お城好きな自分の情報整理、城についての勉強「城勉」を日々まとめて行こうかと思いまして作りました。

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城について色々刺激的なことを知るけれど、なんだかきちんと整理できていない。
そんな気持ちから、その城を語るポイントを整理しておこうと考えました。
また、色々ごちゃごちゃ情報集めても活用しきれないので、コンパクト&シンプルに、6つにポイントを絞っています。
(間違いや、その城を語るにはもっとこのポイント方がいいということがあれば随時変更して行きます)


北陸

富山城(富山県)

といったら
怪しい城ランキング全国6位の城大きな鏡石を含む石垣で作られた鉄門のある城神通川の流れを城の防御に利用した城
天守が建築された記録はない。土塁中心だった東側に石垣、直線状の縄張りに横矢掛の屈折、地下駐車場の入り口を城門風にしてしまっており、史実に基づかない整備を繰り返している。かつての神通川は富山城付近で東に蛇行し、その南岸に築かれていた。水に浮いたように見え「浮城」とも呼ばれた。
富山復興のシンボル、戦後初の模擬天守がある城東大の赤門と同形式の千歳御門のある城
戦後初の模擬天守とされ、昭和29年に富山城址で開かれた富山産業博覧会で、富山復興のシンボルとして作られた。その後富山市郷土博物館として運営されている。千歳御殿の正門として建てられた富山城唯一の現存遺構。明治初めに豪農に払い下げられるも、2008年富山城(富山城址公園)へ移築される。現存する同形式の門は東大の赤門だけとのこと。

城生城(富山県)

といったら
南北に長い軍艦のような城飛騨から富山に向かう街道を押さえた城落城後井戸山の水を飲むと腹痛を起こすといわれた城
神通川左岸にある丘陵全体に築かれ、南北に細長い。その姿が軍艦のように見えるとも言われる。飛騨から富山に向かう際に必ず通る谷口にあり、飛騨街道と神通川水運の要衝。この地を押さえる役目を果たしたとも言われている。佐々に攻められ落城した城生城。その後、井戸山の水を飲んだものが次々と腹痛を起こしたことから、落城の際に死んだものたちの祟りであるといわれた。
城の南端が土砂採掘で削られた城北東西は天然の、南は人工の要害で守った城首切り場、石積、岩を削った塁がある城。
現在の城生城は、南端が土砂採掘で削られなくなってしまっている。そのため当時は現在よりも南に長い城だった。城の北、東、西は、川や断崖となっていて敵が攻めにくく、南は、人工的に土地を整形し、内枡形虎口、深い堀切なで敵の進入を防いでいた。北の郭には首切り場があるが、北の郭の端に位置し、そのあたりは崩落が激しく転落の危険性が高いためか、立入禁止のロープが張られている。また平坦地の仕切りとして使われていたのか石積が連なっている箇所がある。そして川のある東側では岩を削ってつくった塁がみられる。

高岡城(富山県)

といったら
前田家客将の高山右近が縄張を作ったとされる城総面積の3割が豪雨でも溢れないという水掘の城定かではないが、本丸北隅に天守予定地があった城
本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の5つの郭からなる構造で、前田家の客将だった高山右近の設計とする通説がある。ただし、右近が手がけた他の城との手法の違いから疑問視する説もある。城跡の総面積の約3割が人工のお堀で、その堀は、豪雨が降っても溢れることがないという。溢れない原理については定かではない。水掘を遊覧船「利長号」「利常号」で巡ることもでき、水掘から見る城址は違う様相を見せる。本丸の北隅に天守台と呼ばれる箇所があるが、天守があった記録はない。天守を築く予定地とも言われるが、絵図には材木蔵との記載がある。
城内に、動物園や体育館がある城前田利長が大火で焼けた富山城から移ってきた城刻印のある石垣で固めた土橋がある城
城跡は高岡古城公園として整備され、城内には高岡市民体育館や高岡古城公園動物園のほか、高岡市民会館、高岡市立博物館、射水神社が建てられている。桜や紅葉の時期のほか、各種イベント会場としてよく利用されている。富山城に隠居していた前田利長は、城下町の大火の類焼で大部分が焼けた富山城から、高岡城へ移ってきた。その際に当時「関野」だった地を「高岡」と改めている。二の丸と本丸を繋ぐ土橋は、側面に石垣をもつ。その石垣には多数の刻印の入った石が使われている。また土橋の脇から土橋に面する堀に降りることができ、間近で石垣を眺めることができる。

東海

名古屋城(愛知県)

といったら
鯱が金の城お堀に鹿のいる城日本三大名城の3番目を争う城

飛騨松倉城(岐阜県)

といったら
山城には珍しくほとんど総石垣造りの城日本三大山城岩村城を超える高い山の上にある城上杉謙信没後、三木氏が織田信長と同盟中に築いた城
本丸を含む中枢部に石垣があり、現存状態も良い。石垣が築かれている斜面も急斜面で、山城では中枢部にこれほど多くの石垣が用いられているのは珍しい。部分的には大きな石も使われている。松倉山は石が多く得られたようで石垣に使われている石は現地で調達したものだと考えられる。標高856.7メートルの松倉山に築かれている。[参考]岩村城(岐阜県)は、 標高721メートル。備中松山城(岡山県)は、現存天守で最高標高480メートル。御坂城(山梨県)は、標高1595メートル、比高500メートル武田方の江馬氏に対抗し、上杉方だった三木氏。上杉謙信が没し、織田信長と同盟する。そしてこの城を築き飛騨統治の安泰を図ったといわれる。信長が死に、北陸の佐々氏と共に秀吉と対立。秀吉方の金森氏に討たれ金森氏が松倉城を治める。石垣は金森氏が整備したとされるが、金森氏は高山城へ移り廃城となる。
一つ一つの郭が狭い城?旗立石という巨石がある城小糸の人柱伝説のある城
二の丸にある巨石は、旗立石と呼ばれ、合戦の際には城主の軍旗を立てていた場所とされる。裏側には割れ目があり旗が立ちそうだ。母と城下の村に住む小糸という少女が、日課のセリ摘みに出かけたまま戻ってこない。小糸はセリ摘みの最中に城の人柱として拉致されていた。母は小糸を呼びながら探し回るが見つからずやがて息絶える。その後小糸を呼ぶ声が風に混じって聞かれるようになったという。
飛騨松倉城

飛騨広瀬城(岐阜県)

といったら
北側と西側に集中する畝状空堀のある城郭に付随する削平地が比較的数多くあるお城広瀬氏の要害、三木氏に奪われた城
三の郭の北側と西側に斜面に畝状空堀が作られ、保存状態も良い。防御の正面である北側と西側を意識した配置になっている。一般的に畝状空堀は、草木でその凹凸が分かりにくい(撮影しても判別できない)が、ここは植林によって凹凸にきれいに木が生えており比較的分かりやすい。また畝状空堀群のほかに、畝状粗塁と呼ばれる堀まで至らない凹凸がみられる。飛騨市にある城は大体同系統の構造をしているが、広瀬城は中でも郭に付随する削平地が郭に多く連なっている。削平地は兵を詰める場所として利用されていたと考えられるから、多くの兵を収容できたと思われる。応仁の乱後、北飛騨を江馬氏、中飛騨を広瀬氏、南飛騨を三木氏が治めていたが、本能寺の変後に、江馬氏が飛騨統一を狙い三木氏と交戦。三木氏は広瀬氏らの協力を得て討ち勝つが、三木氏は広瀬氏を謀殺。広瀬氏の広瀬城を含む領地を奪った三木氏だったが、秀吉の三木討伐により金森氏に討たれる。現在の姿は金森氏に対抗するため三木氏が整備したものとされる。
謎の大きな堀切が縄張りの真ん中にある城城の北の谷に今も水で潤う水手がある城
堀切は敵兵の進行を妨げる役目があるが、広瀬城の中ほどにある大堀切がどのように使われていたのか謎である。
飛騨広瀬城

田丸城(三重県)

といったら
足利尊氏に落とされ、織田信雄によって改築された城謎の独立性の高い三の丸がある城段々に見える石垣で囲まれた郭の城
伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪が繰り広げられ、足利尊氏によって落城。その後、伊勢国司の北畠氏によって再建され、伊勢侵攻のため、北畠氏の養嗣子となった織田信雄の居城として改築された。織豊系の近世城郭と南北朝時代の中世城郭の遺構を併せ持つ点が興味深い。本丸へは南側にある二の丸を経由して入る構造になっていたとされ(現在は直接本丸へ上れる)、二の丸は馬出しの役目も果たした。二の丸と本丸は大きな堀切で分断され、石垣造りの土橋が繋いでいる。一方で本丸の北側にある三の丸は、本丸同等の面積を持ち、食い違いの堀切とそれによって作られる馬出しのような部分があるが、本丸へのルートを持っておらず、独立した構造となっている。現在、三の丸には稲荷神社が建つが、本丸二の丸と比べ、かなり薄気味悪い。郭は、本丸、二の丸、三の丸がメインとなっており、郭を囲む石垣は保存状態がよい。台地の地形を利用して築城されており、城を上っていくと、段々に郭が位置し、石垣の階段のように見える。石垣好きにはたまらない情景を見ることができる。
北側に二重の水掘がある城天守台に上段にいくほど狭くなる階段がある城カレーで町おこし中の玉城町のシンボルの城
北側にある三の丸に面する水掘は、二重になっている。また城の西側は腰郭と水掘があり、防衛機能に長けている。本丸に独立系の天守台がある。天守台に上る階段は、上に行くに従い狭くなる階段が付いてる。天守台には穴蔵や付属櫓の跡がある。城内には、玉城町役場、玉城中学校があり、玉城中学校のグラウンドが城内にある。グラウンドは芝。なお、玉城町は、玉城ポークというブランド豚があり、それを使った玉城カレーで町おこしをしている。町内に玉城カレーの店が数店ある。

東北

会津若松城(福島県)

といったら
目がダイヤの銀の鯱のある城

九州

熊本城(熊本県)

といったら
「武者返し」の石垣がある城敷地内に非常用食べ物がある城日本100名城で、日本三大名城の一つの城
武者返しは、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる石垣の形状。篭城戦となった際の食料にするため、城内には銀杏が植えられ、城壁は干瓢が塗り込められ、畳床には、里芋茎が使われた。築城者加藤清正が朝鮮出兵時の篭城戦で食糧不足に苦しんだ経験を生かしている。しかし植えられている銀杏は雄木で実がならないことから俗説といわれる。日本三大名城は、熊本城、姫路城、大阪城または名古屋城
西南戦争で西郷軍の重要攻略拠点となった城三の天守「宇土櫓」がある城築城400年で復元事業が進んでいる城
西郷軍の総攻撃で大天守、小天守が焼失するが、武者返しが役立ち撃退される。宇土櫓は城内最大の櫓で現存遺構。宇土城からの移築説があったが否定されている。本丸御殿のほか、櫓や塀の復元が進んでいる。復元された本丸御殿では、往時の食文化を体験できる本丸御膳が食せる。

近畿

高取城(奈良県)

といったら
日本三大山城の1つの城白い天守に小天守を備えた城山城にもかかわらず、広い敷地に独特の名の櫓が多い城
岡山県の備中松山城、岐阜県の岩村城と共に、日本三大山城に数えられる城天守は白壁だったらしく、城下町から見て南東方角(巽)にあって「巽高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城」と歌われた。土佐は高取の別名。また天守だけでなく小天守も持ち、これは山城には珍しい。山城には珍しく広い敷地に連郭式縄張りで多くの建物が作られていた。また櫓の数も多く、三重櫓が6、二重櫓が7。その櫓の名も独特で、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓などがある。本丸に至るまでに数々の城門を通らねばならず難攻不落さが感じられる。またその城門の跡となっている石垣の保存状態もよい。
深山の上に築かれ、苔むした壮大な石垣のある城筒井氏が復興した大和郡山城の詰めの城登城道の途中に猿の石像がある城
高取山(583m 比高390m)の山頂にあり、難攻不落で到達するのに約1時間かかるが、迎え出る石垣は、苔むして情緒あふれ、自然林と調和した石垣の連なりは壮大で圧巻。また石垣には、一部「支え石垣」という石垣を補強する石垣が見られる(岡山城(岡山県)にも)。織田信長の命で一度は破却されているが、本能寺の変後に筒井氏(順慶)によって復興。その後、秀吉の弟秀次の家臣本多利久が近代城郭へと大改修を行った。筒井氏は、大和郡山城を拠点としており、その詰めの城としての役割を果たした。高取城へ徒歩で向かう際に通る登城道には、岡口門へ向かう分岐点に猿の石像がある。建築の際、石垣に転用するのに飛鳥から石材などとともに運ばれてきた物らしい。飛鳥時代に作られたもので、郭内と城内の境界を示す「結界石」とした説がある。

大坂城(大阪府)

といったら
現存最古の復興天守の城

岸和田城(大阪府)

といったら
八陣の庭のある城岸和田合戦の舞台となった城二ノ丸にアカゲザルの猿舎があった城
諸葛孔明の八陣法をテーマとした砂庭式枯山水庭園「八陣の庭」がある。豊臣秀吉の一揆衆討伐に反発し、小牧・長久手の戦いの留守を狙った雑賀衆ら一揆衆が岸和田城を攻めた岸和田合戦が起こる。市民からの寄贈でアカゲザルの猿舎が二ノ丸に築かれていたが、皮膚病流行で減少、平成23年に最後の1匹が岸和田中央公園へ移送されて終わる。
戦後初の復興天守の城石垣がピンク色の城
昭和29年11月に作られ、戦後初の復興天守とされる。市民の誇りとして再建されたのか、再建の理由は不明。石垣は、風化に弱い和泉砂岩の野良積み。修復には切りこみ、打ち込み接ぎで花崗岩が使われた。花崗岩は肌色で、ピンク色に見える。灰色の和泉砂岩と肌色の花崗岩でモザイク模様にも見える石垣。

甲信越

松本城(長野県)

といったら
黒漆喰の黒い天守のある国宝の城内は望楼型、外は層塔型の城水掘りに囲まれ、外堀は復元プロジェクトが動く城
大天守と小天守ともに、黒漆喰が塗られた黒い城。その姿から市民からは烏城(からすじょう)と呼ばれている。黒さは秀吉天下時の城主で天守を建てた石川氏の黒い大坂城にいる秀吉に対する忠誠の証だとか。現存天守の大天守、小天守のほか3つの櫓と共に国宝。大天守、乾小天守、渡櫓は石川氏、辰巳附櫓、月見櫓は松平氏が作ったもの。現存12天守では唯一の平城。望楼型天守から層塔型天守の過渡期にある城。内部構造は望楼型であるが外観は層塔型をしている。このため3階に秘密の階と呼ばれる、低い天井に窓の無い空間が生まれている。松本城の周りには水掘りがめぐり、水掘りに写る松本城が特に美しい。南側と西側の外堀の一部が埋め立てられて民有地となっている。松本市はこの復元を目指して動いている。
天守が傾いた城武田氏に追われた小笠原氏が返り咲いた城
明治30年代に大きく天守が傾いたため、明治の大修理が行われた。軟弱な地盤の上に天守台に埋め込まれた16本の支持柱の老朽化により建物の自重で沈んだためとされる。信濃守護の小笠原氏の林城を守る支城の1つだった深志城(後の松本城)。武田信玄によって攻められ、信濃侵攻の拠点とされる。その後本能寺の変の動乱に乗じ、小笠原氏が奪還、名を松本城に改めた。

諏訪高島城(長野県)

といったら
諏訪湖に突き出した水城の城高島城角櫓で掛釜(お茶席)が開かれる城屋根が柿葺きだった天守があった城
諏訪の浮城(うきしろ)と呼ばれる。江戸時代に諏訪湖の干拓が行われて水城らしさは失われたが、日本三大湖城の一つ。毎月第2日曜日の10:00〜14:00に開催。格好も普段着でリーズナブル。事前予約は無しで、当日受付でお茶券を買う。かつての天守の屋根は、瓦葺きではなく、檜の薄い板を葺く柿葺き(こけらぶき)。軟弱地盤で瓦では重さに耐えれなかったとか、寒冷地の諏訪では瓦が割れてしまうとか諸説ある。現在は昭和45年に内部が資料館となっている復興天守が建ち、銅板の屋根に変わっている。
諏訪市民の愛着の城石垣が大木で組んだ筏に築かれている城平城国内最高の城
築城者の日根野氏に代わり、江戸時代は、諏訪氏が旧領復帰し治めた。諏訪藩は領主と領民の関係が良好でその想いが高島城への愛着となり、復興へ結びついたといわれる。諏訪の人たちに愛され、誇りとされるお城。石垣は、野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。平城としては国内最高の海抜760mにある。

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