国指定重要無形民俗文化財『相模人形芝居』の全てが分かる”相模人形芝居百科事典”です。

芸名3代目 吉田 東九郎
ふりがなさんだいめ よしだ とうくろう
本名吉田伊之助
別名吉田冠二
出生地
死没地関東州大連*1
生年月日
没年月日明治42年(1909)2月24日
職業人形遣い
活動期間明治
配偶者
著名な家族3代目西川伊三郎(実父か)、4代目西川伊三郎(兄か)、5代目西川伊三郎(兄か)
受賞歴
備考


明治時代の東京人形浄瑠璃の人形遣い。3代目西川伊三郎の子*2。なお『吉田東九郎』の名跡は江戸人形浄瑠璃界では『西川伊三郎』や『吉田冠二』、『吉田才治』などと同じく古くからある名跡で、3代目とされています*3
明治5年(1872)、前年1月16日に亡くなった4代目西川伊三郎の代わりに次男の吉田冠二が5代目を継いだため、空席になった吉田冠二を襲名しました。
明治31年1月に、初代吉田栄三が東京を訪れた時に、東京人形浄瑠璃の拠点であった新声館で5代目や吉田小兵吉らと共に出演していました*4
明治33年(1900)秋に、5代目と西川重三郎と共に大阪明楽座に出演。5代目の左遣いとなっていましたが、リュウマチに苦しむ5代目の代わりに主を遣うことがありました*5
ところが、東京に戻っても人形浄瑠璃の退勢は明らかで、八王子の寄席栃木亭の主人の支援を受け、付近の裕福な村落を回って車人形や人形芝居を教えたり、カシラなどを売って生活を送っていました。この時に売ったカシラ群が八王子車人形西川古柳一座に残されています*6
それでも生活が行き詰まると、栃木亭の隣で魚屋を始めましたが上手くいかず、再び地方人形芝居の指導のため、各地を放浪しました。訪れた人形芝居座は林、長谷、班目のほか信州伊奈、甲州笹子にも及んだとされています*7
明治41年(1908)に息子に招かれ関東州大連に移住し、翌42年(1909)2月24日に亡くなりました*8。墓所は台東区谷中の大円寺にありましたが、昭和39年(1964)までに墓は無縁仏として廃棄されてしまい、存在していません*9
性格は狷介*10で、容姿は左肩が著しく上がっていたと形容されています*11

相模人形芝居との繋がり
日清戦争後に、長谷の人形*12、林の人形*13、班目の人形*14を訪れ、指導にあたりました*15

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