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奉化騒乱
場所嘆攅皇京府奉化市
日付1944年4月16日
参加人数2250人
攻撃手段武装蜂起
犯人今泉游
三国党員
新右派団体
目的クーデターによる政権剥奪
結果失敗
今泉游の逮捕
三国党の強制解散
犠牲者蜂起側 約600人
鎮圧側 125人
奉化・天崎住民 73人

概要

奉化騒乱(ホウカソウラン)は、1944年4月16日に嘆攅の皇京府奉化市で、今泉游三国党?と三国主義を支持する若年層の右派勢力で構成された新右翼団体が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、首謀者の今泉游と蜂起参加者は逮捕された。天崎県制圧までを含めて奉化騒乱と言う事もある。

背景

当時のトイティアの指導の下、民主政治を取り入れていたが、事実上婁歡豈?大統領の独裁政権であった。嘆攅駝韻戦争の敗北と西洋への政府の弱腰な外交によって過去の栄光が失われていると考えていた。さらに、インフレによる困窮の悪化とトイティア駐留軍による犯罪行為の多発、政府による学校教育機関の締め付けなどへの反感と情勢の不安定化は、極右と極左への支持を高める事になった。
そのような状況下で、帝政賛成と親西洋を掲げる戦後既成右翼に代わり、次第に帝政反対、反西洋、反共産主義を掲げる新右翼勢力が広がりを見せ、同様の思想を主張をしていた今泉游三国党?を支持した。急速に台頭する三国党に危機感を募らせた嘆敕局は、三国党と同党の支持基盤になっていた新右翼の市民に妨害工作を行うようになっていった。

蜂起の機運

天崎県知事の菅忠寧?は、皇京中央政府の対外従属方針に敵愾心を持ち、政府と政府支持右派(皇京派)に反抗する三国党を支持し、資金援助と武器供与を施していた。
当局の活動妨害でこれ以上まともな政治活動を行うことが難しいと感じた今泉游は、菅忠寧の許可を得、新右派団体幹部と県上層部も参加した天崎県存祭市で開催した党集会で、現行政府の打倒(三国闘争?)を宣言し、党戦闘部と義勇護衛隊に蜂起に向けて諸々の準備を指示した。菅忠寧は今泉游の懇願で、元帝国陸軍中佐であり私設武装組織黒衣隊?の隊長、邊滿利?を軍事指導者に任命し、党戦闘部などへの軍事訓練を行わせた。
政府隷下の皇京治安憲兵本部は、三国党が政府を打倒し極右独裁政権を樹立しようとしている疑惑をかけ、菅忠寧知事に党活動の阻止を要請したが、菅は拒否した。
3月17日に婁大統領は不穏な動きを見せる三国党に加え、東洋人民軍?嘆擽産党?などの共産系組織による大衆騒動の続発を抑えるため、嘆攸換颪悗糧鷯鏤態宣言を布告し、国内に存在する反政府団体の解散を命じた。また、菅知事の露骨な反政権姿勢が婁政権に危機感を与えた事で、菅への罷免通告が下ったが、菅はこれも拒否した。
3月20日、菅は反政権派の支持に反対する大半の天崎県議会議員を黒衣隊を用いて拘束或いは殺害し、議会の強制解散に踏み切った。話を聞きつけた皇京の治安当局は婁大統領の指示で憲兵天崎支部に菅の逮捕を命じるが、菅と共謀した天崎憲兵司令官房近亮?によって黙殺された。
この時期の天崎県は中央政府から完全に離反しており、婁は菅による権力独占、県境封鎖、反政府団体への支援を国家反逆であると断じ、正規軍を差し向ける鎮圧計画を画策した。

皇京進軍計画

4月1日今泉游は党幹部、党戦闘員、菅派県幹部及び憲兵隊幹部を招集し、「皇京進軍計画?」を明らかにした。軍事訓練を受け強化された党戦闘部及び黒衣隊、憲兵隊が皇京でクーデターを起こし、嘆攅政府を武力で掌握しようという計画であった。党は全会一致で賛成であったが、菅派県幹部から反対意見が起こり、2日間に渡る協議の結果今泉游の計画が採択された。4月6日に菅知事と房司令官は集会を開き、進軍計画に向け天崎県上憲市で蜂起軍の一か月間の演習を策定した。この集会には県幹部、黒衣隊指揮部、憲兵隊幹部が招待されたが、今泉游など三国党関係者は招待されなかった。この事を切っ掛けに、三国党は県と憲兵の二つの協力組織に疑念を抱き始め、同時に強い危機感を持った。今泉游は4月13日、全ての協力組織の幹部を改めて招集し、そこで義勇護衛隊が菅忠寧?房近亮?邊滿利?をはじめとした党と新右派団体以外の幹部を全員拘束した。また天崎各地に点在して駐留していた党戦闘部は、黒衣隊と憲兵隊の拠点を制圧し、抵抗した者は射殺された(天崎事件?)。

蜂起の発生

湛禁市から出発した今泉游率いる党戦闘部と義勇護衛隊は、皇京府憲兵の内通者の協力を得、奉化市中央都市の藤林に潜伏し、党戦闘部が4月16日午前7時40分に憲兵支部を襲撃した。憲兵支部制圧完了後の7時50分に空包が4発撃たれ、これを合図として奉化各地に潜伏していた党関係武装組織と新右派団体が一斉蜂起を起こし奉化騒乱が発生した。53分頃、今泉游は護衛隊を引き連れ奉化市庁を占拠し、抵抗した一般職員を全員射殺した。また、同時に通信施設なども占拠し、他都市との連絡手段を遮断した。奉化全域に配置された党戦闘部と護衛隊は、党の行動に反発する民衆を次々攻撃し、多くの人々が殺害され犠牲者が続出した。
今泉游は市庁前広場に群衆を集め、そこで現行政府打倒の支持と協力を求めた。最初は党員と群衆の小競り合いが続いていたが、今泉游の雄弁に群衆は静まり、やがて今を支持するようになった。

奉化鎮圧

憲兵支部襲撃の知らせを受けた警邏中だった憲兵隊巡警三班は、戦闘を避け市民の避難誘導をしながら8時50分頃には蘇深市に退避し、奉化での武装蜂起を蘇深憲兵支部に報告した。蘇深当局は文板市の皇京陸軍司令部に蜂起の鎮圧を要請し、僅か1時間余りで鎮圧軍が編成され、午後1時には奉化市及び天崎県を完全包囲した。
婁大統領は午後2時に奉化を包囲した鎮圧軍に「反乱軍の即時鎮圧」を命令し、三国党占領地域に進行を開始した。
園支連率いる護衛隊は市境にバリケードを建設していたが、資材不足と時間不足により充分な効果はあまり表れなかった。市境を警備していた党戦闘部は、正規軍の豊富な物量装備には敵わず瞬時に制圧された。数と装備で劣っていた三国党とその兵員の大半が火器を持たない新右派団体では急進する鎮圧軍を止められず、午後4時には活動拠点になっていた市庁を包囲された。市庁に籠城した今泉游と護衛隊、戦闘部は、鎮圧部隊と銃撃戦を展開した。今泉游は鎮圧部隊の銃撃を受け転倒するが、護衛隊長園支連と6名の隊員が身を挺して防ぎ、今の絶命は免れた。しかし、意識不明状態に陥った今を見た党戦闘員の戦意は喪失し、鎮圧軍に投降した。鎮圧軍は奉化市全域に今の拘束を宣言し、戦闘を続ける戦闘員に投降を呼びかけた。午後6時までに戦闘員と新右派団体構成員約1700人あまりが逮捕され、残りの蜂起参加者の550人は戦闘の際に殺害されたとされる。今泉游は拘束後すぐに国立病院に緊急搬送され、意識を回復した後に逮捕された。
意識回復後、今泉游は病院で潜入医療員として働いていた党員の藤智鈴?(後の国民医療会会長)に、党活動に関する今後の行動を託すメモを残した。これは、「政府は党の解散を強制するだろうから、今後しばらく党の集会や政治運動などの目立った活動をせず、地下で潜伏し続けよ」といったような内容であった。このメモは藤から三国党衣川支部長 朱嘉燦?に受け渡された。

天崎鎮圧

天崎においては、奉化蜂起の鎮圧完了後の午後6時から天崎と県境を接する各県から鎮圧軍が進行を開始し、三国党戦闘部残留部隊の抗戦も虚しく、一気に県首府 存祭市まで進軍した。黒衣隊と天崎憲兵は抵抗せず鎮圧軍に降伏した。拘束から自力で逃げ出した黒衣隊長 邊滿利?は、数人の隊員と戦火を避けるため出永県まで逃亡しようとするが、前方から迫った鎮圧軍の銃撃に遭った際に胸に銃弾が直撃した事が原因で死亡した。上憲市庁に監禁されていた菅知事と房近亮?は、市庁の警備を担当していた党戦闘部の投降で解放され、2人ともすぐに逮捕された。午後11時には最後の抵抗戦闘員が射殺され、天崎の反乱政権は完全に崩壊した。

裁判

今泉游ら蜂起の首謀者は拘留され、一週間後の1944年4月24日、皇京府蘇深市で特別裁判が開かれた。今泉游は裁判で傷が癒えていない中終始小賢しい口弁を振るい、中央政府の政策を批判して蜂起は正義の基にある行動と主張したが、裁判官に聞き入れられる事はなかった。
菅忠寧は蜂起への関与を否定し、何とか責任を回避しようとしたが、度重なる当局からの要請拒否と罷免通告の拒否、反政府団体への支援、独裁的権限の取得を国家反逆行為と断罪され、27日に死刑判決が下され、翌年の5月に執行された。房近亮は、憲兵隊組織への裏切り行為を厳しく追及され、25日に死刑判決を受けた直後に銃殺刑に処された。
蜂起に参加した三国党員と新右派団体構成員は、死刑或いは数か月から数年の禁固刑に処された。今泉游は皇家の出身であるという理由で、首謀者の中で重要な存在であったにも関わらず大幅に減刑され、20年の禁固刑に処され蜂起の裁判は終局し、裁判所は三国党と新右派政治団体の強制解散を命じた。
しかし、投獄から5年の1949年に、民主的な政治の履行を求めたトイティア政府が今泉游並びに蜂起参加者の釈放を嘆攅政府に要求した事で、今泉游をはじめとした三国党員は恩赦され、9月30日に出獄し、地下で秘密裏に潜伏していた三国党残存勢力と合流を果たした。政府から三国党と新右派団体の結党承認が下りた事で、10月2日に今泉游は再結党宣言を行い、三国党は正式に復活した。

三国党の躍進

蜂起の完全な失敗を経験した今泉游は武装闘争に見切りをつけ、平和的な運動や講演といった民主的な手段による政権剥奪に重点を置いた。蜂起の発生と裁判中での今泉游の主張は嘆攸換颪吠麁擦気譟∋姐馘泙了抻者は全国規模で増加していった。1950年代に入り、婁政権が嘆攅総選挙の開催を発表すると、三国党は選挙当選のために更なる勢力拡大を図り、1954年には党員約250万人にまで膨張した。1955年に行われた総選挙に三国党が当選し、今泉游が嘆攅第2代大統領に就任した。今泉游が大統領に就任してから、同年11月3日の国家大評議会?第1回会議において大嘆斛∨憲法?が制定され大嘆斛∨が成立した事で、嘆攅馥發任寮党活動は禁止され、政党政治自体も否定された。

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