極めて容赦のない描写がメインになりますので、耐性のない方、および好きなキャラが残酷な目に遭うのがつらい方はご遠慮ください。

123 :暇人 ◆R5GSeiYY :02/05/09 22:49 ID:uXeurFwE

先の欧州大戦により、仏蘭西経済は破綻した。
戦勝国への債務に当てる為、主に既得権益者である資本家や地主から
の強制国債買取を行わせて…。
仏蘭西のノブレス・オブリュージュを代表する貴族階級は消滅した。
そして。

釜の熱気により周囲の空気が揺らぎ、水蒸気がもうもうと立ち込める工
場の油脂で薄汚れた窓から、夕日の赤い光が塵の微粒子を浮き彫りにし
ていた。
大量生産品の食器類を製造する、その工場。
一人の女がふと手を休め、額に伝う汗を拭いながら、窓に顔を向ける。
その美しい金髪が日の残照を弾き、きらきらと輝いていた。
だが、その表情は暗く険しい。

彼女の名は、グリシーヌ・ブルーメール。
仏蘭西でも屈指の資産家であった、¨元貴族¨の一人である。

「おい! まだ就業時間中だぞ!」
監督の男…年の頃は40を超えたばかりであろうに、生活の疲れが顔に
表れていて、鼻の先が酒焼けして真っ赤である。
グリシーヌはふと我に帰り「すまん。今、続ける」と言い放ち、釜か
ら上がったまだ熱い食器を、銀メッキの漕に漬ける作業を再開した。
じゅぅ…。
食器をメッキ漕に漬けると、白煙が上がり、その白煙が目や鼻の粘膜
を刺激する。
不覚にも、涙がぽろぽろとこぼれ、鼻からの液体も止める事が出来ない。
(…私は負けぬ。自身の誇りの為、家の為…そして、我が子の為にも)


ようやく、就業時間の終りを告げるベルが工場内に鳴り響く。
思わず「ふぅ…。ようやく…か」と俯きながら呟いた。
彼女の長い髪に隠れてはいたが、その表情を彩る悲しみと疲労の色は
隠しようもない。
と、監督の男が彼女に近寄り「お前は残業だ。まだ、所定のノルマを果た
していないんでな」と意地悪げに言い放つ。
更に、彼女の耳元にこう囁く。
「一回だけでも、俺に付き合ってくれたら……」
グリシーヌは顔を男の方に向けて、はっきりと¨ノン¨と拒絶した。
その目鼻の整った顔に、日の最後の残照が落ち、顔の陰影を際立たせてい
る…。

街灯の瓦斯灯が、白一色の風景をぼんやりと照らし出す。
白い息を吐きながら、グリシーヌは帰途に付いていた。
その、歩いた後に残る足跡が彼女の寂寞を物語っている。
何故なら、この巴里の街では夜出歩く者は、必ず同伴者がいたから。
たった一人で歩き、孤独な足跡を残す者はいない。


「ブルーメールさん。今日は大変でしたよ! 赤ちゃんは熱を出すし、あ
なたの帰りは遅いしで…」
狭いアパートに帰り着くと、赤ん坊の世話を日銭で頼んでいる10代の女が
まくし立てる。
グリシーヌはそれを遮り「すまない。今日は残業で遅くなった。で、私の
子が熱を出したと聞いたのだが」
また、日雇いの乳母が一気にまくし立てる。
「そうそう! だから、タクシーで病院に連れて行って、薬を貰って、そ
れから…食事を買って……50フランもかかったんですよ! あ! 請求は
全部、ブルーメールさんの名前で立て替えて貰いましたから」
(50フラン…私の賃金の約半月分か……)
グリシーヌは、ふぅと疲れたため息を付きながら「分かった。もう帰って
良いぞ」とその娘に言う。
忙しげに帰り支度をしている乳母の娘を横目に、グリシーヌはその何より
も大切な赤ん坊を胸にかき抱く。
乳母の娘がドアを閉める寸前に「あ! それから、テーブルの上にブルー
メールさん宛てに何か来てましたんで。それじゃ、どうも」と言い残し軽
快に階段を下りて行く音が木霊していた。

─政府特別国債の購入について─

今年度のお支払い額が決定いたしましたので、此処に通知致します。
……etc。
…上記の指定支払い先に7500フランの振込みを指定日までに…云々。


グリシーヌはそれを読み、眉を顰めて、忌々しそうに破り捨てる。
「馬鹿な…! そのような金子が一体何処にあると言うのだ!」
だけれども、彼女はそれに従わなくてはならない。
それが…貴きもの、民衆の護任者としての義務であるからだ。
それが、どれだけ滑稽で形骸化していようとも。

彼女はとうとう、その忌々しい店のドアを叩いた。
彼女が室内に足を踏み入れると、じろじろと不躾に店主が彼女をねめつ
ける。
そして彼女の髪の毛を触ったり、光に翳したりした後に「いい髪をお持
ちで。これは、奥様方に喜ばれます。10cmで200フラン。これ以上は出す
事は出来ません」と断言する。
「…良いだろう。わたくしに残す髪の長さは…短髪で良い」
グリシーヌが物心ついた頃から、大切に手入れをし、残してきたその髪
の毛。
それが、他人の遊興の為のカツラになろうとしていた。
(金子が無いというのは…惨めなものだな)


だが、それでもやはり所定の金額には至らない。
(もう、あれしか方法は無いのであろうか…)
そうして、歯科医の扉を叩く事になった。
やせぎすの歯科医と思しき男が揉み手で彼女を歓迎する。
「女性の歯の需要は多いのですが、中々…あの供給がね。それに、上流
階級の奥様方は下賎な人間の歯は嫌だと言われるもので…。ああ。その
点、マダムなら問題ありませんな。名門中の名門ブルー…」
歯科医の不快な饒舌を遮る。
「過去の話しだ。して…幾らになるのであろう」
歯科医は歯の模型を取り出し指差しながら「ええ、前歯なら一本に付き
400フラン。犬歯は特別に500フラン。奥歯は一律220フランですな」と、
細かく値段を説明する。
(前歯が無くては…隊長に会わせる顔が無い)
「今回は、奥歯だけにしておく」
また、揉み手をしながら「ああ。そうですか。でもね…一度歯を売った
人は必ず全ての歯を売る。何故か、そうなりますな。その時は、当医院
に宜しくお願いしますよ」と皮肉とも付かない事を言った。

麻酔の利きが弱く、歯を抜く時の痛みは尋常ならざるものだった。
当然、邪魔な歯肉を切開するので、口腔内には血が溢れる。
その血が喉に落ち込み、胸をむかむかとさせた。
「では、これで最後です」
グリシーヌは自らが座る貧相な椅子の肘掛を、指に血が回らぬほど強く
握り締める。
額から脂汗がつぅーと、滴り落ちる。
「…ぐっ!」
突然、頭の中に閃光のような痛みがほどばしり…。
気を失っていた。


結局、神経を直接に傷つけてしまったとの事で、金額を少々上乗せした
だけで用が済むと、彼女は追い出された。
痛み、腫れる歯茎。
じわじわと、出血を続けているので、鈍痛と血の味で頭がくらくらする。
我慢しきれなくなり、ぷっと口に溜まった血を道の隅の方で吐き出した。
白い雪に赤い血がじわっと滲んで行く。
それが彼女に、あるものを想起させた。
我が愛しき人の国。
日本。

大戦末期の新生ロシアとの海戦で、日本海軍は壊滅に近い打撃を受けて…。
その、戦死者及び行方不明者の名簿にグリシーヌ・ブルーメールの夫、
旧姓大神一郎の名があった…。

そして、彼と彼女の愛の結晶だけが、グリシーヌの手に残された。
だからこそ、このような恥辱と苦しみに塗れ、地を這いずりながらも誇りを
失わずに生きて行ける…行けるのか?
グリシーヌは憶えず、雪が降りしきる中、石壁に凭れ掛り嗚咽を繰り返して
いた。
「…ぅっ…ぅぅ…すん。もうわたくし一人では無理だ…。隊長…アナタ……」
雪は、全ての美しき者…醜きものを覆い隠し、しんしんと降り積もって行く。
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