島島 - 幸せの途中
(ーーーん……?)
重たい瞼をこじ開けたが、何も見えなかったことを早貴は一瞬だけ疑問に思った。
真っ暗というわけでもなく、ーー視界が何かに依って遮られていることを飲み込むまで、
起き抜けの早貴の頭ではまだ余分に時間が掛かった。
頭の辺りが重たくて体を起こせない。
頭の上に温かい大きな何かが乗せられており、押さえつけられているような感じがある。
ゆっくりとした呼吸音とともに早貴の目の前の視界を遮る何かは上下していて、ドキドキと鼓動を打っている。その度に慣れ親しんだ匂いが鼻腔を擽る。
これはそう。スタンバイしている時のステージの袖や、メンバー全員で集合写真を撮っている時や、
そうだ、テンションの上がった舞美が自分に抱きついて来た時のーー…。

状況を理解した瞬間、早貴の眠気が吹き飛んだ。
ここは舞美の部屋。
でもって、今自分が寝ているのは、舞美のベッドだ。
そして舞美に右腕で腕枕をされつつ頭に手を添えられて抱き寄せられている格好であるということ。
自分はその腕の中で丸くなっていて、腰には舞美の左腕が回されている。視界が遮られているのはそれほど密着しているからで、目の前は舞美の胸の辺りだ。

出会って15年目にして、ほんの最近、こうして早貴は舞美と一緒に寝ることが増えた。
お互いの家によく上がるようになった。頻繁に連絡を取り合い、会う予定を立てている。
ずっと前から何となく、こうなるだろうなということは心のどこかで分かっていたように早貴は思う。
グループが解散して、環境がガラリと変わって、そう毎日は会えなくなった。
その中で、お互いのこの関係性にどこかできっちり名前をつけなければならないタイミングがあることに対しても何となく覚悟はしていた。
共演している番組の収録後に舞美に呼び出されて「付き合ってほしい」と言われたこの間も、早貴はそれをすんなりと受け入れた。
早貴がそっと上の方を見遣ると健やかに眠る舞美の顔がそこにある。
通った鼻筋と少し微笑んでいるように上がる口角はまるで美術館の彫刻のようで、伏せられた瞼の先で長い睫毛が揺れていた。
あれだけ一緒にいたのに、こんなに至近距離で舞美の寝顔を眺めるというのもなんだか新鮮だ。
やはり自分の心境もそれなりに変わってきているのだろうか、と早貴は思った。
付き合うということになったあの日から、今まで知らなかった舞美の一面にたくさん出会っている気がするし、
その度に胸がこう擽ったくなるような温かな気持ちになる。

「……」
夢を見ているのだろうか、何かを小さく呟くような口元に合わせて動く舞美の頬に唇を寄せた。
そのまま少しだけ滑らせて、決めの細やかなさらさらとしたその肌の感触を味わった。
完璧に整ったその顔も今まで以上に愛しく思えて、早貴はこんなことまでするようになった。
綺麗な肌だ。日焼け止めをこまめに塗ったりと気を遣っていることは知っていたが、いつでもまるで内側から発光しているように白い。

早貴は気持ちのままに更に唇を押し付けてみる。
グループでいる時も、自分からは滅多にこんなことはしなかったから、まだ照れがあってぎこちない。
そのうち、当たり前のように出来るようになるのだろうか。
いつの間にか舞美の大きな掌がゆったりと頭を撫でていて、早貴はふわふわとした気分に浸り酔っていた。
いつまでもこうしていたいと思う。もう少し眠っていてほしいとーーー……

(…って、待って、)
「……!」
早貴が慌てて唇を離すと、いつの間にか目を覚ました舞美と視線が合ってしまった。
舞美の少し意地の悪い顔に、早貴は何も言われずともこの状況を揶揄われているようでバツが悪くて、かぁっと頬が熱くなる。
「……口にはしてくれないの?」
低めの声が、真っ直ぐな瞳が、試すように笑っていた。
その間も早貴の髪に通された舞美の手櫛はサラサラと撫で続ける動きをやめない。
「……できないよ、」
「なんで?」
「なんでって……まだ、」
恥ずかしいからだと正直に言ったら、この人はなんて言うのだろう。
噴き出すのだろうか、それとも寂しく悲しい顔をするのだろうか。
舞美の色々な表情を巡らせて早貴が言い淀んでいると、舞美は優しく苦笑いをした。早貴にとってあまり見たことのない顔だった。
「じゃあ、私からね」
舞美はそう囁くように告げて、そうして、今まで早貴の髪を梳いていた掌をまた頭にがっちりと添えた。

「………」
柔らかい感触が早貴の唇に押し当てられる。
思わず閉じた遮断された視界の中で、唇の感触だけがダイレクトに敏感に神経を伝う。
メンバー同士でふざけ合ってするようなそれとは違うキスだった。
こういうキスもそれなりにするようになって、その回数も両手を越えるくらいにはなった。
それでも心の奥をぎゅっと固く掴まれ、鷲掴みにされたその部分に、
えも言われぬ鈍い熱がぽたぽたと落ちる雫のように溜まってゆくようなこの感覚には早貴は未だに慣れずにいる。
ぽたり。また一滴。羽毛のように触れられる度に身体の芯が熱を帯びてゆく。溺れそうになり、早貴はいっぱいいっぱいだった。
辛いわけじゃない。切なくて苦しいのだ。
「ーーー……」
5秒ほどした後で舞美は唇を離した。
同時に掴まれていた早貴の心臓も解放される。
早貴が薄っすらと目を開けると、舞美はいつもの爽やかな微笑みとはまた違う、どこか色気を持った表情で笑いかける。
「……もうちょっとしていい?」
少し甘えたように語尾を震わせて響いた舞美の言葉に、早貴は僅かに体を強張らせた。
舞美はそんな早貴を見て、愛おしげに目を細めながら、早貴の頬に手を添えた。
その頬は桜が咲くようにほんのりと紅く染まり、熱を帯びている。
そのまま顔を寄せても早貴に拒絶する様子がなかったので、舞美は再び口付けた。

ーーずっと傍に置いておきたいと願ってしまった。離れ離れになるのが嫌だった。
いつ何時でも早貴は自分の傍にいてくれて、かつ自分を理解し支えてくれる。どこかでそれを言い切れる自信が舞美にはあった。
どんなことを仕出かしたとしても、絶対に早貴は自分を嫌うことはない。無条件に自分の気持ちを汲み取ろうとしてくれる。
グループのリーダーである自分への早貴の忠誠心が普通のものではないことを舞美は見抜いていた。それで長年やってきたのだ。
しかしグループの解散という一区切りは、自分達を取り巻く環境を大きく変化させた。
会っているのが当たり前だったのに、あの日以降は会いたいと願うことの方が当たり前になってしまった。
早貴が隣にいた日々は、あの日以降ぱったりと無くなってしまった。

それでも自分が会いたいと願えば、早貴はスケジュールを仕事に支障がないギリギリのラインまで合わせてくれた。
二週間に一度、一週間に一度。3日に一回。毎日。
本の貸し借りという名目で、舞美は早貴に会いに行く。早貴はその度に顔を綻ばせ、おはよう、と挨拶をしてくれるのだ。
そのうちに、舞美は気付いた。例え解散しても、早貴の舞美に対する気持ちは変わっていないのではないかと。
例えリーダーで無くなった今も、今までみたいに自分の後ろをついて歩いてくれるのではないかと。
それを思った時、ーーー当時はメンバーをいつまでも縛り付けているようで、自由にさせてやりたくて、
だから解散を決めたはずなのにーーー早貴を、ずっと傍に置いておきたいと願ってしまったのだ。
今までに感じたことのない思いが心に灯される。湧き出た黒い感情はしぶとく渦を巻いて、心に引っかかったままだ。
独占欲という感情を、舞美は初めて知ってしまった。
目の届くところにいてほしい。自分を見ていてほしい。
今まで通り、身の回りの世話も、趣味の共有も、これからもずっと全部全部していてほしい。

そうして舞美は早貴を手に入れた。
自分の告白を早貴をすんなりと受け入れて、とんとんと事が進んで行くそのオートマチックぶりに、初めは拍子抜けするほどだった。
ずっと手を伸ばしていても届かないと思っていた、この柔らかな唇の感触も手に入れた。

軽く合わせてはまた離し、角度を変えてまた重ねた。口端を少し出した舌先で舐め、中央のふっくらしたところは小さく吸う。
何度も何度も、確かめるように舞美は早貴にキスをする。
初めて唇を合わせたのも舞美からだった。その次も、その次も舞美から。
早貴が積極的に自分からすることはなくて、それでも嫌なわけではない事は舞美にはわかる。
唇を離して少し間を置いたら、早貴は伏せた瞼の先の睫毛を震わせながら、僅かに唇を尖らせた。舞美は満足そうに息を吐いた。
ーーー早貴は、待っているのだ、この続きを。

「ん……」
ぽってりとした早貴の唇を舌で割ると、前歯に当たった。舞美が舌先で歯を舐めると、早貴は舞美の肩にしがみつく。
頬を指先で撫でると薄っすらと口が開けられたので、すかさず舌を押し込んだ。
探り当てた早貴の舌は、強張って固く尖っていた。
初めての経験に戸惑う様子が手に取るように分かり、舞美は心の中で(私も初めてだよ)と呼びかける。
誰かからこうしなさいと教わったわけでもないのに、何故人はお互いの唇をくっつけ、舌を絡ませ合うのだろう。
こうしたいと思うのだろう。頭の片隅で考えを巡らせた。
力の入った舌にそっと自分のそれを絡ませて、舞美は目を閉じた。粘膜同士の触れあうぬるぬるとした感じと舌の先のザラザラとした質感に没頭した。

いつしか心の奥底は疼き、静かな焔が燃えている。
唾液は少し甘く、薄い砂糖菓子のような感じの味がした。
早貴がコクリと音を立て喉を鳴らして口内に溜まったそれを飲み下した時、舞美は胸がきゅうっと鳴るような感覚に襲われた。

やがて、早貴の舌の力が抜かれ、おずおずと舞美の舌に控えめに絡んできた。嬉しさが湧き上がってきて、密かに舞美は口角を上げる。
互いへの愛撫はしばらく続いた。
手探りでぎこちなくても、唾液が時折音を立てても、構わなかった。
密着し張り付きあった、じっとりと汗が浮かんできた肌が吸い付き合う。柔らかな生々しさに震えが走った。
鼻で吸い込む空気は甘酸っぱく、それはとても濃密で、酸素が足りず酸欠になりそうな感じがあった。

クラクラとする甘ったるい酩酊のような感覚に、思わず、ん、と小さく息を吐いて、やっと唇を離した。
だらしなく伝った唾液は二人の間に細い橋を架け、すぐに撓んで落ちていった。


涙を溜めて熱く潤んだ早貴の大きな瞳は、熱っぽい視線を舞美に向けていた。
早貴の泣き顔はたくさん見てきた。しかしそのどれもと違う、艶やかなそれに釘付けになった。
舞美の記憶にない、早貴の知らない顔。
これからたくさんの顔を知っていくのだろう。キスの味を知ったように、舌の柔らかさを知ったように。
「……なんか、すごいね。これ……」
早貴の鼻にかかった甘い声は僅かに荒く弾んでいた。
その照れて不器用に笑う顔を、舞美は、好きだ、と思った。

汗のせいで自分の額に張り付いた髪を除ける早貴の手つきは、コンサートの合間のものと変わらない。
「ほんと汗っかき」と言って笑う顔も、舞美が知っているものだった。「集中してた」と言うと、なにそれ、とまたおかしそうに手を口にやってクスクスと笑うのだ。

最初からじゃなかったはずだ。最初の頃はーー子供の頃はいつでも早貴は舞美の後ろをついて歩いて、年上の舞美に度々甘えてきていた。
それがいつからかこうして自分の面倒を見てくれるようになった。
そういう甲斐甲斐しいところに惹かれたのはいつ頃だっただろうか。
愛しくて、気持ちのままに舞美は早貴を改めて抱き締めた。

舞美のその少々手荒な手つきも、早貴にとってはよく知っているものだった。
突然のことにきゃっ、と少し声を上げたのを聞かれてしまったのか、舞美は「力加減ができないね、私……」と眉を下げた。
昔から抜けているところはあったが、時々失敗する舞美のことを、いつから放って置けなくなったのだろうか。
長い手足と鍛え上げられた身体や完璧な顔を持っていても、その内面には無邪気な一面があるのだということを知ったのは。
そしてそういうところに惹かれ始めたのはいつだったか。


この感情が恋だと気付いたのは一体いつ頃だっただろうか。
もうそんなことは舞美にも早貴にも思い出せないが、二人はこれから先もずっと、今まで以上に、知らない一面を知り、
互いに惹かれ合うのだろうということは予感していた。

そしてそれがどんな一面だとしても、全てを愛しいと思い、きっとまた恋に落ちるのだ。

「なっきぃ」
早貴の目を真っ直ぐ見つめて、舞美が言う。
「なっきぃのこと、もっと知りたい」
どう返事をされようと、続きをすることは決めていた。一度灯った欲望の焔は、そう簡単には消えやしない。
「いいよ」
早貴が了承の意思を告げる。覚悟の篭った、やはり真っ直ぐな瞳だった。
どちらからともなく、再び二人は唇を押し付け合う。舞美の手が早貴のシャツの裾を潜って行く。早貴もまた、舞美の骨ばった肩に腕を伸ばした。

長年の思いをぶつけ合うように、二人はいつまでもいつまでも体を重ね続けた。