純丘曜彰教授博士の哲学講義室 - 科学哲学

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【経験主義の2つのドグマ two dogmas of empiricism】
 クワイン(「経験主義の2つのドグマ」1950)
 現代の経験主義は、事実と独立な分析真理と事実に基づく総合真理の基本的分裂の確信と、有意味な言明は直接経験に言及する項の論理的構成に等価であるという還元主義の確信という2つのドグマに陥っている。しかし、すべての真理は言語と事実の両方に依存しているのであり、また、言明はその意味の言語全体への依存性ゆえに、単独では検証も反証も不可能である。つまり、知識や信念は、周辺が経験と接する全体連続的なネットワークをなしている概念枠組なのであり、ここにおいて、全体系を乱すまいとする我々の本来の性向に従いつつ、過去の経験に照して未来を予測する道具として、より感覚的刺激に適合するよう修正していくプラグマティズムこそが支持される。

【意味公準 meaning postulate】
 カルナップ(「意味公準」)
 クワインが「経験主義の二つのドグマ」において、分析命題と綜合命題の明確な区別は不可能である、としたことに対する反論。たとえば、「すべてのカラスは黒い」という命題が綜合的か分析的かは、黒くないものをカラスと呼ぶか、呼ばないか、「すべてのカラスは黒い」という命題を偽とするか、真とするか、にかかっている。もし、真とするならば、「すべてのカラスは黒い」という命題は、「カラス」という言葉の意味を決めるものであり、分析命題である。このように、そこに含まれる言葉の意味を決める命題を「意味公準」と言い、そして、分析と綜合は、意味公準から論理的に導かれるか否か、によって、明確に区別される。

【ウイッグ史観】
 バターフィールド(『近代科学の誕生』1949)
 我々のもつ科学のみが正しいという勝利者史観。

【サピア−ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypotheses 】
 ウォーフ(『言語、思想、現実性』1956)
 人間とっての「現実の世界」は、その集団の言語習慣のうえに無意識に構築されている、という言語相対主義の仮説。つまり、異なる言語は、異なる世界観を強制する、というもの。それは単に、語彙によるだけではなく、文法構造も強く影響する。その例として、フォピ・インディアンは、その言語に時制を欠くがゆえに、時間の観念がない、ということがしばしば挙げられる。
 しかし、言語と観念の関係は相互的で動的であろうし、また、いずれにしても、それほど完全な決定関係ではあるまい。

【観察なしでの知識 knowledge without obsevation 】
 アンスコーム(『インテンション』1957,8,28)
 それを告げ知らせるものがなく、それゆえ、なんの観察もなしでだが、語りえ、それを知っているような種類の知識。たとえば、自分の手足の位置は、どこかにうづきを感じたりすることもないが、それを語りえ、知っている。このようなものには、身体の運動のみならず、その心的原因 mental cause も含まれる。また、行為によって生じてくるものは観察でもっての知識だが、自分の行為は観察なしでの知識である。ところが、○○しようとするという場合、行為と生じてくるものは区別されていない。というのも、静的な観想的知識は、事実が先行し、言葉がそれに一致するように限定されるのに対して、動的な実践的知識は、言葉が先行し、事実がそれに一致するように限定されるのであり、両者の対象の事実は同じものであってかまわないのである。先の矛盾は、観察なしでの実践的知識に対し、観想的にこの言葉に先行し、これを限定する事実を求めたことに間違いがあったのである。

【理論負荷性 thepry-ladeness 】
 ハンソン(『発見のパターン』1958)
 感覚と解釈は切り離しうるものではなく、いかなる事実の認識も、理論の投影があってこそ成立つ。これは、〈見える〉と〈として見る〉との区別、感覚し、解釈する、という二重認識説を退けるものである。つまり、xについての観察は、xについてあらかじめ持っている知識によって形成されるのであり、xという対象が見えるということは、その対象が我々の知っているxのふるまいと同じようにふるまうだろうということを見ることである。それゆえ、事実もまた、たんに観察によるだけで得られるのではなく、理論負荷的であり、さらにまた、その負荷的理論ともなるのである。

【無所有理論 no-ownership theory 】
 ストローソン(『個体』1959、3)
 なぜ意識状況が身体状況の帰属せしめられる主体に帰属せしめられるのか、そもそもそれはなぜなにかの主体に帰属せしめられなければならないのか、という問題に対して、デカルト派は、前者の問いを、その主体は異なるタイプの実体であるとして解決するが、後者の問いを逃れえない。ヴィトゲンシュタインらは、無所有理論によって、後者の問いをも解決する。すなわち、所有権が論理的に移譲可能なものだけが所有しうるのであり、したがって、諸体験はある特定の身体の状態に因果的に依存するというあやしげな意味においてないかぎり、なにものによっても所有されない。しかし、この理論には、このような諸体験こそ、移譲不可能であるがゆえに、ある同定された主体に所有されるものとしてしか同定しえないという不整合がある。

【M述語/P述語 M-/P- predicate】
 ストローソン(『個体』3)
 述語は、物体にも適用されうるようなものと、人物にしか適用されえないものとに分けられ、前者をM述語、後者をP述語 と言う。たとえば、「60キロの重さである」「客間である」は前者であり、「痛たがる」「笑っている」は後者である。そして、人物の概念は、両種の述語が適用可能であるような実体のタイプとして理解される。P述語を帰するのは、他者の、運動を行為として意図によって解釈することによって、つまり、我々が観察でもって他者に帰属させるものを、観察なしで自分に帰属させうる自己帰属者として他者を見ることによってである。そしてまた、このようなP述語が団体活動をする集団にも帰属させられることからわかるように、個体概念は、P述語の帰属する身体に依存するのではなく、P述語を帰属させられることそのものによるのである。