国指定重要無形民俗文化財『相模人形芝居』の全てが分かる”相模人形芝居百科事典”です。

芸名吉田 小兵吉
ふりがなよしだ こひょうきち
本名
別名(吉田)延次郎、桐竹門治、吉田兵三郎
出生地大阪
死没地
生年月日明治5年(1872)2月14日
没年月日昭和20年(1945)1月12日
職業人形遣い
活動期間明治〜大正初期
配偶者
著名な家族
受賞歴
備考

5代目吉田兵吉に入門。5代目と共に彦六座などで活躍し、明治24年1月の神戸菊の亭芝居では「延次郎」と名乗っていました*1。明治26年1月に「桐竹門治」を襲名しました*2
彦六座没落後は、上京して東京浅草で母と共に暮らし、神田新声館に出座し、5代目吉田兵吉や江戸の人形遣いと共に活動していました*3。このため初代吉田栄三や吉田文五郎など大阪の人形遣いも上京する時には頼る存在でした*4

相模人形芝居との繋がり
吉田文五郎は「(初代吉田簑助時代に)小兵吉に連れられて小竹に訪れていた」と永田衡吉に語っており*5、在京の人形遣いを連れて小竹村を訪れ、「小竹の人形」と関係があったと考えられています。
なお小兵吉の代数については、従来3代目に比定されてきました*6が、3代目が明治17年9月に5代目兵吉を襲名しており*7、吉田文五郎が明治16年に15歳で松島文楽座の吉田玉造に弟子入りしてから、3代目と共に動ける時間はわずか2年間しかなく、一方で文五郎が「小兵吉さん」、栄三が「今の小兵吉さん」と呼んでいることから3代目とは別の小兵吉である可能性が高いと考えられます。
一方、明治39年に吉田兵三郎が4代目小兵吉を襲名していますが、4代目の本名は『栗山延次郎』とし、文五郎が初名を本名の「巳之助」から付けているのと同様に、「延次郎」―「桐竹門治」―「吉田兵三郎」―「4代目吉田小兵吉」と変遷したと考えられます。明治5年2月14日大阪生まれで、世代的には栄三や文五郎に近い世代であることから、下中座ゆかりの小兵吉は4代目であると考えられます。

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