純丘曜彰教授博士の哲学講義室 - ベンサム

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ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)
 ベンサムはイギリス、ロンドンに生まれ、オックスフォードで法学を学び、弁護士に、後には私講師となり、《功利主義》《哲学的急進派》の代表者として活躍した法学、倫理学者である。しかし、もともとは、彼は非常に内気であり、ひどい人みしりだった。だが、彼の教説を熱心に信奉していた二十五才年下のジェイムズ・ミル(J・S・ミルの父親)に邸宅や財政的援助をしたりしてやっている。そして、急進主義者であった彼の活動に感化されてか、ベンサムも次第に政治的な態度を明確にしていくことになった。彼はまた、空想社会主義者と呼ばれるオーウェンとの友人関係にあり、彼の事業に対しても少なからず投資していた。
 彼の関心はもっぱら、人間が苦痛や快楽に縛られたものであることを認めつつ、それでも自動的に有徳となるような理想的法体系の構築にあった。つまり、私的な利害と公共な利害を一致させることをめざした。

【最大多数の最大幸福 the greatest happiness of the greatest number】
 (『道徳および立法の諸原理序説』)
 プリーストリーの『政府論』の中の言葉。ベンサムはこの言葉に多大の感銘を受け、みずからの思想の中心概念とした。
 自然は人間を〈苦痛〉と〈快楽〉という2人の主権者の支配のもとにおいてきた。我々が何をしなければならないかという善悪を指示し、何をするだろうかという因果を決定するのは、ただこの〈苦痛〉と〈快楽〉だけである。
 《功利性の原理》は、このような従属の下で人間が快楽という幸福を生み出そうとする際に適用する原理であり、[すべての行為を、その利益が問題となっている人間の幸福を増大させるように見えるか、現象させるように見えるかの傾向によって是認したり否認したりする]というものである。
 しかし、この原理は個人行為のみならず、政府の政策にも適用されるべきものであり、けっして利己的なものではなく社会的なものであり、むしろ個人の快楽の追及を社会の幸福と一致させるための原理なのである。ゆえに、それはたんに最大幸福であるのみならず、最大多数の人間の幸福を生み出すべく、この《功利性の原理》は適用されなければならないのである。

【快楽計算 hedonistic calculus】
 (『道徳および立法の諸原理序説』)
 なされなければならないことはさまざまであっても、人間がそのような行為をするようにさせられるのは、究極的にはただ〈苦痛〉ないし〈快楽〉による。つまり、〈快苦〉の総量は、
   1:快苦の強さ
   2:   持続性
   3:   確実性
   4:   遠近性
   5:   多産性
   6:   純粋性
   7:   範囲(快苦を受ける人々の数)
  によって計算されうる。
 立法者は、このような快楽の総量の計算を行い、刑罰による調整を加えることによって、個人がただ快楽への私利私欲を追及するだけで、同時に、自然と社会的な〈最大多数の最大幸福〉もまた達成されるように法体系をしなければならない。
 しかし、このような快楽計算に関しては、これが快苦をただ量的にのみ扱い、その質的な種類の違いを論じていないとして、批判されることも少なくない。

【功利主義 utilitarianism】
 [快楽こそが善であり、また、苦痛こそが悪である、そして、すべての人間はつねに快楽という幸福を増大させると思われることを追及し、また、〈最大多数の最大幸福〉を実現させるような、ある種の理想的法体系においては、これを追及してよい]という考え方。逆に言えば、正義や真理、宗教などは、たかだか二次的な善にすぎない、もしくは、まったく無意味である、とするきわめて現実主義的な倫理観である。そして、犠牲的道徳を説く者たちは、そのことによって、むしろ、自分自身のために他者を犠牲的に奉仕させようとしているにすぎない、という。このような立場の哲学者には、ベンサムをはじめとして、これを信奉したジェームズ親子らがいる。
 ただし、[快楽こそが善である]という《快楽主義》にしても、その是非に関して、また、さらに、そもそも〈快楽〉とは何であるか、に関しても、古代からさまざまな多くの議論のあるところである。
 いずれにしても、この考え方は、個人の私利私欲を認める点で、現実肯定的であり、また、これを同時に社会的な幸福とすることのできる法体系が構築可能であると考える点で、楽観的(オプティミスティック)である。そして、このような考え方が自由主義社会の根本原理となって、アメリカという国に具体化されていると言え、そこにおいては、この発想法は社会制度にとどまらず、学究的にも、知の実用功利主義とも言うべき《プラグマティズム》を生み出していったのである。
 これに対し、[人間が快楽を追及し、快楽こそが善である]という同じような《快楽主義》の立場を共有しながらも、[個人の私利私欲の追及と社会的幸福とはいかにしても両立し難い]と悲観的(ペシミスティック)に考え、[それゆえ、個人の私利私欲の追及は社会的幸福のためにはある程度、制限されなければならず、このようにしてこそ社会の成員である各個人も幸福になれるのである]とする立場もある。このような考え方は、《功利主義》の最盛期に生じ、《社会主義》へと吸収されていき、計画主義社会の根本原理となっていったのであり、ソ連という国に具体化されていると言えるだろう。
 しかし、どちらも、《快楽主義》という現世利益的人間幸福観に立つ以上、しょせんは同じ穴のむじなであり、たかだか楽観的か、悲観的かの違いにすぎない。