「シンとセツコの関係に悶えるスレ」より転載
「スパロボZ〜世界を越えたSEX〜」24-36氏による「すれ違い」の続編。


 時空振動の白い光が、自分の身体を原子単位にまで分解しながら消える。
 それが最後の記憶となるはずだった。
「――――」
 目覚めた。
 その自覚が生まれた瞬間、理性と本能が矛盾を訴えあげ、セツコの意識に峻烈な驚きが生まれた。
 かすかに遅れ、次いで、視覚が実際に戻った。
「あ……」
 それだけではなく、喉を通って声らしきものすら出た。
 全てが終わり、二度と意識は戻らないと思ったはずだというのに、なぜ目が見え、声が出るのか。
 だがその意味を問うよりも先に浮かび上がった一つの事実に、セツコは愕然と周囲を見回した。
「ジ・エーデルは……!?」
 ZEUTHが時空修復を起こしたあの瞬間、他の誰も傷つかせぬよう、共に連れて行くと決意した敵。
 自分がここにいるのならば、その相手はいったいどこに行ってしまったのか。その姿が見えないことに、不安と
恐怖が爆発的に膨れ上がる。
 あの無邪気な快楽主義者をまさか見失ってしまったのかという絶望が脳裏を浸食した時、不意に、どこからか
声が聞こえた。
『奴なら、閉じた円環へと切り離された』
 限りなく近く耳に届いたのに、同時に、天から降り注ぐほどに遠いようにも思える奇妙な声だった。
「……!」
 自分以外の誰かがそこにいる事実と、語られた内容。
 二つともがこれ以上ないほどに驚きをもたらし、セツコは愕然と目を剥き、声がしたと思われる方向へ顔を上げた。
 そして、一瞬言葉を忘れた。
 紫とも青とも銀ともつかない色をした髪の青年が、そこに立っていた。
 個性のない、それゆえに整いきった造作。しかし没個性と断じるには、瞳の奥に見える光があまりにも深すぎる。
 果てのない深淵と至高の光。絶望を否定しながらも、拭えぬ孤独。人智を超えた英邁さと、人しか持たぬはずの
愚かさ。
 人格が二つあってもおかしくないほど、相反したものを冷然と備えている――そんな雰囲気を纏った、不思議な
人物だった。
 姿形は、地球人の年齢で考えればセツコとそう変わらない。
 だが、この場に何の混乱もなく佇んでいる存在が人間であるとは到底思えない。
 事実、青年の輪郭は幾重にもぶれて見えた。出来の悪い三次元映像をさらに重ねがけしたように、存在感が希薄だ。
 更には、生体と簡素な鎧を融合したような、今まで会ったどの時空の異星人とも印象が違う服装が、奇妙さに
拍車をかけている。
 だが彼や、ましてや自分の置かれた事実すら驚きに値しないと思わせるほど、この空間自体が最も異常だった。
 自らが立つ足元すら存在しない。星はなく、宇宙でもない。
 ただし限りなく宇宙に近い。
 まるで銀河の一生を早送りで見ているかのように、鮮やかな光がうねるように迸り、そして消え、時折雪でも
降るように白い光が散る。ただの一瞬もとどまることなく、全てが無音の中で起こり続けている。
 その静謐の中、ほとんど無表情に近い青年が、おもむろに腕を動かした。指先を辿ってセツコは振り返ると、
めまぐるしく変化する視界の中で唯一変化しない、球状の白い光が見えた。そしてその光と並ぶように、もう一つ
小さい光がある。

 セツコと向き合っていたのではなく、先ほどから青年はその光をじっと見据えていたのだろう。
 二つの光は何なのか、とセツコの中に疑問が芽生えるのを待ったようなタイミングで、彼が再び言葉を発した。
『お前が最後の瞬間に願った望みは、時空振動の際に叶った。ジ・エーデルが手に入れた《源理の力》はお前に
よって目覚めたスフィアと相互干渉し、今この時も互いの力を打ち消し合っている。ジ・エーデルはその無力な
状態で、固定された』
「固定……?」
『そうだ。位相のずれも起こらない、ただ永劫に同じことを繰り返す絶対輪廻の中に。外部から何らかの力が
働かない限り、ジ・エーデルは動くことも力を行使することもできないだろう。自分の過去を夢として見るだけだ』
 淡々と紡がれる声。
 最初に青年の口が発した言葉を思い出す。閉じた円環へと切り離された、と彼は言った。
 しかしそれが、眼前の二つの光とどう繋がるのかがまだ分からない。
「でも、いったい誰が固定を……あなたが? そもそもここは……どこなの」
 尋ねるには、情報が少なすぎた。
 自分の意識が飛んでいる間に起きた事実。そしてこの場所と、目の前の人物。
 何を尋ねるのを優先すべきかをセツコは考え、前者二つは譲れないと決意し、代わりに男の素性を問うことに
ついては諦めた。眼前の人物から敵意は見えないが、こんな場所に悠然と存在している以上、敵か味方かという
判断を自分が下したところで、事態が変わるとは思えない。そんなものに費やし、尋ねるべきことを見失うことを
避けたかった。
『いや。俺にその力はない』
 最初の質問に、男は静かにかぶりを振った。
『不安定な因子の介入によって、この近辺の時空が因果律の均衡を失いかけた。それを防ぐために俺は来た。
 もっとも、お前のおかげで出る幕はなかったが』
「私、の?」
『罪を犯し、その罪が何かすら忘れた因子と、《太極》に介入するはずがなかった暴発因子。そいつらによって、
因果律が乱れかけた。前者はお前からスフィアを奪おうとしたが失敗し、自発的にこの時空を去った。だが暴発因子は――』
「それは、ジ・エーデルのこと?」
『そうだ。前者はアサキムと名乗った罪人、暴発因子はジ・エーデルのことだ。ジ・エーデルがお前によって
止まらず、スフィアを得てしまった場合、俺はこの時空ごと奴を潰さなければいけなかったかもしれない。それが、
因果を律する俺の役割だからだ』
 潰す、とこともなげに言われた響きに、セツコは内心で驚いた。
 たやすくという意味ではないにしろ、それだけの力を持っていることを、彼自身が知悉している。
(この男は、アサキムやジ・エーデルより強いということなの……?)
 それでもやはり、後ずさりたいほどの恐怖がまるで浮かんでこないことが不思議だ。
 青年が、安堵しているように見えたからかもしれない。
 潰さなければならなかった、という言い回しのせいか、役割を放棄することはできずとも、自らの手で時空を
潰すことは極力避けたいのだと思っているように。
 彼は二つ並んだ光の球を見つめたまま、セツコに視線を落としもせず言い足す。
『ここは因果律や時間軸から逸脱した、次元と次元の狭間だ。意図的な綻びといってもいい。それが、お前のスフィアと
ジ・エーデルを誰が固定したかという答えにも繋がる』
「え?」
『スフィアとジ・エーデルを絶対輪廻に閉じこめた者は、ここに己の守るべき世界を持つ、かつてお前と同じく
機械によって運命を歪められた人間だ』
「人間……?」
 信じられない話に、呆然と呟いてしまう。
『そいつは、自分の守りたい物をはっきりと知っていた。己の手が小さいことも。だから時空を好きに歪められる
力を得た後も、自分が出会った狭い世界の人々を守るためだけに力を使うことを己に誓い、実際にそうした。奴が
守る世界は、位相のずれを存在させず、永遠に繰り返している。結果、そいつが守る世界は太極でさえも容易に
侵せない、あらゆる平行世界の狭間に置かれ、全てを可能にするがゆえに不可能しか存在しない堅固な砦になった。
それが、あの大きな方の光だ』
「光が……その世界ということですか?」
『そうだ』
 青年がうなずく。
 目を見開き、改めてセツコも光を見つめた。一つの世界そのものだという大きな光。それと並ぶ、小さな光。
ようやく少し、合点がいく。
「じゃあ……もう一つの光が、ジ・エーデルと、スフィア?」
『そうだ。スフィアとジ・エーデルの力が相殺された世界を、あいつが自分の世界と背中合わせに固定した。全ての
スフィアが揃い《太極》に至る戦いを始めるその時まで』
「なら、スフィアが揃ったら……ジ・エーデルはまた復活するということですか」
『その時にはジ・エーデルについてはこちらの管轄だ。俺か、他の役割を持つ者か、何にせよお前が背負うべき
ものではない。その日までは、セレスチアル・リアクターが行使する絶対輪廻が、お前のスフィアとあの閉じた
世界を守り続ける』
「セレスチアル・リアクター……」
 聞いたことのない単語を、セツコは口の中で反芻した。
『スフィアのように太極と繋がる役割を持たず、それ自体が純然たる《源理の力》として機能しているものだ。
セレスチアル・リアクターが搭載された機体に奴は乗り、そして一体化した』
「固定をしたのは、その人の意思なのですか? それとも、触れたことによる偶然?」
『この場所で、偶然という言葉を使うことは難しいな』
 彼の声は抑揚を持たず、セツコの疑問を淡々と否定した。
『お前たちがこの次元の狭間に落ち、あいつの世界に触れかけたことで、あいつは、お前を含めた世界の存在に
気づいた。因果律が崩壊する可能性に導かれてここに到達した俺に、自分と同じく機械に取りこまれたお前に
最後の猶予を与えてくれと頼んで、固定した。それが事実だ』
「最、後」
 思いがけずもたらされた言葉が、現実をまたたく間に甦らせた。
 開いた両手を見下ろす。
 予測は既にしていたが、突きつけられるとさすがに怯む。
 セツコは顔を上げ、悲しい確信を持って、小さな光を見つめた。
「……私の本体は、あの光の中で………もう、人ではないのですね」
『そうなる。既にスフィアと同化した』
 端的な肯定に、セツコは他に表情の作りようがなく、微笑んだ。
 スフィアは約束どおりに命を吸いきった。その代わりに、大切な彼らと、彼らが生きる世界から、ジ・エーデルを
引き剥がした。
「私が生きていた世界は、どうなりましたか」
『一つになった』
「……一つ?」
『お前が消えた時に存在していたまま、多元世界として歩き出した。特異点がそう願い、多くの者もまたそう願った。
なかったことにするのではなく、起きたことを受け入れた』
「世界は、あのまま……」
 最後に見た光景が、セツコの脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
 美しい地球の青。
 そして、消える間際に自分へ向けて皆がくれた言葉。
 悲しみは終わる。けれど命は終わりではない。自分の幸せを願ってもいいのだと――そう、全身全霊で言って
くれた彼ら。
 彼らが、今も、一つの世界にいる。
 青年が不意にセツコへと視線を戻した。深淵を知る怜悧な眼差しがはっきりとセツコを見据え、その口が開く。
『やり残したことはあるか、セツコ・オハラ』
 やはり見透かしたようなタイミングで放たれた問いに、セツコは眉根を寄せた。
 聞かれただけで、泣きそうになった。
 今さらなぜそんな問いをするのか。
 しかし泣けば本当に足元から全て崩れそうな気がし、限界まで気持ちを張りつめさせ、ほろ苦い笑みを唇に浮かべる。
「ない……とは言いません」
 許されるならば、もう一度、皆と会いたい。そう願わないはずがない。
「……でも、平気です。皆、きっと……私のことはすぐ忘れるでしょうし」
 そうだ、ともう一度セツコは自らに言い聞かせた。
『なぜ忘れると思う』
「なぜって……」
 が、ごく純粋に訊き返された瞬間、あっさりと心が揺らがされて目を伏せた。理由など分かりきっている。
 避けたかったことを強いられ、セツコは引き結んだ下唇を噛んだ。
「だって、もう会えない」
 案の定、口にした途端にひどい苦しさに見舞われた。声が震え、喉が痛み、存在しないはずの心臓まで音を
立てて軋んだような気すらした。
 反射のように涙がこぼれる。しかしそれもすぐ光の粒子となって消える。
『そうか?』
 が、相手はうなずかなかった。
『そう言うお前は、二度と会えなくても、忘れないだろう。仲間のことをずっと抱え続ける。いつまでも未練
がましくな』
 愚かだと暗に言われたような気がし、むしょうにセツコは腹が立った。
 そこまで見透かされる覚えも、馬鹿にされる覚えもあなたにはない――そう反発しようと口を開きかけた矢先、
それまで表情をまったくと言っていいほど変えなかった男が、思いがけず目をすがめた。
 次いで、淡く微笑んだ。いや、実際にそう表情を変えたのかは分からない。だがそんな錯覚をセツコが覚えた時、
青年の透徹した声に、かすかな郷愁と憧れが混じった。
『俺も、戻りたい場所がある』
 そしてその声は、馬鹿にされるよりも遥かに鋭く、セツコの心を抉った。
(聞いては駄目)
 自らの本能がはじけるように訴えた。
 聞けば取り返しのつかない悲しみに襲われる。その予感に襲われる。
「……やめて」
 懇願が勝手に口からこぼれた。
 だが聞こえなかったのか、男は視線を彼方へと向けた。自らの過去へと。
 失ったはずのそれを、誇らしげに、優しく語る。
『そして同時に信じている。その場所に帰った時、きっと彼らは笑って俺を迎えてくれることを。叶わないかも
しれないが、今でも、その夢を見ている』
 脳裏にどんな面影がよぎっているのかは分からない。
 だがそれこそが、何にも引き換えられない、唯一無二の宝であることだけは分かる。
 青年の表情がそこでまたがらりと変わり、セツコの弱さを叱責する響きが、声と眼差しに付与される。
『お前の仲間も同じようにお前を待つだろう。それを認めないのは、冒涜であり、裏切りだ』
「もう、やめて」
 耐えきれず、セツコは両手で口元を押さえた。それでも涙が次から次にあふれ、頬から手を伝い、次元の狭間に
霞んで消えた。
 目の前でそんな姿を見せられたら、自分まで、夢を見てしまう。
 大切な彼らが自分のことを忘れず、ずっと待ち続けてくれる。そんな都合のいい夢を。
 そしてその夢が事実だというのなら、彼らが忘れるだろうと思い込むことで自分を守り、孤独に耐えようと
決めた心が、張り裂けてしまう。
 眼前の彼のように、あの日々を笑って語ることなどできない。
 もう会えない事実ばかりが剥き出しになって打ちのめしてくるばかりで、優しい思い出になど到底できない。
「私は、もうこの結末を選んだもの」
 喉の奥で声がかすれた。実体ではないのに、これほどにわざわざ正常な反応を返す身体が憎らしかった。
 あの時、全てを捨ててでも、この命はジ・エーデルを止めるためだけに使うと決めた。
 世界が守られれば他に何もいらないと確かに思った。
 それなのに。
『もう一度訊く。やり残した望みはあるか、セツコ・オハラ』
 どこまでも冷徹に、男が再度訊ねてくる。
「無いわけ、ないでしょう!」
 たまらず、涙声でセツコは叫んだ。
 叫んだ瞬間、感情の針が振り切れた。
 望みなど、今にもあふれ出しそうなほど荒れ狂っている。存在しないはずの、この身体の奥底で。
「でも、私はもうこの結果を選んだ! そしてスフィアに命を吸われて一つになって、人間じゃなくなった! 
あなたがそう言ったじゃない! 戻れる方法なんて、どこにもない!」
 ぶつける相手を間違えていることが分かっているのに止められない。
 喉を裂くようなセツコの慟哭にも、男はやはり感情を返しはしなかった。代わりに、浅いため息を吐き出した。
『言っただろう、お前には最後の猶予があると』
「え……」
 思いがけない言葉に、反射的に涙が引っこんだ。
『平行世界の全てのお前は、あの瞬間に一つになり、スフィアに飲まれ、因果律の中に組みこまれた。だがスフィアと
戦い続け、最後に吸われるはずだったお前は、あいつの力によってかろうじて絶対輪廻からはじかれた。だから
再び元の世界に戻る為に必要な意識も肉体も、まだ残っている。お前は切り離された亡霊ではなく、お前もまた
本体だ』
 青年が指先でわずかに宙を薙いだ。その鋭い動作一つで、虚空に、二つの物質が現出した。
「バルゴラ!」
 時空転移の衝撃によってか、見る影もなく損壊したバルゴラを前に、セツコは思わず叫んだ。
 バルゴラも、手に持つガナリー・カーバーも、無残に砕けている。
 そしてその隣に横たわる、自分自身の肉体。パイロットスーツを身につけた姿は、バルゴラとは逆に、怪我らしい
怪我は見当たらない。
 幽体離脱をした人間の感覚とはこういうものだろうか、と、つい生きていた時の感覚で考えてしまう。
「私の、本当の……肉体?」
『そうだ。全てのスフィアが揃うまでのわずかな時間だろうが、お前にはまだその猶予が許されている。スフィアが
既に熟した以上、感覚が取られ続けることもないだろう。感覚が戻る可能性は高い。だが――』
 と、青年の眉間に、かすかに皺が刻まれた。
 彼もまた、この世の全てを見通すことが不可能だと示すように。
『俺の身体は、この使命を選んだ時に失われた。お前の身体がまだそこにあるということは、俺の起こした気まぐれの
結果ではなく、あいつの力が起こした奇跡でもなく、既に用意された宿命に過ぎず、お前があの世界で終わらせるべき
戦いがまだ残っているということかもしれない。それでも、お前はまだ、戻りたいという望みを持てるか?』
 彼の懸念は、しかしセツコの中でもはや意味を成さず、ただの言葉として流れた。
 セツコは呆然と立ち尽くした。
 あの世界に、戻れる。
 その事実だけがセツコの脳裏を埋め尽くした。
「……構いません」
 唇が、喋ろうという意思すら必要とせず、そう動いていた。
 口に出した途端、身を焦がすような願いが更に強まる。
 泣いたという自覚すらなく、涙がこぼれた。気にせず顔を上げた。
 戻れる。
 戦いを避けたいかなどと、この青年が訊く理由がわからない。それは、彼らが生きる世界を守る為に、まだ自分に
できることがあるかもしれないということだ。その為の傷など、いくらでもこの身に受ける。
 もうどこにも残っていないと思っていた力が、ふつ、と沸いたような気がした。呼吸すら熱を帯びる。
『ようやく、まともな顔を見せたな』
 セツコの反応に、どこか少年じみた皮肉さを口の端に刻み、彼が肩の力を抜いて見せた。それだけで不思議と
近づきがたさが薄れ、くだけた印象をもたらす。
 そこに至ってようやく、彼自身に対する問いかけをしたくなった。
 因果律。聞き馴染みのないその単語を口にする彼は、ひょっとするとジ・エーデルが言っていた中の《因果律の番人》
なのではないか。
 だが、それを問うても『呼び名などどうでもいい』で一蹴されてしまう気がする。
 おずおずとセツコは尋ねた。
「あなたはなぜ、私にそこまで……味方をしてくれるのですか」
『理由が必要か』
「少しは、気になります。その、アサキムのように私を利用したいようには思えませんが……」
 警戒の理由に、『そうだな』と彼が苦笑した。
『俺も昔、多くの仲間と共に戦った。仲間の別時空の姿を、お前の世界に触れた時に見ることができた。その礼だ』
 青年の腕が伸び、体温のない指がセツコの額に触れた。
 そう思ったのも束の間、セツコがまばたきをしてまぶたを上げた途端、がらりと視界が変わっていた。
「え……」
 何の前触れもなく、肉体と意識が融合した。
 そう分かったのはバルゴラのコクピットへとその身体が移動したからだ。直後、身体が一気に不自由を取り戻す。
 どっと重たくなった全身に、呼吸さえ難しくなった。
 だが、その全身を重たくさせる疲労が、不思議な心地良さをもたらす。
 見慣れたコックピット。操縦桿を握る己の指。
 心があっという間に、この感覚を失う最後の瞬間へと立ち返ろうとしていくのが分かる。
『願え。行き先をどこにするか、時空を越えられるか、それはお前次第だ』
 青年の声が、最初と同じように天から降るように鼓膜を撫でた。
 そして。
 世界が、疾走した。



 次元の狭間を、鳥が空をすべるように、バルゴラが駆ける。
 あらゆる時間と、空間と、次元。
 一筋の光の矢となって、無数に広がるそれらを飛び越えながら、セツコは己の心と向き合った。

 ――聞かせて下さい! セツコさんの見つけた答えを!

 白い光が、自分の身体を原子単位にまで分解しながら消える。
 そうなるはずだった最後の瞬間に思い出していたのは、ジ・エーデルと対峙した、あの時のことだった。
 思うままに戦えと、νガンダムからもたらされた通信。
 その後に聞こえてきた、デスティニーからの問い。
 彼の問いに、本当は自分がどう答えたかったのか。
 それはジ・エーデルを連れて行くと決めてもなお、最後まで残り続けた未練。
 無数に広がる中で、たった一つ――許されるならば選びたかった未来。
 バルゴラのモニターの向こう側、めまぐるしく全てが遠ざかっていく。それら無数の時空の一点から、不意に
光があふれた。
 世界を照らし出す黎明の光のように、美しい。
(私は――)
 唇を引き結び、その一点へとセツコはバルゴラを向けた。
 生まれて初めて自分自身のためだけに願いを胸に抱き、彼女はその光をくぐった。


     ※

「次元境界線の歪曲率、レッドゾーン到達まであと五分だ。座標に近づきすぎるなよ」
 ブルーフィクサーからの警告が、ザフトから派遣された調査隊全機に向けて届く。
 その警告によって、布陣した部隊の面々に、更なる緊張が走った。
 誰もが息を飲み、戦艦のブリッジから、あるいはモビルスーツのコックピットから、星々が遠く輝く真空の宇宙の
中で緊張と共に一点を見据えた。
「もっと早く分からなかったのかよ」
 デスティニーのコックピットからシンがつい毒づくと、ブルーフィクサーからの通信がそれまでのオープン
チャンネルから個人回線へ切り換わった。ZEUTHだった時の気安さで、オリバーから皮肉げな舌打ちがこぼれる。
「言ってくれるな。こんな短時間で一気に歪曲なんぞ、あの時だってそうそうなかったことだぞ」
 ブルーフィクサーが、地球圏内で次元境界線の歪曲を観測したのが三時間前。
 たった三時間後にL5近辺に時空歪曲が起きる、という警告を元に動けたのは、一番近かったプラントだけだった。
 いや、プラントからでも至難の業だった。
 緊急出動命令と同時に、機体を戦艦に搭載する時間すら許されず、準備ができた機体や艦から発進しては宇宙で
合流して一気に速度を上げ、この座標付近で再び戦艦を中心に布陣したのだ。
 それでも時間ぎりぎりであり、地理的に遠い地球や月からは駆けつけることすら間に合わなかった。エーデル・
ベルナルを失い、新たに再出発した連邦も同様だ。
 今、防衛力としてこの場に間に合ったのは、ザフトからの三個艦隊、そして亜空間航行が可能なブルーフィクサーの
機体だけだった。他の陣営は、ブルーフィクサーからの映像通信だけを頼りに、固唾を呑んで見守っていることだろう。
 カミーユやアムロ、ゲイナーやサンドマンといった辺りは、おそらく間違いなくどこかのモニターの前にいるに
違いない。
 シンは自機の計器に目を落とした。座標を調査しようとレーダーを働かせても、モビルスーツに搭載された計器では
何も起きているようには思えない。
 顔を上げ、モニターを見つめる。
 座標部分に何らか物体が現れれば、最大望遠でかろうじて何かが映るかもしれない――それだけの距離がまだ取られている。
 時空歪曲が発生した場合に巻き込まれる確率を考慮した結果、これが最接近防衛ラインだ。
 苛立ちにも似た怒りがこみ上げ、ヘルメットの中にこもる声でシンは奥歯を軋ませた。
「今度は、何が攻めて来るっていうんだよ」
 怒りのせいで、不必要なまでの力が眉間にこもる。
「落ち着け、攻めてくると決まったわけじゃないぞ」
「分かってる」
 オリバーからたしなめられ、シンは口をへの字に曲げた。
 新たな侵略者――あるいは共に同じ時空で生きることになる来訪者。最初の接触が自分達である以上、責任が
重大であることは分かっている。
 かつて、L4で初めて遭遇した時空振動の時とは訳が違う。何も分からずただ不審視し、敵対することが正しく
ないことも。
 それでも、戦いになるかもしれない可能性が消えないと思うと、冷静に立ち回るということはどうしてもできそうに
なかった。
 芽生えてくるのは、理不尽さに対する怒りだ。
「まだ、たった半年だぞ」
 口の中で吐き捨て、シンは漆黒の闇を睨んだ。
「あの人がまだ帰ってきてない内から、また戦いが始まるっていうのかよ」
「シン」
 通信を聞いていたのだろう、名を呼んでくる雷太の声に気遣わしげな響きが滲んだ。
 半年前に解散してからもなお、ZEUTHの仲間だけが、自分にそんな声をかけてくる。
「歪曲率は!」
 感傷をねじ伏せ、シンは怒鳴るように訊いた。唇を一文字に引き結び、これから起きる出来事に集中するために。
(あの人が守った世界だぞ)
 いくつもの世界が一つになって、平和になって、まだたった半年。
 ようやく得た平和を崩されるなど言語道断だ。
(俺が、守る)
 決意と共に、操縦桿を握る手に力をこめる。
 そうでなければ、ここに間に合った意味がない。
「歪曲率、危険域に到達! 来るぞ!」
 オリバーからの通信が、緊張を孕み、再びオープンチャンネルで全機へ通達される。
 それまで漆黒を映すのみだったモビルスーツや戦艦のモニターに、次元の断層を思わせる稲光がかすかに走った。
『全軍、第一戦闘配備! 何が起ころうと気を抜くな!』
 調査隊を率いるザフトのイザーク・ジュールの苛烈な宣言と、現象の始まりと、果たしてどちらが先だったか。
 一点から、想像を絶する光と衝撃が迸った。
 反射的に息を止めたシンの前で、まるで熱のない太陽が生まれたかのように光があふれ返り、次いで乱気流に
似た激しい振動が各機を揺らした。
 それらの衝撃と共に何らかの未知の粒子も一緒に放出されたのか、各員の視覚がやられるよりも更に一足早く
計器が限界を訴え、全ての艦や機体の機能が一時的にダウンする。
 その衝撃から逃れることは叶わず、デスティニーもまたカメラが光量を捉えきれず、各モニターがブラックアウトを
起こした。
「なっ……!」
 反射的にシンは通信機のボタンを押した。
 が、ブルーフィクサー側も同様なのか、通信にノイズが走って使い物にならない。それどころかノイズのひどさに
耳鳴りが走る。
「くそっ!」
 シンは壁を叩きつけた。
 機能が回復するまでのわずかなタイムラグが命取りになるかもしれない――爆発的な焦燥が広がる。
 数秒後、ノイズを走らせながらモニターが機能を回復した。
 焦りと共に、シンは即座にコンソールに指を走らせた。
 振動波を生み出した中心部を最大望遠で映し出す。
 光が弱々しく収束し、何もなかったはずの一点に、かすかな輪郭を捉えた。目を凝らさねば見えないほどに小さい。
 モビルスーツ程度か。
 敵か、味方か。
 まばたきする時間すら惜しんで睨む中、ようやくモニターが結んだ実像を捉える。
 瞬間、全神経が反応に窮した。
 双眸が自然に極限まで見開かれ、指先が力を失い、震えた。
「あ………」
 喉の奥からかすれた音がこぼれ落ちる。
 唇がわなないたことすら気づかぬまま、シンの震えた手足が無意識に動いた。
 操縦桿を最大まで押し、ペダルを勢いよく踏みこむ。
 意識の有無に関わらず、機体はシンの動きを従順に汲み取り、反応した。
 誰もが身動きすら取れずにその場に留まる中、デスティニーのバーニアが勢い良く噴射したかと思うと、光を
失った一点に向け鋭い軌跡を描いて飛び出した。


「おいシン、待っ…!」
 現れた物体の正体を照会すらしない内からいち早く防衛線から飛び出した機体に気づき、雷太は反射的に制止すべく
通信しかけた。
 が、通信ボタンを押しかけた手を、己の目から入ってくる情報がぎりぎりで留める。
 想像もしていなかった光景に、彼もまた数秒、目を疑った。
 己の指先を握りこみ、隣で自分と同じく動けなかった仲間へ通信をかける。
「おい、オリバー。まさかあれは……」
「ああ、分かってる。間違いない」
「だよな。そう、だよな…!」
 戻ってきた強い肯定に、雷太は強く何度もうなずいた。
 次元境界線の歪曲を警告していた数値は、まるで何事もなかったようにまたたく間に安定値を取り戻し、もうそこが
ただの宇宙の一座標に過ぎないことを示している。
 否、ただの座標数値だけではない。
 つい今しがたまで存在しなかった物質を計測していた。そして計測値を吟味する必要なく、強烈な光と衝撃が
去った今、現れた物質は明確な姿を現している。
 かつてここにあり、そして時空修復の瞬間から半年間、誰もが探しながら見つけられなかった機体。
「雷太、ZEUTHの連中に通信だ。マリンや闘志也、デューク達にもだぞ」
「おう、もちろんだ!」
 思わぬ結末に声が弾むのを抑えられぬまま、雷太はトリニティシティに向けて通信を掛けた。
 ザフトを指揮するイザーク・ジュールの声がそこにかぶる。
『全機、武装解除。旧ZEUTH所属メンバーを除いた各機は、転進の後、プラントに帰投せよ』
 シンが飛び出したことをこちらに報告することなく、わざわざオープンチャンネルで出された命令に、オリバーと
雷太はほぼ同時に口の端に笑みを浮かべた。
 彼もまた、あの戦いのさなかにアスラン・ザラに説得されて最後の数戦ほど仲間として戦った人物だ、即座に
気づいたのだろう。
 命令に従い、付近のモビルスーツが武装を解除し、戦闘に備えて高まっていた緊張感がほどけていく。
 その光景を見やりながら、そうだ、とオリバーは胸中でうなずいた。そして再び、デスティニーが向かっていく
先を見つめ、目を細めた。
 戦いが始まるのではない。
 今、ようやく。
 あの長く苦しい戦いが、終わったのだ。


 飛んで行きたい。
 それほどに、あとわずかの距離がもどかしかった。
 気ばかりが焦り、限界速度まで操縦桿を押しこんでいるのに、更に速くと力がこもる。
 安全距離に陣取っていたことをこれほどに嫌悪したことはなかった。
 相対距離を示す数値が着実に少なくなり、メインカメラが捉えるその姿がはっきりとした姿を細部まで映し出し
始める。そうして拡大されていく映像に、脈がどくんと跳ね上がった。
 いったい何があったのか、最後の戦いが終わった時でさえそこまで壊れていなかったあの青い機体が、見る影も
ないほどにボロボロだった。
 翼に似た背中のジェネレーター部は一部が焼ききれている。スラスターも損壊に巻きこまれ、とても自力航行
できるとは思えない。装甲は衝撃に耐えかねたように自壊し、あちらこちらが剥がれ、守られねばならない内部配線さえ
見える部位すらある。それだけでなく、最大の特徴とも言えるガナリー・カーバーが完全に破壊され、復元すら
できそうになかった。気のせいかもしれないが、内部から何かが飛び出し、その衝撃で破壊されたようにも見える。
 損傷の容赦なさに、背筋が凍った。
 生きているのか。浮かび上がるその自問を、生きていないはずがないという結論にむりやり置き換える。
「セツコさん!」
 声の限りにシンは叫んだ。
 応えがないのが当然だと分かっていながら、無反応に心が焦る。通信を掛けたが、あちら側の機能がおそらく
完全に死んでいる。
 もどかしさに苛立ちながら、シンはようやく到達したバルゴラの片腕をデスティニーの手でがっちりと掴んだ。
「ヘルメット、してて下さい!」
 このまま生死も確認せずにプラントに戻るまで待つことなど、耐えられない。
 怒鳴るように願い、デスティニーのもう一方の手をバルゴラのコックピットキャノピーに掛け、シン自身も操縦席から
立ち上がった。飛び出せるように身構え、コンソールに這わせた指で最後の命令をデスティニーに叩きこむ。
 デスティニーのキャノピーを開けると同時に、デスティニーの手がバルゴラのキャノピーをこじ開けた。
「セツコさん!」
 コックピットの縁を蹴り、一気にバルゴラのコックピットへと乗り移る。
 彼女の姿が、あった。
 バイロットスーツを身に纏った彼女をシートから外し、シンは素早く抱きかかえた。目は閉じられ、パイロット
スーツ越しではその身体が暖かいかどうかさえ分からない。
「セツコさん!」
 目覚めてくれ、とこめた思いが届いたかのように、ヘルメットのバイザー越しに見えていた彼女の睫毛が震えた。
 ゆっくりと押し開かれ、やがてはっきりとシンを映した。
 シンを認識し、彼女の腕がそっと上がる。そのまま確かめるようにセツコの指先がバイザー越しにシンの顔に
触れた。
 唇がかすかに開かれる。
「……シン、君?」
「はい、俺です」
 安心させようと、シンは必死でうなずいた。見たところ怪我はなさそうだが、衰弱の度合いが分からない。
 ただ、半年間をどこかで過ごしてきたようにはとても見えない。
(まさか、今、やっと?)
 セツコの表情筋がぎこちなく動き、安堵が浮かび上がったかと思うと、シンの疑問を解明する言葉がその唇から
紡がれた。
「良かった。わたし、戻って……来たのね……」
「もう大丈夫です、すぐ安全なところに――」
 彼女の首が、かすかに横に振られる。
「聞いて、くれる?」
「何をですか!?」
「ジ・エーデルとの戦いの時に……あなたが訊いてくれたことの、答え。まだ……言ってなかった、から」
「そんなことはいいから!」
 彼女を急いで自分のコクピットに連れて行こうとし、しかしまた再び、ささやかな首の動きによって制止させられる。
「ううん、聞いて欲しいの。シン君に、一番に」
 彼女はゆっくりと微笑み、うまく動かない身体を、それでも全て自分のものだというように動かした。
 普通の数倍の時間をかけて細い両腕が宙を切り、シンの首に回った。つたない力が、そっとこめられる。
 ヘルメット越しに、優しい響きが滲んだ。
「私ね。この世界で………生きたい」
 この半年、夢の中でしか聞くことのできなかった彼女の声が鼓膜を震わせた時、見開いていたシンの目から涙が
こぼれた。まばたきした拍子にヘルメットの中に音もなく散る。
「――――」
 これ以上なく胸に迫った。
 願ってくれた。
 ようやく。
「……うん。……うん……!」
 ひたすらに唇を引き結び、シンはセツコの身体を深く抱きすくめた。涙腺が馬鹿になったように、涙が次から次に
あふれる。早くデスティニーに戻ってヘルメットを取らなければ溺れてしまうかもしれない。
 それなのに、動いた瞬間に全てが夢になりそうで動けない。
 動かないシンの様子に、セツコが、穏やかに微笑んだ気配がした。
 シンの背中に回る腕にかすかな力がこもる。
「シン、君」
「はい」
 今までと逆だ、とシンは思った。いつも彼女が泣いているのを止めたい側だったのに、どうしても涙が止まらない。
嗚咽すらこぼれそうで、唇を引き結ぶ。
「ただいま」
 彼女の満ち足りたささやきが、とても優しく、シンの鼓膜を撫でた。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

編集にはIDが必要です