国の標語:Nihil sine Deo(ラテン語) 神なしでは何もない | |
| 公用語 | ルーマニア語 |
| 首都 | ブクレシュティ |
| 最大の都市 | |
| 政府 国王 ミハイ1世 首相 クラウス・ヨハニス | |
| 面積 総計 238,391km2 | |
| 人口 総計 20,658,452人 | |
| GDP 6300億USD | |
| 建国 | ルーマニア王国成立 1881年3月13日 |
| 第二次世界大戦参戦 1941年6月22日 | |
| 国王によるクーデター 1955年 | |
| ルーマニア内戦 1955年 | |
| 通貨 | ルーマニア・レウ |
| 時間帯 | UTC+2(DST:+3) |
| ISO 3166-1 | RO/ROU |
| ccTLD | .ro |
| 国際電話番号 | 40 |
成立時は国王が権力を持っていたが、1955年のクーデターと内戦ののちに立憲君主制に移行し、現在は議院内閣制および間接民主制を採用した民主主義国家となった。
一時期はベッサラビア及びブコヴィナ、南ドブロジャを領有していたが、クラヨーヴァ条約とルーマニア内戦により両地域を失陥した。また、第二次ウィーン裁定により一時は北部トランシルヴァニアもハンガリーに割譲されていたが、のちにルーマニア軍が武力でハンガリーから奪還した。
長らくオスマン帝国の宗主下に置かれていたルーマニアであったが、ワラキアとモルダヴィアの連合公国から発展したルーマニア公国が1866年に憲法を制定した後、1877年5月9日にオスマン帝国宗主権下からの独立を宣言。翌年のサン・ステファノ条約およびベルリン条約にて列強の独立承認を受け、1881年に大公カロル1世は国王に即位。名実共に独立国としてのルーマニア王国が成立した。
1912年、バルカン諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が始まったが、ルーマニアは中立を維持した。その戦後処理をめぐる対立で勃発した第二次バルカン戦争では、ルーマニアはブルガリア王国に侵攻し、南ドブロジャを獲得した。
1912年、バルカン諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が始まったが、ルーマニアは中立を維持した。その戦後処理をめぐる対立で勃発した第二次バルカン戦争では、ルーマニアはブルガリア王国に侵攻し、南ドブロジャを獲得した。
第一次世界大戦では、連合国側で遅れて参戦しルーマニア戦線を構築するが中央同盟国に敗北、ブカレスト条約に調印しドブロジャを割譲するが、ヴェルサイユ条約によりブカレスト講和条約は破棄され、1920年6月4日にトリアノン条約を締結してブコビナ、トランシルヴァニア、ベッサラビア、そして一度は失ったドブロジャを獲得し、領土を2.5倍、人口を3倍にさせて大ルーマニアを実現した。
しかし大戦後、ロシア革命の影響によりルーマニアでも共産主義勢力が伸長。コルネリウ・コドレアヌ率いる鉄衛団は、その原因を国内のユダヤ人にあると考え、反共主義・反ユダヤ主義を掲げて支持を広げ議会で多数の議席を占めるようになる。国王カロル2世は彼等の影響力を嫌い、1938年政府を解散し自身の独裁体制を敷いた。
第二次世界大戦では、日独伊三国と同じく枢軸国側で参戦。ナチス・ドイツの圧力の下、独ソ不可侵条約を受けてホルティ政権下のハンガリー王国がトランシルヴァニアに進駐。更に南ドブロジャをブルガリアに割譲した。また、ソビエト連邦もブコヴィナとベッサラビアを占領した。これらの領土喪失に無為だった国王カロル2世に対する国民の不満は頂点に達し、1940年の軍部クーデターによりカロル2世は退位に追い込まれた。このクーデターには鉄衛団も連携し、鉄衛団は政府に参加する。そしてこの後、ルーマニアはより枢軸寄りの姿勢を強めていく。10月12日にはドイツ軍がブカレストに進駐し、同時期に三国同盟に加入。これ以後内政にも介入されるようになる。1941年、鉄衛団はクーデターを試みるが、アントネスクと政府によって鎮圧される。軍団員や指導者のホリア・シマはドイツに亡命するが、鉄衛団は大きな痛手を受ける。6月22日にはドイツなどと連名でソ連に宣戦を布告、南方を中心として部隊を拠出する。1943年10月31日に枢軸諸国とソ連が停戦すると、ルーマニアはベッサラビア及びブコヴィナを奪還し、さらにウクライナ地域の一部も獲得する。
ミハイ1世はカロル1世とは異なり、強権的な振る舞いをしない象徴的な国王だったため、アントネスクは自らの首相という地位をもとに国内で独裁体制を築き上げ、統治を安定させた。また、スラブ系住民には二等市民扱いをしたため、これ以降ウクライナ人などは独立闘争を模索するようになり、スラブ解放同盟という組織を立ち上げたが、アントネスクの統治は苛烈であり、地下組織としての活動を余儀なくされた。しかしながら、その統治に反感を持ったスラブ人の間に着実に浸透し、武装蜂起の準備を始めていた。
また、鉄衛団は長引く独裁体制に不満を持つ人々を中心に徐々に支持を広げ始めていた。
また、鉄衛団は長引く独裁体制に不満を持つ人々を中心に徐々に支持を広げ始めていた。
1955年、ドイツ・イタリアの経済恐慌のあおりを受け、アントネスクの独裁体制は急速に不安定化する。
これを受け、国王は民主化を目指してクーデターを決行し、アントネスクの独裁体制は打倒された。だが、5月16日、ロシアが復讐戦争を開始すると、ウクライーネの崩壊と混乱の余波はルーマニア領に波及し、トランスニストリア及びウクライナのルーマニア領地域ではウクライナ人主体のスラブ解放同盟が蜂起、クーデターの余波で混乱していた軍はこれに有効に対応できず、ティラスポリなどの都市が解放同盟の手に落ちる。
6月2日にセルビアがルーマニアに攻撃を始めると、軍はこれに対応できず戦況は劣勢になり、結局6日後の8日にはルーマニアは単独講和で戦争から離脱した。
5日、ドイツからの支援や、経済恐慌の影響により民衆からの支持を得て急速に勢力を再拡大していた鉄衛団は、国内の混乱を見て東部にて蜂起を開始。ルーマニアは混乱の中で内戦状態に陥った。
その後、復讐戦争において戦線が膠着すると、ドイツ軍は作戦行動を妨害し攻撃を仕掛ける解放同盟を鎮圧するため、ベッサラビアまでを占領。同地はドイツに編入され、国家弁務官区が置かれることとなる。
これを受け、国王は民主化を目指してクーデターを決行し、アントネスクの独裁体制は打倒された。だが、5月16日、ロシアが復讐戦争を開始すると、ウクライーネの崩壊と混乱の余波はルーマニア領に波及し、トランスニストリア及びウクライナのルーマニア領地域ではウクライナ人主体のスラブ解放同盟が蜂起、クーデターの余波で混乱していた軍はこれに有効に対応できず、ティラスポリなどの都市が解放同盟の手に落ちる。
6月2日にセルビアがルーマニアに攻撃を始めると、軍はこれに対応できず戦況は劣勢になり、結局6日後の8日にはルーマニアは単独講和で戦争から離脱した。
5日、ドイツからの支援や、経済恐慌の影響により民衆からの支持を得て急速に勢力を再拡大していた鉄衛団は、国内の混乱を見て東部にて蜂起を開始。ルーマニアは混乱の中で内戦状態に陥った。
その後、復讐戦争において戦線が膠着すると、ドイツ軍は作戦行動を妨害し攻撃を仕掛ける解放同盟を鎮圧するため、ベッサラビアまでを占領。同地はドイツに編入され、国家弁務官区が置かれることとなる。
1956年、国王と民主派が内戦に勝利を収めると、暫定政府は新憲法の制定と議会選挙の実施を約束する。数ヶ月後に新憲法が公布・発効されると、議会選挙が行われ、国民自由党や国家農民党などが勝利を収め、民主的な政権が発足する。
1958年、ハンガリー軍の注意がセルビアに向いていることを察知した政府は、北トランシルヴァニアに武力を用いて進駐する。ハンガリーは抵抗を試みたものの、ドイツの調停で北トランシルヴァニアを放棄することとなり、ルーマニアは正式に北トランシルヴァニアを奪還した。
1964年選挙で、それまで議席が少なかった社会民主党が大きく議席を伸ばし、野党第二党にまで躍進する。与党の国家農民党と野党第一党である国民自由党はそれぞれ議席を減らし、左派の台頭に危機感を覚え、両党は協力を模索し始める。
1968年選挙で国家農民党が敗北し国民自由党が最多議席を得たが、社会民主党はさらに躍進し国家農民党の議席を抜いて野党第一党に躍り出る。
これは両党に対して十分なショックを与えるには十分であり、国家農民党は国民自由党に合流する。これは「中道合同」と呼ばれ、その後の選挙で国民自由党は政権を維持し続ける。
1968年選挙で国家農民党が敗北し国民自由党が最多議席を得たが、社会民主党はさらに躍進し国家農民党の議席を抜いて野党第一党に躍り出る。
これは両党に対して十分なショックを与えるには十分であり、国家農民党は国民自由党に合流する。これは「中道合同」と呼ばれ、その後の選挙で国民自由党は政権を維持し続ける。
1988年、与党で汚職や裏金を巡る大スキャンダルが発覚し、内閣不信任決議案が造反によって可決する。国民自由党は総選挙にて過半数を割り、社会民主党と右派政党であるルーマニア自由連盟が議席を増やす。
不安定な政権運営が続いたものの、国民自由党はその後右派に接近し、自由連盟と連立を組み、議会過半数を回復する。
国民自由党の単独政権が終わりを迎えたことを68年体制の崩壊と見ることが多い。
不安定な政権運営が続いたものの、国民自由党はその後右派に接近し、自由連盟と連立を組み、議会過半数を回復する。
国民自由党の単独政権が終わりを迎えたことを68年体制の崩壊と見ることが多い。
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