はとんでもない勇気、いや、蛮勇をお持ちだった。外国船と見ても恐れることは無く、むしろ駆け出して行った。私が「やめたほうがいいですよ!」とお止め申し上げると、「その間に船員が死んだらどうする!」と物凄い剣幕でお応えになった。…そして、出てきた船員相手に、恐れること無くしきたり通りの救護をなさり、役人が来るまでその場に留まることに成功なさった
程なくして現場に王国政府の役人が到着し、船員達を護送する支度をすると共に、法に従って尋問を行った。役人達が言語の知識として頼りにしていたのは、今から100年前に僅かに残された古い外国語の資料であり、辛うじてコミュニケーションは取れたものの、「互いにかなり難儀する(王国政府の役人)」状態であったらしい。
これについてはグスティ船長がこの様に政府の聞き取りと新聞の取材に答えている。
緩やかなチュニックを着た白い肌と髪の少女からオレンジを受け取って食べていると、俄かに向こうから大勢の人がやってきて、少女を強引に引き戻した。彼らは少女を叱っている風だったが、声の調子はそこまで強くはなく…恐らく彼女は身分の高い人間なのだろうと思われた。…役人はとても古風は我が国の言葉で話しかけてきた。「どこの国から来たのか?どうしてここに来たのか?船の中に病人はいるか?」。わたし達は順番に答えていったが、彼らは新しい単語を知らなかったので非常に苦労した。…船員の中に古典を学んだものがあったので、彼が通訳の通訳をしてくれたので、俺達はなんとか害意の無いことを理解してもらえた…
その後、マウサネシア人達は護衛の下駕籠に乗せられ、首都のタアロアまで護送された。この時の都の様子も船長が残している。
駕籠の中から少し外を覗くと、自分たちの行先に家屋が立っているのが見えた。多くの家には壁が無く、ごく簡素な木の柱の上に藁葺きの屋根が有るだけのシンプルな建物だ。そうした家々が、区画整理だけはしっかりとなされた畑の中にいくつか立ち並んでいる風景が向こうまで続いていた。私が「あれは?」と通訳に問うと、通訳は「首都だ」と答えた。…少しすると、風景とはあまりにも釣り合わない、荒れ果てた庭に囲まれた…壮麗な石造りの宮殿が見えた。あれが王様の住む場所らしい…
ラピタ王国の首都タアロアの風景は、概ねこの船員が記述したものと今も変わってはいない。
憲政時代に整備された都市区画の中央にハワイキ宮殿が位置し、その周りに各種の政府機関と貴族の屋敷が並ぶ。そして、その外周には市場を中心に簡素な壁の無い建物がバラバラに建っているのだ。
別の船員はこの風景を指して、「ど田舎州のど田舎郡の第二都市」という評価を下している。
タアロアに付いたマウサネシア人達は、宿舎として充てがわれた王宮に程近い木造の屋敷(現マウサネシア大使館)に入った。道中では噂を聞きつけた市民達の好奇の目に晒され、かなり居心地の悪い思いをしたと彼らは後に振り返っている。
船の名はバルニバービといい、マウサネシア船籍の小型民間捕鯨船だった。この船はグスティ船長以下12人の船員を乗せて10隻からなる捕鯨船団の一角を成し、世界有数の漁場であるラピタ王国近海を訪れていたのである。
しかし、彼らは不幸にも嵐に遭遇して船団からはぐれ、そのままジェニングス=ベラミー海流に乗って漂流し、結果としてラピタ島に漂着した。無論その頃王国は依然として鎖国を堅持して他国との通交を持っていなかった為、船員達が王国の存在を知るはずはない。
彼らにとってラピタ周辺は、「近寄ってはならない先住民の島」程度の認識に過ぎなかった。
一方、ラピタ王国側は意外にもこの事態には冷静であった。何故なら、鎖国以来この様な事態は決して絶無では無く、王国政府から既に各島に外国人漂着時の対応について指示が出されていたからである。
ラピタ王国において発布された「漂流者救難法」の内容は、「漂流者にはまず水と壊血病の治療の為オレンジを与えるべし」といった様に、そのままマニュアルとして通用する部分が多く、これに従って各地の住民達が冷静に対処した結果、今まで重大なトラブルは発生してこなかった。
今回もその様に処理し、漂流者達が回復して島を立ち去るまで面倒を見れば、それで済むはずであった。
3月19日、偶然その場に居合わせた王女一行によって船が発見されるや、王国政府は直ちに対応を開始した。
発見者となったポマレ10世の王女、リリィ(リリウオカラニ)・ティナ・ポマレは、12歳の時の大事件を、後にこう振り返っている。
マタバイ湾の外側の、誰も寄り付かない様な場所に、一隻船が乗り上げていた。船体が硬い黒鉄で出来ていたから、異国船だとすぐに分かった。…私はクリス(歴史学者クリストファー・ポマレ。当時は王女の付き人で友人の1人だった)を伴って船に近寄ると、ちょうど中から出てきたボロボロの服の船員と鉢合わせした。…その人の髪の毛は鮮やかな紺色で、見た目は女性の様に可愛らしく整っていた…震える手で、集めてきたオレンジのカゴを差し出すと、彼らは不思議そうな顔をした。毒ではない、と示すために皮を剥いて一欠片食べて、また差し出すと、信用してくれたらしく他の船員達も呼び集めて、皆で食べ始めた。…少ししたら役人を呼ぼうと思っていたら、誰かが見つけたらしく直ぐに大勢の兵士と共に駆けつけてきた。私は呑気に手を振ったが、強引に連れ戻されてひどいお説教を食らった…
この時同行していたクリスことクリストファー・ポマレも日記に記述を残している。
王女様はとんでもない勇気、いや、蛮勇をお持ちだった。外国船と見ても恐れることは無く、むしろ駆け出して行った。私が「やめたほうがいいですよ!」とお止め申し上げると、「その間に船員が死んだらどうする!」と物凄い剣幕でお応えになった。…そして、出てきた船員相手に、恐れること無くしきたり通りの救護をなさり、役人が来るまでその場に留まることに成功なさった
程なくして現場に王国政府の役人が到着し、船員達を護送する支度をすると共に、法に従って尋問を行った。役人達が言語の知識として頼りにしていたのは、今から100年前に僅かに残された古い外国語の資料であり、辛うじてコミュニケーションは取れたものの、「互いにかなり難儀する(王国政府の役人)」状態であったらしい。
これについてはグスティ船長がこの様に政府の聞き取りと新聞の取材に答えている。
緩やかなチュニックを着た白い肌と髪の少女からオレンジを受け取って食べていると、俄かに向こうから大勢の人がやってきて、少女を強引に引き戻した。彼らは少女を叱っている風だったが、声の調子はそこまで強くはなく…恐らく彼女は身分の高い人間なのだろうと思われた。…役人はとても古風は我が国の言葉で話しかけてきた。「どこの国から来たのか?どうしてここに来たのか?船の中に病人はいるか?」。わたし達は順番に答えていったが、彼らは新しい単語を知らなかったので非常に苦労した。…船員の中に古典を学んだものがあったので、彼が通訳の通訳をしてくれたので、俺達はなんとか害意の無いことを理解してもらえた…
その後、マウサネシア人達は護衛の下駕籠に乗せられ、首都のタアロアまで護送された。この時の都の様子も船長が残している。
駕籠の中から少し外を覗くと、自分たちの行先に家屋が立っているのが見えた。多くの家には壁が無く、ごく簡素な木の柱の上に藁葺きの屋根が有るだけのシンプルな建物だ。そうした家々が、区画整理だけはしっかりとなされた畑の中にいくつか立ち並んでいる風景が向こうまで続いていた。私が「あれは?」と通訳に問うと、通訳は「首都だ」と答えた。…少しすると、風景とはあまりにも釣り合わない、荒れ果てた庭に囲まれた…壮麗な石造りの宮殿が見えた。あれが王様の住む場所らしい…
ラピタ王国の首都タアロアの風景は、概ねこの船員が記述したものと今も変わってはいない。
憲政時代に整備された都市区画の中央にハワイキ宮殿が位置し、その周りに各種の政府機関と貴族の屋敷が並ぶ。そして、その外周には市場を中心に簡素な壁の無い建物がバラバラに建っているのだ。
別の船員はこの風景を指して、「ど田舎州のど田舎郡の第二都市」という評価を下している。
タアロアに付いたマウサネシア人達は、宿舎として充てがわれた王宮に程近い木造の屋敷(現マウサネシア大使館)に入った。道中では噂を聞きつけた市民達の好奇の目に晒され、かなり居心地の悪い思いをしたと彼らは後に振り返っている。
マウサネシア人達は2日間に渡って詳細な聞き取りを受け、邪な目的や理由が無いか、あるいは武器や疫病などを持っていないかを調べられた。
そして、事態が全て嵐による遭難で引き起こされたことがわかると、王国政府は態度を軟化させ比較的自由な行動を船員たちに認める様になった。
彼らは監視付きではあるが街に出ることも認められ、束の間の安息を楽しんだ。そして更に3日後、彼らは王宮に参内し、国王に謁見する様にという勅命を受けた。
ある日船から持ち出したチェスをしていると、以前に会った白髪の少女がやって来て、重々しく私たちにこう告げた。「国王陛下がお呼びであるから、直ぐに王宮に参上する様に」。ここで私たちは、この島にそぐわない白髪碧眼の彼女が現国王の王女という身分高き人だと知ったのである…私たちは今度は豪奢に飾られた輿に乗せられ、また大勢の市民の注目を浴びながら、例の立派な石造の宮殿に案内された…
一方、迎えた王国政府側も外国人達の細密な記述を残しており、それによれば、
外国人達は姿形こそ女の様であるが、誠に礼儀を見事に弁え、我が国の最も勇敢な戦士にも似た風格を持っていた
という。
そして、12人の船員達はリリィ王女の案内を受け、その後執務室でポマレ10世に謁見を果たした。
グスティ船長はこの謁見の際の興奮そのままに、この様なコメントを残した。
執務室と思しき部屋に入ると、そこには燕尾服で正装し、立派な髭を生やした王様が一人でいらっしゃった。調度品は酷く古びていたが、万事品良く纏められていて、壁にかけられた歴代の国王の称号と合わせて相応の風格を醸し出していた。
王様は私たちの方に顔を向けると、笑みを浮かべながら親しく話しかけて下さった。嵐で遭難したとお答え申し上げると、心底から同情して下さり、帰還の為に出来ることをする、とお約束して下さった…
加えて船長は、鎖国の長さを示すこの様なやりとりも記録している。
…また、王様は「今は何年か」と私に問われたので、「聖暦1982年です」とお答えした。するといたく驚かれて、「我が国の最後のカレンダーは、1875年で止まっている」と仰った。これには私たちも驚かずにはいられなかった…
その後、ポマレ10世は船員達一人一人に記念として大粒の黒真珠を下賜し、修理が終わるまでの滞在許可証と海域の通行証、そして政府の公的な認可を示す王国の国旗を用意させ彼らに渡した。
彼らは凡そ2ヶ月をラピタ王国で過ごし、王国の役人に最新の言語や国際情勢を教えながら船の修理を進めた。その間民衆との交流も少しではあるが行われ、多くの人々が珍しい外国の話を聞きに都を訪れたという。
途中何人かが慣れない環境で病に倒れたが、温泉地での一月ほどの療養で無事に回復し、修理と物資調達の完了に合わせて帰ることが可能になった。
私たちの船が岸を離れると、大勢の人々が見送りに出て来た。その中には王様本人やあの王女様もいらっしゃった。私たちの中にこの国との別れを惜しまないものはいなかった。誰もが、不可能ではあろうがまたこの国を訪れたいと思っていた…
そんなグスティ船長の予想は、半年後に全く逆の形で裏切られることになる。この些細な優しさが生んだ交流は、王国政府は無論のこと、船員達も全く予想していない方向に動くこととなるのだった。
そして、事態が全て嵐による遭難で引き起こされたことがわかると、王国政府は態度を軟化させ比較的自由な行動を船員たちに認める様になった。
彼らは監視付きではあるが街に出ることも認められ、束の間の安息を楽しんだ。そして更に3日後、彼らは王宮に参内し、国王に謁見する様にという勅命を受けた。
ある日船から持ち出したチェスをしていると、以前に会った白髪の少女がやって来て、重々しく私たちにこう告げた。「国王陛下がお呼びであるから、直ぐに王宮に参上する様に」。ここで私たちは、この島にそぐわない白髪碧眼の彼女が現国王の王女という身分高き人だと知ったのである…私たちは今度は豪奢に飾られた輿に乗せられ、また大勢の市民の注目を浴びながら、例の立派な石造の宮殿に案内された…
一方、迎えた王国政府側も外国人達の細密な記述を残しており、それによれば、
外国人達は姿形こそ女の様であるが、誠に礼儀を見事に弁え、我が国の最も勇敢な戦士にも似た風格を持っていた
という。
そして、12人の船員達はリリィ王女の案内を受け、その後執務室でポマレ10世に謁見を果たした。
グスティ船長はこの謁見の際の興奮そのままに、この様なコメントを残した。
執務室と思しき部屋に入ると、そこには燕尾服で正装し、立派な髭を生やした王様が一人でいらっしゃった。調度品は酷く古びていたが、万事品良く纏められていて、壁にかけられた歴代の国王の称号と合わせて相応の風格を醸し出していた。
王様は私たちの方に顔を向けると、笑みを浮かべながら親しく話しかけて下さった。嵐で遭難したとお答え申し上げると、心底から同情して下さり、帰還の為に出来ることをする、とお約束して下さった…
加えて船長は、鎖国の長さを示すこの様なやりとりも記録している。
…また、王様は「今は何年か」と私に問われたので、「聖暦1982年です」とお答えした。するといたく驚かれて、「我が国の最後のカレンダーは、1875年で止まっている」と仰った。これには私たちも驚かずにはいられなかった…
その後、ポマレ10世は船員達一人一人に記念として大粒の黒真珠を下賜し、修理が終わるまでの滞在許可証と海域の通行証、そして政府の公的な認可を示す王国の国旗を用意させ彼らに渡した。
彼らは凡そ2ヶ月をラピタ王国で過ごし、王国の役人に最新の言語や国際情勢を教えながら船の修理を進めた。その間民衆との交流も少しではあるが行われ、多くの人々が珍しい外国の話を聞きに都を訪れたという。
途中何人かが慣れない環境で病に倒れたが、温泉地での一月ほどの療養で無事に回復し、修理と物資調達の完了に合わせて帰ることが可能になった。
私たちの船が岸を離れると、大勢の人々が見送りに出て来た。その中には王様本人やあの王女様もいらっしゃった。私たちの中にこの国との別れを惜しまないものはいなかった。誰もが、不可能ではあろうがまたこの国を訪れたいと思っていた…
そんなグスティ船長の予想は、半年後に全く逆の形で裏切られることになる。この些細な優しさが生んだ交流は、王国政府は無論のこと、船員達も全く予想していない方向に動くこととなるのだった。
1ヶ月後、バルニバービ号は哨戒中のマウサネシア連邦?海軍の巡視船に発見され、保護された。
同船の生存と、船員達全員無事のニュースは忽ち全土を駆け巡り、生還は絶望的と考えていた国民の間に一大センセーショナルを巻き起こした。
彼らが帰還した首都の港には歓迎の民衆が溢れ、生涯会う機会が無かったであろう政府要人との会見まで組まれた。
その中で浮上したのが、彼らを救った未知の先住民国家、「ラピタ王国」の存在である。
連邦政府は、帰還した船員達の持ち物の中に、見慣れない国の公文書らしきパピルスと国旗を発見すると、すぐさま聞き取り調査を開始した。船員達は質問に対して正直に答え、行方不明の期間ラピタ王国という自分達の知らなかった国に滞在し、それが非常に強い海流で隔てられた立ち入り禁止の島にあることを証言した。
彼らの言う王国について官僚達は古い記録を漁り、あらゆる手段を尽くして調べ上げた。その結果、確かに今から100年ほど前にその様な王国が存在し、ある日を境に厳重な鎖国に入って以降、マウサネシア連邦を含めてあらゆる国との国交を途絶させていることが判明した。
この事実を知った連邦政府は、直ちに厳重な報道管制を敷き、船員達を保護したのは主権国家ではなく無主地に住む唯の先住民族だとした一方、船員の保護に対する謝礼と滞在費支払いを名目とした使節団の派遣を決定した。
尤もその真の目的は、自国にとって、また周辺海域の要衝である同諸島を事実上の主権下に置いて国防圏と貿易の利権を確保することであり、報道規制によって王国存在の事実を伏せたのも、他のライバル諸国に対しては引き続き鎖国を維持させ連邦が外交関係を独占するためであった。
バルニバービ号遭難から半年後の9月、マウサネシア連邦政府の使節団を乗せた巡防艦MCG-6014(愛称:「ガジャ・マダ4号」)が秘密裏に出航し、一路ラピタ王国を目指した。
案内人となったのはグスティ船長であり、船は国籍旗の他に下賜された王国旗を掲げていた。
同船の生存と、船員達全員無事のニュースは忽ち全土を駆け巡り、生還は絶望的と考えていた国民の間に一大センセーショナルを巻き起こした。
彼らが帰還した首都の港には歓迎の民衆が溢れ、生涯会う機会が無かったであろう政府要人との会見まで組まれた。
その中で浮上したのが、彼らを救った未知の先住民国家、「ラピタ王国」の存在である。
連邦政府は、帰還した船員達の持ち物の中に、見慣れない国の公文書らしきパピルスと国旗を発見すると、すぐさま聞き取り調査を開始した。船員達は質問に対して正直に答え、行方不明の期間ラピタ王国という自分達の知らなかった国に滞在し、それが非常に強い海流で隔てられた立ち入り禁止の島にあることを証言した。
彼らの言う王国について官僚達は古い記録を漁り、あらゆる手段を尽くして調べ上げた。その結果、確かに今から100年ほど前にその様な王国が存在し、ある日を境に厳重な鎖国に入って以降、マウサネシア連邦を含めてあらゆる国との国交を途絶させていることが判明した。
この事実を知った連邦政府は、直ちに厳重な報道管制を敷き、船員達を保護したのは主権国家ではなく無主地に住む唯の先住民族だとした一方、船員の保護に対する謝礼と滞在費支払いを名目とした使節団の派遣を決定した。
尤もその真の目的は、自国にとって、また周辺海域の要衝である同諸島を事実上の主権下に置いて国防圏と貿易の利権を確保することであり、報道規制によって王国存在の事実を伏せたのも、他のライバル諸国に対しては引き続き鎖国を維持させ連邦が外交関係を独占するためであった。
バルニバービ号遭難から半年後の9月、マウサネシア連邦政府の使節団を乗せた巡防艦MCG-6014(愛称:「ガジャ・マダ4号」)が秘密裏に出航し、一路ラピタ王国を目指した。
案内人となったのはグスティ船長であり、船は国籍旗の他に下賜された王国旗を掲げていた。
10月、マウサネシア使節団を乗せた船がラピタ島北部マタバイ湾に現れると、タアロアの街は大混乱に陥った。無論王国政府は周辺の小島に住む人々の目撃情報から、未知の大型外国船が王国の領域内に侵入したことは把握しており、これあるを予期して港に兵士を集め、古い砲台を再稼働させるなどして備えたが、情報を知らない民衆の恐慌は止めようが無く街は無秩序の極みとなった。
その後、船に乗っていたグスティ船長とマウサネシア使節の通訳が、来訪が軍事侵攻ではなく国王への表敬訪問であり、以前の遭難救助の謝礼が目的であると説明すると混乱は鎮静化し、逆に未知の大型船を見物するために各地から民衆が集まってきた。
報告を受けたポマレ10世は護衛と使節団の上陸を許可し、船員を保護した屋敷を宿舎として提供すると共に、議会のみならず他の島を含む各地のアリイ達を都へ招集して対応の協議に当たった。その間使節団は一応の礼儀をもって歓待され、無制限ではなかったが外出も許可された。彼らは情報収集も兼ねて遠隔地まで幾度も足を伸ばし、その記録を外務省へ資料として提出している。
12月、王国議会の議員と各地のアリイを集めた臨時の最高会議において、マウサネシア連邦からの使節を正式に受け入れ、その国書を受領することが決定された。議決においては「これは即時の開国を意味しない」と留保されたが、外国の国書受領は事実上の外交関係締結であり、開国に向けて大きく前進したことに変わりはなかった。
同月、ハワイキ宮殿にて使節団から国書受領の式典が行われ、遭難者救助への感謝表明と滞在費用の支払い、そしてその為のマウサネシア外交官の現地駐留などが取り決められた。

(ハワイキ宮殿。ポマレ4世の時代に建設された)
この中で最もマウサネシア連邦が重視したのは外交官の現地駐留であり、これを機に外交関係の既成事実化を図った。無論そうした目論見は王国政府の察するところではあったが、滞在の目的が支配ではなく謝礼の支払いであることと、ポマレ10世が鎖国祖法を廃止し、諸外国との関係再構築に意欲を示したこと、そして何より連邦の圧倒的な軍事力が決め手となりこの要請を受け入れることとなった。
翌年には議会で憲法改正案が可決され、長きにわたる鎖国条項の廃止が決定された。これによりマウサネシア外交官の正式受け入れと互いの国家承認手続きが行われ、国際法上初めて、地図上のラピタ諸島は無主地からラピタ王国の領土として表記される様になったのである。(あくまでマウサネシア外務省の中だけだが)
その後、船に乗っていたグスティ船長とマウサネシア使節の通訳が、来訪が軍事侵攻ではなく国王への表敬訪問であり、以前の遭難救助の謝礼が目的であると説明すると混乱は鎮静化し、逆に未知の大型船を見物するために各地から民衆が集まってきた。
報告を受けたポマレ10世は護衛と使節団の上陸を許可し、船員を保護した屋敷を宿舎として提供すると共に、議会のみならず他の島を含む各地のアリイ達を都へ招集して対応の協議に当たった。その間使節団は一応の礼儀をもって歓待され、無制限ではなかったが外出も許可された。彼らは情報収集も兼ねて遠隔地まで幾度も足を伸ばし、その記録を外務省へ資料として提出している。
12月、王国議会の議員と各地のアリイを集めた臨時の最高会議において、マウサネシア連邦からの使節を正式に受け入れ、その国書を受領することが決定された。議決においては「これは即時の開国を意味しない」と留保されたが、外国の国書受領は事実上の外交関係締結であり、開国に向けて大きく前進したことに変わりはなかった。
同月、ハワイキ宮殿にて使節団から国書受領の式典が行われ、遭難者救助への感謝表明と滞在費用の支払い、そしてその為のマウサネシア外交官の現地駐留などが取り決められた。

(ハワイキ宮殿。ポマレ4世の時代に建設された)
この中で最もマウサネシア連邦が重視したのは外交官の現地駐留であり、これを機に外交関係の既成事実化を図った。無論そうした目論見は王国政府の察するところではあったが、滞在の目的が支配ではなく謝礼の支払いであることと、ポマレ10世が鎖国祖法を廃止し、諸外国との関係再構築に意欲を示したこと、そして何より連邦の圧倒的な軍事力が決め手となりこの要請を受け入れることとなった。
翌年には議会で憲法改正案が可決され、長きにわたる鎖国条項の廃止が決定された。これによりマウサネシア外交官の正式受け入れと互いの国家承認手続きが行われ、国際法上初めて、地図上のラピタ諸島は無主地からラピタ王国の領土として表記される様になったのである。(あくまでマウサネシア外務省の中だけだが)
翌23年、王国政府は100年前に機能を停止した王国外務省を復活させ、マウサネシア連邦からの駐在領事の非公式な助言の下、外交の為の準備を整えつつあった。新生外務省の初代長官は摂政を兼務するジョアシャン・リホリホ・ポマレ王子、その下でマウサネシア出身の顧問官が最新の国際情勢を基に、助言と外交官育成に取り組み、急時の対応に備えていた。
そして、その訓練は早くも役に立つ機会を与えられることとなる。
24年の1月3日、マウサネシアの外交官を招いての伝統あるマカヒキの祭りの日、マタバイ湾に突如カリオニア・ソビエト社会主義共和国連邦の高速巡洋艦が侵入し、上陸と交渉を求めてきたのである。
この衝撃的な来訪は、王国政府は無論のことマウサネシアにも事前通告無しに行われ、まさしく両国にとって青天の霹靂であった。
ポマレ10世がアスタ戦争以来の緊急勅令を発布し、国軍の動員と外務省を中心とした対応協議本部を作る一方、マウサネシア外交官の代表を務めていたジョコ・プラマンガンダは作られたばかりの衛星通信設備を利用して本国に急を知らせた。
ここに同盟関係にある両国は俄に緊張状態となり、当事者であるラピタ王国を蚊帳の外にしての水面下の交渉が続けられることとなる。
対照的に民衆はこの事態への混乱や危機感は薄く、それぞれマカヒキの祭りの支度に忙しかった。リリィ王女の回顧によれば、彼らは皆カリオニアの船がマウサネシアの船であると考えており、既に慣れが来ていたのだという。
また、来航したカリオニアの担当者が、マウサネシア語を使ってコミュニケーションを試みたこともそうした傾向を助長し、カリオニア使節団は「奇妙な原住民の歓迎の中」迎えられた。
1月10日、マウサネシア連邦政府は密かにカリオニア政府に接触し、非公式に遺憾の意を表したが、逆にラピタ王国の存在を秘密にしていたことを持ち出され、秘密外交であると糾弾を受ける。
その後両国は表向き同盟国である点を鑑み、ラピタ王国をモスコーウェン条約機構勢力圏に取り込み、かつマウサネシアの安全保障上優位な措置を講じることで合意した。
(これらの経緯はカリオニアから亡命した元諜報機関のメンバーであるウラディミル・シャボフスキーによって公にされた)
12日、マウサネシア連邦の同意の下、使節団は国王ポマレ10世に謁見し、正式に国書を奉呈した。多くの国民は、ここに来て初めてマカヒキにやって来た外国船が、別の国の船であると知ったのである。
カリオニア政府代表として国書を持参した、使節団団長ソフィア・ペトローヴナ・ゴドヴィナ外務人民委員候補はクルルヌイ宮殿に召集された王国議会において演説し、次の様な条件での議定書締結を提案した。
・カリオニア・ソビエト社会主義共和国連邦とラピタ王国は相互に承認し、将来的に正式な国交を結ぶ
・マウサネシア連邦とラピタ王国は正式に国交を結び、タアロアに大使館を置く
・ラピタ王国はマタバイ港を開港し、自由な貿易とカリオニア・マウサネシア国籍の人間の自由な出入りと旅行を認める
・ラピタ王国が諸外国と関係を樹立し、国際社会に新たに参入するに際しカリオニアとマウサネシアは、王国の誠実な友人として政府・国王に対して助言し、その求めがあれば如何なる場合にも仲介の任を務める
これらの条件は議会で討議されたが、長老院議員を中心に
大きな反対に遭った。先述のリリィ王女(14歳の誕生日を以って勅選議員に補任)、及びジョアシャン摂政、そしてライアテア・パペーテなどのアリイ達は、第一と第二項の受け入れはやむを得ないとしても、第三項は未知の疫病や秩序の崩壊を招きかねず、第四項は事実上の従属であるという反対の弁を述べ、カフナ・ヌイ(最高神官)は条約締結そのものに対し断固たる反対を表明した。
これについてゴドヴィナ団長は、開国に至るまでの国際社会の歩みを詳しく説明し、鎖国を続けていたラピタ王国を狙うその他の列強の存在を仄めかすことで、暗に国王と王国政府を恫喝した。
この恫喝は外務省を中心に政府に大きな衝撃を与え、強硬な反対派を除き多くを調印賛成の立場に追い込んだ。
23日、議会は第三項と第四項について留保をつけた上で条件を受け入れることを決定し、国王に上奏した。翌24日にポマレ10世はゴドヴィナ団長に対し、「自由な旅行の範囲を制限する」という留保と、条文を「あくまでラピタ王国の外交主権は一切制限しない」と解釈する旨の議会決定を伝達した。
そして、2月1日に関係する2つの国の政府が議定書調印に同意し、ハワイキ宮殿において調印式が行われた。その場においてポマレ10世は、外国との通交は王国の伝統を破壊するものではないこと、3国の間に友好関係が成立し、引き続き王国には平和が続くであろうことを、神々の寵愛深き王の名において制約し、山岳地や遠隔地に住む諸部族集団に対しても理解を求めた。
これについて、ゴドヴィナ団長の随員であったオレウィンスキー書記官は、次の様に述べている。
国王の演説は、国内に渦巻いていた不安を一掃した。凡ゆる迷信深い先住民は、神々に守護されしアリイ・ヌイの一声で文明人へと脱皮したのだ…我々は、この国においていかに国王が強い力を持っているのかを改めて知った
同日、これらのやりとりは全世界に向けて公となり、ラピタ王国の存在は真の意味で国際的な承認を得た。歴史学者クリストファー・ポマレは、「この日が王国が世界の舞台に立った最初の日である」とし、王国の新しい夜明けが到来した瞬間であると評価している。
そして、その訓練は早くも役に立つ機会を与えられることとなる。
24年の1月3日、マウサネシアの外交官を招いての伝統あるマカヒキの祭りの日、マタバイ湾に突如カリオニア・ソビエト社会主義共和国連邦の高速巡洋艦が侵入し、上陸と交渉を求めてきたのである。
この衝撃的な来訪は、王国政府は無論のことマウサネシアにも事前通告無しに行われ、まさしく両国にとって青天の霹靂であった。
ポマレ10世がアスタ戦争以来の緊急勅令を発布し、国軍の動員と外務省を中心とした対応協議本部を作る一方、マウサネシア外交官の代表を務めていたジョコ・プラマンガンダは作られたばかりの衛星通信設備を利用して本国に急を知らせた。
ここに同盟関係にある両国は俄に緊張状態となり、当事者であるラピタ王国を蚊帳の外にしての水面下の交渉が続けられることとなる。
対照的に民衆はこの事態への混乱や危機感は薄く、それぞれマカヒキの祭りの支度に忙しかった。リリィ王女の回顧によれば、彼らは皆カリオニアの船がマウサネシアの船であると考えており、既に慣れが来ていたのだという。
また、来航したカリオニアの担当者が、マウサネシア語を使ってコミュニケーションを試みたこともそうした傾向を助長し、カリオニア使節団は「奇妙な原住民の歓迎の中」迎えられた。
1月10日、マウサネシア連邦政府は密かにカリオニア政府に接触し、非公式に遺憾の意を表したが、逆にラピタ王国の存在を秘密にしていたことを持ち出され、秘密外交であると糾弾を受ける。
その後両国は表向き同盟国である点を鑑み、ラピタ王国をモスコーウェン条約機構勢力圏に取り込み、かつマウサネシアの安全保障上優位な措置を講じることで合意した。
(これらの経緯はカリオニアから亡命した元諜報機関のメンバーであるウラディミル・シャボフスキーによって公にされた)
12日、マウサネシア連邦の同意の下、使節団は国王ポマレ10世に謁見し、正式に国書を奉呈した。多くの国民は、ここに来て初めてマカヒキにやって来た外国船が、別の国の船であると知ったのである。
カリオニア政府代表として国書を持参した、使節団団長ソフィア・ペトローヴナ・ゴドヴィナ外務人民委員候補はクルルヌイ宮殿に召集された王国議会において演説し、次の様な条件での議定書締結を提案した。
・カリオニア・ソビエト社会主義共和国連邦とラピタ王国は相互に承認し、将来的に正式な国交を結ぶ
・マウサネシア連邦とラピタ王国は正式に国交を結び、タアロアに大使館を置く
・ラピタ王国はマタバイ港を開港し、自由な貿易とカリオニア・マウサネシア国籍の人間の自由な出入りと旅行を認める
・ラピタ王国が諸外国と関係を樹立し、国際社会に新たに参入するに際しカリオニアとマウサネシアは、王国の誠実な友人として政府・国王に対して助言し、その求めがあれば如何なる場合にも仲介の任を務める
これらの条件は議会で討議されたが、長老院議員を中心に
大きな反対に遭った。先述のリリィ王女(14歳の誕生日を以って勅選議員に補任)、及びジョアシャン摂政、そしてライアテア・パペーテなどのアリイ達は、第一と第二項の受け入れはやむを得ないとしても、第三項は未知の疫病や秩序の崩壊を招きかねず、第四項は事実上の従属であるという反対の弁を述べ、カフナ・ヌイ(最高神官)は条約締結そのものに対し断固たる反対を表明した。
これについてゴドヴィナ団長は、開国に至るまでの国際社会の歩みを詳しく説明し、鎖国を続けていたラピタ王国を狙うその他の列強の存在を仄めかすことで、暗に国王と王国政府を恫喝した。
この恫喝は外務省を中心に政府に大きな衝撃を与え、強硬な反対派を除き多くを調印賛成の立場に追い込んだ。
23日、議会は第三項と第四項について留保をつけた上で条件を受け入れることを決定し、国王に上奏した。翌24日にポマレ10世はゴドヴィナ団長に対し、「自由な旅行の範囲を制限する」という留保と、条文を「あくまでラピタ王国の外交主権は一切制限しない」と解釈する旨の議会決定を伝達した。
そして、2月1日に関係する2つの国の政府が議定書調印に同意し、ハワイキ宮殿において調印式が行われた。その場においてポマレ10世は、外国との通交は王国の伝統を破壊するものではないこと、3国の間に友好関係が成立し、引き続き王国には平和が続くであろうことを、神々の寵愛深き王の名において制約し、山岳地や遠隔地に住む諸部族集団に対しても理解を求めた。
これについて、ゴドヴィナ団長の随員であったオレウィンスキー書記官は、次の様に述べている。
国王の演説は、国内に渦巻いていた不安を一掃した。凡ゆる迷信深い先住民は、神々に守護されしアリイ・ヌイの一声で文明人へと脱皮したのだ…我々は、この国においていかに国王が強い力を持っているのかを改めて知った
同日、これらのやりとりは全世界に向けて公となり、ラピタ王国の存在は真の意味で国際的な承認を得た。歴史学者クリストファー・ポマレは、「この日が王国が世界の舞台に立った最初の日である」とし、王国の新しい夜明けが到来した瞬間であると評価している。
開国から10年を経た現在、王国には少しずつではあるが確実に近代化の波が近づきつつある。ハワイキ宮殿には、ソーラーパネルを元にした発電機構と、それによって動く電化製品が揃えられ、政府はテレビやラジオを介して最近の国際情報を得られる様になった。
また、これらの情報が国民向けの新聞として発行される様になり、タアロアを中心とした都市部の住民は外国への忌避感を失いつつある。(経済活動の活性化のため、諸国と共同で設置されたトゥアナケ多国籍租借地は、王国内部では開国の象徴とみなされている)
しかし、依然として地方には伝統的な生活を営む人々がおり、彼らの中には外国人を警戒するものも多い。ライアテア島やマナルウイ島、ボラボラ島などは未だ外国人に対して閉ざされ、ラピタ島についても山岳部への立ち入りは厳重に規制されているが、その理由の最大のものが外国人への警戒であることは言うまでもない。
聖暦1992年(ポマレ10世在位32年)現在、諸外国の政府はラピタ王国に対して全国土への旅行自由化や通商条約の締結を要請しているが、王国政府は伝統文化の保護や国際社会への警戒によってこれらを拒否し続けており、多国籍租借地開設を除いて、基礎的な外交関係を結ぶに留まっている。
また、これらの情報が国民向けの新聞として発行される様になり、タアロアを中心とした都市部の住民は外国への忌避感を失いつつある。(経済活動の活性化のため、諸国と共同で設置されたトゥアナケ多国籍租借地は、王国内部では開国の象徴とみなされている)
しかし、依然として地方には伝統的な生活を営む人々がおり、彼らの中には外国人を警戒するものも多い。ライアテア島やマナルウイ島、ボラボラ島などは未だ外国人に対して閉ざされ、ラピタ島についても山岳部への立ち入りは厳重に規制されているが、その理由の最大のものが外国人への警戒であることは言うまでもない。
聖暦1992年(ポマレ10世在位32年)現在、諸外国の政府はラピタ王国に対して全国土への旅行自由化や通商条約の締結を要請しているが、王国政府は伝統文化の保護や国際社会への警戒によってこれらを拒否し続けており、多国籍租借地開設を除いて、基礎的な外交関係を結ぶに留まっている。
国王(憲法上の正式名称はアリイ・ヌイ)は、憲法第一条の規定によりラピタ王国の永久不変の君主とされている。また、その地位はポマレ王家による世襲と規定されており、男女の是非は問われない。が、実際は女児とその子供は継承順位で不利な扱いを受けている。
憲法で定められた国王の大権は次の通り。
・ラピタ王国の元首にして、最終的かつ最高位の主権の執行者
・国内のあらゆる宗教の最高司祭
・議会への諮問に基づいて摂政、破毀院首席判事を任命する
・法律・勅命を公布する
・軍の最高司令官
・全ての階級の上に立ち、それらを指導する
・栄典・恩赦を与える
・次期国王を王族の中から指名する
現在の国王はポマレ10世であり、憲政史上4番目の国王である。
憲法で定められた国王の大権は次の通り。
・ラピタ王国の元首にして、最終的かつ最高位の主権の執行者
・国内のあらゆる宗教の最高司祭
・議会への諮問に基づいて摂政、破毀院首席判事を任命する
・法律・勅命を公布する
・軍の最高司令官
・全ての階級の上に立ち、それらを指導する
・栄典・恩赦を与える
・次期国王を王族の中から指名する
現在の国王はポマレ10世であり、憲政史上4番目の国王である。
国王によって任命され、政務全般を輔弼する。憲法上の役割は、国王の命令に基づいて必要な措置を執行することであるが、事実上は議会の信任を受けて政務全般を代行する首相といえる。
現摂政は国王の同母弟のジョアシャン・リホリホ・ポマレ。
現摂政は国王の同母弟のジョアシャン・リホリホ・ポマレ。
王国の立法と行政を担う組織である議会は、長老院と民衆院の二院制である。
長老院は定数20、半数が王族より勅選され、残余半数が各地の首長間の互選で選ばれる。が、ほぼ全ての首長は何らかの形で王家と関係を持っていることから、事実上は国王・王家に留保された立法権限の執行機関という色が強い。
民衆院は定数120。人口比に合わせて各島に配分されているが、原則として最低限一つの島に一議席ずつ配分される様定められている。
選挙権・被選挙権は共に奴隷を除く一定年齢を越えた王国国民全員に与えられている。
議事堂はタアロア郊外のクルルヌイ宮殿(ポマレ4世がハワイキ宮殿の離宮として建設)に置かれている。
長老院は定数20、半数が王族より勅選され、残余半数が各地の首長間の互選で選ばれる。が、ほぼ全ての首長は何らかの形で王家と関係を持っていることから、事実上は国王・王家に留保された立法権限の執行機関という色が強い。
民衆院は定数120。人口比に合わせて各島に配分されているが、原則として最低限一つの島に一議席ずつ配分される様定められている。
選挙権・被選挙権は共に奴隷を除く一定年齢を越えた王国国民全員に与えられている。
議事堂はタアロア郊外のクルルヌイ宮殿(ポマレ4世がハワイキ宮殿の離宮として建設)に置かれている。
近代化の一環として首都タアロアに設置された裁判所。各地の首長に委託されている司法判断について調査し、必要があれば判決破棄の上再審理に付すことを命令できる。
民事事件・宗教事件は扱わず、あくまで刑法上の犯罪行為の裁判に職掌を限っている為か、民衆からの知名度は非常に低い。
現在の破毀院首席判事はハワーラのアリイであるオン・テムイ。
民事事件・宗教事件は扱わず、あくまで刑法上の犯罪行為の裁判に職掌を限っている為か、民衆からの知名度は非常に低い。
現在の破毀院首席判事はハワーラのアリイであるオン・テムイ。
ポマレ3世の時代に創設された機関であり、書記官と図書館の正式名称は「記憶する者」と「知識の家」。初代書記官長と図書館長はいずれもリコ・ティナ・ポマレ。
現在は学術の研究拠点となっている。
現在の書記官長はリリィ(リリウオカラニの短縮形)・ティナ・ポマレ。図書館長はアロフィ知事のクリストバル・ナーヴァヒー
現在は学術の研究拠点となっている。
現在の書記官長はリリィ(リリウオカラニの短縮形)・ティナ・ポマレ。図書館長はアロフィ知事のクリストバル・ナーヴァヒー
国土の約4分の1(30の地域と複数の村、その他多数の無人島)を占める広大な王室御料地を代官として統治する役職。ラピタ語では「コノヒキ」と称する。御料地執事は現地における行政官・徴税官の役割を負っており、現地からの貢物や産品の一部を得ることができた。
御料地の規模は島全て、地方一円を囲む物から村一つがぽつりぽつりと孤立する様な物まで大小様々であったが、規模に関わらず全ての執事は国王直属の臣下として平等に扱われ、また敬意を払われる。
現在では長老院議員に対する歳費の代わりとして、また一代限りの加増として褒美的に授与されることが多い。ちなみに、民衆院は「マルタカナン御料地執事」他幾つかの御料地執事の称号を持っており、そこから議員の歳費を得ている。(民衆院が執事として管理権を持つ御料地は幾つかの島の他、各地に点在する村々など多数存在する)
その他、宮廷に必要な職が国王直属で設置されている。
御料地の規模は島全て、地方一円を囲む物から村一つがぽつりぽつりと孤立する様な物まで大小様々であったが、規模に関わらず全ての執事は国王直属の臣下として平等に扱われ、また敬意を払われる。
現在では長老院議員に対する歳費の代わりとして、また一代限りの加増として褒美的に授与されることが多い。ちなみに、民衆院は「マルタカナン御料地執事」他幾つかの御料地執事の称号を持っており、そこから議員の歳費を得ている。(民衆院が執事として管理権を持つ御料地は幾つかの島の他、各地に点在する村々など多数存在する)
その他、宮廷に必要な職が国王直属で設置されている。
最新の人口調査(ポマレ10世在位30年目に行われたもの)の結果によれば、943,400人。殆どが先住民のラピタ人等である。定期的に襲う自然災害や疫病、飢饉などにより人口の増加ペースは遅かったが、開国とその後の貿易によって流入した外国の食糧や、農業技術の改良に伴って出生率は大きく上昇した。
(それ以前の正確な統計が存在しない為、出生率については調査が続けられているが、開国によってある種のベビーブームが発生したことは、外国の統計学者も含めた政府の調査によって判明している)
各島のおおよその人口は以下の通り
・ラピタ島…547,000人
・ライアテア島…150,400人
・マナルウイ島…69,000人
・ボラボラ島…27,000人
・トゥアナケ多国籍租借地…20,000人
・その他76の小属島・環礁…130,000人以上
(それ以前の正確な統計が存在しない為、出生率については調査が続けられているが、開国によってある種のベビーブームが発生したことは、外国の統計学者も含めた政府の調査によって判明している)
各島のおおよその人口は以下の通り
・ラピタ島…547,000人
・ライアテア島…150,400人
・マナルウイ島…69,000人
・ボラボラ島…27,000人
・トゥアナケ多国籍租借地…20,000人
・その他76の小属島・環礁…130,000人以上
国内に住む民族の殆どはラピタ人、ラピタ諸民族と呼称される先住民であり、王家を含め戦国時代以降土地と血縁で結びついた88の首長国に分かれている。(通称:王国八十八諸侯とも。王家及びそれに従属する諸侯87ヶ国を合わせた数字)
これらの首長国は王家の下自身の国を統治すると共に、島の主人たる上位のアリイに従属する中世的封建制の中核を成している。
また、マタバイ平野や海沿いに暮らす「低地の民」と深い熱帯雨林の奥に住む「高地の民」という二つの大きな括りが存在し、双方には文化的・言語的に大きな違いがある。統一後は「ラピタ国民」の意識が共有されてはいるが、未だに高地の民は伝統的な暮らしを維持し、また外国人への警戒心が強いものが多い。
主な首長国
・ピリカ国…ラピタ島マタバイ平野を根拠とする低地の国。ポマレ1世の母国。凡そ24万の人口を擁する最大の首長国で、ラピタ島にやってきた始祖ピリカ・アイエアの末裔をアリイとしている。直轄支配域はラピタ島の3分の1に達し、現在の王室御料地の基になった。
・セルカナム国…ピリカに次ぐ規模を有していた低地の国。かつてはピリカと島の覇権をめぐって激しく争った。現在はピリカ配下の封建領主となっている。
・ワイカト国…ラピタ島東部に勢力を張る低地の国。アリイはピリカ・アイエアが率いた船団の中のカヌー「ワイカト」号に乗っていた開拓者の子孫と伝わる。
・ホーゴー国…ラピタ島中央部の山岳に住む高地の国。約16万人の高地の民の中では最大の人口を持つ国で、勢力圏も広い。昔から剽悍な山の戦士として恐れられてきた。
・タウツア国…ホーゴーと境を接する山岳の国で、長きに渡ってホーゴーと争いを続けてきた。王国が建国されてからもそれは変わらず、幾度となく死者を出す衝突を繰り返している。
・ピアイウィ国…ライアテア島を統一した国。ライアテア・モクプニのアリイを輩出してきた。支配下に12の小首長国を持っていたが、ポマレ2世の征服により滅亡。その後、ポマレ王家の血を引く人間がアリイとしてあてがわれ、復興された。
・プニ国…ボラボラ島を統一した国。高い航海技術を持つことで知られる。ポマレ2世以後も存続した数少ない上級首長国。
・トゥーホエ国…マナルウイ島で最大の勢力を誇り、ピリカ国の支援を受けて統一を果たした国。その後ポマレ2世によって徹底的に掃滅された結果、小国に転落した。
これらの首長国は王家の下自身の国を統治すると共に、島の主人たる上位のアリイに従属する中世的封建制の中核を成している。
また、マタバイ平野や海沿いに暮らす「低地の民」と深い熱帯雨林の奥に住む「高地の民」という二つの大きな括りが存在し、双方には文化的・言語的に大きな違いがある。統一後は「ラピタ国民」の意識が共有されてはいるが、未だに高地の民は伝統的な暮らしを維持し、また外国人への警戒心が強いものが多い。
主な首長国
・ピリカ国…ラピタ島マタバイ平野を根拠とする低地の国。ポマレ1世の母国。凡そ24万の人口を擁する最大の首長国で、ラピタ島にやってきた始祖ピリカ・アイエアの末裔をアリイとしている。直轄支配域はラピタ島の3分の1に達し、現在の王室御料地の基になった。
・セルカナム国…ピリカに次ぐ規模を有していた低地の国。かつてはピリカと島の覇権をめぐって激しく争った。現在はピリカ配下の封建領主となっている。
・ワイカト国…ラピタ島東部に勢力を張る低地の国。アリイはピリカ・アイエアが率いた船団の中のカヌー「ワイカト」号に乗っていた開拓者の子孫と伝わる。
・ホーゴー国…ラピタ島中央部の山岳に住む高地の国。約16万人の高地の民の中では最大の人口を持つ国で、勢力圏も広い。昔から剽悍な山の戦士として恐れられてきた。
・タウツア国…ホーゴーと境を接する山岳の国で、長きに渡ってホーゴーと争いを続けてきた。王国が建国されてからもそれは変わらず、幾度となく死者を出す衝突を繰り返している。
・ピアイウィ国…ライアテア島を統一した国。ライアテア・モクプニのアリイを輩出してきた。支配下に12の小首長国を持っていたが、ポマレ2世の征服により滅亡。その後、ポマレ王家の血を引く人間がアリイとしてあてがわれ、復興された。
・プニ国…ボラボラ島を統一した国。高い航海技術を持つことで知られる。ポマレ2世以後も存続した数少ない上級首長国。
・トゥーホエ国…マナルウイ島で最大の勢力を誇り、ピリカ国の支援を受けて統一を果たした国。その後ポマレ2世によって徹底的に掃滅された結果、小国に転落した。
「ラピタ」とは、「人間」、「最初の人(この意味は開国後に付け加えられた)」を表す言葉で各部族集団の共通の自称であった。
公用語として定められているのは憲法上は「ラピタ語」であるが、ラピタ語は言うなればラピタ諸語というべき複雑な地域分化が見られ、特に嶮岨な山や海で隔てられた離島などでは全く別の言語に変化していることも多い。
下位分類にピリカ語(所謂標準語)、ホーゴー語(山地ラピタ人の言語)など。
これらの諸方言は互いに意思疎通が困難な点も多いが、母音a、i、u、e、oや文法面での共通点が多く、習得自体は比較的容易である。
言語の表記体系は大きく分けて2つあり、ポマレ3世時代に開発されたラピタ文字(外国から流入した文字文化の影響で成立した表音文字。機構としては極めて単純であり、綴りと発音が相互に予測可能になっている。表記は右から左に書かれる)か、世界標準のラテン文字かのいずれかである。また、少数ながら隣国のマウサネシアの表記体系も用いられる。
なお、憲法正文はラピタ文字で書かれ、副文のうち一部がラテン文字で記されていることからわかる様に、公的な扱いはラピタ文字の方が若干上である。
公用語として定められているのは憲法上は「ラピタ語」であるが、ラピタ語は言うなればラピタ諸語というべき複雑な地域分化が見られ、特に嶮岨な山や海で隔てられた離島などでは全く別の言語に変化していることも多い。
下位分類にピリカ語(所謂標準語)、ホーゴー語(山地ラピタ人の言語)など。
これらの諸方言は互いに意思疎通が困難な点も多いが、母音a、i、u、e、oや文法面での共通点が多く、習得自体は比較的容易である。
言語の表記体系は大きく分けて2つあり、ポマレ3世時代に開発されたラピタ文字(外国から流入した文字文化の影響で成立した表音文字。機構としては極めて単純であり、綴りと発音が相互に予測可能になっている。表記は右から左に書かれる)か、世界標準のラテン文字かのいずれかである。また、少数ながら隣国のマウサネシアの表記体系も用いられる。
なお、憲法正文はラピタ文字で書かれ、副文のうち一部がラテン文字で記されていることからわかる様に、公的な扱いはラピタ文字の方が若干上である。
ラピタ王国の社会は複雑に絡み合った身分制度によって成り立っており、それぞれが異なる役割を果たしていた。
立憲革命後は少しずつ消えつつあるが、それでも社会の多くの場面では因習・タブーと共に重視されており、開明的な憲法の中でも依然として身分制度は維持され、今後の課題となっている。
アリイ・ヌイ
言わずと知れたアリイ・ヌイは、全土にただ一人の存在であり、それ即ちラピタ王国の国王である。
元来ラピタ王国の国王は、「全ラピタのアリイ」の名の下に島を統治し、それに各島のアリイ達が従うという形式をとっていた。つまりアリイ・ヌイとは、全てのアリイの中で最も強大な君主たるラピタ島のアリイを指す尊称に過ぎなかったのである。
しかし、ポマレ4世の時代以降急速に王国領全体の統合が進み、その他の島々をまとめて「ラピタ王国」という単一の領域と見做す考え方が広がると、単なる島の支配者を超えた最高君主の称号としてアリイ・ヌイの称号が公的に用いられる様になる。
その後、ポマレ4世によって対外的に用いられていたアリイ・ヌイの称号は、立憲革命後は憲法に正式に称号として規定され、「ラピタ王国」の支配者の呼び名として用いられることとなった。
彼らは王国成立後大部分の時代において、神の代理人にも等しい権力を国内で振るい、立憲革命後も民衆の尊崇を受けている。
なお、歴代のアリイ・ヌイは本名で呼ばれることはなく、初代王の後継者として「ポマレ○世」の名で呼ばれる。
王族
王族はアリイ・ヌイの一族のうち、自身の名前に「ポマレ」を冠することを認められた者達を指す。
彼らの数はそう多くは無く、多くの王族の中で名乗れるのは王の直接の子女か、勅命によって正式に認められた者のみであり、現在ポマレを名乗っているのは100名前後に過ぎない。(その半分以上は、ライアテア首長家、マナルウイ首長家、ボラボラ首長家などの王家に連なる名門貴族家門の当主子女で、これらは海外の宮家に相当する)
また、ポマレを名乗ることを認められた王族は、「アリイ」の称号と、場合によっては実際に国王の直轄地(ラピタ島を中心に各地に点在し、総面積は国土の約4分の1に達する)内に采地を賜ることもある(采地を持つ王族は、自身の名前に「(采地)のアリイ」を付け加えることができる)。しかし、現在ではその殆どが形骸化した名誉称号となり、与えられる采地も名目上のみになるか、或いは架空のお目出度い地名をアリイ称号に付け加える程度かという位になっている。
なお、伝統的に王家は近親婚によって後継を産んでおり、王位継承順においても王と母親の血の近さが重視され、最も高いのは同母兄弟姉妹と国王との間に生まれた子供であり、最も低いのは王族外の配偶者の子供である。
ティナ・ポマレ
ポマレとは元来「白髪」を意味する言葉であり、初代王の渾名から王家の名となった。
しかし、初代国王以降も王家には何人か同じ様な子供、つまり「生まれつき白い肌と髪の毛を持つ(学問上は先天性白皮症と考えられている)」子供が生まれており、その家名は未だ実質を伴って認知されている。
そうした子は「白髪の御子」として重要な位置付けに置かれ、ミドルネームに初代王の本名である「ティナ」を冠する等最上級の名誉をもって遇される。
が、彼らは時として王位さえも脅かす存在として恐れられ、放逐や殺害の対象となることも少なくない。
著名なティナ・ポマレ
・トウ・トゥイ・ティナ・ポマレ…初代ポマレ1世の王子の一人で、母親が王族外であった為に継承候補から外れる。ライアテア島のアリイの娘を娶り現地の小領主に封じられたが、その影響力を恐れた異母弟ポマレ2世によって謀叛の濡れ衣を着せられ征服戦争の最中に殺害される。3世の時代に名誉が回復され、「ライアテアのアリイ」と認められた。
・リコ・ティナ・ポマレ…ポマレ3世の王女。ラピタ文字を開発し、ピリカ叙事詩を文章化してラピタにおける文学の始祖となるなど、優れた文化的功績で知られる。4世の時代に臣籍に降嫁し、以後は在野の著述家として活動した。代表作は「ピリカ叙事詩正文」、並びに歴史書「ポマレ年代記」(口承と叙事詩を基に執筆され、ピリカ・アイエアからポマレ3世の時代に至るまでの通史を記述した初の歴史書。ピリカ叙事詩と対を成す散文作品の白眉)
・リリィ・ティナ・ポマレ…本名はリリウオカラニ。現国王ポマレ10世の直系王女。
アリイ
アリイは現地語で「首長」を意味し、各地の政治的・宗教的支配者である。
一口にアリイと言ってもその支配領域は様々で、島全域を統治する者から渓谷の一部や小さな村を分割して支配する者まで、上下の幅は非常に広い。
彼らの支配領域は広さ毎に独特の名前が付けられ、上位のアリイの命令を受ける封建的統治体制(アフプアア)が敷かれている。ラピタ島のアリイが王国全域の支配者となった後もそれは変わらず、各島の最上級のアリイ達がラピタ島のアリイに服属する形で統治構造が作られていった。
その後、立憲革命によって全ラピタのアリイがラピタ王国のアリイ・ヌイとなると、自身の領域で絶対君主となっていた彼らはその権力の多くを中央に剥奪され、単なる貴族階級へと変化した。
しかし、依然として支配地における権威は中央のそれを上回っており、世襲によって受け継がれてきた強い権力を保持している。
憲法においては王族に次ぐ身分とされ、事実上人臣の最高位である。
アフプアアの単位
アウプニ(またはモイ)…王国全土を指す言葉。原義は「世界」、または「天下」。
モクプニ…本来は王国の主要な4つの島一つ一つを表す単位。元々はこれが最大の単位であり、王国の国王は代々ラピタ・モクプニのアリイを名乗ってきた。アウプニが浸透すると相対的に価値が下がり、現在では第2位の単位となっている。また、ポマレ2世以降は実体をほぼ喪失し、王族に与える名誉称号の面が強くなっている。
モク…島を地域ごとに分割した単位。かつて島で割拠していた小首長国の支配領域を基準としており、島以下の単位では最大のもの。また、主要4島以外の小島は、島全体が1人のアリイに治められていても、面積と人口規模が小さいことから、島一つ、または幾つかの小環礁などをひっくるめてモクとされることが多い。
モクはラピタ島に27、ライアテア島に13、マナルウイ島に10、ボラボラ島に6、その他の島々を合わせて総計117個存在する。(うち30は王室御料地であり、現地の統治者は『コノヒキ』と呼ばれアリイとは区別される)これらモクのアリイ達は、自身の首長国の君主として政治を行い、また下位の領主達を任免する権利を有していた。(王国憲法に基づき、長老院の被選挙権を有するのはこのモクのアリイまでであるが、この規定はかつてモクが王国第2位の地域区分だったことの名残である)
アフプアア…モクを地方とするならアフプアアは都市、または村に近い概念である。かつての戦国時代では、最も重要な土地支配の単位だった。
イリアイナ…アフプアアの中の家族単位。
カフナ
カフナは現地における「専門家」層を指し、神官や医師、熟練職人や語り部など多様な職業を内包している。
例えばカフナ・ヌイはアリイの下で祭祀を司る神官の最高位であり、社会において高い権威と影響力を持つ。また、カフナ・ロミロミは医療マッサージの特技を持つ人々を指し、彼らは同時に王国における優れた医師でもあった。
立憲革命前後の王国の発展にはカフナ層が中心的な役割を果たし、民衆院議員の多くはこの階層の出身である。
憲法においてはマカアイナナと同格とされるが、社会的には彼らよりも高い地位と認知されている。
マカアイナナ
マカアイナナは所謂庶民であり、農民や商人、下級の職人などが該当する。彼らは家族単位、家族が結びついた村単位で居住し、アリイの下土地や財産を共有して暮らしてきた。
その後、外国との交易が盛んになるにつれてマカアイナナの中には経済的に富裕となり、カフナやアリイ層にも影響を与える者が出始めた。彼らは政治家となることは少なかったが、フィクサーとして政治を裏から操り、時に政争の原因ともなった。
憲法においてはカフナと同格とされるが、大部分はカフナよりも下の身分と認知されている。
カウバ
カウバとは奴隷階級であり、かつては全人口の4割を占めていた。彼らは戦争捕虜であったり、タブーを犯した犯罪者であったりし、識別のために特別な刺青と服装を強要され、厳しく差別された。
立憲革命においてはこの差別が廃止されることを一部のカウバが期待していたが、結果として多くの反対(そこには社会的地位を失うことを恐れたカウバ本人のものも含まれる)を受けた新政府は階級制度の解体を断念。カウバに対する公的な差別扱いを停止したのみで、実質的には存続を余儀なくされている。
現在のカウバ階級の人口は約10万人前後とされ、男は多くが牧畜や鉱山労働に従事しており、地方では未だに宗教行事の生贄とされることも多い。
立憲革命後は少しずつ消えつつあるが、それでも社会の多くの場面では因習・タブーと共に重視されており、開明的な憲法の中でも依然として身分制度は維持され、今後の課題となっている。
アリイ・ヌイ
言わずと知れたアリイ・ヌイは、全土にただ一人の存在であり、それ即ちラピタ王国の国王である。
元来ラピタ王国の国王は、「全ラピタのアリイ」の名の下に島を統治し、それに各島のアリイ達が従うという形式をとっていた。つまりアリイ・ヌイとは、全てのアリイの中で最も強大な君主たるラピタ島のアリイを指す尊称に過ぎなかったのである。
しかし、ポマレ4世の時代以降急速に王国領全体の統合が進み、その他の島々をまとめて「ラピタ王国」という単一の領域と見做す考え方が広がると、単なる島の支配者を超えた最高君主の称号としてアリイ・ヌイの称号が公的に用いられる様になる。
その後、ポマレ4世によって対外的に用いられていたアリイ・ヌイの称号は、立憲革命後は憲法に正式に称号として規定され、「ラピタ王国」の支配者の呼び名として用いられることとなった。
彼らは王国成立後大部分の時代において、神の代理人にも等しい権力を国内で振るい、立憲革命後も民衆の尊崇を受けている。
なお、歴代のアリイ・ヌイは本名で呼ばれることはなく、初代王の後継者として「ポマレ○世」の名で呼ばれる。
王族
王族はアリイ・ヌイの一族のうち、自身の名前に「ポマレ」を冠することを認められた者達を指す。
彼らの数はそう多くは無く、多くの王族の中で名乗れるのは王の直接の子女か、勅命によって正式に認められた者のみであり、現在ポマレを名乗っているのは100名前後に過ぎない。(その半分以上は、ライアテア首長家、マナルウイ首長家、ボラボラ首長家などの王家に連なる名門貴族家門の当主子女で、これらは海外の宮家に相当する)
また、ポマレを名乗ることを認められた王族は、「アリイ」の称号と、場合によっては実際に国王の直轄地(ラピタ島を中心に各地に点在し、総面積は国土の約4分の1に達する)内に采地を賜ることもある(采地を持つ王族は、自身の名前に「(采地)のアリイ」を付け加えることができる)。しかし、現在ではその殆どが形骸化した名誉称号となり、与えられる采地も名目上のみになるか、或いは架空のお目出度い地名をアリイ称号に付け加える程度かという位になっている。
なお、伝統的に王家は近親婚によって後継を産んでおり、王位継承順においても王と母親の血の近さが重視され、最も高いのは同母兄弟姉妹と国王との間に生まれた子供であり、最も低いのは王族外の配偶者の子供である。
ティナ・ポマレ
ポマレとは元来「白髪」を意味する言葉であり、初代王の渾名から王家の名となった。
しかし、初代国王以降も王家には何人か同じ様な子供、つまり「生まれつき白い肌と髪の毛を持つ(学問上は先天性白皮症と考えられている)」子供が生まれており、その家名は未だ実質を伴って認知されている。
そうした子は「白髪の御子」として重要な位置付けに置かれ、ミドルネームに初代王の本名である「ティナ」を冠する等最上級の名誉をもって遇される。
が、彼らは時として王位さえも脅かす存在として恐れられ、放逐や殺害の対象となることも少なくない。
著名なティナ・ポマレ
・トウ・トゥイ・ティナ・ポマレ…初代ポマレ1世の王子の一人で、母親が王族外であった為に継承候補から外れる。ライアテア島のアリイの娘を娶り現地の小領主に封じられたが、その影響力を恐れた異母弟ポマレ2世によって謀叛の濡れ衣を着せられ征服戦争の最中に殺害される。3世の時代に名誉が回復され、「ライアテアのアリイ」と認められた。
・リコ・ティナ・ポマレ…ポマレ3世の王女。ラピタ文字を開発し、ピリカ叙事詩を文章化してラピタにおける文学の始祖となるなど、優れた文化的功績で知られる。4世の時代に臣籍に降嫁し、以後は在野の著述家として活動した。代表作は「ピリカ叙事詩正文」、並びに歴史書「ポマレ年代記」(口承と叙事詩を基に執筆され、ピリカ・アイエアからポマレ3世の時代に至るまでの通史を記述した初の歴史書。ピリカ叙事詩と対を成す散文作品の白眉)
・リリィ・ティナ・ポマレ…本名はリリウオカラニ。現国王ポマレ10世の直系王女。
アリイ
アリイは現地語で「首長」を意味し、各地の政治的・宗教的支配者である。
一口にアリイと言ってもその支配領域は様々で、島全域を統治する者から渓谷の一部や小さな村を分割して支配する者まで、上下の幅は非常に広い。
彼らの支配領域は広さ毎に独特の名前が付けられ、上位のアリイの命令を受ける封建的統治体制(アフプアア)が敷かれている。ラピタ島のアリイが王国全域の支配者となった後もそれは変わらず、各島の最上級のアリイ達がラピタ島のアリイに服属する形で統治構造が作られていった。
その後、立憲革命によって全ラピタのアリイがラピタ王国のアリイ・ヌイとなると、自身の領域で絶対君主となっていた彼らはその権力の多くを中央に剥奪され、単なる貴族階級へと変化した。
しかし、依然として支配地における権威は中央のそれを上回っており、世襲によって受け継がれてきた強い権力を保持している。
憲法においては王族に次ぐ身分とされ、事実上人臣の最高位である。
アフプアアの単位
アウプニ(またはモイ)…王国全土を指す言葉。原義は「世界」、または「天下」。
モクプニ…本来は王国の主要な4つの島一つ一つを表す単位。元々はこれが最大の単位であり、王国の国王は代々ラピタ・モクプニのアリイを名乗ってきた。アウプニが浸透すると相対的に価値が下がり、現在では第2位の単位となっている。また、ポマレ2世以降は実体をほぼ喪失し、王族に与える名誉称号の面が強くなっている。
モク…島を地域ごとに分割した単位。かつて島で割拠していた小首長国の支配領域を基準としており、島以下の単位では最大のもの。また、主要4島以外の小島は、島全体が1人のアリイに治められていても、面積と人口規模が小さいことから、島一つ、または幾つかの小環礁などをひっくるめてモクとされることが多い。
モクはラピタ島に27、ライアテア島に13、マナルウイ島に10、ボラボラ島に6、その他の島々を合わせて総計117個存在する。(うち30は王室御料地であり、現地の統治者は『コノヒキ』と呼ばれアリイとは区別される)これらモクのアリイ達は、自身の首長国の君主として政治を行い、また下位の領主達を任免する権利を有していた。(王国憲法に基づき、長老院の被選挙権を有するのはこのモクのアリイまでであるが、この規定はかつてモクが王国第2位の地域区分だったことの名残である)
アフプアア…モクを地方とするならアフプアアは都市、または村に近い概念である。かつての戦国時代では、最も重要な土地支配の単位だった。
イリアイナ…アフプアアの中の家族単位。
カフナ
カフナは現地における「専門家」層を指し、神官や医師、熟練職人や語り部など多様な職業を内包している。
例えばカフナ・ヌイはアリイの下で祭祀を司る神官の最高位であり、社会において高い権威と影響力を持つ。また、カフナ・ロミロミは医療マッサージの特技を持つ人々を指し、彼らは同時に王国における優れた医師でもあった。
立憲革命前後の王国の発展にはカフナ層が中心的な役割を果たし、民衆院議員の多くはこの階層の出身である。
憲法においてはマカアイナナと同格とされるが、社会的には彼らよりも高い地位と認知されている。
マカアイナナ
マカアイナナは所謂庶民であり、農民や商人、下級の職人などが該当する。彼らは家族単位、家族が結びついた村単位で居住し、アリイの下土地や財産を共有して暮らしてきた。
その後、外国との交易が盛んになるにつれてマカアイナナの中には経済的に富裕となり、カフナやアリイ層にも影響を与える者が出始めた。彼らは政治家となることは少なかったが、フィクサーとして政治を裏から操り、時に政争の原因ともなった。
憲法においてはカフナと同格とされるが、大部分はカフナよりも下の身分と認知されている。
カウバ
カウバとは奴隷階級であり、かつては全人口の4割を占めていた。彼らは戦争捕虜であったり、タブーを犯した犯罪者であったりし、識別のために特別な刺青と服装を強要され、厳しく差別された。
立憲革命においてはこの差別が廃止されることを一部のカウバが期待していたが、結果として多くの反対(そこには社会的地位を失うことを恐れたカウバ本人のものも含まれる)を受けた新政府は階級制度の解体を断念。カウバに対する公的な差別扱いを停止したのみで、実質的には存続を余儀なくされている。
現在のカウバ階級の人口は約10万人前後とされ、男は多くが牧畜や鉱山労働に従事しており、地方では未だに宗教行事の生贄とされることも多い。
ラピタ王国の文化はポマレ3世の時代に勃興して以降、非常に豊かかつ多岐の分野に渡る。
これらは王宮を中心に発展した「王朝文化」、民間の童謡や説話文学を中心に発展した「民衆文化」、そして外国の影響下で発展した絵画や音曲、学問などの「外国文化」の三つに大別され、それぞれの分野で多くの偉人が傑作を残している。
王朝文化
王朝文化はポマレ3世の時代に端を発し、国王・首長自身や宮廷に奉仕する神官、知識人達が担い手となった文化。この分野では前述のポマレ3世による「ピリカ叙事詩」、リコ王女の「ポマレ年代記」、また外国文化の影響を受けたポマレ6世夫妻の作品群が著名である。
民衆文化
民衆文化は、ポマレ3世時代のラピタ文字発明以降急速に発展し、3世死後の人材流出がさらに拍車をかけた。この分野では「情熱のカフナ詩人」ことカラニオプウ、或いはライアテア島のマラエの建築を担ったモクオ・ハイ、各地のお伽噺を説話集に編み、自身も優れた叙情詩人・作家として物語を生み出したマカアイナナ出身の著述家オウムアムアなどが知られる。
また、ポマレ9世の時代に勃興した古代思想の研究も、この民衆文化に含めて説明されることが多い。
外国文化
外国文化はポマレ4世の時代に急速に流入した外国の知識や産物を背景に発展した新文化であり、それらを学んだ「新カフナ」と呼ばれる層が担い手となった。
彼らの一部はポマレ6世の宮廷に抱えられて王朝文化と融合した作品を生み出し、また政治知識を基にして立憲革命の指導者ともなった。
この分野ではポマレ4世によって建築されたハワイキ宮殿等の外国様式建築、ポマレ6世の楽曲や絵画、初代憲政摂政のル・レケレケによる風刺小説などが有名である。
これらは王宮を中心に発展した「王朝文化」、民間の童謡や説話文学を中心に発展した「民衆文化」、そして外国の影響下で発展した絵画や音曲、学問などの「外国文化」の三つに大別され、それぞれの分野で多くの偉人が傑作を残している。
王朝文化
王朝文化はポマレ3世の時代に端を発し、国王・首長自身や宮廷に奉仕する神官、知識人達が担い手となった文化。この分野では前述のポマレ3世による「ピリカ叙事詩」、リコ王女の「ポマレ年代記」、また外国文化の影響を受けたポマレ6世夫妻の作品群が著名である。
民衆文化
民衆文化は、ポマレ3世時代のラピタ文字発明以降急速に発展し、3世死後の人材流出がさらに拍車をかけた。この分野では「情熱のカフナ詩人」ことカラニオプウ、或いはライアテア島のマラエの建築を担ったモクオ・ハイ、各地のお伽噺を説話集に編み、自身も優れた叙情詩人・作家として物語を生み出したマカアイナナ出身の著述家オウムアムアなどが知られる。
また、ポマレ9世の時代に勃興した古代思想の研究も、この民衆文化に含めて説明されることが多い。
外国文化
外国文化はポマレ4世の時代に急速に流入した外国の知識や産物を背景に発展した新文化であり、それらを学んだ「新カフナ」と呼ばれる層が担い手となった。
彼らの一部はポマレ6世の宮廷に抱えられて王朝文化と融合した作品を生み出し、また政治知識を基にして立憲革命の指導者ともなった。
この分野ではポマレ4世によって建築されたハワイキ宮殿等の外国様式建築、ポマレ6世の楽曲や絵画、初代憲政摂政のル・レケレケによる風刺小説などが有名である。
ラピタの社会において欠かせないのがタブー(ラピタ語:タプ、カプ)であり、これらは憲政施行、開国後も社会の根幹を成す重要な慣習となっている。
その対象は宗教・身分に関わることから、日常生活の細部に干渉するものまで多岐に渡り、各地域ごとの差異を含めれば数百にも及ぶタブーが存在すると言われている。
これらのうち、王国全土に共通するもの(王族に対する無礼、身分を越えた通婚、一部神殿への許可無き立ち入り、祭祀期間中の犯罪や争い等)は、刑法犯罪にも規定され、公的な処罰の対象になる。
一方で憲法には、「その地域以外の住民、又は外国人を、刑法に明文化されていないカプの違反によって、死刑・腕切り・鼻削ぎ等に処してはならない」とする規定がある為、タブーは以前より社会全体において支配的なものではなくなっている。
タブーに関する司法権は全てアリイに属し、量刑や償いはアリイの判断による。(尤も、その殆どは死刑であるが)
その対象は宗教・身分に関わることから、日常生活の細部に干渉するものまで多岐に渡り、各地域ごとの差異を含めれば数百にも及ぶタブーが存在すると言われている。
これらのうち、王国全土に共通するもの(王族に対する無礼、身分を越えた通婚、一部神殿への許可無き立ち入り、祭祀期間中の犯罪や争い等)は、刑法犯罪にも規定され、公的な処罰の対象になる。
一方で憲法には、「その地域以外の住民、又は外国人を、刑法に明文化されていないカプの違反によって、死刑・腕切り・鼻削ぎ等に処してはならない」とする規定がある為、タブーは以前より社会全体において支配的なものではなくなっている。
タブーに関する司法権は全てアリイに属し、量刑や償いはアリイの判断による。(尤も、その殆どは死刑であるが)
ラピタ王国は全土をピラミッド状の土地体系(アフプアア)によって分割し、それぞれの地域にアリイを置くことで封建的な統治体制を敷いてきた。
これらの区分は現在も有効なものとして存続しており、王国政府の下諸アリイ達が統治権を行使している。(最近では中央集権化が進み、事実上儀礼化した地域も少なくはない)
以下に列挙するのは現在封建統治の基盤となっている「地方(モク)」、並びにそれらを統治する首長国を示したものであり、これよりも下には村や都市を意味する「アフプアア」が続く。
これらの区分は現在も有効なものとして存続しており、王国政府の下諸アリイ達が統治権を行使している。(最近では中央集権化が進み、事実上儀礼化した地域も少なくはない)
以下に列挙するのは現在封建統治の基盤となっている「地方(モク)」、並びにそれらを統治する首長国を示したものであり、これよりも下には村や都市を意味する「アフプアア」が続く。
・王室御料地(9地方と1村落)
1.ピリカ地方
2.パペーテ地方
3.北ヒロ地方
4.南ヒロ地方
5.マウイ地方
6.ニオべ地方
7.デニゴムドゥ地方
8.ヌクラエラエ地方
9.ニウラキタ地方
10.ヌクマヌ村(ワイカト国内 金山)
・18首長国(アリイ統治領)
1.セルカナム国
2.ホーゴー国
3.ワイカト国
4.タウツア国
5.バーラン国
6.カンタバン国
7.ナヌメア国
8.ヌクフェタウ国
9.ヌクノノ国
10.ファカオフォ国
11.プカプカ国
12.ブタリタリ国
13.テライナ国
14.オロナ国
15.テナラロ国
16.マトゥレイヴァヴィオ国
17.ヴァハンガ国
18.ティケイ国
1.ピリカ地方
2.パペーテ地方
3.北ヒロ地方
4.南ヒロ地方
5.マウイ地方
6.ニオべ地方
7.デニゴムドゥ地方
8.ヌクラエラエ地方
9.ニウラキタ地方
10.ヌクマヌ村(ワイカト国内 金山)
・18首長国(アリイ統治領)
1.セルカナム国
2.ホーゴー国
3.ワイカト国
4.タウツア国
5.バーラン国
6.カンタバン国
7.ナヌメア国
8.ヌクフェタウ国
9.ヌクノノ国
10.ファカオフォ国
11.プカプカ国
12.ブタリタリ国
13.テライナ国
14.オロナ国
15.テナラロ国
16.マトゥレイヴァヴィオ国
17.ヴァハンガ国
18.ティケイ国
・王室御料地(1地方及び4村落)
1.ウツロア地方
2.トケラウ村(マロカウ国内 銀山)
3.モルフォドル村(ヌクテピピ国内 銀山)
4.ピローシェ村(ヌクテピピ国内 銀山)
5.ワイタンギ村(アフヌイ国内 銀山)
・12首長国
1.ピアイウィ国
2.マロカウ国
3.ヌクテピピ国
4.アフヌイ国
5.タマトゥンギ国
6.ヘレヘレトゥエ国
7.レイトル国
8.マケモ国
9.ニヒル国
10.パロイア国
11.タイアロ国
12.アマヌ国
1.ウツロア地方
2.トケラウ村(マロカウ国内 銀山)
3.モルフォドル村(ヌクテピピ国内 銀山)
4.ピローシェ村(ヌクテピピ国内 銀山)
5.ワイタンギ村(アフヌイ国内 銀山)
・12首長国
1.ピアイウィ国
2.マロカウ国
3.ヌクテピピ国
4.アフヌイ国
5.タマトゥンギ国
6.ヘレヘレトゥエ国
7.レイトル国
8.マケモ国
9.ニヒル国
10.パロイア国
11.タイアロ国
12.アマヌ国
・王室御料地(6村落)
1.アロフィ村(トゥーホエ国内 鉄山)
2.モモテ村(マニヒイ国内 木材)
3.ウンボイ村(マニヒイ国内 鉄山)
4.シロッコ村(ララカ国内 元農地。現離宮地)
5.バラハン村(カチウ国内 農地)
6.ルクダヤ村(ハオ国内 エメラルド鉱山)
・10首長国
1.トゥーホエ国
2.モツ・トゥンガ国
3.マニヒイ国
4.ララカ国
5.アラティカ国
6.北テポト国
7.南テポト国
8.カチウ国
9.マヌハンギ国
10.ハオ国
1.アロフィ村(トゥーホエ国内 鉄山)
2.モモテ村(マニヒイ国内 木材)
3.ウンボイ村(マニヒイ国内 鉄山)
4.シロッコ村(ララカ国内 元農地。現離宮地)
5.バラハン村(カチウ国内 農地)
6.ルクダヤ村(ハオ国内 エメラルド鉱山)
・10首長国
1.トゥーホエ国
2.モツ・トゥンガ国
3.マニヒイ国
4.ララカ国
5.アラティカ国
6.北テポト国
7.南テポト国
8.カチウ国
9.マヌハンギ国
10.ハオ国
・王室御料地(2村落)
1.カイオラ村(プニ国内 エメラルド鉱山)
2.マシェオーレ村(プニ国内 グアノ採掘場)
・6首長国
1.プニ国
2.ロイ・ナムル国(サチヨ・ナムル)
3.オテピピ国
4.テアヴァティア国
5.マヘレホナエ国
6.フトゥアララ国
1.カイオラ村(プニ国内 エメラルド鉱山)
2.マシェオーレ村(プニ国内 グアノ採掘場)
・6首長国
1.プニ国
2.ロイ・ナムル国(サチヨ・ナムル)
3.オテピピ国
4.テアヴァティア国
5.マヘレホナエ国
6.フトゥアララ国
・王室御料地(20地方)
1.モーレア地方
2.フアヒネ地方
3.アヴァトル地方
4.トゥヘラヘラ地方
5.テオナイ地方
6.テマルオパパヒア地方
7.トゥヘイアヴァ地方
8.ランギロア地方(ソティル教流刑地)
9.キリマラニア地方
10.ラハイナ地方
11.ニイハウ地方(太陽教流刑地)
12.ファカラヴァ地方
13.トゥアナケ地方(多国籍租借地)
14.モトゥトゥンガ地方
15.タエンガ地方(政治犯流刑地)
16.ララカ地方
17.マルタカナン地方
18.アヌアヌラロ地方
19.アキアキ地方
20.プカルア地方(石油採掘地)
・41首長国
1.マタイヴァ国
2.パプア国
3.ファラトゥエ国
4.マカテア国
5.パパテア国
6.ヴァイ・テパウア国
7.アルトゥア国
8.トゥアイヴァ国
9.モトゥタエ国
10.テニヒニヒ国
11.ラウティニ国
12.トゥタエマロ国
13.アパタキ国
14.カウクラ国
15.アヘ国
16.マニヒ国
17.アラキタ国
18.カウエヒ国
19.アナア国
20.カティウ国
21.タハネア国
22.トゥアナケ国
23.マケモ国
24.ヒティ国
25.テプカマルイア国
26.ナプカ国
27.タクメ国
28.ラロイア国
29.レカレカ国
30.テココタ国
31.ヒクエル国
32.マンガレヴァ国
33.トトゲキエ国
34.タラヴァイ国
35.アンガカウイタイ国
36.アカマル国
37.アウナナ国
38.ファンガタウファ国
39.ライヴァヴァエ国
40.アイツタキ国
41.ファイアヴァ・ラシ国
1.モーレア地方
2.フアヒネ地方
3.アヴァトル地方
4.トゥヘラヘラ地方
5.テオナイ地方
6.テマルオパパヒア地方
7.トゥヘイアヴァ地方
8.ランギロア地方(ソティル教流刑地)
9.キリマラニア地方
10.ラハイナ地方
11.ニイハウ地方(太陽教流刑地)
12.ファカラヴァ地方
13.トゥアナケ地方(多国籍租借地)
14.モトゥトゥンガ地方
15.タエンガ地方(政治犯流刑地)
16.ララカ地方
17.マルタカナン地方
18.アヌアヌラロ地方
19.アキアキ地方
20.プカルア地方(石油採掘地)
・41首長国
1.マタイヴァ国
2.パプア国
3.ファラトゥエ国
4.マカテア国
5.パパテア国
6.ヴァイ・テパウア国
7.アルトゥア国
8.トゥアイヴァ国
9.モトゥタエ国
10.テニヒニヒ国
11.ラウティニ国
12.トゥタエマロ国
13.アパタキ国
14.カウクラ国
15.アヘ国
16.マニヒ国
17.アラキタ国
18.カウエヒ国
19.アナア国
20.カティウ国
21.タハネア国
22.トゥアナケ国
23.マケモ国
24.ヒティ国
25.テプカマルイア国
26.ナプカ国
27.タクメ国
28.ラロイア国
29.レカレカ国
30.テココタ国
31.ヒクエル国
32.マンガレヴァ国
33.トトゲキエ国
34.タラヴァイ国
35.アンガカウイタイ国
36.アカマル国
37.アウナナ国
38.ファンガタウファ国
39.ライヴァヴァエ国
40.アイツタキ国
41.ファイアヴァ・ラシ国
ポマレ4世によって大きく発展する前は、王国経済は豚肉の輸出に支えられており、それによって蓄積された資本が後の発展の起爆剤となった。
ポマレ4世の即位後は豚肉に加えてヤシ油、真珠などの品目が追加される様になり、獲得した外貨は優れた外国の文物輸入に費やされた。
なお、王国国内では貨幣経済は余り浸透しておらず、王都のタアロアであっても物々交換経済が多数を占めている。
ポマレ4世の即位後は豚肉に加えてヤシ油、真珠などの品目が追加される様になり、獲得した外貨は優れた外国の文物輸入に費やされた。
なお、王国国内では貨幣経済は余り浸透しておらず、王都のタアロアであっても物々交換経済が多数を占めている。
古来よりラピタ王国の経済を支えてきたのは、タロイモ、ヤムイモ、オレンジ、ココヤシといった農産物や豚肉などの畜産物の生産であった。
これらの産業は陸地における最も主要なものとして有史以前から栄え、各地の特産品が貿易品として各地で取引されてきた。
これらの産業は陸地における最も主要なものとして有史以前から栄え、各地の特産品が貿易品として各地で取引されてきた。
王国を囲む海流の内部では、比較的穏やかな海が広がっており回遊性の小魚やそれを狙う肉食魚、および産卵や子育てのために集まるウミガメやクジラなどが豊富に漁獲されている。
特にクジラについては単なる鯨肉や鯨骨の利用に留まらず、貴重な竜涎香(アンバーグリス)や近代においては鯨油などの利用法が存在することから、王国の貴重な資源として管理保護の方針が採られている。
(なお、白色のクジラ類は王家の守護神として崇拝の対象になる為、漂着した死骸を除いて一切の捕鯨が禁止されている)
特にクジラについては単なる鯨肉や鯨骨の利用に留まらず、貴重な竜涎香(アンバーグリス)や近代においては鯨油などの利用法が存在することから、王国の貴重な資源として管理保護の方針が採られている。
(なお、白色のクジラ類は王家の守護神として崇拝の対象になる為、漂着した死骸を除いて一切の捕鯨が禁止されている)
古来からラピタ島及びライアテア島には、世界的に見ても極めて大規模な金及び銀の鉱床が存在することが知られており、周辺の河川や山中から大量の砂金・銀鉱石が採取されてきた。
特にラピタ島に存在する鉱山群の総埋蔵量は、現状確定しているだけで凡そ金1,200-1,300トン余りと推定され、地質調査のたびに新たな金鉱が発見されるなど、現在でも正確な量はわかっていない。(一説では、国全体では現在判明している量の数倍にも達すると予測されている)また古来から採集が行われてきたこともあり、産出する金鉱石の質は大変良く、概ね1000kgあたり60-100g、最も濃縮されたところで1000gを超える含有量を誇る。
また、ライアテア島の銀鉱山群についても金銭的価値においてそれに劣らない規模と質を持つことが確認されており、(総埋蔵量10万トンに達する試算もある)王国の経済を支える極めて重要な拠点として、王室御料地の指定を受けている。
しかし、これらの鉱山の採掘ペースは王国の技術的な未熟さや労働力の不足によって極めて遅く、現在までに掘り出された金及び銀は総埋蔵量の1-2%に過ぎないと考えられており、今後の開発投資が期待されている。
特にラピタ島に存在する鉱山群の総埋蔵量は、現状確定しているだけで凡そ金1,200-1,300トン余りと推定され、地質調査のたびに新たな金鉱が発見されるなど、現在でも正確な量はわかっていない。(一説では、国全体では現在判明している量の数倍にも達すると予測されている)また古来から採集が行われてきたこともあり、産出する金鉱石の質は大変良く、概ね1000kgあたり60-100g、最も濃縮されたところで1000gを超える含有量を誇る。
また、ライアテア島の銀鉱山群についても金銭的価値においてそれに劣らない規模と質を持つことが確認されており、(総埋蔵量10万トンに達する試算もある)王国の経済を支える極めて重要な拠点として、王室御料地の指定を受けている。
しかし、これらの鉱山の採掘ペースは王国の技術的な未熟さや労働力の不足によって極めて遅く、現在までに掘り出された金及び銀は総埋蔵量の1-2%に過ぎないと考えられており、今後の開発投資が期待されている。
他方、金山や銀山に劣らない基幹産業として、宝石の生産が挙げられる。ラピタ王国では古来から真珠の生産や加工が行われてきたが、現在ではこれらの産業は外貨の入手源として極めて重要な位置を占めている。(真珠生産は王国全体の貿易額の約35%を占める)
また、真珠だけでなく離島で発見された鉱山からはサファイアやエメラルドの原石、或いは肥料となるリンを多量に含むグアノなどが産出しており、貴金属と並ぶ新たな鉱物資源として注目されている。
また、真珠だけでなく離島で発見された鉱山からはサファイアやエメラルドの原石、或いは肥料となるリンを多量に含むグアノなどが産出しており、貴金属と並ぶ新たな鉱物資源として注目されている。
近代以前は一領具足の戦士達が戦闘と国防を担ってきたが、憲政政府の頃にそれらをラピタ王国軍として再編成し、現在の国軍の基盤となった。
以降、各国の戦士制と併存する形で設置が進められ、現在では常備軍である王室親衛隊と王国海軍、そして非常呼集時の戦士軍の三柱体制で運用されている。
全国的な徴兵制は無いが、全ての男子には通過儀礼として戦闘訓練が義務付けられている。(各地方や集団ごとの法律で徴兵制が存在するものもある)
ラピタ王国軍編成
王室親衛隊…6,000人(常設)
海軍…1,000人(常設)
戦士軍…各部族の成人男子の総合計。労役などに基づいて、実際に任務についている人数は多くない(非常備軍)
戦士軍の任務は主に警察的な治安維持の任務に限られ、各国から選ばれた戦士達が共同で充てられている。彼らはそれぞれ外国の軍隊に似た階級によって組織化されているが、それ程浸透はしていない。
一方で、一般的な軍隊が担う様な戦闘任務はピリカ国の戦士や志願者からなる常設の王室親衛隊が担っており、彼らは西洋的な戦闘訓練を受けた精鋭部隊として、首都とその周辺に駐屯している。
また、海軍は低地の民のうち海に程近い場所で暮らす人々が実質的に担っていたが、開国後に海の多い王国を守るべく近代的な軍の編成が図られ、王室親衛隊の一部と志願者により王国海軍が編成された。(これらの多くはピリカ国とその周辺の人々で構成されていた)
その後、諸外国から旧型の巡視船の購入などが行われ、海軍の構築が進められている。
憲政時代は主に低地諸国の戦士を集めて軍事訓練を受けさせ、旧来の戦士制度を廃した専門的な軍隊の育成を目指していた。(尤も、それらの訓練が半ばの間にクーデターが起き、殆どの戦士達は政府から離反した)
その後は鎖国に伴う平和と、再クーデターを恐れた中央政府によって軍隊の規模は縮小され、王室親衛隊と海軍を除いて、専門的な軍人は存在しなくなっている。
以降、各国の戦士制と併存する形で設置が進められ、現在では常備軍である王室親衛隊と王国海軍、そして非常呼集時の戦士軍の三柱体制で運用されている。
全国的な徴兵制は無いが、全ての男子には通過儀礼として戦闘訓練が義務付けられている。(各地方や集団ごとの法律で徴兵制が存在するものもある)
ラピタ王国軍編成
王室親衛隊…6,000人(常設)
海軍…1,000人(常設)
戦士軍…各部族の成人男子の総合計。労役などに基づいて、実際に任務についている人数は多くない(非常備軍)
戦士軍の任務は主に警察的な治安維持の任務に限られ、各国から選ばれた戦士達が共同で充てられている。彼らはそれぞれ外国の軍隊に似た階級によって組織化されているが、それ程浸透はしていない。
一方で、一般的な軍隊が担う様な戦闘任務はピリカ国の戦士や志願者からなる常設の王室親衛隊が担っており、彼らは西洋的な戦闘訓練を受けた精鋭部隊として、首都とその周辺に駐屯している。
また、海軍は低地の民のうち海に程近い場所で暮らす人々が実質的に担っていたが、開国後に海の多い王国を守るべく近代的な軍の編成が図られ、王室親衛隊の一部と志願者により王国海軍が編成された。(これらの多くはピリカ国とその周辺の人々で構成されていた)
その後、諸外国から旧型の巡視船の購入などが行われ、海軍の構築が進められている。
憲政時代は主に低地諸国の戦士を集めて軍事訓練を受けさせ、旧来の戦士制度を廃した専門的な軍隊の育成を目指していた。(尤も、それらの訓練が半ばの間にクーデターが起き、殆どの戦士達は政府から離反した)
その後は鎖国に伴う平和と、再クーデターを恐れた中央政府によって軍隊の規模は縮小され、王室親衛隊と海軍を除いて、専門的な軍人は存在しなくなっている。
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