――夏は夜。月のころはさらなり――
窓辺から、闇夜を照らす街灯を見つめ、何の一節だったか、と首を捻る。
きっとこの詩の生まれ故郷の遠い昔の夜は、静寂に包まれた趣深いものだったのだろう。
だが、今は違う。元々は星月の独壇場だったはずの闇を、我が物顔で闊歩するネオンサイン。ギラつくカーライトに支配される都会の町並み。
わずかとなった、光の届かない淵では、文字通りの怪物達が闘いを繰り広げている。それほどまでに、今日の『夜』は狂乱で凶悪だった。
最早、『夜』は夏の代名詞の座には相応しくないのかもしれない。かといって、じゃあ代わりにひとつあげろと言われても困るのだが。
「あの」
「……ん?どうした?」
暗色にまみれた俺の思考とは対照的な、明るく、甘く、かわいらしく、そして幼い声に振り返る。
風呂上がりの小さな体が、首をかしげて俺を見つめていた。

「どうしたんですか?そんなに外ばっかり見つめて」
「ああ、ちょっと昔のこと思い出してた」
「また、ですか」
ため息混じりの口調に苦笑する。俺だって一昔前の主戦場は闇の側だった。
サイボーグやアンドロイドと言った、ヒトあらざるモノ達相手に立ち回る日々。
それなりに充実していたし、仕事に疑問を持ったこともなかった。そうとも、確かに『なかった』んだ。
数年前の、あの任務までは――
こうして、俺はよく過去を振り返る。我ながら年寄りじみているとは思うが、それは何もよっぽどの未練があるとかそんな訳じゃない。
ただ、闇に融けるエージェントから光の渦中のプロ野球選手へと。あまりにも変わってしまった自分が、時たまかつての俺を……、
この子の言うところの、『仮面を被っていた』頃の自分を思い起こさせる。それだけだ。だから、今の生活を手離そうなんて気はさらさらない。
今の俺には、野球の無い暮らしなんて想像できない。

それと、もう一つ。
「もう。せっかく久しぶりの二人きりなのに。あのですね、後ろを見返すのはいいですけど、前もしっかり見つめてくださいよ。
今この時に、目の前に居るわたしを」
この子だ。子どもっぽさたっぷりにぷっくり頬を膨らまして、俺を睨み付けているこの子の存在。
依存しきっていた。拠り所だった。野球と同じか、それ以上に。
「あはは、ごめんごめん。子どもみたいに拗ねるなよ」
「あーっ、またバカにして!別に拗ねてなんか無いです!」
うそつけ。
そっぽを向いて口を尖らせちゃって、どこからどう見てもいじけた子どもそのものじゃないか。
「悪かったよ」
溢れる笑いを噛み殺しながら、明後日の方向を向いてしまったこの子の肩を、後ろから優しく抱きかかえる。
心地よいシャンプーの風と共に薫る、この子自身の、柔らかくちょっと甘ったるいミルクみたいな香り。
「あぅ……」
俺のお気に入りの、この子の魅力を一番堪能できるポジション。
向こうも満更でもないのか、気持ち良さそうに俺に体を預けてくれる。
癒しの一時だった。どちらかと言うと、恋人同士と言うより父と娘のような雰囲気だが。
「……なんだか、またバカにしてません?子どもみたいだって」
「へっ?いや、そんなこと無いぞ」

ズバンと図星を撃ち抜かれた。こう見えても(これまた失礼かもしれないが)この子は、時たま妙な鋭さを発揮する。
いつぞやは、白瀬の業務連絡を聞き咎められて、咄嗟に友人の妹だと言って取り繕ったこともあった。
……白瀬、か。
一応、俺と白瀬の関係は途絶えてはいない。
情報処理が専門の彼女は、オオガミの動向を逐一知らせてくれる。頼れる『友人』だ。
だから、たまには飯を一緒に食ったりする。
何だかんだで付き合いも長く、気心知れた仲だ。俺としても、できるだけこの関係は維持したい。
とはいえ、未だに会う度第一声が、『そろそろ別れた?』なのには辟易するが。
「あぁもう、またぼーっとして。なんですか、わたしがそんなに魅力ゼロですか。どうでもいいんですかぁ!」
ああ、折角直した機嫌をまた損ねてしまった。
「そんなこと無いって。どうでもいいわけ無いじゃないか」
「むぅぅ」
「そんなに怒るなよ。ん、じゃあさ、今度は二人で考えようか」
「何をですか?」
「休みの予定。もうすぐオールスターだろ」
「あ、今年も出られるんですか!?あれ、でも……」
「うん、今年の成績じゃ無理かな」
「う、やっぱりそうなんですか。残念です」

「でもその代わりにさ、もう前半戦最後の登板終わったし、しばらくオフが続くんだよ。たまにはどこかにお出掛けしようか」
「あは、良いですねソレ。そうだなぁ、何がいいですかねぇ……」
遠足前の小学生のように、興奮に体を震わすこの子が何とも微笑ましい。
しかし、あのオールスターからもう一年、なのか。
――去年。22勝2敗と圧倒的な数字を残した年。
前半戦だけで12勝を挙げていた俺は、名だたる投手たちと肩を並べ、オールスターに出場を果たした。
大歓声の中、マウンドに立った俺に、この子の声が聞こえた気がした。
あの熱狂的なスタジアムで、4万分の1を聞き分けられるはずがないのだが、その声に導かれるように首を向けると……。
いた、のだ。小さな体を精一杯乗り出して、俺を応援してくれていたこの子が。
感激のあまり無双状態に入った俺は、3回を投げて奪三振7と圧巻の投球で、MVPを手にした。
祝福の壇上でインタビューされた俺は、嬉々として言い放った覚えがある。
「応援してくださった野球ファンの皆さんと、そして何より大切な人のおかげです。」と。
そうして、高揚を湛えたままベンチに帰った俺は、当然のように『彼女教えやがれ』
と同じチームの面々に詰め寄られたわけで。

しぶしぶだが写真を見せてしまったことを、自分の軽率さを、すぐに後悔した。俺だって、初対面の時は中学生くらいだと勘違いしたんだ。
よく考えれば、周りの反応も予想するにやすかった筈なのに。……次第に、写真を取り囲む仲間たちの、不穏な空気を肌で感じた。
背中をつうと汗水が伝う。エージェント時代の危機察知能力は告げていた。

ヤバい、早く逃げろ。

しかし、時すでに遅し。いや、写真を渡した時点で結末は不可避だったのだろう。
結局俺は、何度この子は成人だと説明しても全く聞き入れてもらえず、犯罪者だのロリコンだの好き勝手レッテルを貼られ、
非難半分、妬み半分の拳に轟沈した。その時たった一人だけ、俺の味方をしてくれたクローザーの先輩が居たのだが、
その人も今年から違うリーグに移籍してしまった。
今期は新天地で、どうも思うような投球が出来ていないみたいだが――
「……ですからね、やっぱり夏は花火だと思うんですよ。打ち上げ花火の豪快さも、線香花火の儚さも、どちらもいとをかし、なんですよ」
「へっ?あ、ああ。確かに花火は良いな」
「……次はないですよ」
じと目が痛い。仏の顔も三度まで。しかし、花火か。確かに悪くはないが。

――夏は花火。月の頃はさらなり――

語呂が悪い。何かこう、もっとしっくり来るような二文字のものはないか。ぐるりと首を回し、部屋を見回すと、テレビに繋いだままのゲーム機が目に入った。
こないだチームメイトと遊んだカートリッジが刺さったまんまだ。
何故だかウチのチームで流行しているそのゲームは、相手を爆弾で焼き尽くすという物騒なものだが、
その燃えまくる姿はウチの中継ぎを微妙に揶揄しているかのようで……。

その時、ぱあん、と頭の中で、爆弾が弾けた。

まるでゲームみたいに、弾けとんだ障害物の外郭から、一つのアイテムが浮かび上がってくる。
それは、蒼く、冷涼な、まさに夏にうってつけの……
「海だ。」
「ふぇ?」

――夏は海。月の頃はさらなり――

語呂もぴったり、良いじゃないか。
「海だよ。海に行こう。夏は海だ。」
「……どうしても、ですか?」
「うん。どうしても。」
まったく、何で思い付かなかったのか。夏と言えば海、当然じゃないか。
「やーです……。それだけは勘弁してくださぁい。」
「何でだよ。暑い夏には冷たい海、最高じゃないか。」
「わたし、カナヅチなんですよ……。」
初耳だ。成る程、そりゃ渋るのも無理はない。床にぺったり座り込み、ぶぅぶぅ不満を溢す姿は何とも父性を刺激するもので、
いつもの俺なら光の早さで前言撤回してあげるのだが、今回ばかりはそうはいかない。
「浮き輪があるよ。浮き輪」
「いやです。みっともないじゃないですか」
「そんなこと言わずに」
「いくら頼まれても、ダメなものはダメなんです」
「お願いだ」
「無理です」
「頼むから」
「イヤったらイヤです」
「うっわー」
「……」
食い下がる俺に、撥ね付ける相手。押し問答。元々頑固なこの子だ。真っ向からぶつかってもまず折れないだろう。
「とにかく!海なんてダメです。絶対ダメなんです。さあ、この話は終わりにしましょう!」
駄目だ、埒が明かん。そもそも大人と子どもが口で張り合って勝てるわけがなかったんだ。
グーにはパー、対左には左、子ども相手には……

「かき氷だ」
「!」
「海の家でかき氷を買ってあげよう。どうだ?」
「そ、そんなのに釣られるわけないじゃないですか、子供じゃあるまいし」
「そうかぁ。じゃあ焼きそばも付けたげようと思ったけど、いらないか」
「!!!」
たらした餌は、思いの外効果的だったようだ。
目はぐるぐる、あー、とかうー、とか声にならない音を発して悩んでいて、正直、見てるだけで充分面白い。
後は、しばし待つだけ。この子の天秤が傾くのを。
「……し」
し?
「仕方ありませんね!今回だけ付き合ってあげますよ!」
「おお、ありがとう」
釣れた。さぞかし今の俺は、ひねこびた笑いを浮かべているだろう。
「あー!なんですかその顔は!?べ、別に食べ物の魅力に負けて釣られた訳じゃないんですからね!」
「はいはい」
「本当ですよ!わたしは大人のカンヨウリョクで」
「はいはい」
「だから本当なんですってば!その見透かしたような返事をやめてください!」
「はいはい」
「ぐむむ!わかりましたよ、もういいです、そんなこと言うんでしたら……!?」
チュッ。
小さな唇に、そっと寄せる。
危なかった。少しからかいすぎた。
また拗ねられたら面倒だ。
そのまま、動きの止まったこの子を抱えあげて、ベッドにダイブ。

「ぁ……?」
突然のことに、目を白黒させているこの子に、優しく告げる。
「そんなにカッカするなよ。わかってるよ、俺は。君のことなら、ちゃあんと理解してる。だから、今日はもう寝ようか」
ぱちん。小気味良い音がして、部屋も夜になった。薄い布団に潜り込む。俺とこの子の、二人だけの根城。
どちらともなく向かい合い、交わす二度目の口づけ。
「んん……、ほんとーに、わかってるんですかぁ?わたしの、こと」
「ああ、あたりまえじゃないか」
「じゃ、じゃあ.今からわたしが望むことも、とーぜん、わかってますよね?」
「勿論だ」
会話もそこそこに、柔らかい唇を狙った、三度目の正直の獰猛なキス。狂おしいようにお互いを貪り合う、情熱の儀式。
そうして、理性を捨てた美少女と野獣は、宵の闇に沈んでいった。


青い空。
燦々と輝く太陽。
寄せては返し、流麗な曲を奏でるさざ波。
例のゲームの導き、と言うわけじゃあないが、間違いなくここは海だった。
しかもただの海水浴場じゃない。平日と言えども、夏のかきいれ時に人っこ一人いない、穴場中の穴場だ。
ざざぁ、と海水が足にかかる。透き通るような冷たさが、何とも心地よい。
――久しぶりの休暇だ。久しぶりに、心から楽しめる日が訪れた。思えば、今シーズン前半は苦難の連続だった。
2勝11敗。およそエースらしからぬ惨憺たる成績で迎えた折り返し。
しかし、俺は声を大にして叫びたい。どうして勝てないのか、と。
決して調子が悪いわけではなかった。ここまで完投五、うち完封三。防御率だって2.18と十分責任は果たしている。
なのに。打線の援護が壊滅的で九回二失点で負け、八回一失点で負け、七回無失点でマウンドを降りれば、決まって中継ぎに勝ちを消される。
八回投げきって九十球、エラーのみの自責0で負けなんてのもあったし、
八回までゼロで抑えて、自分でタイムリーを放ち、五点差で後を託してあっさり逆転された時は目を疑った。

「完封したら勝てる」んじゃあない。「完封したら負けない」だけだった。
増えるはずの白星は露と消え、増えないはずの黒星が着々と実をつけていく。
いつかは勝てる。そう思い続けて投げ続けていたが、いつの間にか前半戦が終わってしまった。
勿論、今日の主たる目的はデートだ。久しぶりの遠出を楽しむのが本懐だ。
ただ、気分転換の意味もあった。解放感に浸り、暗黒そのものだった前半戦を忘れ去って、心機一転、後半戦を迎えるために。

(まさかこのまま三勝で終わるってことは……、ないだろ、流石に。)

明るい日光のもと、少し思考が楽観的になった矢先、背中に悪寒が走った。
そういえば、居た。去年、投げれども投げれども勝てず、圧倒的な無援護を誇り、結局三勝十二敗で一年を終えた悲運のルーキーが。

(確か名前が、カミモリ?いや違う。えっと、なんだったか)

「……カロカロ?」
「カロカロって何ですかぁ……?」
思わずこぼれた呟きが、消え入りそうな声に拾われた。か細く、悲痛とさえ思えるその声色。
「いや、なんでもないよ。それより……!?」
何かあったのかと心配して、ふと振り向いて、そして。

――感嘆。

言葉にならない溜め息が、微かに口から漏れた。白を基調に、オレンジ色の水玉やら何やらをあしらった水着。
露出は控えめ、明らかに子供用ぽかったが、その明るい色調も相まってかえってこの子に異常な程マッチしている。
もじもじ恥じらい、しゃがみこんでしまったその姿も、狙ってやってるんじゃないかと勘ぐってしまう程、魅力的で……魅力的?

(いや、違うな)

魅力的。
その形容は、間違ってはいない、が正解でもなかった。
無論、元が美少女なこの子だ。水着姿が様になっていない、と言うわけではないが……。
それでもやはり、表現としては適切ではなかった。
今俺の中に渦巻く熱情は、熟した女性に抱くそれとは似て非なる全くの別物だ。
じゃあ、一体何なのか。この得体の知れない、情欲を焦がし、身震いさせる刺激は何物なのか。
数秒考えて、答えが見つかった。

(ああ、なるほど。……背徳感、か)

百五十に満たない身長。あどけない顔つき。太陽に向かってぴょこんぴょこん跳ねた、鳥の羽毛みたいなオレンジ色の髪の毛。ごくごく緩やかな曲線に形どられた、変化に乏しい腰のライン
。ちょこんとアクセントを加える、かわいらしいおへそ。
そして、何より。
布越しに自己主張するには些か足りない、それ。
この大海原のように、のっぺり平坦な、それ。
良く言えば可愛らしい、悪く言うと貧しい、それ。
だが、薄氷の未発達なそれこそが、この子の特徴を見事に統括していて。結局、この子の魔力は幼さに凝縮されていた。
その『幼艶さ』こそが、俺に、ある種の禁忌的な劣情を感じさせていたのだった。

「そ、そんなに凝視しないでくださいよぉ……。」
俯き、しゃがみこんでしまったこの子が、弱々しく呟く。
「ごめんごめん。でもさ、そんなにこそこそして。何がそんなに気になるんだ?」
首だけがもち上がった。突き抜けるような青空とはあまりに不釣り合いな、よどんだ顔色。
未だ熱冷めやらぬ俺とは対照的な、死んだ魚の目が、生気の欠片もない声で答えた。
「……全てが。今この海にいる全てがわたしを嘲ってる気がするんです。思えば、昔からそうでした。小学校、中学校、高校……。
年を追うごとにわたしの仲間は減っていき、残ったのは劣等感だけ。
言われなくてもわかってるのに。わたしがすこーしだけ魅力に乏しいことぐらい。わたしの体はすこーしだけ足りないことぐらい……」
「そんなことないって」
「そうなんです!」
「大丈夫だから。さ、立って。」
縮んだこの子に、手を差しのべる。しぶしぶ繋がれた手をゆっくり引き上げると、驚くほど軽く持ち上がった。
「う……」

よっぽど気になるのか、泣きべそをかいてしまっている。苦笑しながら、繋いだ手をぐっと引き寄せると、そのまま、ぴと、とくっつかれて。胸板に顔を埋められて、ああ、改めて感じる。
乳白の肌のなめらかさは、これ程心地よいものか。
消えてしまいそうな矮小さが、何といとおしいのか。
この密着を許してしまう、あまりに憐れな双実よ。
何てことはない。この子は、足りないことにより完成されていた。
「な、もっと堂々としてたらいいんだよ。」
「……。」
「大丈夫。俺が保証する。美空ちゃんは綺麗だよ。」
ミソラ。それが、この子の名前だ。
ミソラ。声に出すと、より鮮明になる。
あどけない、仮に分類するとしたら「可愛い」類いの名前。
かといって可愛さ一辺倒と言うわけではなく、例えば半月の夜のような、
どこかセンチメンタルな情感の入り込む余地のある名前。
いい名前だと思う。似合っているとも思う。
もっとも、名前が合うかどうかなんて、賭けみたいなものだが、その点においてはこの子は勝利していた。

「……綺麗、ですか。かわいい、じゃなくて」
二つの丸い目が俺を見上げる。期待と、若干の疑惑が合い混じった色を宿して。その目を見据えて、俺は優しい口調で言う。
「そーだ。水着もよく似合ってるし、俺の方が気後れしちゃいそうなくらい、綺麗、だ。」
よほど照れ臭かったのか、固く結ばれた顔が、だんだん赤くなっていく。やがて、一面が朱に染まると、徐々に赤みは引いていった。
そうやって、赤くなって、もどる。
温度計のような流れを三度繰り返し、そろそろ俺がデジカメを持ってこなかったことを後悔し始めたころ、化学反応はようやく止まり、
そして。
「そうですかぁ……、キレイ、ですかぁ……、えへへぇ……」
くしゃっと、綻んだ。破願一笑、心底嬉しそうな表情だった。
「そうだよ。だから、ほら。背筋を伸ばして。」
「えぇと……、こ、こうですかぁ?」
腰に手を当てて、海上にすっくと屹立する姿は、なんとも勇ましい。
見事になだらかな胸丘には、何となくビー玉でも転がしてみたくなる。
きっと一点の引っ掛かりもなく、海へと真っ逆さまに落ちていくだろう。
しかし、褒められてよっぽど感動したのか、端からでも自信に満ち溢れているのがよーくわかる。
その佇まいに満足した俺は、密かに罠を張り、
「どうです?わたし、もっとキレイですか?」

「ああ。堂々としてて、胸を張ってて、最高だ。……まぁ、もっとも」
一旦言葉を切って、
「張る胸は無いけどな。」
一気に突き落とした。
さっきの体勢で固まってしまい、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうなオブジェを見つめると、ふつふつと笑いが沸いてくる。
この子をいじるのは、堪らなく楽しい。

――ざわあ、ざわぁ。

妙に場にそぐう波の声を、二度、三度と聞いた元・オブジェは、ようやく息を吹きかえした。ゆらり、ふらつきながら立ち上がり、
その全身から暗黒のオーラを立ち昇らせて……、
「むがぁ!!」
半分泣きながら、一直線に突進してきた。
が、黙って受け止める体勢に入っていた俺にとって、そしてこの子にとっての誤算が三つ。
一つは、砂浜というのは意外なほど足をとられやすいこと。
一つは、偶然にも波が向かってきていたこと。波打ち際とはいえ、水の抵抗力はなかなかバカにならない。
そして、もう一つは、ちょっとやりすぎたこと。
思ったより傷ついたのか、激情に任せてこの子が突っ込んだ方向に、俺は居なかった。誰もいない、虚空へ向かって走り、途中で足をもつれさせて。
「あ」
べしゃ。
見事に、転んだ。顔から、いった。砂に、埋もれた。
慌てて抱き起こすも、漫画のひとコマのような、余りにシュールな光景にしばし言葉を失う。

えっと……俺のせい、なんだよな、これ。
「あー、美空ちゃん?」
「……」
「その、なんだ、ごめん。」
「むが」
「ちょっと調子に乗りすぎたよ」
「むがむが」
「でも、まさかそんな見事に転ぶとは……」
「むががぁ!むががむがぁ!」「ああごめんごめん!そうです全部俺のせいでございます」
「む」
「ちょっと度が過ぎました。この通り謝ります。ごめんなさい」
「むぅ」
「だからさ、そろそろ機嫌直して、普通にしゃべってほしいなぁ……」
――ざぶん、ざああ、ざああ。消え入りそうな呟きも、波に呑み込まれる。
やっぱりだ。無機質なふりをした、意地悪な波の歌声は、対岸の火事だと言わんばかりにこの非常に居心地の悪い空気を煽ってくる。
……さすがに息苦しくなってきた。
「な、美空ちゃん」
「……追加で」
「ん」
「かき氷、焼きそば、それにフランクフルトを追加で許してあげます。わたしは大人ですから。寛大ですから」
思わずコケそうになる。結局、それでいいのか。

でもそれは、叶わぬ夢なんだよ。

とはとても言えず、代わりに、口を真一文字に結び、ふんぞり返ったこの子を、黙って抱き締めた。
「あ、あの?わかったんならまず返事をしてくださいよ!」
「……」
「そ、それに、ちょっと苦しいです。強すぎます。潰れちゃいます。もっとちっちゃくなっちゃいますよぉ……」
大丈夫。その点は心配する必要ないから。
喉まで出かかったツッコミを、何とか堪える。これ以上意地悪するときっとこの子は拗ねてしまう。
それに、一つ、とても重大かつ残酷な現実を、俺は伝えねばならない。
「あのな美空ちゃん。心して聞いてほしい。」
若干手を緩め、目を見て口を開く。
ただならぬ雰囲気に、自然と静まりかえる空気。
「この海は、穴場だ。今日だって、いくら平日とは言え海水浴シーズン真っ只中なのに、俺達の貸し切りだ。」
「はい」
「もとより、穴場である必要があったんだ。俺は美空ちゃんの水着姿を、どこの馬の骨かも知れんやつらに見せるつもりはなかった。……君は、俺だけの天使だ」
「……はぃ」
ぽっと頬を赤く染めて、微かに頷く。

俺も一つ頷いて、続ける。
「人の出入りが少ない分、砂浜も綺麗だし、気兼ねなく遊べる。なかなか素晴らしいと思ったんだ。ただ、人気がないってことは、つまりだな……」
「つまり……?」
「非常に言いにくいんだが、ここに海の家は、ない。」
ぷちん、ぷちん、ぷちん。
かき氷、焼きそば、フランクフルト。この子を操っていた三つの糸が、呆気なく切れた。
「あ」
ばしゃん。
ささえを失った操り人形は、当然のように、海中に没する。
海が、本日何度目かのちゃちゃを入れていた。


天然のゴンドラに揺られ、この子はけらけら笑う。
つい十分ほど前まで足がつかなくて怖いだの、波に浚われそうだの言って、俺を引っ付かんで放さなかったのが嘘のようだ。
「あー、コホン、あー、うーみーはーひろいーなーおおきーいーなぁ―」
よっぽどご機嫌なのか、懐かしい歌まで聞こえてきた。
……上手い。きっちりと音程を捉えている。それに加えて、この子特有のシャボン玉のようにふわふわした声質は、
満ちゆく癒しの粒子となって俺の体に染み渡っていく。天上の響きだった。ともすれば眠ってしまいそうだった。
「つーきーはのぼるーしー」
永眠してしまう前に、満面の笑みで歌うこの子に、遠い目を向ける。
……あの後、硬直してしまったこの子を立て直すのに相当苦労したものだ。
盆と正月とそれからクリスマスを一片に取り上げられ、完全にグロッキー、何を言っても青菜に塩の鬱状態に陥ったこの子を救ったのは、
やはりと言うか、知ってたと言うべきか。

『帰りに。帰りにこないだのお店のスペシャルパフェを買ってください。それまで我慢しますから』
とかく、女の子と言うのは甘いものに弱いらしい。
(ちなみに、パフェと言うのは女のロマンであり、決して子供っぽくなどはない、とのことだ)
「ひはしーずーむー……もう、また!」
何はともあれ、かくして息を吹き返したお嬢ちゃんは、ついさっきの悲嘆に暮れた闇から一転、光のどけき表情で、
朗々と童謡を紡いでいたのだった。
……分かりやすい。あぁ分かりやすい。
この子は、どこまでも自分の気持ちに正直だ。
楽しければ笑い、悲しければ泣き、腹が立ったら怒り、褒められると照れる。
その素直な心がどうしようもなく子どもっぽいのだが、同時にそれは美徳であり、この子の醍醐味でもあった。
そう、それは干したての布団のように暖かで――
あれ?
「…………」
なぜ、この子は怒っているのだろう。
ぷっくり頬を膨らませ、右手を海に垂らし、きっと睨んで俺をロックオン、しなやかに腕を振り。
「えい!」
「わぶっ!」
海水が、俺の目にダイレクトヒットした。
痛い。かなり痛い。

「ま・た・ぼーっとしてぇ!何なんですかもう!そこまでわたしがどうでもいいと!?
わたしみたいなぬりかべは見てもつまらないってことですかぁ!?」
「ま、待て、誤解だ。今の懸想は美空ちゃんのことを」
「もんどうむよう、もんどーむよーですっ!さっきもぼーっとしてたじゃないですか!
大体何なんですかカロカロって!お友達ですか?ガロのキャラクターですか?
それとも踏んでも踏んでももとに戻る亀の骸骨ですか!?えい!えい!えいっ!」
「ぶわっ!た、タンマ!確かにオトモダチだけど面識はない!」
水飛沫の弾幕が俺を襲う。流石にこれは避けきれない。このままだと俺の残機はゼロだ。仕方ない。学生時代以来だが『アレ』の封印を解くとするか。
急遽戦闘体勢に入った俺は、忍者のごとく素早く海中で印を結び、水弾をチャージする。
エネルギー充填80パーセント……対ショック対閃光防御オン……エネルギー充填120パーセント!
「よし、喰らえ美空ちゃん。
拡散坂田砲、発射!」
びしゃん!
「きゃあ!」
「どうだ、見たか美空ちゃん!」
「ケホッ、な、なんですかその威力!ドゥームズデイですか!?メタルストームですか!?」

「いや、この圧縮水弾砲台の名は『拡散坂田砲』と言う。坂田が開発した、あの発禁水鉄砲『DQT2000』に勝るとも劣らない超弩級の砲台だ!
結局拡散するのか圧縮するのかは知らん!」
「誰ですか坂田って!」
「中学の同級生さ!発射!」
「ひゃああ!?ま、負けませんよ!えい!えい!えい!」
「無駄だ。潜伏!」
美空ちゃんの行動を読んでいた俺は、素早く海中に身を潜めた。
「あ、あれ?どこにいっちゃったんですか!?」
いきなり標的が消え、困惑した美空ちゃんを尻目に、俺はゆっくりじっくりと再びチャージを開始する。
三十秒……一分……二分……よし。
美空ちゃんの死角に回り、限界まで水が装填されたのを確認、満を持して俺は潜伏を解いた。
「ど、どこですか?出てきてくださいよぉ!」
「お望みとあらば!」
ふぁ、とちょっぴり泣きそうな顔でこっちを向いた美空ちゃんに、俺は素早くエイミング。
勘弁しろよ美空ちゃん。これこそが、坂田がとある野球(バラエティ)ゲームを参考に開発したと言う、一子相伝の秘技だ!
「いくぞっ!坂田式潜伏射撃っ!!」
最大限に圧縮された水流は、最早砲弾、と呼ぶことすら生ぬるかった。
狂おしいほどの激流は比類なき威力をもって、一直線に対象へと向かう!

「きゃあああ!?」
ばっしゃーん!
豪快な音を立てて、強烈無比な一撃が突き刺さった。
(ふふん、俺の射撃の腕前もまだまだ現役だな。
しかし、ちょっと大人げなかったか。ああ見えて負けず嫌いだからなぁ)
はっはっは、と暫し勝利の余韻に浸っていた俺だが、次第に不味いと感づき始めた。
なんだか、美空ちゃんの様子がおかしい。
「あ、あれ?大丈夫か?」
深く俯き、肩をぶるぶる震わせる姿はとても痛々しく、しゃくりあげてしまっている。
しまった。やり過ぎたか。
「美空ちゃん」
「……」
「ごめん。年甲斐にもなく熱くなりすぎた」
「……」
「あー、その、こんなことしでかした俺が言うのもなんだが、泣かないで……ぶぁ!?」
突如沸き上がった水柱が、ゼロ距離で俺を捉えた。
「やーいやーい!ひっかかったひっかかったぁ!」
やられた!
「くそ!まさか嘘泣きとは……?」
でも、大きな瞳には今にも溢んばかりに、涙が浮かんでいた。懸命にこしらえたのだろう泣き笑いもすぐにしぼんでしまい、
それでもぱっちり二重を瞬かせて強がっていたが、つぅ、とひとすじ、堪えきれなかった雫が海に落ちた。
なんだ。泣いたふりじゃなくて、泣いてないふりじゃないか。

「悪かったよ。男が女を泣かせちゃあダメだよな」
「……泣いてません」
「俺も調子に乗りすぎたよ」
「いいですか、ひっく、わたしは決して泣いてませんから。子どもじゃあるまいし」
「うん」
「わかればいいんですよ。……まったく、あんな足もつかないところで、急に独りぼっちにするなんて、ぐすっ……、
怖くって、心細くって、わたしは、カナヅチなんですよ……」
「ごめん。反省してるよ」
「ああもう、しばらくこっち向かないでください。さっき海水が目に入ったせいで、目が痛くって、
ひぐっ、な、涙が止まらないんですから」
「……わかった」
「それと、わたしはもう疲れましたから、どこか人気のない場所を見つけて、そこまで連れていってください」
妙な注文に首をかしげながらも、俺は黙って従った。
泣く子と地頭には勝てぬ。昔からそう決まっているのだ。


ざぁー、ざぁー。
穏やかなさざめきに耳を休め、遥か地平線を見つめる。
今日俺達をさんざからかってくれやがった海も、たまにはセンチな気分になるのか、静かな雰囲気を更に深める、そんな波だった。
周りを岩場に囲まれた、人気のない入り江。
切り立った崖が生む日陰に、愛する人と二人っきり。
二人だけの楽園、そんな表現が本来ならば似合う筈、なのだが。
つーん。
空気を切り裂く音が聞こえてきそうなほど、あからさまに俺は遠ざけられていた。
――ざぁーん、ざぁーん。
こうなると、静かなさざ波の音も逆になんだかチクチクして、非常に居心地が悪い。
――ざぁーん、ざぁーん。
もしかしてお前。
―ーざぁーん、ざぁーん。
わざとやってるだろ。それ。
――ざぁーん、ざぁーん。
前言撤回。やっぱり根性悪いな、コイツ。
しかし、どうしたものか。
意地悪な海から目を離し、すがるように空を仰いだ。
ちらっと横目で見ると、流石にもう涙はしまっていたが、未だにぷっくり頬袋を作り、
むすっとした表情でひたすらに海を見つめる女の子が映る。
やっぱり、やり過ぎたよなぁ。普段は多少怒らせても誇張でもなんでもなくあめ玉一つでコロッと笑うこの子だが、
ひとたびこのモードに入ってしまうとちょっとやそっとでは元に戻らなくなってしまう。

最後に見たのは確か半年ほど前、久し振りのデートと白瀬の緊急連絡が被り、土壇場でキャンセルとなった時だったか。
しかも緊急連絡と言うのは白瀬の嘘で、何となく喋りたかったから呼んだのだ、と言われて激怒、
結果俺は一日に二人の女に泣かれると言う憂き目にあったのも記憶に新しい。
……あの時は、俺が何を言ってもしばらく口を利いてくれなかった。
でも、この子も心のどこかでは不可抗力だったと分かっていたのだろうか、単に気持ちの整理がつけられなかっただけだったらしく、
一週間後、この子が涙ながらに俺に謝ってめでたく終戦となった。
果たして今回はどうだろうか。悩む間もなく、答えは出た。
非は完全に俺にある。となると、動かねばならんのは俺だ。じゃあどう動くべきか。
そうして自問を繰り返していると、いつの間に頬袋をもどしたのか、ボソッとした呟きが聞こえた。
「……今度は」
「ん?」
「今度は何をぼんやりしているんですか?」
「うん。美空ちゃんに、どうやって謝ればいいのかなって」
どうやら、意外にも向こうから取っ掛かりをくれそうだ。
「別に、わたしはそんなに怒ってる訳じゃないんですよ。わたしは大人ですから」
語尾を強調して、この子は続ける。

「ただ、せっかく二人でデートに来てるのに、わたしを放ってぼーっとしたり、あまつさえ海のど真ん中でひとりぼっちにしたり。
一人の男性として、れ、れでぃーをえすこーとする役目をほっぽりだすのはどうかなー、と思っただけです。ええ、それだけですとも」
ははぁ。
あからさまに俺を詰る口調は、とある予想を抱かせた。
この子はなんとかして、俺より上に立とうとしてるのだろう。普段俺にからかわれてばっかりだから、その鬱憤を晴らすための下克上と言ったところか。
面白い。お手並み拝見といこう。
「ですから、わたしは別に謝ってほしいわけじゃありませんし、そもそも最初から気にしてません。ただ、ペナルティを受けてもらいます」
「ペナルティ?」
「はい。まぁ要するに、わたしの言うことを一つ聞いてくれればいいです。まさかとは思いますけど、断れませんよね?大人なら」
「……ああ、そうだな」
ふむ、と荒い鼻息をふかし、この子は俺に向き合うように体勢を変えた。
さて、何が来る?
「……じゃあ、言いますよ。わたしがいいと言うまで、決してぼんやりせずに、わたしの目を、体を、わたしだけをじっと見つめていてください」
「……へ?うん、わかった」
なんだ、そんなことか。
思いの外かわいらしい要求に若干拍子抜けする。
何やらぶつぶつ呟くこの子に疑問を抱きつつも、俺は命令通り、この子を見つめた。
この子も、俺の視線に応じて堂々と俺を見つめ返して。

じーっ。
互いの瞳が、見えない糸で結ばれた。
……しかし、綺麗な目だ。
美しい二重瞼と、長い睫毛の台座に座する翡翠色の澄んだガラス玉は、この子の映し鏡のように純な輝きを放っている。
一度目が合うと、ピリリ、と電気的な刺激を持って、俺をキャッチして離さない。
成る程。君の瞳は百万ボルトってのは、あながち嘘でもない。ちょっと古いかな、などとぼんやりしていたら、一瞬、この子の瞳が揺らいで、そして、消えた。
「あれ?」
いきなり結合を解かれた俺の視線は宙を泳ぐ。
しかし、それもつかの間、再度目の前に現れた瞳は、先程より明らかに大きく、してやったりといった色を浮かべ、再び俺の視界を奪い去った。
「んむ!?ん……む……」
「ん……っ、みゅ……」
やられた。ようやく俺は、何が起こったか理解した。
この子は始めから狙っていたのだろう。
俺をじっと見据えて、気が抜けるのを見計らって視線を切る。困惑する俺を尻目に、身軽な体躯を活かして接近、そのまま俺の唇をふさいだワケだ。
不意討ちを喰らった俺にはなすすべがない。あっという間に主導権を握られ、なすがままにされてしまう。
圧倒的優位に立ちこの子も満足したのか、そっと唇を離した。一筋の銀糸が、口と口を繋ぐ。いとおしげにそれをしまったこの子の顔を見て、俺は驚愕した。
潤んだ目は虚ろ、頬はほんのりと上気し、はふぅ、はふぅ、と熱っぽい息を吐いている。
俺を見て舌舐めずり、恍惚の表情を浮かべ、それでも尚捨てきれない幼さも手伝って強烈なフェロモンを発散していた。

普段のこの子、夜のこの子。
その両方をよく知る俺から見ても、ここまで性欲に囚われてしまった姿は明らかに異常だ。
これじゃまるで娼婦、いや、発情期の獣そのものじゃないか。
ん、獣……?
――美空、お前は『オオカミ憑き』なんだよ。暗示にかかりやすく、しかもそれが肉体的変質を伴うのさ――
忘れもしない、かつてこの子にニセの幸せを植え付けた元凶、上川達也の嘲笑混じりのセリフが、ふと頭をよぎる。
「あーっ、またぼんやりしてぇ。そんなイケない人にはぁ……、こうですっ!」
「いっ!?つぉ……!」
必死に思索に耽る俺が勘に障ったのか、悔しそうに身を震わせて、この子は俺の想像外の暴挙に出た。
すでに海水パンツの中で天を仰いでいたソレの枷を外し、勃ち上がった剛直を、あろうことか足で挟んだのだ。
むにむに、むにゅむにゅ。
うまいこと緩急をつけ、ぷにぷにの足裏でやんわりと刺激される。
気持ちいい。非常に気持ちいいのだが……
(おかしい。いくらなんでも絶対におかしい)
暗示、特異体質、肉体的変質。頭の中で、三つのピースが行き場を求めふわふわ漂う。
(考えろ!一体この子に何があった?)
カシャリ、カシャリ。記憶のフィルムを巻き戻し、原因を探る。
(確かに泳いでる間はなにもなかったんだ。となると、その後、ここに来てからのはずだ。
二人で海を見つめて、この子に詰られて、こっちを向いてくれと言われて……む?)
そう言えば、俺がこの子を見たとき、この子は何やら呟いていた。
ぶつぶつぶつぶつ、俺に向けて、と言うよりは自分に言い聞かせるように。
(そうだ!あれからこの子は飛びかかってきた。あの呟きは何だ?
仮に俺ならどういう時に自分に語りかける?
先発登板前の一時だ。何のために?
自分を奮い立たせるため、とどのつまり、それは)

――自己暗示。
導きだされた解は、いとも容易く迷える三つのピースを適所へと嵌め込んだ。
間違いない。これで辻褄が合う。
この子は、自分で自分に暗示をかけたのだ。
特異体質にブーストされた自己暗示により、理性のタガを一時的に外したのだろう。
俺に目を見てほしいと言ったのは、過去にそうやって暗示をかけられたことがあるから。
出来るだけ近い状況を再現して、より高い暗示効果を得ようとしたこの子の企みは、見事成功を納めたワケだ。
(まさか、ここまで気にしてたとは思わなかった……、ってのはいじめた方の身勝手な言い分だよなあ。
どうせもうすぐ暗示は切れるだろうし、仕方ない。受け入れるか、この子の『逆襲』)
すると、思い出したかのように激流がやって来た。
思考で誤魔化していた白濁の蠢動が、今にも俺の腹底を突き破ろうとしていた。
……どうやら受け入れようが、受け入れまいが、あまり関係なかったみたいだ。
「ふふふ、あれぇ、なんだかぴくびくしてきましたよぉ?」
「……ああ、そろそろだ」
「いいですよ、思いっきり出しちゃってくださぁい」
爪が甘いなぁ、と思う。相手の望むままに行動させちゃ、せっかく優位に立った意味がない。ま、お言葉に甘えましょう。
どちらにせよ、俺の辛抱も限界なのだから。
「う……、くぁっ……、……ふぅ」
「きゃっ!」
びくんっ!と一際大きく波打ち、苦しげに呻いていた俺のモノは、溜め込んだ弾を発射した。やがて頂点に達し、勢いを失った白濁液は重力に従い落下する。
ぽとぼとぼと。自分の白い肌を汚すそれを、事も無げにこの子は掬い取って、赤ん坊のようにちゅぱちゅぱしゃぶり、押し黙った。
俺もまた、放出の快感に横たわり息をつく。
迎えた一つの区切りに、互いが弛緩していた。

「……どうですか」
「ああ、気持ちよかった」
「そうじゃなくって、わかりましたか?」
「何が」
「いいようにされる側の気持ちですっ!」
ああ、やっぱりそっちか。
実は途中からわざと従ってました――なんて言えるはずもなく 、俺はゴニョゴニョ言葉を濁して、でもな、と続ける。
「俺は決して美空ちゃんを無下にしたことなんてないぞ。
そりゃたまに子どもっぽいなぁって思うことはあれど、本心で君のことをただの子どもと思ったことはない。俺は君のことが、『女性』として大好きなんだ。もはや離れようったって離れられないし、離す気もない。勿論、嫌われたくもないさ」
俺はこの子の目を見る。
この子の焦点はしっかりと俺を追いかけていて、確信した。
もう暗示は切れている。
「そんなことわかってます」
この子は顔を赤く染めて、しかし憮然として言った。
「わたしはとても大切にされてます。わたしは愛されてます。わかってるんです、そんなこと。……子どもっぽいというのは体型以外認めませんが」
体型は自覚あるのか。
「わたしだって大好きです。
離れたくないです。いつだって側にいて、手を繋いでいたいです。だけど、好きだからこそ」
「好きだからこそ?」
「不安にもなりますよ。わたしは自分を省みて、鏡の前の自分を見つめて、本当に恋人なのか、たまーに疑っちゃいます。でも、そんなのは愛の力で吹き飛ばせます」

愛の力。
口に出すのも憚られるほど眩しいフレーズも、この子は息をするようにスッと飛ばす。
「それでも、愛では吹き飛ばせないものだって、それどころか、むくむく膨れ上がる物だってあります。それは、あぁ、また軽くあしらわれちゃってる、って言う悔しさです。ですから!」
すぅぅ。この子は胸一杯に空気を含み、思いっきりふんぞり返った。
「今回のは、言わば仕返しです。逆襲です。下克上です。どうですか、参りましたか!?」
誇らしげに胸を張るこの子。しかし、俺の目が着目したのは、まな板上のふたつのぽっちだった。
起ち上がった二粒の隆起は、貧弱な膨らみの代わりにわずかながらはっきりと水着を押し上げている。
(成る程、これが『肉体的変質』か。……おあえつらむき、だな)俺だってハイ参りましたで終わる気はさらさらなかった。
せっかくこの子の方から仕掛けてきたんだから、不覚は取ったもののカウンターの一発ぐらい入れてやろうと思っていたところだ。
ちょうどいい。にんまり笑い、完全に油断しているこの子を抱き締めた。
「ふむぎゅ、あ、あれ、参ったんじゃなかったんですか!?」「ああ参ったさ。負けて悔しいから、次は俺のリベンジだな」
「そんなのずるい!」
「ずるくなんてないさ。いいか美空ちゃん。敗北と降参は、俺みたいな人間にとっては違うものだ。
前にも言ったと思うけど、俺は必要なら噛みついてでも相手を殺すように訓練されてるんだよ」
「ひっ……」
「……まぁ今のは言葉のあやってヤツだから、そんなに怯えられても困るんだけど、つまり」
慌てふためるこの子の耳元に、息を吹きかける。
「油断大敵」
あまりの展開に目を剥くこの子に、俺は飛びかかった。
さぁ、第二ラウンド開始だ。

「ぷはぁ、美空ちゃんの口の中、すっごく熱いね。とろとろしてる」
「ゃぁあ……、ふ、ふぁ」
「はは、キスだけでこんなになっちゃうか」
「うるさいです……」
第二ラウンドは俺の圧倒的優勢だった。
早々とロープ際に追い詰めてラッシュをかける。
唾液をたっぷり交換して、舌で丹念に蹂躙して。
でも、全てを吸い付くしはしない。
ダウンなんてされたら、テンカウント。そんな猶予をあげる気はなかった。
再び手を伸ばす。今度は胸元、ぴったりフィットの水着の上から、わざと優しく、ふゎっと撫でる。
「ひゃああ、ゃ、あぁ!」
「……ずいぶん気持ち良さそうだな」
「ひぅ……悔しい」
「ん?」
「悔しいんです!何でいっつもいっつも手のひらで転がされるんですかっ!今日こそは上手くいったと思ってたのに……」
「いや、自己暗示ってのは俺も感心したよ?よく考えたと思うけど」
「し、知ってたんですか……」
「うん、途中で気付いた」
ふぐむ、と破裂寸前の擬音と共に、この子は口をつぐんでしまった。
「だからさ、そんなに落ち込まなくて良いんじゃないかな。ただし、リスキーな手段だけどね」
「あ……」
種も仕掛けも、全て把握されてしまったのを知ったのか、肉体の魔術師は硬直した。
その無防備な姿を、文字通り丸裸にしていく。
息を呑む声を聞きながら、俺は嬉々としてセパレートの上パーツを剥きとった。

――ぷるん、には程遠い。ぽよん、ですら過大評価だ。
ぶにゃぶにゃ?いや違う。
「いやぁ……」
「ほら、太陽さんにお披露目だ」
白日のもと、二つの神秘が露になる。
もう何度も目にした、だが見飽きることのない至高の部位。
揉むことはおろか、掴もうとする手すら空を切る、平らな丘。この子の怨嗟と俺の興奮、両方の的。
大人への階段を一段目で踏み外してしまい、それっきり進んでいない。
それがこの子の胸。枕詞はぺったんこ。
「……小さいよな」
「い、言わないでください!」瞳の水瓶に、涙が溜まっていく。
「大丈夫だよ、俺は美空ちゃんのべたんこが大好きだから」
「だからぁ!」
「ごめんごめん泣かないで。お詫びに……はむ」
「ふぁ、あ」
平らな土台に、ピンと屹立する赤の一つを、俺はくわえこんだ。ペロペロ、ペロペロ、舌で転がす。弾く。
充分ねぶった後、今度はそっと手を添えた。
この子の胸は俺の手のひらにすっぽりと収まってしまい、その存在はとても儚いものだ。
しかし、押せば沈む。ぷにぷにと、確かな意地を持って俺に向かってくる。
この子らしい胸をそっと包み、俺は優しく揉みしだいた……もとい、撫で上げた。
次第に大きくなる喘ぎ声。
断続的に吐き出されるこの子の熱は、そのまま俺の悦びに変換される。先程の暗示とはまた違う、
理性と本能の狭間でもがくこの子の表情に誘われて、
明らかに海水ではない液体でびしょ濡れのそこをなぞると、この子が軽く身じろぎした。

水着越しでもはっきりわかる特有の感触に目を細めながら、ゆっくりゆっくり、この子の意識を手繰り寄せていく。決してノックアウトせず、かといって安寧を与えるわけでもなく、なまくら刀でじわじわと。
「んあぁっ!ぁあ!あ、の、わたし、わたしっ!」
しかしながら、『肉体的変質』により異常な感度を得てしまったこの子では、なまくらですら耐えがたかったのか、次第に小刻みに震えはじめた。
どうやら、頂点へと達するためのエネルギーが充填し終わったらしい。
間違いない。今、この子の意識は、股間をまさぐる俺の左手に集中している。
ちょっぴり邪悪な笑みを浮かべて、俺は隠していた右手でこの子の乳首をつまみ上げた。
「ひぁあんっ!ああああああっ!!」
――そう。左はフェイク、本命は右だったんだよ、美空ちゃん。
「お、おっと?大丈夫か?」
「はぁ、はぁ、ふあぁぁ……」死角からの急激な刺激に翻弄され、頂点へとかけ上がったこの子は、腰が砕けたかのようにぺたんと砂浜に座り込んでしまった。
息も絶え絶え、未だ余韻に小さく震えていて、どうやら動けないらしい。
「すごかったな、こんなにおもらししちゃって」
「はぁ……、ぁ、お、おもらしじゃ、ありません」
顔を真っ赤にして反論するこの子。俺は口の端を歪めて笑った。
「本当に?」
「本当にです!」
「じゃあ、何で俺の手はびしょびしょなのかな?」
「う…………」
我ながら意地悪だと思う。知っていても答えられない問いを、答えを知りながら質問するのだから。
恨めしそうに俺を睨むこの子だが、全く怖くない。
「ま、いいか。俺も美空ちゃんの厭らしいトコたっぷり見れたし、そろそろ帰ろっか?」
「えぇ……?」

これも、意地悪だ。
愛撫だけでこんなにまで乱れてしまう状態のこの子が、前哨戦だけで満足できるはずがない。
その辺の性欲は、この子だっていっちょまえに持っている。
「えぇと、浮き輪、浮き輪と。どうした、まだ立てない?」
「……言わなくてもわかるくせに……」
その通り。だけど俺はわざとらしくかぶりをふって、あたかも残念そうに告げる。
「わからないな。きちんと説明してくれないと」
「うぅっ……その、えっと、わたし、すっごくじんじんして、物足りなくて」
ぼそぼそこの子は呟く。
しかし俺は取り合わない。もうワンステップ、この子が登ってくるのを待つ。
「うん。それで、俺はどうしたらいいんだ?」
「ですから、ですからぁっ!」ぱちぱちぱち。だんだんまばたきが増えて、目は充血し、落涙寸前の様相を呈していくこの子。
流石にかわいそうか。そろそろ勘弁してやるか、と思った矢先、この子は唇を噛みしめ、ほとんど泣きながら叫んだ。
「もう我慢できませんっ!このままお預けなんて無理です!
お願いですっ、わたしの中を、わたしのスキマをぐちゃぐちゃに埋めてくださいっ!」
思わずのけぞってしまった。
こんなに童顔の子に、外見だけなら中学生にすら間違われる子に、俺は不浄の象徴とも言えるモノをねだらせたのだ。
僅かな罪悪感と、それを遥かに上回る興奮がブレンドされて、悪寒と熱気が同時にやって来たような、奇妙な感覚を覚える。
「ひぃ、ひっく」
「よしよし。美空ちゃんの気持ちは痛いほど伝わってきたから、もう大丈夫だ。……ありがとう、そして、いただきます」

砂浜を見渡すと、やや背の低い岩があった。
この子を抱き抱え、その岩までエスコート。
「うん。そうやってかがんで、あ、もう少しお尻をつきだしてね、そうそう」
そうこうしている間にも、この子の股部からは止めどなく密が溢れだす。これ以上待たせるのは酷だと思い、この子を覆う最後の布を、俺はそっと取り外した。
「ううぅ……」
恥ずかしそうにこの子は呻いた。これでもう、生まれたままに剥かれてしまったのだから無理もない。
「美空ちゃんのお尻、可愛いね」
体躯に似合った慎まやしかな膨らみ。溶けてしまいそうな乳白色が、俺の網膜を優しく焼き付ける。むにゅむにゅ。半球を右手でつかむと、確かな弾力を持って押し返してきた。
この子だってやっぱり女だ。脂肪のつくべき場所は合っている。ただ単に総量が極々僅かだっただけらしい。
「でも、胸よりお尻の方が柔らかいな」
「ふむっ!」
思いっきり足を踏みぬかれた。「あいたたた……、悪い悪い。でも、たまには良いかも、この体勢」
「なんで、ですか?」
「美空ちゃんのお尻の穴から、いやらしいとこまで全部丸見えなんだ、こっちから見ると」
「ふむぅっ!」
再び襲いくる足を、今度は避けた。
「下らないこと言ってないで、早くしてくださいよぉ……、ひゃぅ」
とっくに決壊してしまったダムがはしたなく水漏れを続け、岩影に新たな溜め池を作る。
その綻びを修繕する前に、もう一度だけ、じっくりこの子の秘所を観察。

(……出来すぎだよなぁ)
超のつく低身長に始まり、寸銅の腰つき、幼さを存分に残した表情に似合う、ほぼ平らな不変不動の胸。
観光ツアーの最後を飾る秘部は、その名にふさわしく格別に幼少の香りを放っていた。陰毛どころか産毛すら一本も生えておらず、
視覚を遮るものが何もない。僅かに顔を出した性器が儚げに佇む、清らかな聖域。例えるならば極上のシルクでも力不足だろう、この無毛の芸術に初めて触れてからこっち、俺はずっと虜だった。
「美空ちゃんのここ、相変わらずだね。つるつるしてて何もないや」
「……気にしてるんですから、言わないでください。こんなの、まるで子供じゃないですか……、それより、早く……」
「わかったよ。美空ちゃんはせっかちだな」
「しかたないじゃ、ないですかぁ……、ん、うぁ!」
ヒクヒク蠢くこの子の入り口に後ろからあてがって、一気に貫いた。
侵入者を拒むと言うより、逃がさないために収縮する肉壁。
締め付けられ、すぐにでも吐き出してしまいたい欲求を何とか耐えて、ゆっくりゆっくり上下運動を始める。
「あ、あ、……んぁっ、ふぁあ!」
「美空ちゃんの声、すっごく気持ち良さそう、だよ」
「だって、だって、ずっと我慢して……ひあああぁ!」
「やっぱり、美空ちゃんはれっきとした大人だね。そんなやらしい声で鳴く子供はいないや」
「うぁっ、そ、そうですか、なんだか、わたし、恥ずかしいけどちょっとだけうれしいです……」
「そうか。じゃあ、もっと大きな声で鳴いてもらおうかな」
「ふぁあ、あ、ダメです!今日は、それは……んふぅ、んあぁああっ!」
この子の腰回りを掴み、繋がったまま俺は立ち上がった。
比較的大柄な俺と、超のつく小柄なこの子だからこその芸当。少々過激ではあったが、最大限の悦楽を得るには最も手っ取り早く、本能に忠実な行為だった。

「んぁ、ひ、ぁう、あっ!」
掘削機の如く、俺はこの子の内部を掘る。
結合部から跳ねる液体が、求めあう激しさを物語っている。
ピストンを繰り返すうちに、交尾の虜と成り果てたこの子の口からは、最早意味を成す言葉なぞ出てこない。
肉が肉を打つ快楽をひたすら享受して、身悶えるだけだ。
そして。
「あふっ、も、うだめ……、ふぁあっ、あああああぁっ!!」
先に登り詰めたのは、この子の方だった。
追いかけるように俺も行く。
痙攣するこの子に手を繋がれて、はち切れんばかりに膨らんだ白濁の封印を、二人でそっと繙いた。
「いくぞ……、美空ちゃん……!」
「は、はひっ!あついの、いっぱいに、お願いします……!」




「ふう……、はあ、はあ、さ、さすがに疲れました……」
「あぁ、俺もだ。お疲れ様」
濃厚な、やや濃過ぎた感もある交わりを終えて、俺たちは砂浜に座り込んでいた。
全裸のまま、俺にしなだれかかるこの子。
胸板に触れる乳首も今は固さを失っていて、ようやく一連の影響は解除されたようだ。
ほっと一息、目端に映るメレンゲの髪を、さわさわと撫でる。「むー、また髪なんて撫でて、子供扱いして」
「してないって。……なぁ、美空ちゃん」
「何ですかぁ?」
「今日はありがとう。海、付き合ってくれて、俺は楽しかった。……そして、ごめんなさい」
「え?」
「軽口も、過ぎたるはなお、だな。まさか自己暗示までかけて仕返しするほど鬱積してたなんて思わなかった。このとおり、謝る」
「あぁ、なるほど」
ぎゅむ。この子が体を寄せる。
「それなら、全然気にしてません。久しぶりの海は怖かったけど、楽しいこともいっぱいありましたし。それに」

「それに?」
「今日は、キレイだ、って言ってくれましたから。一言多かったですけど、あれ、嘘じゃありませんよね?」
「ああ、勿論だ」
「じゃあ、ぜーんぶ水に流してあげます。……あれは本当に、嬉しかったです」
背中に回された小さな手の感触が、俺の存在を確かめるように、より強くなった。
「でも、なんだか後ろめたさを感じてしまうって言うなら仕方ありません。贖罪の手段を与えましょう」
「おお、教えてくれ」
満足そうに鼻を鳴らし、間をとって、重い声でこの子は告げる。
「パフェに、ドリンクバーをセットでお願いします。これもまた、女のロマンなんです」
「…………」
――ざざぁ。
久々に聞いた波は、俺の代わりにツッコミをかましていた。
曰く、『結局それかい!』と。脱力感に襲われつつも、俺は聞いた。
「いいけど、前に美空ちゃん言ってなかったっけ、『晩御飯の誘いにファミレスなんて、子供じゃあるまいしバカにしないでください』とかなんとか」
「ええ。確かに言いました。しかし、これは晩御飯じゃありませんよ?
小休止にファミレスでリッチなパフェを頂くのは、大人の特権で、たしなみなんです……って、何笑ってんですか」
「いやいや……はは、そうか、たしなみか。知らなかった。
……なぁ、美空ちゃん」
「なんですか?」
「最高だよ。大好きだ」
「知ってます。わたしも、大好きです」
「うん、知ってる」
「愛想悪いですよ」
「そっちもだろ」
二人同時に黙り込む。 しばし、互いを見つめあって。
「「あははははははっ!!」」二人して笑った。今日初めての大笑い。
幸せが、空に吸い込まれていった。


――ブロロロロ
単調なエンジンの駆動に混じる、啜り泣く声。
「……そろそろ泣き止めよ」
「だって……、パフェが……」
「家帰ってから食べにいこう、な?」
「わたしは帰りに食べたかったんです!ぐすっ、どうして……」
帰り際、簡素なシャワー室に向かったこの子がポロポロ涙をこぼしながら、水着のまんま出てきた時は何事かと思った。
『ひっく……、か、替えの服を、持ってくるの……わすれ……、うわああああん!』
泣きわめくこの子車に押し込んだはいいが、最後の最後に取って置きのパンチを食らってしまい、とうとう心の許容量を越えてしまったらしい。
「じゃあ、そのままで食べに行くか?たぶん捕まるぞ?」
俺が、とは言わない。
「そんなこといったってぇ……」
駄目だこりゃ。こうなったら自然治癒を待つ他ない。
諦めて、カーラジオを回す。
確か今日は、うちの先発があのルーキーだったはずだ。
――親切高校出身、ポジションは投手です。目標は新人王を取ることです!
目標、と言うよりかは使命であるかのように、ソイツは語っていた。
聞くと、人を待たせている、その人に新人王を約束した、らしい。
確かにあの天道に投げ勝って甲子園出場、優勝を果たしただけのことはある。球威、球のキレ、スタミナにコントロールと、どれもすでにプロとして及第点で、近頃珍しいアンダースローと言うこともあり話題性も抜群、
正直いけるんじゃないかと思っていた。いたのだが。
『ザザッ……それでは今日のハイライトです』
お、ナイスタイミング。
『今日の西……イオンズ、先発は親切高校卒、幻惑のサブマリン、十田。今日も素晴らしいピッチングでした!』
おお。

『内外角へ丁寧に投げ分け、凡打の山を築きます。打線も今日こそは、と五点の援護を奮闘する新人へ送りました』
珍しい。こりゃ行けたんじゃないか?
『最終回、二連打を浴びノーアウト一・三塁となったところで、ルーキー十田は降板、スタンドからは拍手で迎えられました』
顔がこわばったのを感じた。
五点差、普通なら笑って風呂にでも入る展開だが、俺は既に嫌な予感しかしない。
『最終回、ノーアウトとはいえ五点のリード。誰もが……ザーッ……イオンズの勝利を確信していたでしょう。
しかし、野球というものは本当にわかりません。
代わったクローザー、……ザーッ……本が四死球を挟みなんと六連打を浴び、あっという間に五対五の同点、
慌てて出てきた新外国人グラタンも勢いを止めることはできず、結局終わってみれば六対五の逆転負け、
サブマリン十田の三勝目はまたしても露と消えました。本日も中継ぎ大炎上のライオ』
皆まで言うな、とばかりにラジオを消した。
涙が出そうだった。正直いたたまれなくて、これ以上ラジオを聞いちゃいられなかった。
チーム防御率二位の2・65と、新人王待ったなしのはずだった輝けるルーキー最大の敵が、
まさか味方だとは誰が予想しただろうか。
とにかく打たない。そのくせエラーはする。たまに点を取れば中継ぎ総炎上と、いじめを勘ぐってしまうレベルのひどい有り様だった。

(今度、飯にでも誘ってみるか。先発ローテ定着の熱烈歓迎パーティーだ)

不幸なルーキーに思いを馳せ、俺は海岸線をひた走る。

――ブロロロロ
いつのまにか、啜り泣きが止んでいた。
泣き止んだか、と思って後部座席を除き込むと、こっくり、こっくり、小さな船頭は船を漕いでいた。
(子供店長ならぬ、子供船長……うーん、三十点)
苦笑いしてフロントガラスに向き直ると、夕方の、どこかで見たような色が目の前に広がっていた。
明るく可愛らしく、しかし何となく深い色。
なぜだかとても愛着のある色。オレンジに近いのだが、同じではない。
何だったか、と思ってふと海を見ると、ちょうど波が跳ねていた。
水面には天が入り込んでいて、天地両方に美しい空が……。

ああ。成る程、ね。
疑問が急速に氷解する。
この色は何だ?黄昏時の『美』しい『空』の色じゃないか。
愛着があるって?当たり前だ。この色はこの子のだ。自然のままに、時には朗々と輝き、
時には寂々と佇むこの色は、まさにこの子自身だ。

疑惑の氷は、澄んだ水へと。
感動の聖杯をそっと満たされた俺は、道端へ車を止めた。
静かに眠る海空の半身を両腕に抱き、広がる世界をじっと見つめる。

海が、空が、この子に染まっていた。

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