時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

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&align(center){%%%''エジプト共和国''%%%}&align(center){%%%''جمهورية مصر''%%%} &align(center){&ref(https://image01.seesaawiki.jp/n/o/novo-mundo/I9p3xvmxV2.png,8%)}
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|''公用語''|アラビア語|
|''首都''|カイロ|
|''最大の都市''|^|
|>|''政府''~~  ''大統領'' ホスニー・ムバーラク~~  ''首相'' |
|>|''面積''~~総計  696,265㎢|
|>|''人口''~~総計  99,440,000人|
|>|''GDP''~~ 総計  1063億USD|
|''建国''|''イギリスより独立'' 1922年2月28日|
|^|''英埃同盟条約'' 1936年8月27日|
|^|''地中海恐慌'' 1955年5月25日|
|^|''青年将校団クーデター未遂'' 1957年7月23日|
|^|''エジプト革命'' 1999年6月18日|
|^|''民主化クーデター'' 2000年2月 日|
|''通貨''|エジプト・ポンド|
|''時間帯''|UTC+2 (DST:なし)|
|''ISO 3166-1''|EG / EGY|
|''ccTLD''|.eg|
|''国際電話番号''|20|
''エジプト共和国''(エジプトきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر الإسلامية)は、中東及び北アフリカに位置する共和政国家。首都はカイロ。

アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南に中部アフリカ連邦、南東にイタリア領エリトリア、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。

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*国名
正式名称はアラビア語で جمهورية مصر الإسلامية。通称は مِصْرُ(標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsˤɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ(Khemi ケーミ)。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム(מצרים‎, ミツライム)となる。

公式の英語表記は Islamic Republic of Egypt。通称 Egypt。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハの魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。

-1882年 - 1922年:イギリス領エジプト
-1922年 - 1999年:エジプト王国
-1999年 - 2000年:エジプト王国臨時政府
-2000年1月 - 2000年3月:エジプト暫定政府
-2000年3月 - 現在:エジプト共和国

*歴史
この項目では、第二次世界大戦以前のエジプトの歴史については解説しない。
それ以前のエジプトの歴史を知りたい場合は、Wikipediaを参照のこと。
**第二次世界大戦とエジプト
1939年9月1日、アドルフ・ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。大戦勃発後エジプト政府は駐留イギリス軍の増強を受け入れたものの、中立の維持を目指して工作を続けた。イギリスはエジプトの非協力的姿勢を攻撃し、国王ファールークに圧力をかけて1940年に親英派のハッサン・サブリを首相に任命させた。1940年9月13日、ロドルフォ・グラツィアーニ率いるイタリア軍がエジプトに侵攻した。これは独立国エジプトへの侵略行為であったが、エジプト国内ではむしろドイツ・イタリアの助けを借りてイギリスの支配から脱却するべきという世論が強く、国論を二分した。

エルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団とイタリア軍がエジプト国内でイギリス軍との戦いを繰り広げた。しかし、1944年6月15日にイギリスが枢軸国とビスマルク休戦協定を締結し、1945年4月25日に連合国と枢軸国がベルリン講和条約を締結したことで北アフリカにおける戦いも終結した。これによりエジプトはイギリスの支配から完全に脱し、その影響で国内では親枢軸派が勢い付いた。戦争後の選挙では親伊派のマフムード・エン=ノクラーシー・パシャ氏が首相に当選した。
**アトラントローパ計画の影響
第二次世界大戦後、ドイツ主導の下で行われたアトラントローパ計画はエジプトに大きな影響を及ぼした。
モエリス湖がダムによって巨大化し、灌漑設備に投資がされたことにより農業生産高は大幅に増加した。スエズ運河も計画前と同様に使用することができた。しかし、海面の下降によって港湾が使用不可となったため水産業や海運業は壊滅的な被害を受けた。

始めはドイツより補償金の援助があったため損失を補填することができたが、ドイツの財政危機によって援助は事実上の打ち切り状態となった。エジプトはドイツを批判し援助の継続と計画の完遂を求めたが聞き入れられることはなかった。国内ではドイツに対する不信感が急速に高まっていき、政府もドイツを見限ってロシアやアメリカへと接近した。
**地中海恐慌
1955年5月にイタリアで始まった経済危機はエジプトにも波及した。国内では多くの工場が閉鎖され、企業の倒産が相次いだ。特に金融業は大きな被害を受け、エジプトはデフォルト寸前まで追い込まれた。一連の経済危機で、エジプトの失業率は30%ほどまで跳ね上がり、平均株価は40%急落した。

1955年8月30日には当時のアリー・マーヘル・パシャ首相は資金の調達のためにスエズ運河の国有化を宣言。当時スエズ運河を管理していたイタリアからは激しい反発があったものの、当時経済危機の渦中にあったイタリアは軍を派遣することはなく、したがって軍事衝突も発生しなかった。
**自由将校団によるクーデター未遂
1957年、アトラントローパ計画の失敗の影響と地中海恐慌の波及によって国内でも産業の壊滅や金融危機が発生しており、エジプト経済はほぼ壊滅状態に陥っていた。しかし、当時の政府の経済危機への対応は後手に回ったもので有効打を打ちそこねていた。

失業者が増加し、さらに貧困も拡大していく中で国民の不満は蓄積されていき、同年3月にはカイロで反政府デモが繰り広げられ、やがてデモ参加者は暴徒化して市の中心部を破壊した。このデモの最中ですら、国王ファールークは息子の誕生パーティーを開き、そのために軍と警察を王宮の警備に集中させるなど身勝手な動きをしたため国民の反感を買った。こうした現状を見かねたガマール・アブドゥル=ナーセルらは自由将校団を結成し、メンバーたちは現政府と王政の打倒のための準備を始めた。

同年7月23日、ムハンマド・ナギーブとガマール・アブドゥル=ナーセル率いる自由将校団がクーデターを決行した。しかし、このクーデターを予期していた政府は、事前にナーセルら自由将校団が同性愛者の集まりであり肉体関係を持っているという噂を証拠付きで流布(後にデマと証明されている)するなどの工作をしており、これによって民心をつかむことができなかったナーセルはクーデターに失敗した。この後、自由将校団のメンバーの多くはクーデターの責任を問われて逮捕されたが、ナーセルはアメリカへの亡命に成功した。
**スーダン独立戦争
**エジプト革命
**イスラエルとの紛争
**2000年クーデター
*政治
**政体
1999年のエジプト革命までは立憲君主制だったが、現在は共和制を採っている。

**大統領
国家元首は大統領であり、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となっている。2000年のクーデター後に大統領制が施行された。
***エジプトの大統領
|~代|エジプト共和国(2000年-現在)|所属政党|任期|
|1|ホスニー・ムバーラク|国民民主党|2000年3月-現在|



**行政
エジプトにおける行政府の長は首相であり、議員の中から選出される。

***エジプトの首相
|~代|エジプト王国(1922-1999)|任期|
|27| マフムード・エン=ノクラーシー・パシャ|1945年2月-1946年2月|
|28| イブラヒーム・アブドゥルハーディー・パシャ|1946年2月-1949年7月|
|29| アフマド・ナギーブ・アル=ヒラーリー|1952年7月22日-7月23日|
|30| アリー・マーヘル・パシャ|1952年7月-1958年7月|
|31| ザカリヤ・モヘユッディーン|1958年7月-1968年7月|
|32| モハメド・セドキ・スレイマン|1968年7月-1972年7月|
|33| マフムード・ファウジ|1972年7月-1973年2月|
|34| ヌレッディン・タラフ・ナポリ|1973年2月-1980年7月|
|35| アブデル・アジズ・モハメド・ヘガジー|1980年7月-1984年7月|
|36| カマル・ハッサン・アリ|1984年7月-1986年6月|
|36| アリー・ロトフィ・マフムード|1986年6月-1988年7月|
|37| アテフ・セドキー|1988年7月-1992年7月|
|38| アテフ・エベイド|1992年7月-1993年5月|
|39| カマール・ガンズーリ|1993年5月-1999年6月|
|~|エジプト王国臨時政府(1999-2000)||
|40| ムハンマド・バディーウ|1999年6月-2000年2月|
|~|エジプト暫定政府(2000/2-2000/3)||
|41| ハーゼム・エル=ベブラーウィー|2000年2月-2000年3月|
|~|エジプト共和国(2000/3-現在)||
|42| |2000年3月-現在|

**議会
議会は両院制で、上院は参議院、下院は代議院である。参議院は小選挙区制によって、代議員は比例代表制によって公選される。また、全議席の少なくとも25%を女性枠として確保している。
元老院の定数は300席、代議院は596席である。

***構成
''参議院''
|~党名|議席数|イデオロギー|
|エジプト立憲君主党|169|中道右派/保守主義|
|ワフド党|57|民族主義中道派/自由主義|
|エジプト社会民主党|29|中道左派/社会民主主義|
|ヌール党|14|中道右派/サラフ主義|
|ムスリム同胞団|3|右派/イスラーム主義|
|無所属|30|&align(center){-}|

''代議院''
|~党名|議席数|イデオロギー|
|エジプト立憲君主党|296|中道右派/保守主義|
|ワフド党|74|民族主義中道派/自由主義|
|エジプト社会民主党|51|中道左派/社会民主主義|
|ムスリム同胞団|49|右派/イスラーム主義|
|ヌール党|35|中道右派/サラフ主義|
|国民統一進歩党|27|左派/社会主義|
|世代の意思党|8|中道/世俗主義|
|エジプト自由党|4|中道左派/自由民主主義|
|無所属|52|&align(center){-}|

**政党
ムスリム同胞団(イスラーム主義)ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派、旧王国政府によって解散させられていたため、1999年に再結党)、ワフド党(エジプト最古の政党)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派)、ワサト党、政党連合革命継続、自由党など、全部で50以上の政党が参加している。王国時代に唯一の与党であったエジプト立憲君主党は、1999年のエジプト革命後に解散した。

**司法
ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システムを採用している。
-最高憲法裁判所 - 憲法裁判所で、法律が違憲か否かの最終判断を下す。1979年設立。
-司法省管轄の一般の裁判所 - 最高裁判所(破毀院、1931年設立)と以下の下級裁判所(控訴院、第一審裁判所、地区裁判所および家庭裁判所)からなる。

*国家安全保障
国軍として、陸軍・海軍・空軍などから構成されるエジプト・イスラム共和国軍を保有している。1995年時点での見積もりの総兵力は38万人。予備役は39万5000人。しかし、このリソースの大部分をスーダンの治安維持に割いている。
アメリカやロシアから大量の兵器供与を受けており、戦車の保有数は現在稼働していないものも含めると4800両に上る。

中近東諸国連合(MENC)の中核メンバーであり、同機構内でも重要な位置を占めている。
*行政
**地方行政区画
エジプトの最上級の地方行政単位は、ムハーファザ(محافظة‎、県、州 と訳されることもある)である。知事は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域は非常に細分化されているにもかかわらず、砂漠地帯は非常に大まかに分けられている。
*経済
1998年のエジプトの国内総生産(GDP)は約911億ドル、一人当たりでは916ドルである。アフリカの中では上位の経済規模を誇るが、中東諸国と比較するとやや劣る。

スエズ運河収入と観光産業収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、またエジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている。
**農業
かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。

しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アトラントローパ計画に伴うモエリス湖の拡大やダム建設による水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。これによって農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。

1970年代に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。
**工業
*交通
エジプトの交通はカイロを中心としており、主にナイル川沿いの集落に沿うように発展している。海、河、陸、空を問わず、エジプトの交通は運輸省およびその他の政府機関が責任を負っている。

鉄道、航空、水路による移動に関しては、エジプトの鉄道の主要路線はナイル川に沿っており、エジプト国鉄によって運営されている。海外路線に加えて、エジプト航空はカイロの拠点から主要な観光地への国内航空サービスを提供している。ナイル川システムと主要な運河は、地元の交通手段として重要である。人々は現在でも主にカイロから下流の都市までの間をナイル川を経由して移動している。スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ国際貿易と航行のための主要な水路である。主要な港は地中海沿いのアレクサンドリア、ポートサイド、ダミエッタ、紅海沿いのスエズとサファガ、ポートスーダンである。
**鉄道
国有エジプト鉄道が運営している。1854年にアレクサンドリアとカフル・イッサ間が開業したのが始まり。その後はスーダンのワウまで延伸され、1990年時点での総延長は10374kmにも及ぶ。
しかし1998年から発生しているスーダン内戦の影響によって線路が損傷を受け、アトバラ以南の鉄道は現在運休中である。

またカイロ市には、国立トンネル庁が運営するカイロ地下鉄が通っており、アレクサンドリア市にはアレクサンドリア路面電車が通っている。
**道路
**航空
フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。
*科学技術
*国民・文化
*治安
**エジプト

**スーダン

**南スーダン

*スポーツ

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