江戸川区の選挙に立候補するためにページ作成しました

朝の駅立ちで配っているチラシの多くは下記のプロフィールになっております


1975年6月江東区生まれ千葉県鎌ヶ谷市育ち。家業は新木場で材木屋をやっていたが倒産して一家離散に。
パソコンは中学校時代から、インターネットは大学時代からの趣味。大学は日本大学経済学部を中退。
香港と東京(台東区)を行き来する貿易業(ブランド品)に携わる。
中津川博郷先生(東京16区衆議院3期)半年ボランティア。江戸川総合人生大学まちづくり学科13期生在学中。
江戸川区小松川在住。好物は寿司、チョコレート。



家柄や血筋を詳しく書いておかないと個人の学歴などにも意味が反映しにくくなってしまう


チラシの1行1行には、それぞれその10倍の内容をここのプロフィールを書けるので
飽きずに最後まで読んでやって下さい。もちろん飛ばし読みでも結構です。

しかしわざわざインターネットで調べたいという皆さんのためにかなり詳細にプロフィールを書き込んでいきます

材木屋と言っても江戸時代から続くような名門ではなく祖父は木曽杉などの長野善光寺近くから遠い地縁血縁を頼って木場に小僧で来たらしい。
尋常小学校時代は級長をやったらしいが、戦後は同じ同級生の宮島氏の下で木場で使われる立場であった。
戦前は自分でもある程度独立したらしくそれが縁で千葉県銚子の杵臼、及び下駄屋だった宮内の末娘を嫁として挙式したようだ。
もう既に私が1歳になる前に祖父は他界してしまっていたのだが、祖母曰く「結婚式当日に初めて顔を見た」と言っていた(笑)
姉たちから「いいひとがいるんだけどね」と言われ「じゃあお願いするわ」と当時20歳の時に安易に応えたのだが
その相手が自分にとって「いいとかわるいとか判断をさせてもらえなかったんだかららねぇ」としみじみ語っていた。
とは言えおじさんおばさん曰く夫婦仲は非常によく6人の子供に恵まれ、その長男として父の靖幸が昭和12年(1937年)生まれる。

母親は秋田の仙北平野の昭和15年(1940年)生まれで、中学を卒業後、雪と百姓仕事が嫌で金の卵とされた夜行列車で東京に出てきた。
田舎にいた頃からもともと独立心は旺盛だったらしく仕事をしてお金を稼げることには素直に喜べる性格。

長野と千葉そして秋田の祖父祖母は4人とも尋常小学校までしか行っていない故に
両家柄とも大学まで行ったものはおらず、父親の青山学院夜間学部がせいぜいであった。
父親方の兄弟姉妹は高卒だが母親方に至っては全ての兄弟が中学卒業しかしていない。

しかし両親の相性はかなり悪く、元々東京生まれの父親は東北秋田の中学しか卒業していない百姓出身の母親を好きではなかった。
というより東北や農家は純朴だと思い込みすぎるところも都会人にはあったのだろう、計算高い一面を殊更悪く印象にもったようだ。

父親から自分から中学生くらいの私に話したことなのだが、何故青山学院にしたかというと、
いいお嫁さんがいるかもしれないと淡い期待を抱いたかららしい。
しかし上記のように本人自身は東京生まれの東京育ちであっても借家住まいの商売人家系であり、
山の手の大名屋敷や武家に連なる良家のお嬢さんがとても相手にしてくれるような家柄でなかったのである。

パソコンの勃興期に高額なパソコンを買ってもらえたことを感謝して記す


鎌ヶ谷市立初富小学校、鎌ヶ谷市立第五中学校は無欠席である。早退はしているがさくら幼稚園時代も無欠席である。
これは父親からの教育方針で、成績が良くても一時的なものであるが無欠席を続けるというのは
長い年月の積み重ねであり、しかも他人と比べる結果責任ではない、体調管理の自己責任であるから重要だとなる。

そこで中学生に入る前に小学校無欠席をパソコンを買ってくれるということになった。
昭和末期当時パソコンは50万円以上する高価なものであり、子供が使うといっても一部の恵まれたものだけであった。
しかしそこにお金を出してくれたのは今でもありがたいと思っている。
これは父親の中央商業高校同級生でラオックスの専務でもあった工藤さんにも言われていたことらしく、
秋葉原で伸びるのはもはや家電でなくパソコンである、日進月歩のスピードで日本経済の主軸を家電から奪い取ってしまうだろう
と言われていたことで、これから将来性があり、前途洋洋な思春期の自分の子供に体験させておかなくてはいけないと考えたからだ。
実際にはPC-88VA2は光栄三国志や日本ファルコムのイースやソーサリアンなどゲーム三昧であり、
わずかにワープロソフトで会社の年賀状を作って印刷してあげたくらいであったが、この時代にパソコンを体験できたのは大きなことであった。

何故大学を中退したのか聞かれることが多いので一通り説明致します


1991年頃新木場の仲木場組合小林敏郎商店の倒産は事実なのだが、一家離散というのはもっと悲惨な経験をした人たちからすると
やや大げさすぎるということはある。何故なら80歳を越えた祖母が食事などの面倒を見てくれたからである。

父親は私の高校時代3年間はほとんど働いておらず、大学に入学できる学費の用意はなかった。
一方離婚した母親の方が病院の付き添いをやっており当時は二人同時に保険が利いたので非常にいい時代であった。
結局大学を中退する理由というのは学費のためとはいえ別れた女房に金を借りにいく親父に納得できなかったためである。

また当時センター試験などにも面白さを見出しており国公立大学に行って自力で卒業しようとしたことも理由である。
センター試験は28歳まで10年間にわたって受け続け、25歳、26歳のときは90%の正答率を出すことが出来たが数学だけは50%程度であった。
東京大学文科一類後期試験にも1次試験を2度突破したことは自分にとって誇りであると同時に大きな挫折でもある。
中高一貫高校の生徒ばかりが国公立大学に行くという統計的にはっきりした方法以外で挑戦し続けた10年間であった。

ここだけの話に日本大学は大したレベルではない。早稲田でさえ卒業はかっこわるいという風潮があるのに
それ以下の私立大学など何をかいわんやである。「まあ中退のほうがかっこいいんで」と就職のときに言ったら長続きしないだろう
と担当の人からは思われたらしく結局今までまともな日本の会社には入っていない。

また自分自身、戸籍の名前「小林靖郎」が気に食わずこのころから新界明一を名乗る。
香港に新界という地名があることは調べていたが自分自身がこれから深く関わることになるとは
その当時は夢にも思わなかった。また深川という出身地と名前が似ている深センにも
20代後半から30代前半までに2000万円程使い込むということも当時は夢にも思わなかった。
まさに当時の2008年北京オリンピック前の深センは身をもって政冷経熱という夢のような世界を体験できたのであった。

商売人として税関・税務署・検察・裁判所と対立した経歴こそ議員への志


2008年成田空港にて店頭小売価格で200万円(免税は20万円まで)の商品を持ち込み税関から行政処分を拒否し、
1年以上差し押さえられて裁判にて60万円の罰金刑を受け東京小菅拘置所に自ら望んで労役場留置1日5000円の罰金刑を甘受している経歴を持つ。

2001年の2月頃、25歳で初めて海外旅行をして最初に行ったのが香港であった。
そもそも大学中退後は新聞屋にて1年働きその後はフリーターのような生活であったが
念願だったひとり暮らしを続けておりその中でウインドウズ95、98など
パソコンとインターネットの勃興期にあたっていた。
街中の現実店舗を営業してホームページでも売って通信販売しませんかという営業をしていたところ
ちょうど欧米ブランド品がよく売れていてその関係から香港経由でヨーロッパに買い付けに行かないかと
誘われたことが、貿易業や通訳に関わるきっかけであった。

しかし金が儲かるいい時代というのは短く、当初は香港人が大挙して10人以上会社にたむろしていたが、
そのうち関税の問題などで徐々に減り、日本人の中にも小心者がいて日本の会社の名義を持っていることを
いいことにもともとの持ち主である香港人などから商品を勝手に持ち出して売るなどの行為していた。
この頃はロレックスを100本とかヴィトンを300個とかの単位で毎週のように運んでいたのだが…
もちろん私自身が20代ということもあり、あくまで下っ端の末席にいた感想である。

私が30代になる2005年頃になると香港人と日本人の間に分裂傾向を強め、儲からないということもあって
特に香港グループではそれぞれ家族を中心に個別に日本人と関係を組むようになり、日本の会社
当時副都心線はなかったが北参道近くの山一商事、池之端のウエニ貿易、水道橋にあったコンチネンタル
そして一番大きなお世話になった大阪船場のダイコーインターナショナルなどの香港寥一族の専属通訳
として日本で仕事をする傍らに、この当時の中国広東省、深セン・東莞・珠海などへ海外風俗の添乗員
としてドンチャン騒ぎを満喫していた(いい時代だったなぁ)ここで中国の女の子から彼女になってもらい
広東語や中国語の言葉を覚えていった、もちろん彼女はひとりだけではなくて何人もいたw
もっといえば金も体力も精力も使い果たした時代でこの頃ビールの飲みすぎからか痛風になってしまった。

そんな中、税関や税務署には非常に腹を立てていた。なぜならば彼らが偉そうだからである。
「何しろ我ら商売人が関税を払うお陰で自分達の給料が支払われているのだろう」
という言葉が何度も喉から出かかっており、自分自身商売人に向かない江戸っ子気質の商売下手を認識した。
よく政治家が口だけでお役所仕事改革などと言うが、私などは口だけではなく行動で抗議し
その結果東京の小菅拘置所に一月程自ら望んで入ったのである。もちろんこれは基本的に単独犯であり
他の会社や商売仲間の方々を巻き込んだつもりはなかったのだが結果的に商売の世間を狭めたことにもなった。
また中国でも北京オリンピックが終わり、胡錦涛時代から習近平に国家首席が変わり腐敗撲滅運動から
私が非常に懇意にしていた呉世民、通称サイモンさんが中国に囚われてしまい政治に目覚めてしまった。
香港は土地柄から政治問題を避ける傾向にあり私自身もあまり投票に行かないというより住民票がない為に
投票にいけないのだが海外にいると日本の政治状況というのは日本在住のときに比べ関心を高めてもいた。

また母親の知的障害の寮などを経営するアワーズアットホームの四ッ屋久利理事長が2016年1月に逝去された。
そこの施設にもちょこちょこアルバイトとして顔を出しており、また理事長の一人娘が当時神奈川県の
県議会議員早稲田夕李で先日2017年10月22日の選挙では立憲民主党にて神奈川4区にて衆議院に初当選している。
またこのNPO法人アワーズアットホームの施設には忘年会などで東京16区すなわち江戸川区の初鹿明博も顔を出していた。

そういう社会体験をしてきたことで不惑の40代になってから選挙に出てみようという気になったのだろう。
ニコ生で船橋の市議選に出た立花孝志に会ったりするうちに自分でも充分出来そうだという確信は得られた。
2016年2月の閏年にて取り合えず朝駅に立ってみようという、立候補ま続かないかもしれないがという気持ちだった。
そしてこれは運命的なのだが、私が25歳の2001年の誕生日6月26日の前日に第42回衆議院選挙が行われている。
すなわちこれは永遠に破られない記録としての史上最年少の国会議員誕生の日に生まれたということである。
このことは当時から気付いていて、法務省などに立候補できる年齢は満25歳だが選挙日当日に25歳ではなく
翌日開票作業が割ってから当選証書なので6月26日生まれ(しかも明け方生まれたので時間早いw)が
最年少だということをしっかり確認していた。この当時から薄々心の奥底で挑戦したい気持ちがあったのだろう…

新界明一は自分が20歳の時に名乗った名前 チラシ18号

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