純丘曜彰教授博士の哲学講義室 - 17世紀の自然科学

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 今日の自然科学のほとんどがこの十七世紀に端を発している。それゆえ、この時代は〈科学革命〉とも呼ばれる。
 まず、数学においては、デカルト(既出)が、世界の主要属性を〈延長〉と考える発想から《座標幾何学》を考案し、また、ライプニッツ(既出)とニュートン(Isaac Newton 1643-1727 英 )がほぼ同時にそれぞれ独立に《微積分法》を発明した。これらによって、物理学その他の自然科学は飛躍的な発展を遂げることになる。
 また、天文学においては、今日のコンピューター技術にも相当する、当時の最先端技術である《光学》において、望遠鏡がオランダで発明されると(1608)、ガリレイ(Galileo Galilei 1564-1642 伊)ははいちはやく天文学に応用し、天体観測を行って、月のクレーター、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽の黒点とその移動など、次々と画期的な発見をした。これらの事実は、月下界とは峻別された、それまでの崇高な天上界のベールをすっかりはぎとってしまったのである。そして、彼は《地動説》を信じ、このために宗教裁判にかけられた。その際、天動説を承認しつつも、「それでも、地球は動く」と言ったと言われている。
 また、理論面においても、ティコの残した精密な大量の天文観測データをもとに、その弟子で独のケプラー(Johannes Kepler 1571-1630 独)は、〈惑星運動の3法則〉を発見した。すなわち、諸惑星は規則正しい秩序で楕円軌道を描くというものである。これによって、《地動説》は決定的なものとなった。また、彼は、これらの惑星運動の原動力を、太陽から発せられる〈アニマ・モートリクス〉という磁気の一種と考えていた。
 力学においても、ガリレイは、[外力のないかぎり、物体は等速直線運動をする]という〈慣性の法則〉を提示して、地球の回転の永続性を証明し、また、運動の相対性の指摘によって、地球の回転と地上の物体の静止の無矛盾を明らかにした。また、彼は物体の落下を研究し、すべての物体の落下加速度の同一性を発見した。この際、ピザの斜搭で落下実験をやってみせたと言われる。
 これらのアイディアの上に、ニュートンは〈万有引力〉の概念を追加した。つまり、リンゴも天体もしょせんは同じ物体にすぎず、そもそも、すべての物体がその本性上、たがいに引きつけあうのだ、と考えたのである。そして、『自然哲学の数学的原理(通称、プリンキピア)』(1687)に、これまでの基礎概念のすべてを整理し、天体論にまで至る近代力学の一大体系をまとめあげた。ただし、ニュートン自身は、当時の他の科学者以上にも神秘主義的な傾向を持ち、この万有引力に関しても、これを偏在する神の力と考えていたらしい。
 化学においては、ボイル(Robert Boyle 1627-1691)が、それまで《練金術》の地・水・気・火という《4元素説》、硫黄質・水銀質・塩質という《3原質説》をうちやぶる《原子論》を提出した。すなわち、物体は、数種類の原子の数学的、力学的性質によってできている、と考えたのであり、これは、力学的機械論を微小の世界にも拡張するものであった。また、彼は、気体の体積と圧力の関係についての〈気体法則〉を発見している。
 生物学においては、医者のハーヴィー(William Harvey 1578-1657 英)が、血液の循環を発見し、心臓と血管をポンプとパイプにたとえた。また、デカルトも、各所で、身体の機械的な説明をしている。いずれにしても、生命体も一種の精密機械とみなされるようになったのである。また、顕微鏡の発明によって、細菌などの微細な生物が発見されている。
 この時代の科学を総じていえば、力学的機械論が、物体はもちろん、巨大な天体から微小な原子まで、さらには、生物の身体にまで及び、統一的な関点から眺められるようになったと言えるだろう。そして、それゆえ、これらそすべての分野において、数学的な方法が用いられるようになった。さらに、また、そのためにも、科学においては、空理空論だけでなく、それを実証する精密な実験や測定、観察が不可欠のものとなったのである。
 しかし、その一方、このような科学の諸発見は、必ずしも近代的な《合理主義》の理念のもとに行われたのではなく、むしろ、その背後にはつねに、普遍的な神の秩序への信頼と、それを求めることの信仰といった神秘主義的な匂いがたちこめている。しかし、これは中世の《神秘主義》とは異なる、近代独特の《理神論》なのであり、ここでの〈神〉はまったく機能主義的な、無神論にも近いようなものなのである。

【粒子論仮説 corpusculian hypothesis】
 物体の実在的本質は、それを構成する目に見えぬ微粒子である、とする仮説。ガリレイ、デカルト、ロック、ボイル、ニュートンなどもこれを支持し、物体の構造や運動、性質を説明しようとした。
 これは、《原子論(アトミズム)》の一種であり、性質の混合・分離に基づく中世の練金術的物質観に対して、中世の終わりとともに、古代の《原子》が再認識されたことを意味する。ただし、近代《粒子論》と古代《原子論》とはけっして同じものではない。古代の《原子論》が〈ヌース〉や〈愛と憎しみ〉などの怪しげな〈機械仕掛けの神〉しか統一原理を持たなかったのに対して、近代の《粒子論》は、《力学的機械論》という原理によって、この微小な粒子から、一般の物体、さらには、巨大な天体まで貫かれていたのであり、それゆえまた、この《粒子論》は、古代《原子論》と異なって、なにも物体を構成する微粒子にかぎらなかったのである。つまり、〈原子〉が物質の最小単位としてもはや分割不可能(ア・トム)であるのに対し、すべての〈粒子〉はさらなる分析の可能性を残している。むしろ、ものごとをさらなる構成素に分析して、再構成することによって説明するという発想は、その後の西欧近代の思考方法の全域を決定づけた。たとえば、国家を等しい個人の構成体とみなすホッブズの政治論も、また、抽象的なライプニッツのモナド論もこの一種であると言えるだろう。
 しかしながら、古代の《原子論》が、〈原子〉間の〈無(真空)〉の問題にぶつかったのと同様に、近代の《粒子論》もまた、〈連続性〉の問題と抵触する。この問題は、すでに、宇宙の本質を延長としたデカルトに現われ、また、〈光子〉〈光波〉論争として二十世紀にまで及び、両方の性質を持つ〈量子〉という新たな概念によってはじめて解決された。

【「我は仮説を作らず。Hypotheses non fingo.」】
 ニュートン(『プリンキピア』第3部)
 彼は、万有引力の法則に関し、その引力そのものの仕組みついては、実験観察がない以上、仮説は作るべきではない、とした。万有引力の法則は、離れた物体間の関係であるので、これが、エーテルなどのなんらかの媒質にを通しての間接的な近接作用よるものにすぎないのか、それとも、純然たる遠隔作用であるのか、が問題であったからである。
 これは、また、実験・観察、測定を重視する当時の実証主義的態度の代表的テーゼであり、また、背後存在に係わらない数学的な関係把握の提唱でもある。しかし、これは、一切の仮説を軽視するということではなく、あくまで、裏付のないスコラ的な空理空論を立てないということであり、むしろ、積極的に、既知のものごとから仮説を立て、それを実験し、証明するという《仮説演繹法》こそ、この時代に確立された科学的研究方法であった。

【仮説演繹法】
 十七世紀に確立された科学的研究の方法。
  1 まず、既知のものごとから仮説を立論、
  2 つぎに、その仮説を実証する、実験・観察・測定可能な命題を演繹、
  3 実験や、観察、測定を実行、
  4 その結果に従って、仮説の受容、もしくは、仮説の修正、破棄
 これを繰り返して、徐々に理論を構築していくという。そして、このような方法の確立によってこそはじめて、近代科学のような知識の累積性が生じたとされる。
 しかしながら、このような論理的形式は、教科書などにおいて科学史を整理する段階ででっちあげられるのであって、実際の科学の発展の歴史は、かならずしもこのような論理的なものではなく、偶然や誤解、怪しげな神秘主義への信仰にみちあふれている、という反論もある。

【学会(アカデミー)】
 中世来の《大学》が、宗教との結びつきが強く、近代になって新たに発展してきた自然科学の諸分野を受入れなかったため、自然科学は、おもに出版と書簡に頼っていた。しかし、その交流の中から、やがて、学派や流派としてではなく、平等な個人研究者からなる組織が形成され、情報交換、共同研究、研究発表の場を作り出し、科学研究を制度として安定させた。この実現の背後には、各種の科学的発見の軍事的実用性に着目し、また、近代国家建設に急ぐ絶対主義王政の支援がしばしばあったことも見逃せない。なお、「アカデミー」の名は、プラトンの学校〈アカデミア〉にならったものである。
 このような学会は、たとえば、イタリアの〈アカデミア・デ・リンチェイ(オオヤマネコ協会)1601〉、〈アカデミア・チメント(実験協会)1657〉、イギリスの〈ロイヤル・ソサエティ(「見えない学会」)〉から発展した〈ロンドン王立協会1662〉、フランスの〈科学アカデミー1660〉、ドイツの〈科学アカデミー1700〉がある。

【科学革命】
 ひとつには、固有名詞としての「科学革命」があり、これは、歴史家バターフィールドの『近代科学の起源』(1949)で有名になった用語で、十七世紀を中心とする科学の大きな変革を意味する。
 すでに、十六世紀に、「大航海時代」としての自由な世界観が準備され、ギリシアの科学的著作が印刷術によって大量に普及し、それとともに、数学的自然観や原子論が復興され、また、市民社会の確立によって、理論学者と実験技術者が接近していた。このような背景のもとに、その後の近代の西欧優位を導く知識の変革が起こったのである。その特徴は、
  1 神と地球と人間とを中心とする中世的世界観の破壊と、力学的機械論の定立
  2 数学と実証に基づく科学的方法の確立
  3 地動説、ニュートン力学、原子化学などの基本的構図の整備
  4 知識や技術の加速度的累積
  5 学会などの科学研究制度の形成
  6 産業革命に至る、知識や技術の実用への応用
  7 社会に対する科学の影響力の発生
  8 専門分野だけの、思想なき道具的知識人の出現
  である。
 しかしまた、もうひとつには、一般名詞としての「科学革命」があり、これは、科学史家クーンの『科学革命の構造』(1962)で有名になった用い方である。つまり、知識の革命的転換は、歴史上、十七世紀以外にも何回か起こっており、このような[知識の根底的枠組の革命的転換]を一般に「科学革命」と呼び、知識の通常の蓄積的発展との相違や関係を考察しようとしたのである。(【パラダイム】参照)