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「劇的な撤退」のコメント一覧へ

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関ヶ原の戦後処理で薩摩藩が無傷だった理由は色々指摘されている。(筆者の備忘録も兼ねているため長文注意)
一、本国の島津義久らは両天秤をかけるため関ヶ原に兵を送らない方針を決めており、「義弘やお豊が関ヶ原に行ったのは本人達の意思によるもので俺らは関係ないぜ」と主張した。大名の弟や跡取りや家老が出陣している以上さすがに全く関係ないというには無理があるが、義弘と義久の間で出兵に対し態度の差があったのは事実で、島津が本腰いれて西軍についたわけではなさそうということは世間に知れていた。(実際義弘は「本国がもっと兵を送ってくれたら大御所の首をとれたかもなあ」と後に述懐している。いやいけるのかよ。薩摩やばすぎでは)

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Posted by 名無し(ID:eZdqrqaZOA) 2020年09月27日(日) 09:04:31 返信数(5)

二、本国が兵を送らなかったということは薩摩にまだ無傷の兵がいるということでもある。家康は薩摩にきつく当たって彼らが反乱を起こすのを恐れた。兵力差は圧倒的ゆえ勝てはするだろうが、籠城戦が長引くとせっかく関ヶ原が終わって沈静化した外様大名達ががら空きの東国を衝こうと動き出しかねない。

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Posted by 名無し(ID:eZdqrqaZOA) 2020年09月27日(日) 09:09:42

三、石田三成は近畿にいた各国の大名の妻子を人質にとり大坂城に押し籠めていた(その過程で細川ガラシャが自害し忠興が激怒した)。
戦後混乱のうちにある大坂城を徳川方が接収し、人質をそっくりそのまま手に入れて外様大名への脅しに使ったのだが、島津義弘は徳川が来る前に城にたどり着き、島津の人質を回収して本国に逃げ延びていた。結果徳川は島津を脅す材料を失ってしまった。義弘グッジョブ。

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Posted by 名無し(ID:eZdqrqaZOA) 2020年09月27日(日) 09:17:08

(四、義弘達は元々東軍につく気で上京したが、伏見城の鳥居元忠(家康と同年代で、生涯彼に仕えた老忠臣。忠臣蔵の大石内蔵助のひいじいさんでもある。石田三成の挙兵を誘うため少数の兵と共に伏見城に籠った。無論時間を稼いだ上死ぬ気で、実際そうした。薩摩隼人もヤバイが生粋のミカワ人たる彼も大概である)は「お前達の助けなど必要ないから城に入ってくんな」と突っぱね(大概である)、西軍が近畿を掌握した以上今さら本国にも戻れず、一戦もしないで帰るくらいならと成り行きで西軍についたという説がある。確かに三成が彼らを軽視した、義弘達が中盤まで事態を静観していたという話との辻褄は合う。が、江戸時代中期以降にメジャーになった話のため、「薩摩を正当化するための作り話なのでは?」という疑義が昔から呈されている)

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Posted by 名無し(ID:eZdqrqaZOA) 2020年09月27日(日) 09:33:47

と、この通り家康は薩摩を許したわけでは全然なく、「しばきたかったが無理だった」。
加えて琉球の手綱を握る(清は海禁政策をとっていたため幕府は琉球王国を介して貿易を行っていたが、琉球王国を事実上乗っ取りつつも体面上の独立を保たせるのは薩摩藩の仕事だった。この辺日本史テストに頻出)役を迂闊に交代させることも難しく、何より唐入りやら退き口やらで轟きまくっていた薩摩の武勇は幕府も諸大名も激突を避けた(自慢の井伊の赤備えもああなるんだからそりゃ怖いよな…)ので(福島正則みたく)後追いで取り潰すことも出来なかった。そりゃもう墓に入ってもにらみ続けたい相手だったろう。

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Posted by 名無し(ID:eZdqrqaZOA) 2020年09月27日(日) 10:05:44

徳川は琉球への恫喝外交はあくまで日明関係改善の足がかりの手段としていて侵攻までは望んでないから、もし明が琉球救援に来てたら島津の独断で手打ちになりそうだったからかなり運もよかった

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Posted by 名無し(ID:9uLJQOlc3g) 2020年09月27日(日) 14:43:22

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