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封獣ぬえのスペルカード。
備考
- 恨弓(こんきゅう)
- 鵺を退治した恨むべき弓。
『平家物語』によると鵺退治は二度行われている。
- 仁平の頃(1150年代 帝は近衛天皇)の鵺退治では、
頼政が暗雲の中に蠢く影を視認して南無八幡大菩薩と祈念しながら山鳥の尾の鏑矢を放ち
矢を受けた鵺はたちまち正体をあらわし地に落ちた。
かかさず頼政の従者の猪早太が駆け寄って刀で何度も刺してとどめをさした。
鵺の遺体は空舟に乗せて桂川に流された。
頼政はこの功績により近衛天皇から「獅子王」という刀を授かった。
『源平盛衰記』によると猪早太が使った刀は頼政が預けた短刀で、名を「骨食」という。 - 応保の頃(1160年代 帝は二条天皇)の鵺退治では
鵺は暗雲に包まれて姿は見えず、頼政はまず大鏑矢を放ち
鏑矢の鳴る音に反応した鵺の鳴き声で狙いを定めて2射目の小鏑矢で仕留めた。
- 仁平の頃(1150年代 帝は近衛天皇)の鵺退治では、
- 鵺を退治した恨むべき弓。
- 源三位(げんざんみ)
- 平安時代当時、源頼政は清和源氏として初めて従三位に昇ったことから、源三位(げんざんみ)と称された。
- 平清盛が武士として初めて正三位(しょうさんみ)として公卿になる以前は、清和源氏、桓武平氏とも正四位(しょうしい)を極位とした。
- 従三位(じゅさんみ)
- 律令制下においては、従三位以上を『貴』と称し、また
従三位の一つ上が正三位で、一つ下が正四位。
- 律令制下においては、従三位以上を『貴』と称し、また
- 平安時代当時、源頼政は清和源氏として初めて従三位に昇ったことから、源三位(げんざんみ)と称された。
- 源頼政
- 頼政は、土蜘蛛退治(参照:黒谷ヤマメ 種族の項)や酒呑童子退治(参照:伊吹萃香)で有名な源頼光を祖とする摂津源氏の出で頼光の直系の子孫。(頼政は頼光の玄孫にあたる)
ちなみに、鎌倉幕府を開いた源頼朝は源頼光の弟である源頼信を祖とする河内源氏の出で、同じ源姓でも系統が異なる。
強いて言えば、嫡男頼光の子孫である頼政の摂津源氏のほうが、頼朝の河内源氏より家柄は高い。
- 頼政は、土蜘蛛退治(参照:黒谷ヤマメ 種族の項)や酒呑童子退治(参照:伊吹萃香)で有名な源頼光を祖とする摂津源氏の出で頼光の直系の子孫。(頼政は頼光の玄孫にあたる)
- 頼政の弓
- 平家物語において、源頼政は弓を用いて鵺を退治したという説話から。
- 『源平盛衰記』(鎌倉時代以降成立)では、この弓は「雷上動」と言う名前で
頼政の4代前の源頼光より代々伝えられてきたもの。
また、2本の鏑矢と直垂がセットになっていて、
黒鷲の羽根の鏑矢には「水破」、山鳥の羽根の鏑矢には「兵破」という名前がある。
「雷上動」は五台山の麓の前後2つの頭がある蛇に法衣の糸2.5mを張って文殊菩薩が作った弓。
「水破」「兵破」は文殊菩薩が自分の両眼の精から作った鏑を使った2本の鏑矢。
直垂は当時で言う所の秋に着るはつもみじで、経文が書かかれた多羅葉で作られている。
元の持ち主は紀元前7〜6世紀頃の中国の弓の名手・養由基。
養由基は文殊菩薩の化身であり、そのことを告げに現れた文殊菩薩から
これらの弓矢と直垂を授かって、柳の葉を射落とす指導も受けている。
しかし弓矢を伝えるべき仁の者を見い出せず700歳で死んだ養由基は、娘の枡花女に託した。
枡花女はやがて寿命が尽きようというときに弟子から頼光のことを聞き
頼光の夢の中に現れて、養由基との師弟の契りの証として弓矢と直垂を授け、
頼光が夢から覚めると実際に置かれていた。そして頼光は弓の徳により
養由基に劣らぬ射術を得て日本一の弓の名手となった。
ただし、頼光自身は土蜘蛛退治や酒呑童子退治で授かった道具を直接は使っておらず
謡曲「鵺」で、五代目にしてついに役立ったことが唄われている。
備考
- 源頼政が鵺退治に指名されたのは、源義家が弓の鳴弦によって
病魔を退散させた先例による。 - 弓の音、鏑矢の音などは邪を払う効果があると考えられていた。
- 東方星蓮船 (Extra)
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