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坂口保徳

帝国陸軍大佐(1933年 43歳)

国土警備隊大将(1953年 62歳)

軍務大臣(1973年 83歳)
出生1890年1月2日
大豐彌帝国常古県隈内郡
死没1973年10月15日(83歳没)
豐彌国上仙特別府
配偶者坂口江見子
子女坂口徳男
坂口美子
坂口恵子
政党自由民主党
所属大豐彌帝国陸軍
国土警備隊
豐彌国軍
軍歴1911年 - 1936年(大豐彌帝国陸軍)
1939年- 1960年(国土警備隊→豐彌国軍)
最終階級大豐彌帝国陸軍大佐
豐彌国軍元帥陸軍大将
豐彌国政府
軍務大臣
在任期間1961年5月19日 - 1973年8月10日
内閣総理林成慈
各種表記
形紋文字
豐彌雑字
仮名転写カサクザ ホテク
ラテン字転写Kasakuza Hoteku
漢字坂口保徳
日語読みさかぐち やすのり

概要

坂口保徳(カサクザ ホテク、さかぐち やすのり)は、豐彌の陸軍軍人、政治家。大豐彌帝国陸軍での最終階級は大佐で、豐彌国軍での最終階級は元帥陸軍大将。戦後、清奈政権下で国土警備隊に復役したのち、張本政権下で国軍が再建されてからは初代陸軍総参謀長となった。2.26軍事革命?の際には林成慈ら革新派将校を支持し、「常古軍閥」と呼ばれる軍政の軍内支持母体を形成した。

生涯

1890年(保興13年)1月2日、父・保政(ホケイ)と母・純江(チョイェ)の間の三男として、常古県隈内郡猪鴫村で誕生した。坂口家は、隈内藩奉行の士大将(陪臣)という、上級武士の家系であった。
坂口は第1次豐華戦争?の時期に幼少期を過ごし、当時の社会風潮から自然と軍人への憧れを抱くようになった。県立隈内尋常小学校と隈内高等小学校を経て、地元の隈内中学校に進学し、そこから本格的に陸軍への道を歩み始めた。
1904年(保興27年)9月、隈内中学校を中途退学し、常古県鯨台市の陸軍地方幼年学校*1に入学した。坂口は非常に優秀で、第7期生の筆頭としてその名が知られるようになり、当時から秀才として頭角を現していた。1907年(保興30年)9月、さらに上級の上仙陸軍中央幼年学校へと進学し、1909年(保興32年)3月に同校を卒業した。同年4月に陸軍軍官学校に入学し、その才気から同期の西出純男?、堀ロー男?と並んで「三八期の三羽烏」と呼ばれるようになった。

1911年(穂然元年)7月に陸官を首席で卒業後、見習軍官として歩兵第40連隊に赴任し、隊附勤務を終えた同年10月に陸軍歩兵少尉に任官した。配属先は歩兵第40連隊となり、1914年(穂然4年)10月には陸軍中尉に昇進した。
1919年(穂然9年)に陸軍大学校*2第37期を次席で卒業した後、しばらくの間は陸軍参謀監部の作戦課に勤めていた。1920年(穂然10年)に陸軍大尉に昇進し、歩兵第40連隊中隊長に補された。1922年(穂然12年)、語学研修や軍事視察を兼ねてフルンソワに駐在武官として派遣され、以後2年間を同地で過ごした。フルンソワから帰国した1924年末ごろに参謀監部作戦課に復帰し、1927年(穂然17年)に作戦課参謀となった。1926年(穂然16年)に陸軍少佐、1929年(穂然19年)に陸軍中佐に昇進した。
陸軍中佐となった同年、上仙歩兵第1連隊長に補された。1931年(穂然21年)、陸軍予科軍官学校を卒業し隊附勤務を開始した林成慈が歩兵第1連隊に赴任してきた。坂口と林は20年以上も歳が離れ、連隊長と隊附勤務の曹長という絶対的な立場の差が存在していたが、同郷*3であることや、林の潜在的な能力に着目した坂口が彼を目にかけるようになったことから、両者はすぐ信頼関係にある間柄となった。
1931年(穂然21年)4月に世界大戦が勃発し、豐彌陸海軍がアグロネディアにあるトイティア軍のブディケスト海軍基地および竪馬総督府西部の兎領�蓄圓魎饅韻靴燭海箸如�豐彌も�嘆敖觜颪箸箸發忙伽錣垢襪海箸箸覆辰拭N咾魯薀献�で開戦放送を聞いた際、「あの禿(中條英智)は無謀な戦争に打って出た」と発言し、これを聞きつけたある人物が当局に密告しようと試みた。林は「反戦分子」として憲兵隊による拷問や、激戦地の最前線への懲罰的転属などの目に遭う可能性があったが、便宜を図った坂口の処理によって口頭注意という極めて軽い処分に留まった。

坂口は歩兵第1連隊長を3年務めた後、ここから大陸の竪馬軍に転身し、軍参謀に任官した。竪馬軍参謀となってからは、�蓄埓鐇�への生物・化学兵器の積極投入を主張し、細菌・化学戦の拡大に慎重的な立場を取っていた上田金吉?軍司令官ら竪馬軍上層に働きかけた。
竪馬軍司令部および参謀部上層を説得した坂口は、竪馬軍での細菌・化学兵器の製造・研究を担っていた200部隊(防疫医療部隊)隊長の橋本龍利?軍医大将と共同で「牛鬼作戦」を立案した。これはペスト菌を保有するネズミやノミなど生物兵器のほか、神経ガスなどの化学兵器を西部戦線一帯にばら撒くことで、細菌・化学災害を引き起こすという内容であった。牛鬼作戦は参謀部と防療部隊の共同作戦として進行していき、1933年(穂然23年)4月より実施され、連合軍が支配する丘巡州南東部での撒布を開始した。
細菌による総感染者数は2400名以上に上り、ガス兵器による負傷者は4700名以上となった。この数字は軍民を併せたものであり、死亡者は総計1486名となった。坂口は防療部隊が極秘裏に行っていた「特種秘密戦兵器(クローン人間や不死の兵士などの近代呪術・オカルト兵器)」に対しては「荒唐無稽で胡乱な遊び」として関心を示さず、防療部隊との共同はこの場限りとなった。

1933年(穂然23年)に入ってから、豐彌の傀儡政権である自由�蓄堽彁�国民政府では、長聰林?国家主席が抗豐姿勢を隠さない息子・長良作?への権力継承に動き、竪馬軍の警戒を招いていた。坂口は�蓄圓砲�ける豐彌軍の作戦行動・軍政に影響を与えるとして、�蓄堽彁�政府からの長親子排除を強硬に主張し、臨時政府国防本部長・関興?への支援による親豐新政権樹立を画策した。長親子の排除と関興への支援は、上田軍司令と磯辺岩男?参謀長ら竪馬軍上層部の合意により正式に決定され、1933年(穂然23年)7月17日、竪馬軍の謀略により長聰林が殺害された(長聰林事件?)。その直後に竪馬軍の支援を受けた関興派がクーデターを起こして長聰林派を追放し、政権を掌握した。関興政権は親豐彌姿勢を強め、豐彌企業の自由な活動や国内での豐彌軍の「治安維持活動」を容認した。

坂口は1934年(穂然24年)10月に竪馬軍参謀部から豐彌陸軍�蓄埣麁峽掛�京歩兵第1連隊長に転身したが、竪馬軍との深い連携・協力関係は継続された。
1935年(穂然25年)に入ると、�蓄埓鐇�における豐彌軍は各地で敗退・転戦を繰り返すようになり、臨時政府首府の櫻京は1935年(穂然25年)8月に兎灣軍によって陥落した。櫻京を守備する坂口の駐屯歩兵第1連隊は大淡州まで後退し、同地で住民に対する食糧徴発や物資収奪などを繰り返した。�蓄埒佑梁燭�は各地で連合軍に負け続ける豐彌をすでに見限っており、高圧的な豐彌将兵を前に対豐感情は悪化の一途をたどった。
こうして、100以上の組織と25万人以上の抗豐武装勢力が生まれるに至り、在灣豐彌人や移動中の部隊への武装ゲリラによる襲撃が相次いだ。特に、豐彌軍部隊への攻撃と破壊工作は少なくない被害を与え、これを受けた�蓄埣麁峽鎧蔑疉瑤蓮◆嵒霑�ゲリラおよびこれに協力する住民を粛清し、連合軍迎撃を万全なものとすべし」との命令を通知した。
連合軍がついに大淡西端部に迫ると、�蓄埒優殴螢蕕�豐彌軍の背後を突くように攻撃を激化させた。坂口はこれに対して�蓄埆嗣韻諒欷遒盍泙瓩紳仆茲鯡郎�したが、�蓄埒優殴螢蕕楼貳婿毀韻汎韻犬茲Δ壁�装をしており、もはや豐彌軍には一般市民とゲリラの判別が困難となっていた。ゲリラは戦闘中の豐彌兵の背後から忍び寄り棍棒で撲殺するなどして連合軍を支援したほか、孤立した豐彌人住民を惨殺する「豐彌人狩り」も行った。
連合軍と�蓄團殴螢蕕剖慣發気譴觀舛箸覆辰燭海箸乃臙呂亡戮辰榛筝�は、第1連隊を中心とした大規模で徹底的なゲリラ討伐を計画した。計画は短期間で実行に移され、本格的に実施されたのは1935年(穂然25年)9月17日からだった。坂口は各部隊に対し、「�蓄埒佑鮖Τ欧垢觝櫃蓮�狭い室内あるいは川の中などで一箇所にまとめ、極力武器・弾薬・人員の消耗を避けるべし」との具体的な殺害方法を含んだ命令を下した。これにより豐彌支配領域内では�蓄埒佑悗侶弉菘�な虐殺が横行し、特に大規模に行われた地域が、竪馬軍髑髏部隊との共同作戦が取られた大淡州首府の東蘇市であった(東蘇事件?)。

1936年(穂然26年)4月1日に穂然陽皇の終戦布告が放送され、本土の国防司令府は各戦線の部隊に向け停戦命令を発出し、�蓄埣麁峽鎧蔑疉瑤呂海良霑�解除命令を受諾した。一方で、竪馬軍上層部は終戦方針を拒絶し、終戦の受け入れを示した総督府の打倒と、新陽皇の擁立による抗戦政権の樹立に動き出した。
矢毛竹三?�蓄埣麁峽鎧蔑瓩蓮��蓄圓謀精澆垢謖閑酬海料管�隊の円滑な武装解除を進めるために、徹底抗戦派の竪馬軍との対決を決した。4月5日から両軍による銃撃戦が発生したが、矢毛は早期平和を迫った坂口の説得を受け入れ、4月25日には竪馬軍に合流した一部の抗戦派部隊以外の�蓄埣麁峽海�兎灣軍に降伏した。トイティア軍将校に武装解除を受けた坂口は櫻京に移送され、櫻京戦犯収容所に収監された。兎灣軍は坂口に第1級戦犯の容疑をかけて起訴し、1936年(穂然26年)6月末に開廷された櫻京軍事裁判に召喚した。東蘇における計画的虐殺や細菌・化学兵器使用への関与が認められ、同年7月に死刑が確定した。

連合国南豐彌占領軍最高司令部参謀長であるスコール・ヴィロギー?は、豐彌の再軍備を手助けするために、各地で抑留・勾留あるいは戦犯裁判にかけられていた参謀監部附または出身の高級将校の助命に動いた。これにより、櫻京戦犯収容所で処刑の順番が近づいていた坂口も、スコール・ヴィロギーの介入により死刑判決が無効化されたことで釈放処分となった。坂口の有罪判決が取消された1936年(穂然26年)12月15日は、彼の処刑が執行されるわずか2日前の出来事であった。
同日中に釈放された坂口は櫻京市内で本国送還を待っていた豐彌人居留民団に身を寄せ、翌年1月13日に南豐彌占領司令部から復員命令が下るまでの期間をそこで過ごした。年を跨ぎしばらくしてから本土に単独で帰国し、復員庁の旧陸軍残務処理局事務官に就いた。後に、坂口の能力を高く評価していたヴィロギーによって登用され、同庁の俘虜調査部長と戦史編纂部長を兼任した。
復員庁での業務が一区切りついた1938年(穂然28年)末ごろ、ヴィロギーは戦史編纂部を表向きの隠れ蓑として、坂口に極秘裏の任務として豐彌再軍備の研究を託し、1939年(穂然29年)3月に再軍備研究のための「坂口機関」が発足した。坂口機関は坂口を中心に、主に陸軍参謀監部や陸軍省などで要職を務めた大佐・中佐階級のエリートたちによって構成され、坂口と陸官同期の西出純男?と堀ロー男?も加わった。同年10月、坂口は解体された帝国軍に代わって新設された国土警備隊に復役し国警大佐に任官したが、坂口機関の工作活動は継続された。
ヴィロギーは豐彌での共産主義の蔓延を警戒し、強力な軍隊と陽皇の強い社会的権威性による秩序の安定化を模索したが、占領軍最高司令官のディヴロス・スコル?元帥とトイティア本国は厳しい軍備制限と皇室の廃絶を含めた新体制の構築に舵を切った。これは反軍・反皇室姿勢を取る清奈貞士?政権下で加速し、坂口の国土警備隊幕僚長への就任工作も阻止され潰えることとなった。

こうした中で、粛清された旧軍高級将校や国粋右派の間では現行政権への不満と反清奈の動きが高まり、坂口機関では清奈貞士の暗殺とクーデターの実行計画が浮上した。この暗殺・クーデター計画は坂口によって発案され、戦後の粛清により排除された多くの元軍人が政府を掌握する予定であった。清奈暗殺後には、再軍備と自主国防を主張し清奈と対立関係にあった豐彌自由党の江鳩一男?を首相に据えるとされたが、坂口と江鳩の間には間接的な接点すらもなく、江鳩にこの計画が伝えられることも終ぞなかった。
この計画はヴィロギーの支援を受け、非公式の承認を受けていたが、ヴィロギーは本国とスコルの意向に強硬に反発していたことで、豐彌国憲法の施行直前である1940年(穂然30年)2月に占領軍参謀長を解任された。最大の支援者が左遷させられたことで、このクーデター計画はたちまち立ち消えとなってしまった。 
クーデター計画と再軍備工作の頓挫や、坂口らに資金と権限を与えていた強力な庇護者であったヴィロギーの失脚などが原因となって坂口機関の活動は行き詰まり、再軍備研究という組織の実態は次第に形骸化していき、1942年(共和歴3年)には自然消滅した。

坂口は国土警備隊において、彼の旧軍での立ち位置や戦後の動きを快く思わなかった清奈政権や警備隊中央から睨まれ続けた。階級としては1945年(共和歴6年)に国警少将、1948年(共和歴9年)に国警中将、1951年(共和歴12年)に国警大将と順当に昇進したが、役職としては第9警備師団参謀長や鮫島警備連隊区司令官、第11警備師団長など閑職を歴任していた。
この状況が変わったのは、清奈貞士が失脚し豐彌民主党?政権が発足してからだった。張本信大統領は大規模な憲法改正を実行した上で再軍備を進め、1952年(共和歴13年)8月に国土警備隊を国軍に再編した。この際、坂口は張本に作戦立案や実務能力の面を買われたことで初代陸軍総参謀長に補され、清奈政権時代には叶わなかった軍組織最高位者への就任を成し遂げた。1953年(共和歴14年)2月には国軍元帥陸軍大将の称号を授与された。
1955年(共和歴16年)1月に65歳となり、国軍の現役定限を迎えると後備役に編入され、陸軍総参謀長を退任した。退任後の同年5月には、国防政策に関する大統領の諮問機関である国防会議の最高顧問に就任し、1957年(共和歴18年)9月には大統領府枢密委員会最高顧問を兼務した。

清奈以降に豐彌の政治的民主化を推し進めた張本政権はしかし、慢性的なインフレや失業率の急増などの経済的麻痺への解決策を立ち上げられず、民衆困窮は深刻化していった。それにも関わらず、張本は国会において党派抗争にのめり込み、豐彌民主党と袂を分けた尹本広喜派との間で激しい対立を展開していた。また、尹本の大統領退任以降、張本は大統領を2期にわたって務め、1958年(共和歴19年)の大統領指名選挙で3選目を目指そうとしたため、独裁的傾向を見せ始めた張本体制に対する左右両派による批判も相次いだ。
国土警備隊士官学校第6期生を中心とする国軍の進歩派将校らは、経済麻痺や政治堕落のほか、自身らが軍部内において人事的に昇進できず、軍上層部の著しい腐敗が一向に是正されないことを受け、軍上層の刷新を求める「粛軍運動」を始動させた。
中堅将校らの動きに乗じた林成慈陸軍少将は、統合参謀監部に統合参謀長の辞任と軍部清浄化を求める書簡を送るもまともに取り合われることはなかった。これを受けて、軍部内における林の最大の支援者であった坂口が彼に同調し、張本と土田恭助?軍務大臣に軍務制度改革を進言したものの、国軍の改革が行われることは終ぞなかった。

停滞する改革運動に業を煮やした進歩派将校は1958年(共和歴19年)6月の京橋荘決議において平和改革路線の放棄を決定し、武装蜂起による現行政権の打倒計画を秘密裏に謀策した。林成慈はこのクーデター計画の指導者となることを承諾し、坂口に対してクーデターへの協力を打診した(鴫野荘密議?)。ここで坂口の同意を得た林は、上仙近郊の主要部隊の作戦参謀や中堅幹部に個別に接触し、計画成功のための裏工作を進めた。これに並行して、坂口はクーデター部隊が実際に動く際に最も障害となる存在である張田英明?陸軍総参謀長を抱き込み、あるいは黙殺させるために非公式の談合を何度も行った。坂口は張田と幾度も会う中で、「反共」と「祖国救済」を大義名分に軍事行動の必要性を説き、張田から明確な賛否を示さない黙認に近い態度を引き出した。
豐彌の政治的動乱はより深化していき、1959年(共和歴20年)2月26日がクーデター決行日に決定されたが、関係者の密告により2月25日に計画の全容が当局に露顕した。さすがの張田もこれを無視できなくなり、憲兵隊を動かして主要構成員の逮捕と決起の阻止を命令した。焦燥した坂口は張田の説得に動こうとしたが、林はそれよりも速くクーデターの即時実行を決断した。26日午前3時にクーデター部隊が上仙を占領し、林一派は政権を掌握した(2.26軍事革命?)。
政権掌握直後、クーデター部隊は国家復興軍事委員会?を結成し、軍全体の反発を抑えるための顔として担ぎ上げられた張田が最高委員長に就任した。坂口は同委員会の最高委員に就き、林軍政の確立のため軍内部の反発を抑えることに奔走した。

1960年(共和歴21年)1月に後備役を満期で迎え、国軍を退役した。同年7月に国家防衛戦略に関わる諮問機関である国防参議院?最高参議官に就任した。
1960年(復興元年)末ごろより、軍事委員会は民政移管後も軍部勢力が政権を維持できるよう政党結成の準備を開始し、1961年(復興2年)1月26日に自由民主党?が結党された。坂口は同党の副総裁に就任し、同年5月7日に実施された第6回民議院議員総選挙において当選した。同月19日、国会の間接選挙で林成慈が総理に指名され、同日中に就任し、坂口は林内閣の軍務大臣に任命された。7月には総理府の国家安全保障委員会最高委員に補せられた。
1962年(復興3年)3月1日未明、坂口は軍内での林派の確固たる地位を築くため、林の黙認のもとで自らが代表を務める軍内私的組織である一心会?を結成した。これは表向きには陸軍将校の親睦団体だったが、実態は林派が軍内の要職を独占するための秘密結社であった。これには、陸軍軍官学校第14期生からなる鶴醒会?ものちに合流し、急速に規模を増した一心会は本格的な政治軍人集団として始動した。
林は一心会を軍内部の反乱を防ぐための監視役として重用し、一心会構成員は昇進において常に最優先されるようになり、上仙防衛を担う首都警備監府や総理の身辺警護といった要職を独占していった。一心会を中心とする軍内政治勢力は、いつしか「常古軍閥」と呼ばれる一大軍内派閥に拡大していき、林政権の支持母体としての機能を果たすようになった。

1963年(復興4年)に入り、大東洋共存圏によるアグロ戦争への共同派兵にあたり、坂口は上陸作戦・即応展開などを担当し、水陸両用作戦(上陸戦)を始めとした軍事作戦を遂行する、独立した外征専門部隊である陸戦隊の新設を主張した。1963年(復興4年)6月から豐彌軍の派遣が始まり、派兵が開始されてから翌年の6月には陸戦隊が独立軍種として設立された。
坂口は東洋における西側諸国の経済・軍事の一大拠点であったアグロでの反白人政権確立のため、大東洋共存圏による軍事介入と、大規模な地上軍の派遣を積極的に唱えていた。しかし、長期化するアグロ戦争は野党を中心とする反戦勢力の拡大を招くに至り、政権の不安定化を危惧した坂口は次第に派兵消極派へと転向していった。これ以降、坂口と林の間には意見の相違が現れるようになり、両者の「鉄の結束」は破綻へと向かっていった。

アグロ戦争が未だに拮抗した状況にあった1967年(恭化3年)末ごろから、林政権は国民に向けたアピールとして、�蓄圓亮存�支配が続いていた山藤島への武力進駐を模索した。林によって招集された国家安保委員会で坂口は、�蓄堽療擇紡个垢詆靂蝋垰箸某欺渡世箸眤�えられる主張を展開した。坂口は、豐彌の対外伸長政策に歯止めをかけなければ、政権の自壊を招くことになり、延いては国家秩序への決定的な打撃につながり得ると憂慮していた。しかし、大多数の安保委員は山藤への電撃進駐を唱える林に同調する姿勢を見せ、「十分検討されたし」との坂口の慎重意見は考慮されず、1968年(恭化4年)1月31日の山藤進駐?へと至った。
山藤への豐彌軍の侵略行為は、西側を中心とする国際社会からの強い批判を受けたが、坂口は軍務大臣として山藤を「豐彌の生存権に関わる不可侵の領域」と対外的に主張し、国内向けには「豐彌軍将兵の勇猛果敢さ」や「国内利敵分子の殲滅」など強硬的な主張を展開した。開戦慎重派に立っていた坂口だったが、実際に始まって以降は、政権を支える軍事上の顔として林の補佐に徹した。
山藤での豐灣両軍の戦闘は豐彌軍の一方的な攻略戦となり、結果的に山藤島の主権は豐彌に復帰することとなった。国内が戦勝ムードで盛り上がる中で、林には坂口の慎重論が「弱腰の杞憂」として映り、その忠告に耳を貸すことなく、さらなる対外強硬策へと突き進んでいった。

1972年(恭化8年)6月、アグロ戦争は大東洋共存圏の勝利に終わり、アグロにおける反白人政権が確立された。「敗戦国民たる豐彌人が白人を打ち負かした」という厳然たる事実は、豐彌の世論を熱狂させ、これは林政権の対外的膨張志向の基盤を確固たらしめた。
林の対外伸長への野望はより一層加速し、1973年(恭化9年)に入ってからは朝張社会主義人民国支配下の瀬奈島への武力進駐を画策し始めた。瀬奈島は山藤島と同じく、1942年(共和歴3年)のロンティア平和条約において豐彌の主権放棄が確定した領土であり、その帰属国は当時連合軍占領下であった朝張とされた。
1973年(恭化9年)7月末から、豐彌海軍艦艇による瀬奈島近海での活動が活発化し、朝張海警局への過剰な威嚇行動が頻繁に起こるようになった。果てには、秘密裏に陸戦隊兵士を上陸させ破壊工作を試みようとするなど、両国間の緊張は急速に高まりつつあった。朝張側は瀬奈に陸戦隊を派遣するとともに、両国間の紛争を回避するため、豐彌に対して外交交渉による平和的解決を求めた。しかし、失地回復を掲げた林政権は強硬姿勢を明確にしており、大東洋共存圏加盟国同士の戦争を回避しようと動いた�嘆擇砲茲訝膕陲魄覆討靴討盂宛鮓鮠弔砲茲觧�態打開は困難となっていた。
 
1973年(恭化9年)8月初旬に内閣総理の諮詢を以て国防参議会が開かれ、ここで瀬奈進駐の是非が話し合われた。参議会では、山藤・アグロの二度の戦勝による世論の熱狂的な支持を背景に、瀬奈の電撃占領を強行せんとする主戦派が主導権を握り、坂口などの慎重派の意見を黙殺しようと画策した。結果的に坂口は開戦を支持する流れを止めるに至らず、国防参議院の答申は「武力進駐を是とする」で決し、これが林に上奏された。
林はただちに開戦の意向を固め、閣議決定に向けて動き出したが、坂口は開戦回避を果たすため総理官邸で林との直接の面会に臨んだ。坂口はここで「仮初の大義を盲目的に掲げ侵略戦争を繰り返せば、党が再建した国家秩序の崩壊を招き得る」と現状維持を主張し、閣議書への署名を拒否する姿勢を示した。しかし林は、「坂口閣下すら共賊の謀略にかかってしまったのか」と吐き捨て、まともに取り合おうとはしなかった。林は坂口に軍務大臣からの更迭を示唆して暗に脅し、閣議書への署名を迫ったが、坂口はこのような林の態度に強い不快感を覚え、彼との最終的な訣別を決意した。これを契機に坂口は8月10日付で、自民党副総裁をはじめ、国防最高参議官や軍務大臣、安保最高委員などの全ての公職を辞職し、対朝開戦への抗議の意を表明した。

坂口が全ての公職から退いてから1週間が経過した1973年(恭化9年)8月17日、瀬奈島に対する豐彌軍の侵攻が開始された。坂口はすでに軍務大臣公邸を引き払い、妻・江見子とともに故郷である常古県隈内郡の生家に戻り、隠遁生活を始めていた。坂口はラジオで流れる豐彌軍による快進撃の政府発表を聞き、周囲の祝宴ムードを余所に豐彌の敗北を確信していた。
1973年(恭化9年)9月5日、坂口は急性心筋梗塞により死亡した。坂口は午前2時ごろにトイレに入り、排便時に強く力み心臓に急激な負担をかけたことで、心臓の血管が詰まり急性心筋梗塞を発症した。その結果、これが急性心不全へと進行し、これによって致死性不整脈が引き起こされたことで意識を消失した。発症時が深夜だということもあり発見が遅れ、同居していた江見子が坂口を見つけたときには既に死亡していた。
通夜と葬儀、告別式には親類や帝国陸軍軍官学校の同期と後輩、坂口派の一心会構成員が参列した。林の意向により坂口の国葬は見送られ、江見子による上仙国立墓地への安置の請願も無視された。坂口の遺灰は敢え無く隈内郡の坂口家墓所に埋葬された。
坂口の急逝に対して、豐彌政府が一言の哀悼声明さえも出さなかったこととは対照的に、�嘆收�府や竪馬政府などの大東洋共存圏諸国のほか、トイティアなどの西洋諸国からの追慕声明が相次いだ。

略歴

1890年1月2日 - 常古県隈内郡に生まれる
1896年4月 - 常古県立隈内尋常小学校入学
1900年4月 - 常古県立隈内高等小学校入学
1902年4月 - 常古県立隈内中学校入学
1904年9月 - 鯨台陸軍地方幼年学校入学
1909年3月 - 陸軍中央幼年学校卒業
1911年7月 - 陸軍軍官学校卒業
10月25日 - 歩兵少尉任官。歩兵第40連隊配属
1914年10月26日 - 陸軍中尉に昇進
1919年11月 - 陸軍大学校卒業
1920年6月 - 江見子と結婚
8月1日 - 陸軍大尉に昇進。歩兵第40連隊中隊長
11月 - 参謀監部作戦課部員
1921年7月 - 長男・徳男産まれる
1922年6月 - フルンソワ王国駐在
1924年11月 - 参謀監部作戦課勤務
1925年6月 - 長女・美子産まれる
1926年8月 - 陸軍少佐に昇進
1927年2月 - 参謀監部作戦課参謀
1928年5月 - 次女・恵子産まれる
1929年3月 - 陸軍中佐に昇進
6月 - 上仙歩兵第1連隊長
1931年4月10日 - 世界大戦参戦
1932年6月 - 陸軍大佐に昇進
8月 - 竪馬軍参謀
12月 - 位階正五品奏授
1934年10月 - �蓄埣麁峽掛�京派遣歩兵第1連隊長
1935年8月 - 櫻京陥落。�蓄埣麁嵎睚実�1連隊が大淡州に撤退
1935年9月 - 東蘇(大淡州都)での抗豐運動、ゲリラ、住民の制圧(東蘇事件)を指示
1936年4月1日 - 終戦
4月5日 - �蓄埣麁峽海�竪馬軍の徹底抗戦論に反対したことで両派の戦闘が勃発
4月6日 - 竪馬軍が竪馬・南藩両総督府を制圧し大陸抗戦政府を樹立
4月7日 - 竪馬軍が関興政権を攻撃。関興を拘束
4月20日 - 梁強志を首班とする自由�蓄垤垣鐇�府が樹立
4月25日 - �蓄埣麁嵎睚実�1連隊が兎灣軍に降伏し武装解除
4月26日 - 櫻京で拘留
6月21日 - 第1級戦犯に指定
6月25日 - トイティア軍が逮捕状を提出、起訴
6月29日 - 櫻京軍事裁判開廷
7月18日 - 東蘇虐殺への関与が認められ死刑確定
12月15日 - 連合国南豐彌占領軍最高司令部が介入し、判決取消
1937年1月13日 - 南豐彌占領司令部の指令により、�蓄圓�ら単独で復員
1月17日 - 復員庁旧陸軍残務処理局事務官
4月10日 - 大陸抗戦政府降伏
8月 - 復員庁俘虜調査部長
1938年5月 - 同戦史編纂部長兼任
1939年3月 - 再軍備研究のため坂口機関を組織
6月 - 復員庁が労働福祉省に吸収合併
10月10日 - 復役し、国土警備隊大佐に任官
1945年10月 - 国土警備隊少将に昇進
1946年3月 - 第9警備師団司令部参謀長
1947年7月 - 西鹿警備管区鮫島警備連隊区司令官 
1948年10月 - 国土警備隊中将に昇進
1949年5月 - 第11警備師団長
1951年10月 - 国土警備隊大将に昇進
1952年8月1日 - 国土警備隊が国軍に再編。国軍陸軍大将に改められ、初代陸軍総参謀長に就任
1953年2月 - 国軍元帥陸軍大将の称号を授与される
1955年1月2日 - 65歳で現役定限となり、後備役に編入。陸軍総参謀長を退任
5月15日 - 国防会議最高顧問
1957年9月23日 - 大統領府枢密委員会最高顧問兼務
1959年2月26日 - 2.26軍事革命
2月27日 - 国家復興軍事委員会最高委員
1960年1月2日 - 退役
7月18日 - 国防参議院最高参議官
1961年1月26日 - 自由民主党結成。同党副総裁
5月7日 - 民議院議員
5月19日 - 林成慈総理就任。軍務大臣に任命される
7月10日 - 総理府国家安全保障委員会最高委員兼務
12月 - 位階正一品親授
1962年3月1日 - 一心会結成
1963年6月 - アグロネディア内戦豐彌軍派兵開始
1965年5月7日 - 民院議員再選
5月19日 - 軍務大臣続投
1968年1月31日 - 山藤進駐
4月9日 - 4.9宣言発表。林成慈線設置
1972年6月 - アグロ戦争終結
1973年8月10日 - 軍務大臣、国防参議院最高参議官、安保委員会最高委員を辞職
8月17日 - 豐朝戦争
9月5日 - 居宅にて死去

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