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marokoro0920 2023年07月16日(日) 11:50:57履歴
『言えない。』 ところどころ壊れて使えなくなっているロッカー。割り当てを示す名札は、全て取り除かれている。 古臭いポリ塩化ビニルの床。壁に至っては、誰かが思い切り寄りかかると崩れてしまう。 極亜久高校の野球部の部室は、その主たちが夏の甲子園大会で優勝したとは、とても思えないくらい粗末だった。 その中に、隅に片付けられたパイプ椅子の中から一つを立たせて、制服姿の少女がひとりで座っている。 少女は一年生のときから、この野球部でマネージャーをつとめていた。名前は石田由紀といった。 この部屋で目を閉じると、高校球児につきものの、汗と砂埃の匂いが、由紀の脳裏に蘇ってくる。 窓と目蓋を通してやってくる、傾きかけた陽射しが、放課後の風景を思い出させる。 この野球部が白球を追い続ける姿を、由紀はグラウンドの端からいつも見守っていた。 極亜久高校はいろいろと悪い噂が立っていたが、彼女にとっては悪い学校ではない。 また野球部は、極亜久高校の中でも別格の評判の悪さであったが、彼女にとってはむしろ、野球部が最高の居場所だった。 設備は貧相で、人数も少ないながら、個性的なチームメイトをキャプテンの小波がよくまとめていた。 「こんなところに誰がいるのかと思えば、ユキちゃんじゃない」 「あ、ようこ先生っ」 聞き慣れた声に耳朶を叩かれ、由紀は我に返った。 立て付けの悪いドアを開けて部屋に入ってきたのは、極亜久高校の教師にして野球部の前顧問。 「どうしたの? 今日は始業式だけよ。授業も無いし、野球部の用事もだいたい片付いちゃったのに」 「そうですけど……特に理由はないんです。ただ、ちょっと来てみたくなっただけで」 「ちょっと、ねぇ。ところで……あの、ユキちゃんも野球部辞めちゃうって聞いたんだけど」 極亜久高校の野球部は特殊な事情から、マネージャーである由紀以外の部員が全員三年生であった。 ゆえに、先の夏の甲子園が終わってからは、選手が全員引退してひとりも籍を置いていない状態になっている。 極亜久高校を野球の強豪校に押し上げようと目論む教頭が、あちこちから転校生を集めているという話が聞かれたが、 由紀は三年生と共に野球部を辞めるつもりであった。これで小波を中心とした野球部は、残らずこの部屋を去ることになる。 「はい……野球部に入ったのもほとんど偶然みたいなものですし、 今まで頑張ってこれたのも、先生とか、先輩達が良くしてくださったおかげですから」 「そういえば、小波君や亀田君から聞いたことがあったわ。ユキちゃん、最初は陸上部のマネになろうとしてたのよね」 ぽつぽつと取り留めもないお喋りから、いつしか野球部の思い出話に花が咲いた。 野球部を潰したがっていた教頭の妨害への憤慨。強くなっていく野球部のそばにいる嬉しさと期待感。 たまに高校生らしく無邪気に遊んだ記憶。時々ぶつかり合い罵り合いもしたこと。色々な記憶が蘇ってくる。 由紀が入学する前の野球部に話が飛ぶと、ようこ先生は野球部再建に奔走した小波の話をした。 理不尽な状況に立ち向かっていく小波の話を聞いて、由紀は小波があの部員たちをまとめられていた理由が分かった気がした。 「まぁ、いろいろあったわよね。今から思えば、あっという間の出来事みたいに感じられるけれど」 「ここも、掃除でもしようかと思ったんですが、すっかりきれいになっちゃってて、なんだか、すごくさびしいです…… 分かってたはずなんですけど、このぐらいの時間になると、部活が始まってるんじゃないかって、 みんなグラウンドでアップ始めてるんじゃないかって、そう思ってしまって……」 「本当に、それだけかしら。ここを、何度も、うろついてる理由って」 ようこ先生は由紀と同じようにパイプ椅子に座って、由紀をまっすぐ見つめていた。 さっきの言葉に対して、由紀が無言の内に見せた反応を、ようこ先生は明らかに見て取った。 「ユキちゃんは普段が元気な子だから、そういう顔してるとすぐに勘付かれてしまうわ。 あ、でも。私達の野球部の面子には、的外れな勘繰りをしそうなひとの方が多いかな」 「よっ、ようこ先生……」 「今は深く聞かないでおくけど、あんまり憂鬱な顔つきしてると、私も気になってしまうわ。 私はまだ仕事があるけど、あなたは暗くなる前に帰りなさい。悪い人に会うと大変だから」 ようこ先生は由紀に言い置くと、自分の座っていたパイプ椅子を片付けて部室から出て行った。 太陽は既に傾き始め、山吹色の幕を差し込ませていた。 (あの様子じゃ、先生は、絶対気付いてたよね) 蹌踉とした足取りで、由紀は家路を歩いていた。 あれから由紀はしばらく物思いに耽っていた。ようこ先生の忠告を耳では聞いていたものの、心では聞き流してしまっていた。 空は絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような、濁った群青色になっていた。都会の空は、見上げても星ひとつ見えない。 初めてその感情を自覚したのがいつか、由紀は覚えていない。 確かだったのは、野球部に入って程なくして、ひとりの男を目で追うようになったこと。 (小波先輩……) その感情を前にしても由紀は臆さなかった。あれこれ思い悩むこともしなかった。 自分の思いを自分で認めたときから、由紀は積極的に打って出ていった。 野球部のキャプテンとマネージャーという立場を利用して、少しでも小波に近づこうとした。 振り向かせる自信はあった。進藤明日香――ある意味最も穏やかならぬ人物――の存在を知ってからも、それは変わらなかった。 (先輩は追い詰められて打ちのめされても、最後は立ち上がったんだから、わたしも諦めたりなんかしない) ただ無邪気でひたむきだった彼女が、今はどうして人に心配されるほど鬱々した顔をするようになったのか。 そのいきさつは、この夏に起きたいくつかの出来事にあった。 きっかけは、極亜久高校野球部が夏の甲子園大会決勝戦を、明日に控えていた日にあった。 全ての高校球児が一度は憧れる、ほんの一握りしか上れない舞台。泣いても笑っても、そこに立てるのはあと一試合のみ。 そんな最後の試合を前に、今まで乗り越えてきた全ての困難を上回る衝撃が、小波に襲い掛かった。 「大変よ! 小波君! 明日香ちゃんが! 明日香ちゃんが、危篤だって!」 普段温厚なようこ先生が、血相を変えて部屋に怒鳴り込んできた。 小波と同室していた亀田と由紀も、驚愕に目を見開いた。 「そ、それは大変でやんすー!」 「どうして……どうして……そんな……」 明日香は小波の幼馴染である。以前から病気を抱えており、小波たちが甲子園出場を決めた頃に病状が悪化して入院した。 彼女は何かと野球部を気に掛けていた人間であったため、野球部のメンバーも甲子園前にお見舞いに行った。 その時の明日香の様子は、由紀にとって記憶に新しい。元より儚げだった雰囲気が、ますます希薄になっている。 自分と同年代の知り合いの死は、由紀が生まれてはじめて意識することだった。 はじめての意識はあまりに息苦しくて、惨たらしくて、理不尽で、言葉に詰まってしまったことを由紀は覚えている。 「こんなところにいる場合じゃないや! 俺、病院に行く!」 「待って、試合はどうするの! 明日は甲子園の決勝よ! 今から行けば、明日の試合には間に合わない。小波君がいないと、試合にならないわ」 甲子園での戦いが始まってから、由紀は強いて明日香のことを思い出さないようにしていた。 全国の相手との試合はどれも緊迫したものであって、他の事を考えている余裕など無かったし、 由紀が明日香を恋敵と認識していても、明日香は由紀をどう思っているかは知れなかった。 由紀はおそるおそる小波を見やった。ようこ先生との半ば怒鳴り合いと化したやり取りは、既に途切れていた。 小波はしばらく放心していたが、躊躇うように口をもごつかせ、やがてはっきりと声を上げた。 「試合に出る。俺は、行かない!」 「そんな……行ってあげて、小波先輩! 明日香さんがかわいそう!」 「俺は、みんなを裏切ることは出来ない! 明日香だって、何よりも、甲子園で優勝することを、望んでいるはずだ!」 (かわいそう……そうだよね。普通に考えたら、そうなるはずなのにね) 由紀が反射的に口に出した言葉は、あの時の率直な思いそのままだった。 小波と明日香が幼馴染であったこと。一度遠くに離れて、高校生になってから再会したこと。 野球部にはあまり見せないようにしているが、かなり親しい仲であること。由紀は全て承知だった。 だから小波が、明日香の元へ向かうことを信じて疑わなかった。だが小波は、甲子園の決勝戦を取った。 そして聖皇学園との死闘に勝利し、極亜久高校野球部は深紅の優勝旗を手にした。 じりじりとグラウンドを灼く炎天、その下で繰り広げられる試合を、由紀は上の空で見ていた。 スコアブックはいくつも書き損じの跡が残り、誰がどんなプレイをしたかもまったく覚えていない。 (何で先輩は明日香さんの元に行かなかったのか、そればっかりずっと考えてたから) 「あ……あの、キャプテンの小波君は」 「こっ、小波先輩は一身上の都合で、ふふ不在ですっ!」 「え、試合には出場していましたよね……?」 「そそそのとおりですけどっ、早退しましたっ」 「……早退って」 試合終了後の整列が終わってすぐに、小波は甲子園から姿を消していた。この行動に野球部は、ようこ先生を含めて残らず驚愕し、 小波が着替えて放置してあったユニフォームを由紀に着せて表彰式を誤魔化すという、前代未聞の光景が繰り広げられた。 「そういえばユキちゃんがここに来たとき、これでウチも部員、顧問、マネージャーが揃ったなんて思ってたでやんすが、 副キャプテンを決めていなかったなんてことはすっかり忘れていたでやんす……」 「……でも、だからってあれは無かったんじゃないかと思うよ」 「みんな動転してたのよ……」 表彰式の騒動は、極亜久高校にとっては幸いなことに、一部で物議を醸す程度で収まった。 しかし由紀にとってこの出来事は、大会が終わってからも、ずっと澱み続ける懊悩の原因となってしまう。 (わたしは表彰式の間、ずっと先輩のユニフォームを着てた。あちこちぼろぼろになってて、むせかえるほど先輩の匂いがしてた) 興奮と表彰式の緊張とで、この時の由紀は明日香のことを忘れていた。 降って湧いてきたこの状況は、由紀には刺激が強過ぎた。 (先輩は結局ユニフォームとか洗濯させてくれなかったから、あんな近くで先輩を感じたのは、あれが最初で) 思い出されるのは、大会関係者に苦しい言い訳をしたことと、ずっと小波の残り香をむさぼっていたこと。 身体中の血が熱くなった。アンダーシャツが吸い切れなかった汗が、肌を通して染み込んできている気がした。 気がつくと、自分の身体をかき抱いていた。小波の一部を盗み取っている、密かな罪悪感と興奮があった。 (きっと、あれが最後で――) 「――ぁいたっ」 「オォイ、どこ見て歩いてんだっ!」 由紀の小柄な身体が路上に投げ出された。声の方へ視線を向けると、見るからにガラの悪そうな若い男が数人いた。 回想に気を取られたまま帰り道を歩いていて、前方に迫る気配に気付かなかった。 肩口に残る衝撃からして、男たちの内の一人に、かなりまともにぶつかったらしい。 彼らは極亜久高校の野球部のOB――かつて小波と外藤をシメようとして大怪我した――だったが、由紀の与り知らぬことであった。 「ん? その制服は極亜久のだな」 「おーおー、行儀のなってない後輩だな。これは、先輩に対する敬意ってものを教えてやるか」 立ち上がった由紀に対し、男たちがにじりよってくる。 黄昏を疾うに過ぎた都会の空の下でも、下卑た表情が見えてしまった。 「……離してください」 「まぁそんなこと言うなって、可愛い顔が台無しじゃんか」 「そっちからぶつかっておいて、んな言い方は無いだろうが。これはちょっと付き合ってもらわんとな」 無遠慮に身体に触れられて、由紀にも危機感が兆した。野球部で帰りが遅くなったときなら、必ず他の誰かと下校していた。 誰が送っていくかで一悶着あって、結局交代制で落ち着いたため、絶えず遅い時間の由紀には付き添いの部員がいた。 濁った思考が冷めていくと、不意に反射的な恐怖が湧いてくる。こちらはひとり、相手は複数の男、誰かに助けを―― 「お前さん方、うちの者に何か用か」 「うちのマネージャーをあまり怖がらせないでやって欲しいな」 助けは唐突にやってきた。 「いやいや、何事も無くて良かった。連中は前にも、うちの野球部に因縁付けに来たことがあったからね」 「ほんと、どうなっちゃうかと思いました……村上先輩も三鷹先輩も、本当にありがとうございますっ」 「……感謝されるのはええんだがの。お前さんは、こんな時間にこんなところで何しとったんじゃ」 由紀は村上と三鷹のふたりに自宅まで送られていた。極亜久高校の主砲と左のエースは、危なげ無く場を収めた。 由紀に絡んでいた男たちは、ふたりの姿を目にすると、異様な素早さでその場を去っていった。 「そ、それは……あの、その」 「別に問い詰めとるわけじゃないが、少し気になっただけじゃ。随分と道を逸れとったものでな」 村上の言葉に由紀は赤面した。由紀が絡まれた場所は、極亜久高校と由紀の自宅へのルートからは外れていた。 由紀はそのことに、野球部のふたりから声をかけられるまで気付いていなかった。 「遅くなる用事があったのなら、連絡してくれれば良かったのに。 野球部の誰かが送ってくれただろうから。実際僕と村上は、言ってくれればすぐ行けるところに居たし」 「ごめんなさい。変なことで心配かけてしまって……」 聞いて欲しいのか聞いて欲しくないのか、由紀の気持ちは判然としなかった。 洗いざらい話してしまえばきっと楽になる、けれども羞恥心が邪魔をした。 少しでも話を切り出せば、そこから綻んで全て話してしまいたくなる気がした。それはどうしても無理なことだった。 もし以前の由紀であれば、小波に対する思いぐらいまでは、二人に打ち明けられたかも知れない。 「そういえば、先生から聞いたんですけど、三鷹先輩の家にスカウトの人が来たって――」 その後は、三年生の進路についての話になった。 最もプロの注目を集めているのはキャプテンの小波であったが、三鷹のプレイもスカウトの眼に留まったらしい。 ちなみに村上にもスカウトの声がかかったそうだが、家業を継ぐまでにやっておかなければならないことがある、 とのことで彼にプロ入りの考えは無いようだった。家業がどんなものかについて、由紀と三鷹は敢えて立ち入らなかった。 「着いたの。今度からは気をつけるんじゃぞ」 「はい。以後気をつけます……」 話が弾んで、由紀が気付いたときには自宅まで辿り着いていた。由紀はしばし澱んだ心持ちを忘れることができた。 こんな時間に親身になって心配してくれる先輩が居ることが、素直に嬉しかった。 自宅の前でふたりに向けた笑顔は、ようこ先生に対して浮かべたものより、いくらか見られるものになっていた。 「三鷹、お前がいてくれて助かったの。あの調子では、ワシひとりだったらとても間を持たせられんかったわ」 「持たせることは持たせたけどね。でもこれじゃ、大見得切ったようこ先生に示しがつかないよ」 「ん、大見得て何よ」 「キミもだろ。ようこ先生に“ユキちゃんが心配だから様子見に来てくれ”って電話で頼まれて、こんな時間にここまで来た。 僕はその時に、“ユキちゃんを元気付けてみせる”って言ったのはいいんだが、あの様子じゃまだまだ心配だ。 それにしても、もう少し早く声をかけるべきだったんじゃないか。……別に、キミの方が早く見つけたのを僻むわけじゃないが」 「反省はしとる。それと、ワシの方が先ん見つけたのは気にするな。こすい手使ったけえの」 「ああもう悔しいな。小波……彼に悪気は無いんだろうが、それが一層悔しい。野球で負けたときよりも悔しい気がするよ」 「お前が女のことで、そがいに早う負けを認めるとは思わなんだ」 「これは失言だったな」 既に門扉を背に遠くを歩いていた二人のぼやきは、玄関先で彼らを見送る由紀には届かなかった。 「こんにちは……沢井です」 「え、あ、あの、石田です」 「いらっしゃ……あの、確かにここは病室ですけど、そこまで静かにしなくてもいいですよ」 そろりそろりと病室に入ってくるようこ先生と由紀の姿を見て、明日香は微笑した。 最後に明日香の顔を見たのは、およそ一ヶ月前。夏休みに入ってまもなくの頃だった。 そのときに比べると、やつれた感じがするものの、血色は良くなっているように思われた。 「そうだ。まだ先生とユキちゃんには言ってませんでしたね。甲子園優勝、おめでとうございます」 「ありがとう……って、まだ言ってませんでしたね、というのはもしかして」 「野球部のみんなも、よく来てくれます。表彰式を放り出してきた小波君には驚きましたけど、次の日にはみんな顔見せてくれて」 明日香の言葉に、ようこ先生は呆れた顔をした。 「先輩たちったら、どおりでつかまらないと思ってたら、そういうことだったんですね」 「あ、あいつら……面倒事全部私に押し付けて、自分たちは……っ」 「最初はちょっと騒がしくて、加藤先生に怒られましたけどね。みんな一瞬で静かにさせられてました。 私も“あなたは死に掛けてた自覚が無い”って言われちゃいました。おかげで、入院している割に退屈してないです」 「先生……ああ、理香ね……もしかして、あんなに静かにするようにって釘刺してきたのは、私とあの子らを一緒にしたんじゃあ」 由紀はくすくすと笑う明日香の表情を見ていた。 明日香は比較的笑顔を見せることの多い少女であったが、その笑顔には時折痛々しいものが混じっていた。 一ヶ月前に入院したときの様子は、傍から見ていて死相という単語まで浮かんでしまい、慌てて脳裏から揉み消したほどであった。 由紀は医学も人相学も知らないが、甲子園が終わって、明日香の面相はだいぶ良くなったと確信した。 「由紀ちゃん? どうしたのかしら。私の顔に何かついてる?」 「あ、いや、ち、違います、何でもないですっ」 「そうだ。せっかく来てくれたんだから、置いてあるお菓子とか少し持っていって。 お見舞いに来てくれる人たちが置いていくんだけど、私はこんなに食べられないし……」 明日香の使っている病室は個室だったが、物を置けるスペースの大部分は、包装紙をまとった箱に占拠されていた。 備え付けの冷蔵庫を開けてみれば、特徴的な模様の大きな果実が鎮座していた。 “お見舞いといえばメロンでやんす!”の言葉と共に置いていかれたとのこと。食べ頃までに消費できるのだろうか。 さっきまで使われていた様子のポータブルCDプレイヤーのそばには、由紀の知らない歌手のCDジャケットが何枚か並べられていた。 明日香が読みさしていたらしい雑誌の見出しと見比べて、どうやら洋楽だというところまでは見当がついた。 甲子園についての話はすぐ尽きた。何しろ、既に抜け駆けで凱旋報告をされてしまっている。 午後の日差しが、薄く開いたブラインド越しに病室を照らしていた。外は夏らしい暑気に包まれているだろう。 事務的な連絡を含めた話をしてようこ先生が帰ってしまった後も、由紀はしばらく病室にとどまることにした。 もうすぐ二学期を迎える三年生のクラス担任ほど、由紀は多忙ではなかったし、猛威を振るう焦熱の中を歩きたくなかった。 何より、由紀はどうしても明日香に聞いておきたいことがあった。甲子園に居た頃から、考え続けても答えが出ないことがあった。 この問いを明日香に向けたら、どんな言葉が返ってくるか分からない。聞くのが怖い、という気持ちもある。 けれど、いつかは明日香から聞き出さないと、いつまでもあの日から先へ進めない気がした。 「……明日香先輩。ひとつ、聞きたいことがあるんですけど、構わないですか?」 「うん、何かしら。私に答えられることなら、どうぞ」 由紀はたどたどしい足取りで先へ進もうとしていた。 自分の口調も表情も強張っているのが、由紀には分かった。明日香のそれらは穏やかそのものだった。 「せ、先輩は……明日香先輩は、小波先輩に来て欲しくなかったんですか?」 由紀のあんまり出し抜けで端的な問いに、明日香は面食らったようだった。 言ってから由紀も気付いたのか、言葉に詰まって赤面してしまう。甲子園の表彰式よりもひどい有様かもしれない。 「……あ、ぇ、えうっ、そ、その」 「とりあえず、落ち着いて。もう少し話を整理してくれないかな」 舌が回るようになると、由紀は甲子園決勝を翌日に控えた時のことを、ぽつぽつと明日香に話し始めた。 ようこ先生がものすごい勢いで明日香の危急を告げに来たこと。試合に出るか、明日香の病院に行くか、小波が迷ったこと。 永遠とも思えそうな、しかし実際は短い時間のうちに、小波が決断したこと。小波は試合に出ることを選んでいた。 「なるほど。それで、私が小波君に来て欲しくなかった、ってどうして思ったの。もしかして、小波君がユキちゃんにそう言ったとか?」 「いいえ、小波先輩は何も、わたしにはしゃべってないです。ここからの話は、わたしの勘です」 記憶を整理しながら話していくうちに、由紀も少しずつ落ち着きを取り戻していった。 明日香は見たところ平然としていた。小波との関係を打ち明けてもいない由紀に、突っ込んだ話をされているにもかかわらず。 それが素の性格のせいか、はたまた由紀の問いを予測していたせいなのかは、窺えなかった。 「あの時、小波先輩は『明日香だって、何よりも甲子園で優勝することを望んでいるはずだ』って言ってました。 ……それだけならともかく、ようこ先生は、最初から試合に出るように小波先輩を焚き付けてました。 ようこ先生は――ちょっと後先考えないところがありますけど――あんなにああしろこうしろ、と言う人じゃないです。 先生にああまで言わせたのは、明日香先輩以外に考えられないんです」 「つまり……私がようこ先生に何か言って、小波君を試合に出させるように仕向けた、って言いたいのかな」 由紀ははったと明日香に目を向けた。 明日香の顔を見つめていたのを見透かされてから、所在無さ気にふらついていた視線が、明日香のそれと交差した。 明るくて可愛らしいマネージャーが、野球部の部員相手に見せていた眼差しではなかった。 自分が背負わされているプレッシャーに押し潰されまいと気を張る様子は、むしろ試合前の彼らに似ていた。 自覚はしていなかったが、由紀は明日香に挑みかかっている。明日香と小波の間にある何かに切り込もうとしている。 既に勝負はついてしまっているのではないか、という予感を振り払って、明日香の前に立っている。 「はい。わたしが、間違っているなら、そう言ってください。でも、わたしは、いくら考えても納得できないんです。 訊かせて、ください。小波先輩が試合に出るように、ようこ先生に言わせたのは、明日香先輩なんですか」 甲子園出場を決めた直後の小波相手になら、強がることは出来ただろう。 “私のことは心配せずに、今は野球のことだけを考えて”と、言ってしまえただろう。そこまでは由紀も納得していた。 彼女――もとい、彼女らが“心細いからそばに居て”と小波に言えないのも、彼女らの気持ちには違いなかった。 「そう。ユキちゃんの言う通り。私が先生に頼んだの。私が死んでも、試合には出させてって。遺言みたいなものね」 好いた男の足を引っ張ると知っていて、面と向かって甘えられるほど、彼女らは卑屈ではなかった。 甘えられずにはいられないほど、愛情に飢えていなかった。 「小波君はああ見えて優しいから、私に何かあったら、きっと心配したり迷ったりしてしまうでしょう? んん、口に出してみると、何だか自惚れてるみたいに聞こえて嫌ね。でも、そういうことよ」 「……どうしてですか、本当に、明日香先輩は、小波先輩に来て欲しいと思わなかったんですか。 自分の言葉を裏切っても、そばに居て欲しいと、そうは思わなかったんですか……?」 由紀を見つめる明日香の表情は、場面の空気に不釣合いなほど優しげだった。 由紀は視線を貼り付けたまま、一向に逸らす気配が無かった。 やがて明日香の口元が薄く震えた。あの場面の小波をオーバーラップさせて、由紀は身を堅くした。 「ユキちゃんは正直ね。私も、そばに居て欲しいと思わなかった、と言えば、それは嘘になるわ。 小波君に、甲子園で活躍して欲しいという気持ちもあった。本当に、試合見られなかったのが残念ね。 私も迷ったわ。でも結局、私にはどうにもならないことだった。小波君に、ここに居てもらうわけにはいかなくなった」 「“いかなくなった”……ですか?」 「これから話すことは、絶対に内緒にしてくれないかしら。私だけじゃなくて、小波君にも関わることだから。 ……小波君にも、内緒よ。いい思いはしないはずだから」 由紀はぎこちない動きで首を縦に振ってみせた。 内緒、という単語がここまで重々しく感じられたのは、はじめてだった。 由紀は自室のベッドにひとり身を投げ出していた。 いつの間にか入浴が済んでいて、夏物の夜着を身に着けていた。すぐにでも寝られる体勢だった。 携帯電話のデジタル時計は、寝るには少し早い時間を指していた。訪れて欲しい睡魔は、まだ気配を見せていない。 このところ、由紀の生活はひどく断片的なものになっていた。記憶が途切れ途切れになってしまっている。 時間がいくつかのかたまりとなって、締りの悪い蛇口の雫みたいに垂れている気さえしていた。 鬱積の原因である出来事を思い返している間は、由紀の時間から現実が抜け落ちている。 雫がぽたりと落ちて、波紋を広げたときは、かろうじて現実が挿入される。 液晶で見た日付は9月になっていた。明日から二学期の授業が始まる。波紋はひどく気だるい振幅を描いていた。 波紋はやがて消えて、由紀はまた物思いに没入していく。 二学期の始業式だった今日、由紀は明日香とも小波とも会話していない。明日香は登校せずに、まだ病院で経過を見ているらしい。 小波はずっと生徒の誰かに取り巻かれていた。野球部が甲子園で優勝していたことを、今更ながら実感する。 普段は小波が誰かと話していても、自然に間に入り込める由紀だったが、今日は声もかけられなかった。 “小波君は、本当は弟がいたの。でも、生まれる前に、お母さんと一緒に死んでしまった。小波君は、病院で看取ったそうよ” 病室の、あの明日香の声が、あの表情が頭蓋を過ぎる度に、息が詰まってしまう。 “私はこんな身体で、小さい頃も病院通いだったから、その時の小波君をそばで見ていたわ。 目の前で大事なひとが消えていくのに、何も出来ない気持ちは、未だに私には分からない。ただ、ね” 明日香はじっくり言葉を選びながら話していた。そうして言葉が途切れると、どろりとした静寂が空気に流れ込んでいく。 由紀はその静寂に完全に呑まれていた。 “入院したとき、加藤先生に言われたの。“あなたは、この夏を越えられないかも知れない”……ですって。 そう言われて、最初に思い浮かべたのは、あのときの小波君の顔だった。ベッドに横たわっていたのは、私だったけど” 晩夏の傾きかけた陽射しを横に語る明日香に、薄命という言葉は似合わない、と由紀は思った。 諦観を踏み締めた上に明日香は立っていた。 “私のせいで、小波君にそんな顔をさせるのは、絶対に嫌だったから。小波君の前で死ぬわけにはいかなかった。 ……たとえ、生きることが許されなくても” (……わたしは、いったい何をやってたんだろう) 由紀は自分を省みた。等身大のマネージャーは、あまりにちっぽけだった。 小波のユニフォームを着て、持ち主の残り香を貪っていたときに芽生えた罪悪感は、身を疼かせる烙印になっていた。 「……あ……だ、だめ……だって」 胎児のように身体を丸めると、動いた拍子に下腹の熱に触れてしまう。 目をぎゅっと瞑って火照りをいなそうとするが、すっかり眠気が散ってしまっている。 内心とは裏腹の、憂いのかけらも感じさせない瑞瑞しい肌には、汗が浮かびだしていた。 女友達同士の話から、興味本位で自分を慰めたことはあった。まだ小波に出会う前の話だった。 そのときは何が面白いかも分からず、小波と出会ってからも、性欲を持て余して自慰に耽ることは無かった。 (わたし……あのときから、おかしくなっちゃったのかな……) 由紀は背徳感に酔っていた。いい子だった過去を振りかざして、自分で自分を呵責していた。 片思いの先輩の匂いに発情して、それを餌に身体の疼きを紛らわした。 明日香の話を聞いてから感じた自分の卑小ささえ、背徳感の中に溶け込んで、昂ぶりを煽っていた。 そんな自分が浅ましく、みじめで、恥ずかしくて、どうしようもなくいやらしく思えた。 「あぅっ……んんっ……わたしは、わたしは……」 汗と泥が混じった匂いに、反射的に息を詰まらせた。小波の残した熱と、自分の体温が混ざっていった。 甲子園の決勝が終わって、茶番じみた表彰式が終わっても、ようこ先生に突っ込まれるまで由紀はユニフォームのままだった。 もし先生に止められなかったら、いつまで着っぱなしだったのだろうか。 ただ、先生が由紀を止めたときはもう遅かった。由紀はもう小波の余韻に浸る悦びを覚えてしまっていた。 許されないことをして興奮する、というのは、誰かに構ってもらいたい悪戯心の為せる業で、結局子供っぽい感情なのだろう。 少女と女性の間に立っている身体に反して、由紀の行動はいとけないものだった。 (せんぱい、わたし……ほんとうはだめな子なんです……) 声になるかならないかの吐息を漏らしながら、熾っていく肉体を自ら抱きしめる。 小波たちに知られるのは怖かった。幻滅されるのが怖かった。そう見られることに肌を熱くさせそうな自分が、一番怖かった。 そうなってしまったら、戻れなくなってしまうだろうから。 (せんぱいのにおいで……興奮しちゃうような……) 由紀は自分の首筋を撫でた。鎖骨の辺りに手を這わせた。ボタンを外してしまおうか。 背筋にぞくぞくしたものが走った。悪寒よりも蠢惑的で、退廃している感覚だった。 由紀は妄想の中で小波に見下ろされていた。男に身体を触れさせたことの無い由紀は、自分の指に小波を重ねるという感覚は描けなかった。 (せんぱい……どんな顔してるのかな……) 記憶にちらりと過ぎったのは、まだ慕わしい気持ちが淡かった頃の風景。 部室にいかがわしい本が隠されていたのを、智美先輩とうっかり掘り出してしまったこと。 男なんてそんなものよね、なんてぼやきに、露骨な作り笑いを返すことしか出来なかった。 欲情している男の風体など、碌なものじゃないとしか聞かなかったが、小波が自分のせいでそんな醜態を晒してくれるのなら、 その想像だけで何か満たされる思いがした。由紀を満たしていくものが、どれだけどろどろと下卑ていても。 由紀はたどたどしい手つきで自分の稜線を撫で擦っていた。 内に籠った劣情を、慣れない手戯でほどこうとして、由紀は呻き悶えていた。 まだ熟れ切っていない触覚はつれなくて、陶酔と呼ぶべきものをくれなかった。 じれったい身体のおかげで完全には溺れずに済んでいるのが、憎らしいのか、情けないのか、由紀には分からなかった。 「あ……く……ううっ……」 ざらついた痛みが、由紀の夢想に水を差す。腿を擦り合わせると、ほのかに湿った気配があった。 目を開けると、電気も消えた部屋の中がぼやけていた。こんなときに涙なんか出るんだ、と喉奥で呟いていた。 由紀は夜着の中に手を突っ込んでいた。小さな手には少し余る膨らみを包んでいた。 少しだけ関節を動かしてみる。五指が肌にめり込んで、爪の色が変わっていた。 心臓が脈打つのが、双丘の麓から感じられた。 (せんぱい、見てくれてますか、わたしのだめなとこ) 由紀の肢体は、人から見れば可愛らしさとそれなりの色香を醸し出していたが、如何せん動きが堅過ぎた。 数日ぶりに外を出歩いたせいか、届きもしない頂に攀じ登ろうと足掻いていたせいか、疲労が由紀を鈍らせていた。 由紀は再び目を閉じた。近くても触れられない小波の姿が、目蓋の裏に映っていた。 (せんぱいに、見られてないと、わたしは) 臍の下に爪先が食い込む。欲望が流れて張り詰めていたそこから、じわりと熱が滲み出る。 あの日から張りはきつくなる一方だった。皮膚に赤い爪跡を残すほど食い込ませた。妄想の中の小波が、止めてくれはしないだろうか。 「いっ……いたい……です、よ……」 痛みは一瞬目元を引き攣らせただけだった。目蓋の裏の像は、その程度でぼやけたりしなかった。 由紀はおそるおそる指を下らせる。蒸れた下着の上から、指を滑らせる。躊躇ってみせる。 (見ちゃだめ、です、そこは、女の子にも) 潤みが増したのが指先ではっきりと感じられた。虚構の視線に射抜かれて、犯されて、由紀はよがっていた。 本当の彼は、由紀が描いているよりもずっと初心で、由紀の痴態を視線で詰ったり嬲ったりできる男ではなかった。 思いを寄せていたはずのひとは、いつの間にか実像を離れて、自分を痛めつける玩具になっていた。 身体が上手く反応してくれなくて、ふと我に返りそうになるとき、物寂しさが顔を出してくる。 それを認めたくなくて、逃げ出したくて、下着の中に手を突っ込んで、痛いほど由紀は自分の秘裂を責め立てる。 「せん、ぱい……わたし、わたしは」 好きの一言が、口に出せなくなっていた。前は小波に直接ぶつけたことさえあったのに。 今は、ひとりのときでも、言えない。 「ふぁあ……っ! だめ……だめです、そこは」 陰核を爪で引掻いてしまい、由紀は背を捩らせた。包皮越しの刺激が、脳髄を疼かせた。由紀は未だ絶頂を知らなかった。 小波に目で犯されてるふりを演じるようになってからも、火照りと疲労感がせめぎ合うだけで、達したことは無かった。 肺腑が締め付けられるほど息苦しくて、くすぶり続ける熱病に巻かれながら、時に明け方近くまで懊悩していた。 由紀は二本の指で挟んで包皮を剥いた。保持するだけの軽い圧迫感にさえ、甘い痺れを味わっていた。 (このまま、いっちゃえば、全部……どうでもよくなれるのかな) 今の由紀にとっても、どこか怖い想像だった。内に積もり積もったものを、全て投げ捨ててしまったら、何も残らない気がした。 女性器の中で最も敏感な部分を、由紀は昨日までと同じくらいの加減でいじめた。 直に触れた鋭い快楽。充血してて、思ったよりも強く指を押し返す弾力。糸を引きそうな水音が耳に入り込んでくる。 由紀はうつ伏せになって腰を浮かせていた。べたついた呼吸が寝具に跳ね返されて、頬や鼻腔を覆った。 包皮を介さない刺激は、徐々に由紀を色欲に浸し、沈めていく。血液が泡立って、内奥から素肌まで由紀の身体を苛む。 (せんぱい、わたしは、もうだめ、ほんとうにだめ) 顔を埋めていた枕が、唾液でべとべとになっていた。 くしゃくしゃによれた寝巻は無残に着崩れて、時折くねる由紀の肢体に、邪魔気にされるだけだった。 切れ切れの喘ぎ声が、執拗な衣擦れが、由紀の部屋の音声の全てだった。 「ひやぁ、あ、あぁ、いいっ、いくっ、いきますっ」 この期に及んでも、由紀は自分を敢えて辱めていた。口走らなくてもいい嬌声を、届かない人に投げ続けた。 下腹が痙攣して、引き絞られて、全身で突っ伏して動けなくなるまで止めなかった。 翌日、由紀は学校を休んだ。 少女がかつての笑顔を取り戻すには、まだ時間が必要そうだった。 (おしまい) .
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