純丘曜彰教授博士の哲学講義室 - 哲学として学ぶべきことの迷い
 哲学は、一般に哲学史を通じて教えられます。なぜなら、思想は、それ以前の思想を踏まえての議論だからです。しかしながら、現代に命脈を保っている思想は、過去のものではなく、いずれも、いま現在に並列的に存在している、とも言うことができます。言ってみれば、歴史的なものと現代的なものが混在している古都のようなものです。

 このように考えるならば、逆に、現代に命脈を保っていない思想、たとえば中世の神学のようなものは、思想としては存在していない、とも言うことができます。つまり、文化史として、その当時の事実関係について研究対象になっても、我々の哲学とは関係が無い、したがって、哲学史の中でも扱う必要が無い、ということになります。

 おうおうに、「哲学」の講義が何の役に立つのかわからない、わけがわからない、とされるのは、世界史もろくに学んでいない昨今の学生に、当時の社会情勢抜きには理解できないような、ある意味ですでに死んだ思想を事務的に文化史として教えていっていることに問題があるように思います。

 かといって、では、過去の文化史的なものを抜きに、いま役に立ちそうな思想だけで哲学の全体像が理解できるのか、というと、さてどうか。世界中の哲学の教員は、その初っぱなから頭を悩まします。というのも、世界中のすべての教科書は、世界の根源は水だ、と、ターレスが言った、というところから始まっているからです。よほどむちゃくちゃなこじつけをしないかぎり、世界の根源が水だ、などという思想が、いまに生きている、とは言えないでしょう。そこで、世界の根源を考えたことに意味があるのだ、などという無理をやるわけですが、正直なところ、この方法も、教員の側でさえ納得しているものではないでしょう。かといって、大学で哲学の講義を教えながら、ターレスについて触れない、というのも、あまりに常軌を逸している、と言わなければなりません。

 妙な言い方ですが、アリストテレスの哲学の説明以来二千五百年、哲学とは、こういうものだ、というのが、できあがってしまっています。なぜそれを学ぶ必要があるのか、など関係無く、教条として、とりあえず哲学とされているものがあり、これが驚いたことに世界共通、歴史普遍なのです。それは、言ってみれば、色鉛筆のセットのようなもので、実際に絵を描くのに、よほどのことがないかぎりまず金や銀の色鉛筆は使わないが、とりあえずセットとして入っている、という感じでしょうか。

 したがって、ある意味で、「哲学」という科目は、まともな学問というより、人類の思想という宗教であり、ターレスが水と言った、というのは、神が光あれと言った、のと、大差無い話かもしれません。というのも、そもそも文化史としても、ピュタゴラスなどのように、古代では実在の怪しい哲学者はごろごろおり、それが何を言ったのか、など、伝聞の三次資料だらけなのですから。

 そういうよくわからないところから、哲学史として哲学を始めなければならないのは、多くの学生たちにとって、つまずきの石となるでしょう。けれども、教えている方でも、うさんくさいな、と思ってやっているのです。あまり気にしてはいけません。哲学が哲学らしくなってくるのは、古代のさまざまな思想を踏まえつつ、それが洗練されて現代に命脈を得るルネッサンス以後の近代になってからであり、そこまでは、変な神話、くらいのつもりで、聞き流してください。