まるで夢みたいだ――。

時代がかったアンティークのイスに腰掛けている、あどけなさを残した青年…リョウト・ヒカワは、ともすればボウっとしそうになる思考を落ち着かせるのに四苦八苦していた。
自分の周りには、見たこともないような、一目で高級だと分かる調度品がセンスの良さを感じさせる配置で佇み、目前のテーブルには己の月給が即座に露と消えそうな高級フレンチ料理……。

そしてなによりも…向かい側に座る、切れ長の双眸をキャンドルの光で艶めかしく浮かび上がらせながら嫣然と微笑むとびきりの美女……。

誰しも一度は夢見る最高のシュチュエーションである。

しかし現状、リョウトはむしろ針の筵みたいだと感じていた。どう贔屓目にみても自分は場違いだと思うし、このような高級ホテルのスィートなんて十年は早いだろう。かててくわえて……目の前の女性と同伴なんて色んな意味で恐れ多いのだ。
「あの、リン社長」
「……リョウト」
雰囲気に耐えられなくなったリョウトが文字通り恐る恐る真向かいに座る美女…リン・マオに声を掛ける。返ってきたのは穏やかでありながら内に激情を潜ませているような声だった。
「は、はいっ」
思わず背筋をシャキーンと伸ばして畏まる。
「…今はプライベートな時間だ。この場でその敬称は相応しいとは思わないぞ?」
「あ、あの」

つまりは名前で呼べと言うことなのだろうが、出来る筈がなかった。相手は自分が雇われている<マオ・インダストリー>の社長なのだ。只の平社員である身からしたら雲の上の存在に等しいし、元来奥手なリョウトに名前で呼ぶ気概などないのだが…。
「リ、リンさん」
「なんだ」
精一杯の勇気で口にすると、先程とは一転、にこやかに聞くリンにホッとしつつ疑問を口にした。
「その、よかったんですか?僕なんかを連れてきて」
「……どういう意味だ?」
「え、えっと、僕なんかより相応しい人が……」
「アイツの事は口にしないでもらおうか」
今度は底冷えがするほどの声が返ってきた。目つきを細めながら不機嫌に言われると冗談抜きで背筋が凍った。
虎の尾をモロに踏んでしまったことに今更ながら青褪めつつ、なんとか場を治めようとする。

「はぁ……別にアイツとは婚約しているわけでも将来を誓い合ったわけでもないんだ。お前が気にする必要は全く持ってない」
そうだろう?、と軽く睨まれると…そ、そうですね、としか返せないではないか…
勿論、リョウトはリン・マオと、彼女の言う<アイツ>→イルムガルト・カザハラが昔からの恋人同士というのは承知している。だからこそ、戸惑わずにはいられないのだ。
そんなリョウトの気も聞く耳持たずのリンはグラスに並々と注がれた、これまた値段を聞くのが恐ろしいワインをグイっとばかりに飲んでいく。
白い首筋が淡い光に彩られて嚥下していく様は酷く蟲惑だ。

女性がお酒を飲み、それに酔っていく様はなんでこんなにも美しいのだろう。
リョウト・ヒカワは対面の椅子に腰掛けるオンナとしての魅力に溢れた女性…リン・マオを半ばうっとりと見つめていた。
お酒に強いのかどうか知らないが、先程から随分とハイペースでグラスを呷っている。
外見的には頬にうっすらと薄桃色の赤みが差しているが……
「リ、リンさん、少しペースを落とされたほうが…」
「…大丈夫だ」
気怠げにリョウトを見つめる眼差しは普段通りの鋭さを備えていたが、どこか漂うような光も見せていた。
「この程度の酒に酔うほど私は弱くはないさ。こう見えても…軍に居た頃は酒飲みで負けたことはないんだ」
そう言って自嘲げに笑うリンだったが、目は少しも笑っていなかった。

気遣わしげに己を見つめてくる青年をリンはほろ酔い加減の人特有のトロンとした目つきで見ていたが、ふいに目を逸らすと呟いた。
「リョウト…、どうやら君の言うとおり、少し酔ったらしい。酔いを醒まそう」
「それだったら、お水を」
立ち上がろうとするリョウトを手で制すると悪戯っぽく微笑みながら言い放った。
「あそこのソファーまで…肩を貸してくれないか?」
「わ、分かりました。立てますか?」
近付くリョウトに自分の直ぐ横をチョイチョイと指し、傍まで来るのを確認して立ち上がると、リョウトの胸にもたれかかるようにふらついた。

「あっ」

慌てて肩を両手で支えるとポフッと軽い音と共に思っていたより華奢なカラダが芳しい芳香とともに凭れ掛かってきた。
「すまないな」
「い、いえ」
自分の耳にリンの吐息がかかって顔全体が真っ赤になるのを自覚したリョウトは恥ずかしげに顔を逸らす。
そんなリョウトの横顔を至近距離で見つめたリンは意地悪げに微笑み、「さ、運んでくれ」とさらにカラダを密着させてきた。



まったくの無音の世界だった。
窓越しに設置された洒落たロングソファに腰掛けているリョウトは目の前の夜景に半ば見入っていた。
月面都市セレヴィス一角にある超高級ホテルの一室から見渡す情景はまさに絶景だった。
「いい眺めだろう?」

肩が触れ合えるほど近くに座るリンが景色に見入っているリョウトに言う。
その声には若干ながら、私のことを忘れてやしないか?、といったニュアンスも含まれていたがリョウトはリンに顔も向けずにひたすら眼前のパノラマに括目していた。
「すごく…綺麗です」
「…そうか、ここの夜景はとかく人気があってね、セレヴィスでは隠れた名所のひとつだ。私もこうしてよく泊まって眺めるが…この素晴らしさは日頃の何もかもを忘れてしまうな」
「あの……どうして、僕なんかを?」
おそらくリンに誘われたときから疑問に思っていただろうことを何とはなしにリョウトは尋ねた。
「君は自分を過小評価しすぎるな。君は最早わが社になくてはならない存在だし、私と共に戦った戦友でもある。君は自分が思っている以上に、周りから評価されている」
誇りに思っていいことだ、とリンは横目で間近にあるリョウトの横顔を見つめる。

「有り難う、リョウト。敬意をもって接してくれて」
「リンさん…」
「あそこまで無防備な姿を見せたのに、君は何処までも真摯に接してくれた。ああいう場合、女性はなにされても文句は言えないというのに…」
「僕は……」
「すまない、なんて意地悪なオンナだと軽蔑してくれていい」

頭垂れるように顔を俯かせるリンは、リョウトの瞳を見れないでいた。
己の軽はずみな言動を後悔もした。
もし、リョウトが自分を律せずに覆いかぶさってきたら場の勢いと沈んだ感情のままにカラダを重ねていただろう。
その後に残るのはお決まりの気まずさのみ。

「よほどリオを大事に想ってくれているんだな、君は」
「リオ……」
「イルムとは違うんだな、アイツはいつも私を………っ」
それ以上は繰り言になると思ったのか、唇を噛み締めるとますます顔を俯かせる。
そのとき、リンの頬にそっと暖かい手が触れた。
ゆっくりとリンが顔をあげると、揺らぐ視界に辛そうな顔したリョウトが写る。
「リョウト…」

「清廉潔白な人なんて…いないと思います、ミンナ、ソレと一緒に生きていくしかないんです」
リョウトの言う<ソレ>が何を指すのかは分からなかったが、ほんの少し、肩の荷が降りた気がした。
「…言うようになったな。なら、もう少し甘えさせてもらおうか?」
悪戯っぽくリンが囁くとリョウトはごく自然にそっとリンの肩に手を廻して自分の肩に寄りかからせた。
「……ほう、なかなかやるじゃないか」
顔を少し赤らめつつリョウトを見やると、肝心の彼は文字通り顔を真っ赤に染めて視線を逸らしていた。
「ぷっ」
仕草と表情のギャップにリンが吹き出すとリョウトは恨めしげに返す。
「……僕にとってはこれが最大限の贅沢です」
「いや、なかなかどうして、様になっているよ」
フフフ、と笑いながらリンはカラダを完全に寄り掛からせて頭をリョウトの肩の上に乗っけて目を瞑る。
不思議とココロが浮き立つ感覚だった。
久方振りの安らぎを覚えつつ、いつしかリンはまどろんでいった。



ジャーーーーーーーーーーー!!

「ん…」

漏れ聞こえるシャワーの音で目を覚ましたリンは自分がソファーに寝転んでいるのに気付いた。
「そうか、あのまま眠ってしまったのか」
そういえば自分の上着が脱がされている。
恐らく、寝苦しさを考慮に入れたのか、リョウトが脱がしてくれたのだろう、傍にきちんと折り畳んであった。
「リョウト?」
薄暗い室内を見渡しても誰もいなかった。
バスルームから漏れ出る光で、リョウトがシャワーを浴びていると気付くのに数瞬を要したが、ふとおかしなことに気付く。
リョウトが着ていた衣服が乱雑に脱ぎ捨てられ、それがバスルームまで点々と続いているのだ。
紫を基調とした上着から黒のガーディス、白のズボンなどが文字通り散乱していた。
およそあの青年らしくない所業に首を傾げながら、ゆっくりとバスルームに近付く。
ノックしようと手をあげた所で、室内からすすり泣くような声が聞こえてきた。
「?」
訝しがりながら、何故かリョウトに悟られないようにゆっくりとノブを廻す。

何故こうしたかは後になっても分からなかった。
もし、ノックをして声を掛けた上で中に踏み込めば、リンの未来は穏やかなものになっただろう。
恋人のイルムと喧嘩しながらも一緒になる未来だったはずだ。

しかし…この行動の結末はリンにとって……いや、複数の女性たちにとって転機になるものになったのは紛れもない事実である。
未来はこれを契機に別の道を辿り始める。
それがリョウトにとって、リンにとって、そして彼女らにとって不幸かどうかは本人たちしか知り得ない事だった。

ぎぃぃぃぃ

そして、扉が開く……


「……リョウト?」

(続く)

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