時は2000年代、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年以上が経った。

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ルーマニア内戦
Romanian Civil War

【ルーマニア内戦初期の勢力図】
ルーマニア政府(民主派)
鉄衛団
スラブ解放同盟
詳細情報
戦争
ルーマニア内戦
年月
1955年5月16日 *1 - 1956年
場所
ルーマニア
結果
ルーマニア政府の勝利、ルーマニアの民主化、ベッサラビアのドイツ編入
交戦勢力
ルーマニア政府
鉄衛団
スラブ解放同盟
ルーマニア政府
鉄衛団
スラブ解放同盟
ルーマニア軍(王党派)
ルーマニア軍(一部)ドニエストル・ウクライナ共和国
大ドイツ国 *2
支援勢力
ルーマニア政府
鉄衛団
スラブ解放同盟
大ドイツ国
ウクライナ国家蜂起軍
ルーマニア内戦
ルーマニア
対スラブ解放同盟 - オデッサ - ティラスポリ - ヤシ - スチャヴァ
対鉄衛団 - トゥルチャ - ガラツィ - プロイェシュティ - ブカレスト - 第二次ガラツィ - コンスタンツァ?

ルーマニア内戦(英: Romanian Civil War)は、1955年から1956年までの1年余りにわたって続いたルーマニア政府軍、鉄衛団、スラブ解放同盟の間で戦われた戦争である。ルーマニア政府軍陣営の勝利に終わったが、戦闘によってルーマニア国内経済は打撃を受け、ベッサラビアなどはドイツに編入されることとなった。

背景

独裁体制下での反政府勢力

ルーマニア王国 #歴史の節も参照
1940年、軍部はクーデターでカロル2世を玉座から追い落とし、ミハイ1世をルーマニア王に即位させる。イオン・アントネスクは首相となり、その権力から独裁体制を確立させる。鉄衛団はクーデターを試みたが、内乱はアントネスクにより3日で鎮圧され、鉄衛団の指導者ホリア・シマや軍団員らはドイツに亡命する。
アントネスクの統治には反発もあったが、軍部の支持をバックに独裁体制を築き上げたアントネスクに対して大した抵抗は起こらなかった。
しかし、アントネスク独裁に不満を持つ人々は、反政府組織の急先鋒である鉄衛団を支持し、鉄衛団は再び支持を拡大し始めていた。
トランスニストリアやウクライナ地域では政権がスラブ系住民を迫害しており、スラブ人たちは武装蜂起の準備を始め、スラブ解放同盟を結成した。

内戦前夜

1955年4月16日、ドイツにて経済危機が発生すると、影響はすぐにルーマニアへ波及する。アントネスクの独裁体制は急速に不安定化。5月8日、国王はクーデターを決行し、アントネスク独裁はあっけなく崩壊する。国王は軍内の王党派を集め、軍内のアントネスク派を掃討し、新政府の組織を試みる。

経過

内戦開始

スラブ解放同盟の蜂起
5月16日、復讐戦争が始まると、ウクライーネ国家弁務官区の崩壊が始まり、ドイツ領からの補給などにも依存していたトランスニストリアは深刻な打撃を受けることとなる。
同日、スラブ解放同盟がオデッサを拠点として蜂起を開始する。クーデター直後の混乱した軍はこの蜂起に対応できず、解放同盟は西進して18日にティラスポリを解放。軍は混乱収束ののちに奪還するとして旧ウクライナ地域を一時的に放棄することを決定。ベッサラビアまで後退する。
19日にはスラブ解放同盟はドニエストル・ウクライナ共和国の独立を宣言。オデッサを首都と定め、ルーマニアからの独立を目指した。
セルビアからの奇襲
6月2日、セルビアがクロアチア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアに宣戦布告、第三次バルカン戦争が勃発する。西部国境の軍は解放同盟への対処のために引き抜かれており、軍は効果的な防衛ができず、戦線はずるずる後退する。国内情勢の混乱と圧倒的に不利な防衛を鑑み、ルーマニアはわずか6日後の8日にセルビアと単独講和し、戦争から離脱する。
鉄衛団の蜂起
軍の混乱ぶりを見た鉄衛団は、5日にコンスタンツァの港湾を拠点に東部で武装蜂起を開始する。鉄衛団はハンガリー国境付近で蜂起した軍団と合流し、8日にワラキアとモルダヴィアが分断。解放同盟と交戦していたルーマニア軍は包囲され、数週間後に鉄衛団に投降した*3

内戦中期

形勢逆転
政府軍はこれまで劣勢であり、鉄衛団や解放同盟に押され続けていたが、7月20日から始まったブカレストの戦いに政府軍が勝利したことを契機に形成は逆転する。鉄衛団から首都を守り切ったことにより、政府軍の士気は上昇し、鉄衛団はこれ以降劣勢に転ずる。
ドイツの介入
独露間で戦われていた復讐戦争において、戦線の膠着が確実になると、反羅に加え反独でドイツ軍の作戦行動を妨害し続けたスラブ解放同盟に対処するため、ドイツ軍は解放同盟を攻撃。歴戦のドイツ軍相手に民衆主体の解放同盟は烏合の衆であり、ドイツ軍は素早くオデッサを占領。解放同盟の影響が及んでいたベッサラビアまでもを占領し、同国の統治下に置いた。
鉄衛団はドイツの支援を受けていたため、このドイツの行動に対して抵抗せず、ベッサラビアからはスラブ解放同盟の崩壊の後素早く撤退を済ませていた。ルーマニア王国政府は抗議したが、ドイツ軍の進駐は既成事実化しており、また内戦化であったことも相まってドイツ軍は解放同盟鎮圧の後も同地から撤退することはなかった。

内戦後期

鉄衛団の終焉
10月11日、政府軍は最後の攻撃を開始する。包囲された港湾都市コンスタンツァには15万の鉄衛団と民兵が立てこもっており、コンスタンツァ包囲戦?が始まった。鉄衛団はその狂信的なまでもの忠誠心を持って政府軍に対して抵抗したが、政府軍が多くの戦力を持っていたこと、また鉄衛団に強制徴兵された民兵は鉄衛団に対する忠誠は弱く、政府軍に寝返る者もいたことも相まって、3週間の戦いの後、コンスタンツァは政府軍に奪還され鉄衛団は崩壊する。
その後、鉄衛団の組織的抵抗は終了し、残った鉄衛団残当はゲリラ戦を展開したが、その抵抗も1956年には完全に終了した。

影響


この節は中立性・公平性を欠いていると指摘されています。
(2012年7月)
内戦によって、ルーマニアの国土は荒廃して復興に取り組むことを余儀なくされた。また、ルーマニアは民主化し、新憲法の下で立憲君主制が明文化された。
内戦終結の後も、ドイツによるベッサラビア占領は終わらず、返還交渉は続いたものの、1962年にドイツが返還交渉を打ち切り、ベッサラビアがルーマニアに復帰することは二度となかった。その後、ベッサラビアにはモルダヴィエン国家弁務官家が設置され、永久的にルーマニアとベッサラビアの同胞はドイツにより分たれることとなった。ベッサラビアの失陥によってルーマニアは本土の国土面積が約30万km2から約24万km2まで減少し、実に約6分の1の面積を失った。

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