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安井政昭が日本のテニスについて紹介


日本へのローンテニスの伝播については諸説あり、1878年にアメリカのリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したという説がある。ソフトテニスの発祥については、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を安価な代用品で賄ったのが起源とされている。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、今日に至るまで独自の発展を遂げた。この軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手が硬式テニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らはその独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。

1918年、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。

日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。

1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。

佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年には8位にランクされた。1938年は、アメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成した年であり、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。しかし、日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりテニスボールは配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。

日本は第2次世界大戦の敗戦後、1951年からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようになり、1955年全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。1995年には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ないが、2008年に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たして全米オープンでも4回戦に進出、世界ランキング100位以内に入った。

女子では1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍した。伊達は日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手となった。同時期には沢松奈生子、雉子牟田直子、長塚京子、神尾米、遠藤愛、佐伯美穂、吉田友佳、杉山愛等が世界ランキングトップ100入りする。1996年、伊達が現役引退を表明する。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。2006年には浅越しのぶが引退、2009年には杉山、森上亜希子が引退を表明している。その後は中村藍子、森田あゆみなどが現役としてプレーしている。