架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

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風の行く先が変わった。冷たい大気の底から、鋭い獣の脂の匂いと、それに酷く人工的で、鼻を突く鉄さびの臭いが混じり込んでいる。
聖暦一九三五年。デニエスタ帝国がガルメディニア大陸北部に保有するグラハ植民地、そう白人たちには言われている土地である。先住民の言葉では「我々の土地」を意味するヌナブトと呼ぶのが一般的だ。
先住民の少女ネイリは、その不快な匂いに思わず足を止めた。モカシンの革越しに、湿った土の冷たさが足裏へと伝わってくる。彼女の手には、使い込まれたトネリコの弓。背負った筒の中には、自ら削りだした黒曜石の矢尻が年齢と同じ十五本。どれも部族の戦士として、そして酋長の娘として、この聖なる森を守るために揃えた一級品だ。
(また、あの連中の仕業か)
ネイリは忌々しげに、声の出ない舌打ちを打つ。
二十世紀という奇妙な数字の時代が始まってから、山の麓は一変した。彼らは自らを「グラハ政府」だの「開発業者」だのと名乗り、蒸気機関車というらしい巨大な鉄の蛇を走らせるための路を造ると言って、毎日森の木々を切り倒している。命の宿る大樹をただの薪のように扱い、爆音を響かせる白人たちを、ネイリは心底から嫌悪していた。
カサリ、と行く手の藪が不自然に揺れる。
本来なら、この先は部族の言葉で『精霊の眠る処』と呼ばれる、人間が立ち入ってはならない聖域の境界線だ。だが、聞こえてくるのは精霊の囁きなどでは断じてない。
「おいおい、冗談だろ。ここの磁場はどうなっているんだ。コンパスの針がさっきから狂いっぱなしじゃないか。これじゃあ、正確な目印が打てないぞ」
聞こえてきたのは、ひどく回りくどくて、理屈っぽい言葉だった。デニエスタ語。部族の交易所で耳にする、白人たちの使う奇妙な言語だ。ネイリは幼い頃から交易のためにその言葉を仕込まれていたが、目の前の男が吐き出す単語は、どれもこれも不快な響きを持っていた。
ネイリは音もなく茂みを分け、その姿を捉えた。
そこにいたのは、仕立てのいい、しかし泥まみれになった茶色のジャケットを着た少年だった。年齢は十七か、あるいは十八といったところだろう。帽子からはみ出た薄茶色の髪はひどく乱れており、鼻の上に載せたガラスの板を、神経質そうに何度も指で押し上げている。あれは眼鏡というのだったかと、ネイリは自分の知識を反芻した。
それくらいは、彼女も交易の中で目にしたことがある。だが彼が囲んでいる道具の数々は、ネイリの知らない奇妙なものばかりだ。
地面には、金属でできた無機質な三本の足が突き立てられ、その上には真鍮製の複雑な筒が載っている。少年はその筒に片目を押し付け、ぶつぶつと数字を呟いていた。さらにその傍らには、黒い革張りの四角い箱が置かれている。蛇腹のような奇妙な布が突き出た、不気味な箱だ。
(森を汚す、不審者め)
ネイリの身体は、思考よりも先に動いていた。
流れるような動作で背の筒から矢を抜き、弦に番える。ギリギリとトネリコの木が軋む音。満月にまで引き絞られた矢先は、正確に少年の眉間を捉えていた。
「そこまでだ、侵入者。その奇妙な鉄の足を地面から引き抜き、今すぐ消え失せろ」
ネイリの放った鋭いデニエスタ語に、少年は文字通り飛び上がった。
「うわああっ!?」
情けない悲鳴を上げながら、少年は尻餅をつく。眼鏡が鼻の頭からずり落ち、彼は慌ててそれを直しながら、ネイリと、そして彼女が構える黒曜石の矢先を交互に見つめた。
「な、なんだ君は!? いきなり武器を向けるなんて野蛮じゃないか! 僕はただ、正当な業務を行っているだけだぞ!」
「正当な業務だと?」
ネイリは弓を引いたまま、一歩足を踏み出す。彼女の瞳には、冷徹なまでの怒りが宿っていた。
「ここは私たちの部族が数千年にわたり守ってきた聖なる地だ。お前たちのような、自然の声を聴かぬ者が足を踏み入れていい場所ではない。その『光を吸い込む奇妙な箱』も、その『金属の三本足』も、すべてこの森には不要な毒だ」
「毒だって!?」
少年は、まるで自分の命よりも大切なものを侮辱されたかのように、顔を真っ赤にして立ち上がった。泥がついた上着を払うのも忘れ、指を差して反論してくる。
「これは毒なんかじゃない! 最新鋭のセオドライト(経緯儀)と、最高級のアンソニー社製カメラだ! 科学の結晶だよ! 僕はエドワード。エドワード・ハミルトンだ。デニエスタからこの偉大なグラハの地を開拓するためにやってきた、測量士見習いだぞ!」
(えどわーど。また妙に長くて呼びにくい名前だ)
ネイリは心の中で冷ややかにその名を反芻した。
「知るか、えどわーど。お前たちのいう『科学』とやらが、この森の木を殺し、川を濁らせているのは事実だ。言い訳は要らない。今すぐその玩具をまとめて、お前たちの汚いキャンプへ戻れ。さもなければ、この矢がお前の喉笛を貫くことになる」
「玩具だと!? 君は本当に……これだから非科学的な人間は困るんだ!」
エドワードは怯えながらも、理屈の盾を構えるように早口でまくしたてた。
「いいかい、お嬢さん。鉄道が通れば、この未開の地にも豊かな物資が運ばれ、医療も、教育も、すべてが発展するんだ。君たちの部族だって、冬の飢えに怯える必要がなくなる。開発は正義であり、論理的な進化なんだよ! それを『聖なる地』だの『精霊』だのという根拠のない迷信で遮るなんて、あまりにも不条理だ!」
「迷信、だと?」
ネイリの声音が、一段と低くなる。
彼女の放つ威圧感に、エドワードは一瞬ヒッと息を呑んだが、それでも負けじと胸を張った。
「そうだ、迷信だ! 科学的に証明できないものはすべて存在しないも同然さ。現に、僕がここで測量をしていても、君の言う『精霊の呪い』なんてものは一向に降りかかってこないじゃないか。あるのは、正確な数値と、僕たちが切り拓く未来だけだ!」
二人の間に、火花が散るような沈黙が流れた。
ネイリの指先が、弦を放そうとわずかに動く。白人たちの傲慢さには耳を貸す価値もない。ここでこの男を追い払わなければ、明日にでも彼らの仲間が大挙して、斧と爆薬を手にこの奥へと押し寄せてくるだろう。
(論理だの進化だの、頭でっかちの癖に生意気な)
ネイリが息を吸い込み、完全に狙いを定めた、その瞬間だった。
——ゴゴゴゴゴ、と。
文字通り、世界の底から響くような、不気味な地鳴りが鳴り響いた。
「え……?」
エドワードが呆然と声を漏らす。
それは、ただの風の音でも、遠くの雷鳴でもなかった。ネイリの足裏を通じて、大地の悲鳴がダイレクトに伝わってくる。地面が、まるで生き物のように小刻みに震え始めていた。
「何だ……? 地震か? いや、この地域で大規模な構造性地震が発生することはないはず……」
「黙れ、えどわーど!」
ネイリは弓を下げ、鋭く叫んだ。彼女の野生の勘が、最大級の警鐘を鳴らしている。
鳥たちが一斉に羽ばたき、空を黒く染めるほどの勢いで逃げていく。森の奥からは、小動物たちが狂ったように走り去る足音が聞こえた。これは尋常な揺れではない。
ズウウン!!
ひときわ大きな衝撃が走り、エドワードが再び地面に転がった。金属の三本足が大きな音を立てて倒れ、真鍮の筒が泥の中に転がる。
「ああっ、僕のセオドライトが!」
「そんなものを気にしている場合か! 上を見ろ!」
ネイリが指差す先。彼らが立っている境界線のさらに上方、急峻な斜面を誇る山の上部から、信じられない光景が目に飛び込んできた。
大量の土砂と、へし折れた巨木が、まるで濁流のような勢いでこちらに向かって崩れ落ちてきている。白く立ち上る土煙が、一瞬にして視界を覆い尽くそうとしていた。
「まさか……ランドスライド(山崩れ)!? なぜだ、事前の地質調査では、この斜面の安全率は十分に足りていたはずなのに!」
「お前たちの仲間が、毎日毎日、山を傷つけているからだ!」
ネイリは叫びながら、エドワードの襟首を掴んで無理やり引きずり起こした。
「走れ! ここにいたら呑み込まれる!」
「待ってくれ! カメラと、測量データが……」
「死にたくなければ捨てろ!」
ネイリはエドワードの腕を強く引っ張り、土砂の濁流から逃れるために、未知なる森の深部へと足を踏み出した。
背後で爆音と、何かが引き裂かれる悲鳴が鳴り響く。それは木々がへし折れる音であり、数百年をかけて積み上げられた大地が崩壊する断末魔だった。
ネイリはエドワードの腕を半ば引きずるようにして、急斜面を駆け下りていた。モカシンが泥を跳ね上げ、飛び散った小枝が彼女の頬をかすめていく。痛んでいる暇などない。一瞬でも足を止めれば、頭上から迫る土砂の津波に文字通り圧殺される。
「ひ、ひえええっ! 待って、早すぎる! 物理的に人間の走る速度を超えている!」
「黙って走れ、この役立たず!」
眼鏡を片手で必死に押さえながら、情けない声を上げるエドワードを、ネイリはきつく怒鳴りつけた。
白人の持ち込んだ鉄の道具のせいで、山が怒っている。自然をただの数字と資源としてしか見ない傲慢さが、この災厄を招いたのだ。怒りと悔しさが胸の奥でドロドロと燃え盛っていたが、今は生き延びることが先決だった。
だが、山の怒りは二人の逃げ道を塞ぐようにして、さらに牙を剥く。
ドズン、と足元の地面が大きく傾いた。
「しまっ——」
ネイリが声を上げるよりも早く、彼女たちが踏み締めていた足場そのものが、大きく崩落した。
浮遊感。
視界がぐるりと回転し、天地が逆転する。ネイリは反射的に弓を抱え込み、身を丸めた。隣でエドワードが「不条理だああっ!」と絶叫するのが聞こえた。
激しい衝撃が全身を襲う。二人は斜面を何十メートルも転がり落ち、最後は生い茂る硬いシダの群生地へと激しく叩きつけられた。
「痛っ……」
ネイリはうめき声を上げながら、なんとか身体を起こした。全身が泥と葉まみれだ。幸い、骨は折れていない。トネリコの弓も無事だった。
「う、うう……。頭部への強い衝撃、おそらく軽度の脳振盪……いや、ただの打撲か。木々がクッションになったのか……?」
少し離れたところで、エドワードが這いつくばりながら、自分の頭をさすっている。彼の眼鏡は奇跡的に割れていなかったが、自慢の茶色いジャケットは見る影もなくドロドロに汚れていた。
ネイリは無視して、すぐさま立ち上がり、自分たちが落ちてきた上方を仰ぎ見た。
(……完全に、潰れたな)
絶望的な光景だった。
さっきまで自分たちが立っていた境界線の森は、上から押し寄せた膨大な土砂と岩石によって完全に埋め尽くされていた。ネイリが毎日通っていた、集落へと続く確かな一本道は、もうどこにも存在しない。そびえ立つのは、新たに形成された、崩れやすい土砂の壁だけだ。
「なんてことだ……。この地滑りの規模は、想定を遥かに超えている」
エドワードもまた、立ち上がってその壁を見上げ、青ざめていた。彼は上着のポケットから、かろうじて無事だった小さな手帳と鉛筆を取り出し、震える手で何かを書き留めようとしている。
「おい、えどわーど。お前たちの仕業だな」
ネイリは冷徹な声を絞り出した。矢は番えていないが、その瞳は鋭く少年を射抜いていた。
「だいなまいと、だったか? 白人どもが山に穴を開け、奇妙な火薬の筒を何度も爆発させていた。だから山が崩れたんだ!」
「それは……」
エドワードは一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに生真面目な顔をして言い返す。
「確かに、数日前に開発キャンプの工区で、岩盤破砕のための発破作業が行われた。だけど、地質学者たちの事前調査では、この地域の基盤岩は十分に強固だというデータが出ていたんだ! 予測不可能な地下水流の変動か、あるいは……」
「言い訳など聞いていない!」
ネイリは一歩詰め寄った。
「自然の精霊のはたらきを、貴様ら白人が完璧に制御できるなど思い上がるな! お前たちが大地を傷つければ、その報いは必ず返ってくる。現に、私の集落へ戻る道は閉ざされた!」
「僕だって同じさ!」
エドワードも声を荒らげる。
「僕の所属する開発キャンプだって、この崖の上にあるんだぞ。この規模の地滑りが発生したとなれば、キャンプのプレハブ小屋や、敷設中だった線路の基部だってタダじゃ済まない。このまま二次災害が起きれば、あそこにいる数十人の作業員全員が生き埋めになる可能性があるんだ!」
二人は激しく睨み合った。
白人たちが土地を破壊した結果だと責めるネイリと、不可抗力の自然災害だと主張するエドワード。互いの言葉はどこまでも平行線だ。
しかし、山の怒りはそれで終わりではなかった。
——オオオオオオオオオオオオン!!!
地滑りの轟音とは明らかに違う、大気をビリビリと震わせる凄まじい「咆哮」が、森のさらに深奥から響き渡った。
ネイリの身体が、硬直した。
その声の主を、彼女は知っている。部族に伝わる古き言い伝え。この土地を統べる、決して起こしてはならない存在。
喪神……!)
それは、人間の背丈の二倍はあるという、巨大なハイイログマにも似ていた。だがその頭は胴体中からでたらめに五個も六個も生えていて、おまけに蛆虫のような生物的な触手が背中で蠢いている。
普段は『精霊の眠る処』のさらに奥、深い洞窟で眠り続けているはずの人知を超えた存在。それが、岩盤破砕の度重なる爆音と、今回の激しい地滑りによって、ついに最悪の目覚めを迎えてしまったのだ。
「な、なんだ今の声は……」
エドワードがガチガチと歯を鳴らした。
「野生のハイイログマの平均的な発声周波数を遥かに凌駕している。まるで、山そのものが吠えたみたいだ……」
「その通りだ、えどわーど。山が怒り狂っている。お前たちの無礼な騒音が、古き主を目覚めさせた」
ネイリは声を潜め、周囲の木々の影に身を隠した。
「あの主は、一度怒れば目の前にあるものすべてを噛み砕く。お前たちの開発キャンプも、私の集落も、あの主が通ればひとたまりもない。それに、この雨の匂い……これから本格的な大雨が来る。そうなれば、この崩れた斜面がさらに流れて、第二の地滑りが起きる」
「第二の地滑りだって!?」
エドワードが手帳を落としそうになる。
「まずいぞ、それじゃあ本当に全滅だ。一刻も早く、お互いのキャンプと集落に避難を呼びかけないと……! でも、帰り道はさっきの土砂で完全に塞がれている。どうすればいいんだ!?」
ネイリは唇を噛んだ。
感情的には、この理屈っぽい白人の少年をここに置き去りにして、自分一人で森を駆け抜けたいところだ。だが、この未踏の深き森は、いくら部族の娘であるネイリといえど、一人で容易に突破できるほど甘くはない。それに、この男の言う「開発キャンプ」が全滅すれば、それはそれで部族と白人との間に決定的な遺恨を残すことになる。
(癪だけど、今はこいつの『頭』も使うしかないか)
「えどわーど」
ネイリは息を整え、少年の目をまっすぐに見つめた。
「道は一つだけある。この『精霊の眠る処』のさらに奥、険しい岩場を迂回して、山の反対側へ回るルートだ。そこを抜ければ、私の集落の裏手と、お前たちのキャンプのちょうど中間の斜面に出られる」
「未踏のルートか……。だけど、僕たちの正確な測量地図にも、そのエリアの詳細なトポグラフィー(地形データ)は載っていないぞ。遭難する確率が非常に高い」
「私の勘と経験がある。そしてお前には、何だか知らないが、妙に正確な計算ができる頭があるだろう」
ネイリは忌々しげに吐き捨てる。
「お前が死にたくないなら、そしてお前の仲間を救いたいなら、私の足に付いてこい。ただし、足を引っ張ったら本当に置いていくからな」
エドワードは一瞬、呆然とネイリの顔を見たが、やがて覚悟を決めたように泥だらけの眼鏡をクイと上げた。
「……分かった。不条理な野生の勘に命を預けるのは、僕の論理主義に反するけれど、背に腹は代えられない。僕の知識と、君の技能を合わせれば、生存確率は単独行動の三倍以上に跳ね上がるはずだ」
「相変わらず、喋り方が不快な奴」
ネイリは身を翻し、薄暗い巨木の森の奥へと走り出した。
「遅れるな、えどわーど! 主がこっちに向かってきている!」
「待ってくれ! 僕は君みたいに鍛えられていないんだ!」
科学を信じる少年と、自然を敬う少女。相容れない二人の、閉ざされた森からの決死の脱出劇が始まった。

頭上を覆う巨大なモミの木の葉を、バラバラと激しい音が叩き始める。
予告通りの大雨だ。
森の中は急速に光を失い、まるで夜が数時間早く訪れたかのような不気味な薄暗さに包まれていく。ただでさえ足元の悪い未踏の急斜面だ。地滑りによって剥き出しになった泥は、雨水を吸ってまたたく間に底なしの沼のようになり、二人の足を引っ張った。
「くそっ、本当に降ってきたな。……おいえどわーど、そっちの足元に気をつけろ。そのシダが生えている場所は、下が空洞になっている!」
「うわっとっと!? ほ、本当だ……。どうして分かるんだい? 僕の目には、ただの平坦な草むらにしか見えないのに」
エドワードは心底不思議そうに、泥にまみれた眼鏡の奥の目を丸くした。
ネイリは歩みを止めず、振り返りもせずに鼻で笑う。
「風の通り方と、葉の揺れ方が違う。大地の呼吸を聴いていれば、どこが空洞でどこが硬い岩盤かくらい、触れずとも伝わってくるものだ」
「大地の呼吸、か……。科学的には、植生の下にある泥炭層の陥没による微振動が、周囲の空気を乱している、ってところなのか……? だとしても、それを瞬時に知覚する君の感覚は、およそ近代的な人間離れしているよ」
(相変わらず、褒めているのか馬鹿にしているのか分からない物言いだ)
ネイリは心の中で毒づいたが、悪い気はしなかった。どれほど理屈っぽくとも、エドワードは文句を言いながら必死に彼女の足跡を正確に踏み、遅れまいと付いてきている。その体力は白人のもやしっ子にしては、合格点をやってもいい。
だが、雨の勢いは増すばかりだった。視界は十メートル先も見通せないほど白く霞み、冷たい雨水がネイリの体温を確実に奪っていく。
「……待ってくれ、お嬢さん。これ以上の強行軍は危険だ。体力の消費が激しすぎる。それに、僕の持っている地図が正しければ、この先は等高線が急激に狭まっている。つまり、切り立った断崖だ」
エドワードが息を切らせながら、上着の内ポケットから何かを取り出した。
カチリ、と小さな金属音が響いた瞬間。
ネイリの目の前を、目も眩むような鮮烈な白い光の束が貫いた。
「なっ……何だそれはっ!?」
ネイリは思わずトネリコの弓を構え、光の光源へと飛びのいた。
「驚かないでくれ! これはただの懐中電灯だよ。乾電池という化学物質の反応で、筒の先にある電球を光らせているんだ。ほら、前を見て」
エドワードが筒を振ると、激しい雨のカーテンの向こうに、彼が言った通りの不気味な絶壁が白黒と浮かび上がった。あと数歩進んでいれば、ネイリの野生の勘をもってしても、暗闇の中で足を滑らせて真っ逆さまに落ちていたかもしれない。
「……ふん。闇を切り裂く筒、か。不自然な光だけど、役に立つことは認めてやる」
「ふふん、科学の勝利だね。この光があれば、暗闇の崖沿いでも安全な足場を見つけられる。僕が光で先を照らすから、君がルートを先導してくれ」
(……少しは見直してやってもいいかもしれない)
二人は、奇妙な信頼関係で結ばれつつあった。ネイリの自然が育んだ超感覚と、エドワードの持つ近代科学のガジェット。本来なら決して交わるはずのなかった二つの力が、この極限状態の森の中で、奇跡的な噛み合いを見せていた。
崖沿いの細い獣道を、エドワードの放つ白い光を頼りに進む。
集落と開発キャンプの中間地点まで、あと少し。そう確信した、まさにその時だった。
ピキリ、と。
エドワードの持つ懐中電灯の光の中に、「それ」が紛れ込んだ。
雨の音をかき消すほどの、重苦しい足音。
立ち上る、獣特有のすえた臭い。
「……灯りを消せ、えどわーど」
ネイリの声は、自分でも驚くほど冷たく震えていた。
「え? でも、灯りを消したら足元が……」
「いいから消せ!!」
だが、遅すぎた。
白い光のサークルの中心に、突如として巨大な泥の塊のような影がぬっと現れる。
——オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
鼓膜を破らんばかりの咆哮。
それは、地滑りによって住処を追われ、完全に狂暴化した『喪神』だった。
その巨体は、優に大人の二倍はある。全身の毛は泥と血にまみれ、怒りに血走った小さな目が、懐中電灯の光を放つエドワードを完全に捉えていた。熊の放つ圧倒的な野生の殺気に、大気が凍りつく。
「ひ……あ……」
エドワードの腕がガチガチと震え、懐中電灯の光が乱れて円を描いた。彼の論理的な脳細胞は、目の前にある「時速五十キロ以上で走る三百キロの肉塊」という不条理な現実を前に、完全に硬直していた。
「下がれ、えどわーど!」
ネイリは叫ぶと同時に、背の筒から黒曜石の矢を抜き、弦に番えた。
ギリギリと弓を引き絞る。狙うは喪神の右目。
シュッ!
放たれた矢は、激しい雨を切り裂いて正確に熊の顔面へと突き刺さった。しかし、黒曜石の鋭い刃は、泥と強靭な筋肉に阻まれ、主の動きを止めるには至らない。逆に、さらなる激痛が喪神の怒りに油を注いだ。
「グルアアアアッ!」
喪神が前足を大きく振り上げる。その鋭い爪が一振りされれば、人間の身体など簡単に二つに引き裂かれるだろう。
(駄目だ、私の弓だけでは、あの怪物を止められない……!)
絶体絶命。
ネイリが次の矢を番えようとした、その時。
「……不条理な野生が、科学の論理に勝てると思うなよ!!」
突然、エドワードが叫んだ。
彼の顔は恐怖で真っ白になり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、その手は確実に動いていた。彼は背負っていたリュックから、さっきの地滑りでかろうじて守り抜いた「四角い黒い箱」、カメラのパーツと、測量用の発煙筒を強引に結びつけた奇妙な物体を掲げている。
「えどわーど、何を——」
「マグネシウムと、高輝度発煙筒の同時点火だ! どんな生物だって、強烈な閃光を浴びると網膜の光感受性色素が一気に反応し、神経信号を大量に発生させる。すると網膜は一時的に真っ白な情報で埋め尽くされる! この至近距離なら、いくら怪物だってひとたまりもないだろ!」
エドワードは、震える指でマッチを擦り、その導火線へと火をつけた。
「目を閉じるんだ、お嬢さん!!」
ドンッ!!!!
雨の夜が、一瞬にして太陽の爆発のような凄まじい白光に包まれた。
爆音と共に、強烈な硫黄の匂いと煙が周囲に立ち込める。
「ガアアアアッ!?」
直撃を受けた喪神が、悲鳴を上げて両前足で顔を覆おうとした。だが無数の頭は、二本の前足では隠せない。エドワードの目論み通り、暗闇に慣れていた喪神の目は、科学の放った人工の烈光によって完全に潰されていた。
「やったか!?」
ネイリが目をあけると、煙の向こうで喪神が悶絶しているのが見える。
しかし、代償は大きかった。
即席の爆発の衝撃波により、エドワード自身も吹き飛ばされ、崖の縁へと転がっていた。しかも、彼の足元の土砂が、先ほどの爆風と雨のせいで、音を立てて崩れ始めている。
「あ、あれ……? しまった、摩擦係数を考慮し忘れ……」
エドワードの身体が、ずるりと崖の向こうへと傾く。
「えどわーど!!」
ネイリは弓を放り出し、崩れゆく崖の縁へと、決死の跳躍を見せた。
指先がかすめ、そして、ネイリの掌が、エドワードの泥だらけの手首をがっしりと掴む。
「……捕まえた!」
「うわっ、お嬢さん!?」
体格だけ見ればずっと大柄な白人の少年を、ネイリは細い全身の筋肉を極限まで引き絞って引き上げた。モカシンが崖の縁の泥を踏み締め、大地の摩擦を味方につける。力任せではない。重心の移動と大地の傾きを利用した、部族の戦士ならではの身体技法だ。
ズササ、と二人はもつれ合うようにして安全な地面へと転がった。
「はぁ、はぁ……。本当に死ぬかと思った、まさか僕の体重を一人で支えられるなんて……」
「無駄口を叩くな、えどわーど。まだ終わっていない!」
ネイリはすぐさま立ち上がり、足元に落ちていたトネリコの弓を拾い上げた。
煙の向こうで、喪神が再び咆哮を上げていた。エドワードが放った科学の烈光による盲目は、すでに解けかかっている。血走った目が、不気味な光を反射して二人を睨みつけていた。
(この巨体を、完全に倒すことは不可能だ。なら……)
ネイリは背の筒から、最後の一本となった黒曜石の矢を抜き、弦に番えた。
呼吸を整える。胸の奥に、幼い頃から幾度となく聴かされてきた部族の古き歌が、確かなリズムを持って蘇ってくる。それは大自然への畏怖を歌い、荒ぶる山の精神をなだめ、あるべき場所へと帰すための聖なる旋律。
「……オウ・ラ・ナ、森の主よ」
ネイリの唇から、かすかだが透き通った歌声が漏れた。
雨の音を裂いて響くその調べに、エドワードが息を呑むのが分かった。近代西洋の科学には存在しない、しかし確かに大気を震わせる精神の波動。
「グルルル……」
喪神の動きが一瞬、ピタリと止まった。その小さな耳が、ネイリの歌声を拾って微かに動く。
「主よ、お前の怒りはもっともだ。だが、この血を流すのはお前の本意ではあるまい。眠るべき奥へと戻るがいい!」
ネイリは歌の最高潮とともに、引き絞った弦を放した。
放たれた黒曜石の矢は、熊の肉体を傷つけるためではなく、そのすぐ真上——へし折れてぶら下がっていた巨大なモミの木の太い枝の根元を、正確に貫いた。
メキメキメキ、と凄まじい音を立てて、数トンの重量を持つ巨木の残骸が、熊の目の前へと崩れ落ちた。土砂の壁が崩れ、怪物と二人を隔てる新たな境界を作り出す。
「ガアアアッ!」
主は、目の前に突如として現れた木の障壁と、ネイリの歌声が持つ奇妙な威圧感に気圧されたように、一歩、また一歩と後退した。そして、これ以上の闘争は無意味だと悟ったかのように、踵を返し、深い霧に包まれた山の深奥へと姿を消していった。
静寂が戻った。ただ、激しい雨の音だけが周囲を満たしている。
「……行った、のか」
エドワードが地面に座り込んだまま、呆然と呟いた。
「ああ。古き主は、お前たちの玩具に激怒し、私の歌と矢によって、あるべき場所へお帰りになった」
ネイリは弓を下げ、深く息を吐き出した。
だが、安堵している暇はなかった。彼らが激闘を繰り広げている間にも、エドワードが崖の向こうへ投げた発煙筒が、いまだにモクモクと鮮烈な赤い煙を夜空へと吹き上げている。その光は、雨のカーテンを透過して、まるで不気味なビーコンのように山全体を照らしていた。
「おい、えどわーど。あの赤い煙は何だ?」
「あれは……高輝度のストロンチウム化合物を使ったフレアさ。一度点火すれば、この雨の中でも三十分は燃え続ける。あそこの崖の上からなら、麓の君たちの集落からも、崖の上の僕たちの開発キャンプからも、はっきりと見えるはずさ」
エドワードは眼鏡を拭いながら、真剣な顔で言った。
「あの発煙筒の点滅信号は、開発キャンプの規定では『最大級の非常事態・即時退避』を意味するコードなんだ。キャンプの仲間たちは、これを見たら一分以内にすべての機材を捨てて山を下りる。そして、あの赤い光がこれだけ不気味に燃えていれば、君の部族の人々だって、山で異常が起きたと察知して動くはずだよ」
その言葉を裏付けるように、遠くから微かに、しかし確かな人々の叫び声と、馬のいななきが聞こえてきた。さらに、崖の上からは白人たちの作業員が慌ただしく撤退していく気配が、風に乗って伝わってくる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
二人の足元で、再び最大級の震動が走った。
先ほどの地滑りよりもさらに巨大な、山の斜面そのものが一気に流動化する第二の地滑りが始まったのだ。凄まじい量の泥流が、二人がさっきまでいた境界線のエリアを、完全に押し流していく。
しかし、その泥流が襲った場所には、もう誰もいなかった。
白人の作業員たちも、先住民の部族たちも、エドワードの放った科学の灯火によって、すでに安全な高台へと避難を完了させていたからだ。
(……救われた、のか。私たちの部族も。そして、こいつの仲間たちも)
ネイリは、隣で泥まみれになりながらもホッとしたように息を吐くエドワードの横顔を見た。
科学だの論理だのと五月蝿い男だったが、彼が命がけで灯したあの赤い光がなければ、双方の陣営に甚大な被害が出ていたことは間違いなかった。
ほうっ、と安堵のため息を漏らした彼を見て、ネイリは静かに微笑んだ。

それから、数日後のことである。
雨はすっかり上がり、雄大な山々の上には抜けるような青空が広がっていた。
地滑りによって地形が一変した森の境界線には、部族の大人たちと、白人の開発業者の責任者たちが集まっていた。今回の未曾有の大災害を受け、無理なダイナマイト工法による鉄道敷設ルートは見直されることが決定した。精霊の眠る聖なる森は、永遠に立ち入り禁止の保護区として守られることになったのだ。
大人たちが厳粛な面持ちで交渉を進める少し離れた場所で、ネイリは一本の大樹に背を預けていた。
「やあ、ネイリ」
聞き慣れた、少し気取った、けれどどこか親しみの持てる声がした。
振り返ると、そこには新調された、しかしやはり少しサイズが大きい茶色のジャケットを着たエドワードが立っていた。鼻の上の眼鏡は綺麗に磨かれ、その手にはあの四角い黒い箱、カメラがしっかりと握られている。
「またその不気味な箱を持ち歩いているのか、エドワード」
「不気味とは失礼だな。これは最新の光学技術の結晶だよ。……でも、認めざるを得ないね」
エドワードは少し決まり悪そうに頭を掻き、ネイリの隣に並んだ。
「君の言う『大地の呼吸』や、あの『聖なる歌』。僕の持っている本や教科書には、どこをどう探してもそんな不合理な現象のメカニズムは載っていなかった。だけど、あの時、確かに君の力は僕を、そしてみんなを救ったんだ。非科学的だけど……君は凄かった」
ネイリは一瞬目を見張り、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「あんたの言う『科学』とやらも、少しは役に立った。あの闇を裂く筒も、山を燃やすような赤い煙も、私の知恵だけでは生み出せないものだったからな」
「そうだろう? 科学と自然は、必ずしも敵対するものじゃないんだ。論理的に言えば、互いの長所を組み合わせることで、未来はもっと豊かになる」
「またそうやって理屈をこねる」
ネイリが呆れたようにため息をつくと、エドワードは「あ、そうだ」と言って、上着のポケットから一枚の厚手の紙を取り出した。
「これ、君にあげるよ。あの地滑りの直前、僕のカメラが奇跡的に捉えていたのを、キャンプの暗室で現像したんだ」
「……何だ、これは?」
ネイリは手渡された紙を覗き込み、息を呑んだ。
そこには、鮮烈な白黒の陰影の中に、弓をキリキリと引き絞り、鋭い眼差しで前方を睨みつける一人の少女の姿が、寸分の狂いもなく写し出されていた。風に揺れる髪の根元、モカシンの細かな刺繍にいたるまで、まるで魂がそのまま紙の中に閉じ込められたかのような、息をのむほど美しい「写し絵」だった。
(これが……私? 科学の箱は、こんなものまで造り出せるのか)
「僕のセオドライトは壊れちゃったし、測量データも失われたけれど。この世界で最高の記録は守り抜くことができた」
エドワードは胸を張って、少年らしい誇らしげな笑みを浮かべた。
「……フン、相変わらず不気味な技術。でも……悪くない」
ネイリはその写真を大切そうに胸に抱き、初めてエドワードに向かって、心からの真っ直ぐな笑みを返した。
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