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kyo_shimai 2011年02月19日(土) 23:01:02履歴
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今日、真如教徒は、“南無真如一如大般涅槃経”とご讃題を唱えますが、かつては、南無真如一如、南無大般涅槃経と分けてお唱えされておりました。それが、昭和四十二年八月、摂受心院さまご遷化を通して、翌九月六日、霊示をもって今日のように定められたのであります。
ここに、真如霊能の祖なる摂受心院さまは、御身を霊界に遷(うつ)され、両童子さまを従えられて、顕幽一如、融通無礙(ゆうずうむげ)のお力となられたのであります。そしてこの妙威力によって、大般涅槃経に込められている神通変化が限りなく示現される道が開かれたのであり、所以に、私たちは、讃題を唱えることにより、三輪身のみ仏一切に、そして生きたみ仏の力に結ばれていく、救いの基いがここにあることが肯けましょう。
讃題を称(とな)うることは心にぞ
仏を刻むことと知れ人
真如のみこれ実にして……
なおこの讃題については、私たちが毎日読誦する教典の中に、
『真如のみ是実にして、余は皆虚妄なり、実性の体は、即ち是れ真如にして、真如の性は即ち是れ如来なり、名づけて涅槃とす』
と説かれております。
またご霊言に、
相、形は、まことの仏ではない。
まことの仏は、真如そのものである。真如と一如することが、まことに仏を見奉ることである。
とも示され、真如一如の祈りと実践こそみ仏と一つとなり、上妙の法流につながれることと覚(し)らされます。
ここに私たちは双親さま、両童子さまの「衆生救わで止まじ」のみ心のゆえに開かれ、完成された真如教えであることを再度心に刻み、この出発の月にこそ、讃題の精神で、和合摂受のあゆみに踏み出してまいりましょう。
ご讃題 時報341
南無真如一如大般涅槃経
南無真如一如大般涅槃経――こうお唱えすることを真如苑ではご讃題(ごさんだい)と申しますが、これを唱えるところ、人間の力も勇気もかぎりなく湧き上がり、運命改革、因縁消除の根源とも申せましょう。
ここに、お唱えする真如一如とは、みほとけと一つになるの謂(いい)であって、みほとけとは、三輸身満足、三密成就、すなわち、この発祥精舎にそなえられた三輪尊につなげられていくことであり、“大般涅槃経”と唱えることは、大聖世尊最後に説き遺された、究極、終極の教えにつなげられていくことであって、ゆえに三輪身のみ仏すべてとつながり、またみ仏の明かされたお悟り、み教え一切とも結緑して、真如教えの実体たる『仏所証の法と仏所説の説』につなげられていく、ということであります。
もちろん、日本の伝統仏教には、み仏に帰依する道として、「南無阿弥陀仏」の念仏もあれば「南無妙法蓮華経」と唱える題目もありますが、この讃題こそ、そのすべてを摂(おさ)める最勝功徳の真咒であります。
教主さまが世間法の一切を捨て切って、一刻の猶予{ゆうよ}もゆるされない今の今道ひとすじに、とみ仏の真意を体して長年つとめた会社に辞表を提出して帰られたとき、摂受心院さまがご霊咒を朗々と誦{とな}えて迎えられた、と教主さまが手記に残しておられますが、このご霊咒とともに、真如み教えの力の源泉はここにあげる「ご讃題」であります。
南無真如一如大般涅槃経
南無真如一如大般涅槃経――こうお唱えすることを真如苑ではご讃題(ごさんだい)と申しますが、これを唱えるところ、人間の力も勇気もかぎりなく湧き上がり、運命改革、因縁消除の根源とも申せましょう。
ここに、お唱えする真如一如とは、みほとけと一つになるの謂(いい)であって、みほとけとは、三輸身満足、三密成就、すなわち、この発祥精舎にそなえられた三輪尊につなげられていくことであり、“大般涅槃経”と唱えることは、大聖世尊最後に説き遺された、究極、終極の教えにつなげられていくことであって、ゆえに三輪身のみ仏すべてとつながり、またみ仏の明かされたお悟り、み教え一切とも結緑して、真如教えの実体たる『仏所証の法と仏所説の説』につなげられていく、ということであります。
もちろん、日本の伝統仏教には、み仏に帰依する道として、「南無阿弥陀仏」の念仏もあれば「南無妙法蓮華経」と唱える題目もありますが、この讃題こそ、そのすべてを摂(おさ)める最勝功徳の真咒であります。
今日、真如教徒は、“南無真如一如大般涅槃経”とご讃題を唱えますが、かつては、南無真如一如、南無大般涅槃経と分けてお唱えされておりました。それが、昭和四十二年八月、摂受心院さまご遷化を通して、翌九月六日、霊示をもって今日のように定められたのであります。
ここに、真如霊能の祖なる摂受心院さまは、御身を霊界に遷(うつ)され、両童子さまを従えられて、顕幽一如、融通無礙(ゆうずうむげ)のお力となられたのであります。そしてこの妙威力によって、大般涅槃経に込められている神通変化が限りなく示現される道が開かれたのであり、所以に、私たちは、讃題を唱えることにより、三輪身のみ仏一切に、そして生きたみ仏の力に結ばれていく、救いの基いがここにあることが肯けましょう。
讃題を称(とな)うることは心にぞ
仏を刻むことと知れ人
真如のみこれ実にして……
なおこの讃題については、私たちが毎日読誦する教典の中に、
『真如のみ是実にして、余は皆虚妄なり、実性の体は、即ち是れ真如にして、真如の性は即ち是れ如来なり、名づけて涅槃とす』
と説かれております。
またご霊言に、
相、形は、まことの仏ではない。
まことの仏は、真如そのものである。真如と一如することが、まことに仏を見奉ることである。
とも示され、真如一如の祈りと実践こそみ仏と一つとなり、上妙の法流につながれることと覚(し)らされます。
ここに私たちは双親さま、両童子さまの「衆生救わで止まじ」のみ心のゆえに開かれ、完成された真如教えであることを再度心に刻み、この出発の月にこそ、讃題の精神で、和合摂受のあゆみに踏み出してまいりましょう。
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