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否定論・陰謀論を信じる理由

バイアスはどこから来るのか〜ステレオタイプの真実(1998)


前世紀終わりには、誰もがステレオタイプを自動的に使っていることが明らかになってきていた。
心理学者たちは、かつて、頑固な人々だけがステレオタイプを使うと考えていた。今では、無意識のバイアスの研究によって、不穏な事実が明らかになってきた。我々は誰もが常にステレオタイプを使っていて、そのことに気付いていない。我々は平等の敵に遭遇した。その敵は我々だった。

Mahzarin Banajiは、誰の「人種差別主義者の理想」にも当てはまらない。Yale Universityの心理学教授であるBanajiは、「生活のためのステレオタイプ」を研究している。女性として、マイノリティエスニックグループのメンバーとして、彼女は差別の痛みを直接感じてきた。しかし、彼女は自分自身が作った無意識バイアスのテストを受けた。「私には強い偏見があった。当惑させられる体験だった。」そして、それは新たな事実を明らかにするものだった。Banajiが大学院生だった1980年代、ステレオタイプの理論は、「徹底的かつ臆面もない人種差別や性差別や反ユダヤといった直接表現」に関するものだけだった。それから時が流れ、ステレオタイプに対する新たなアプローチにより、そのような単純な主張は粉砕された。Banajiと共同研究者たちが研究しているバイアスは、はるかに繊細かつ見えづらいものだ。すなわち、自動あるいは暗黙のステレオタイプとして知られるもので、我々は常に、そうとは知らずに使っている。頑迷固陋な者たちは認めないだろうが、「何であれ、ステレオタイプは我々が思うより、大きな問題だ」とBanajiは言う。

ステレオタイプを研究している研究者たちは、かつて、人々にマイノリティに対する自分の感情を記録しるように依頼し、その回答を人々の態度のインデックスとして使った。今、心理学者たちは、そのような意志的回答は全体像の半面でしかないと理解している。外面的に進歩的な人物であっても、そのことは無意識のレベルでの偏見の抑制とはほとんど関連していない。リベラルな心情を育てても、ネオナチのスキンヘッドと同様に、多くのバイアスに満ちているかもしれない。

これらの知見と同様に驚くべきことに、彼らは、人間行動についての多くの学生たちの直観を確認した。「20年前、我々は、『自分には偏見はないと言うが、無意識にはネガティブなステレオタイプと信条を持つ』人々がいるという仮説を立てた。ウイルスの存在について理論が作られ、その後に、顕微鏡で観察されたように。」とColgate Universityの心理学者Jack Dovidioは言う。

「Banajiの隠れたバイアスを明らかにし、筆者も受けて、等しく動揺させる結果だった」テストは、「自動ステレオタイプの研究者たちが使う典型的なテスト」である。それは、ポジティブあるいはネガティブな形容詞と、典型的な白人あるいは黒人の人名をペアにして、被験者に提示する。被験者は、人名と形容詞がコンピュータ画面上に表示されると、その形容詞が良い単語か悪い単語を選択してキーを押す。一方、コンピュータは各回答の速度を記録する。

被験者たちの反応時間は、一目で驚くようなものだった。実験に参加した大半の人々は、アフリカ系米国人の一部さえものが、ポジティブな単語と白人の人名のペアや、ネガティブな単語と黒人の人名のペアに対して素早く反応していた。「そのような関連性をつくるように、我々の心は順応しているので、そのようなプロセスを素早く処理できる」とBanajiは言う。「単語と人名はサブリミナルではないが、非常に短時間で表示される」ので、被験者は慎重に判断できず、被験者が持つ内在的仮定にしたがって回答する。そのようなテクニックを使って、褒めセクシャルや女性や老人などの社会グループに対するステレオタイプを計測できる。

[ Annie Murphy Paul: "Where Bias Begins: The Truth About Stereotypes" (1998/05/01) on Psychology Today ]

無意識な判断の探求が可能になると、我々が「カテゴライズ」行為によって、世界を理解していることが見えてきた。そして、我々は無意識のうちに、「自分が所属する集団」の外側の人々を「個々人を区別できない、ステレオタイプな集団」として見ているらしいことが明らかになってきた。
THE UNCONSCIOUS COMES INTO FOCUS

ほんの数百ミリ秒という反応速度の違いから、自動ステレオタイプの研究が誕生した。これの前身は1970年代の認知革命であり、人々が考える方法についての心理学研究の爆発的発展だった。観察可能な行動についての研究が数十年卓越した後、科学者たちは、人間の脳のよりミステリアスなオペレーションを間近で見ることを求め始めた。「情報を素早く表示し、反応時間の差異を測定できる」コンピュータの発展によって、無意識の探求が可能となった。

これと同時に、認知研究はステレオタイプ自体の特性も明らかにし始めた。この研究は主として、「ホロコーストがどのように起きたかを理解しようと挌闘する」欧州移民たちによって、第2次世界大戦後に行われた。彼らは、ステレオタイプは「柔軟性に欠け、抑圧された、権威主義者」だけが使うものだと結論した。その後、流行した精神分析の視点を借用して、これらの理論家たちは、「不適切な育児によって生じた内的葛藤から、バイアス行動が生じる」と示唆した。

認知アプローチは、我々が困難から逃れるを許さなかった。認知アプローチは「我々は誰もが、人や場所や物についてカテゴリを使って、身の回りの世界の意味を理解している」ことを強調した。「カテゴライズして評価するという我々の能力は、人間のインテリジェンスの重要な部分である。それがないと、我々は生き延びられない」とBanajiは言う。しかし、ステレオタイプも、過ぎたるは及ばざるがごとし。ステレオタイプを使う過程で、役立つカテゴリ(たとえば女性)が、多くの場合ネガティブな関連性を加えられる。「ステレオタイプとは、行き過ぎたカテゴライズだ。我々がステレオタイプを使うとき、我々は、目の前にいる人物の、性別・年齢・皮膚の色をとりあげて、敵対的・愚か・鈍い・弱いといったメッセージを以って心の反応をする。そのような性質は実際にはない。現実を反映していない。」とNew York UniversityのJohn Barghは言う。

Barghは、「ステレオタイプが社会心理学者のいう内集団・外集団ダイナミックスから生じているかもしれない」と考えている。人間はほかの種と同様に、「集団に属していると感じる」必要があり、「村・部族・その他の伝統的集団の崩壊」とともに、我々のアイデンティティは、人種や階級という、より曖昧な分類に変わっていった。我々は、自分が属する集団が良いものだと感じたがっている。その方法のひとつは、自分が属する集団にいない人々すべてを中傷することだ。我々は「自分が所属する集団のメンバーを個人として」見ているが、「外集団に属する人々は、区別できない、ステレオタイプな集団」として見ている。我々が使うカテゴリは時代とともに変わってきたが、ステレオタイプの使用については、その本質は変わっていないようだ。

「ステレオタイプはおおよそ正しく、留保なく信頼できる」と考える科学者が極少数いるが、大半の科学者はそうは全く考えていない。「ステレオタイプには、真理の中核があるとしても、集団から個人へと一般化することは、常に正しくない」とBarghは言う。正しさはさておき、ステレオタイプの使用そのものは不当な行為だと考える者もいる。「民主社会においては、人々は個人として判断されるべきであり、集団の一員として判断されるべきではない。ステレオタイプの使用は、理想を無視して飛び回る」とBanajiは言う。

[ Annie Murphy Paul: "Where Bias Begins: The Truth About Stereotypes" (1998/05/01) on Psychology Today ]

我々は無意識に起動されるステレオタイプにそのまま従っているわけではない。自動起動されたステレオタイプを意識的に検閲している。ただし、それは外形的な発言に対してであり、言葉にならない振る舞いには、ステレオタイプが漏れている。
PREDISPOSED TO PREJUDICE

Banaji自身の研究が示すように、問題は人々がこれに対処できそうにないことだ。最近の研究の一つがそれを示している。Banajiと共同研究者Anthony Greenwaldは、被験者に「有名人とそうでもない人名」のリストを提示した。翌日、被験者たちはラボで、「最初の人名リストにある人名と、そうでない人名から構成される」第2の人名リストを提示された。どれが有名人か問うと、被験者たちはMargaret MeadsやMiles Davisesを選択したが、最初のリストにあった人名も選択した。これは親近感が残っていて、有名人だと誤認したものである。(心理学者たちはこれを「famous overnight-effect」と呼ぶ。)2:1の割合で、この「突如有名人になってしまった人」は男性である。

「被験者たちが男性名を女性名より選好したとは認識していない」点をBanajiは強調する。被験者たちは、「男性は女性より有名で影響力がある」という無意識のステレオタイプを描いているにすぎない。同様のことは、Banajiが「犯罪者の可能性があるリスト」を提示した時にも起きた。被験者たちは自分で気づくことなく、圧倒的にアフリカ系米国人の名前を選択した。「人々は判断を下したことはわかっていても、その判断の規準に何を使ったかわかっていない」ので、Banajiはこれを暗黙のステレオタイプと呼ぶ。

心理学者のいう自動プロセスである、自覚してないような、ちょっとした相互作用や遭遇でも、ステレオタイプは起動される。Barghの行った実験では、白人被験者たちは退屈なコンピュータタスクをさせられる。その際に、一部の被験者にはサブリミナルに、アフリカ系米国人の画像がニュートラルな表現とともに表示される。被験者が再度同じタスクを実行するよう依頼されると、アフリカ系米国人の画像に敵対的反応を示した被験者たちは、その依頼に対して、より敵対的に反応した。これはアフリカ系米国人に対するステレオタイプの一部を構成する、ある種の敵対性に反応したものではないかと、Barghは考えている。Barghはこれを「immediate hostile reaction」と呼び、人種関係に実際に影響を及ぼしていると考えている。白人が気付かなかった敵対表現を認識するアフリカ系米国人は、自分自身の敵対性、すなわち持続的ステレオタイプに反応している可能性がある。

もちろん、我々は自分たちの無意識に完全に振り回されているわけではない。科学者たちは、「少なくとも自分には偏見はないと考えている人々は、ステレオタイプの自動起動の後に、容認できない思考に関する意識的なチェックが働く」と考えている。この内的検閲は、うまくバイアス反応を抑え込む。しかし、それでも、表現やスタンスや立ち位置やアイコンタクトなど、言葉にならない反応として、漏れはある。

「我々が言っていることと、我々ができることのギャップ」のよって、同じ遭遇に対して、アフリカ系米国人と白人はまったく異なる印象を受けることになっていると、Jack Dovidioは言う。「私が、アフリカ系米国人に向かって話している白人だとすれば、おそらく私は意識的な信条を注意深くモニタして、私が表現したいポジティブなものと、言っていることが一致しているか確認するだろう、そして私は、常に正しい言葉を口にしているので、うまくいっていると考える。」と彼は言う。言葉にならない、振る舞いに注意を払っている人からすれば、まったく逆のメッセージを受け取るかもしれない。Dovidioのアフリカ系米国人の学生が彼に「自分が育つにつれ、母親は、人々の黒人に対する本当の感情を測るように観察することを教えてくれた」と告げた。「彼女の母親は鋭敏なアマチュア心理学者で、私の20年先を言っていた」とDovidioは言う。

[ Annie Murphy Paul: "Where Bias Begins: The Truth About Stereotypes" (1998/05/01) on Psychology Today ]

では、バイアスはどこから生じているのか? それは周囲の社会から生じており、それを拒絶できる認知能力と経験を積み上げる前に、無意識へと入り込んでいる。
WHERE DOES BIAS BEGIN?

では、これらのステルスステレオタイプはどこから生じているのか? 自動ステレオタイプの研究者たちは無意識だという。それは「フロイトの集団心理と欲求の意味」ではない。意識の上では出しても構わないと判断されたものの一部である。実際、認知モデルでは、情報の流れは真逆である。意識の上でのコネクションが十分になって、最終的に無意識になる。「意識的選択と意思決定が必要なければ、そのようなものは消え去る。アイデアは時間とともに意識から無意識へと入っていく。」とBarghは言う。

われわれの意識に入ってくるものの多くは、もちろん、我々のわまりの文化からやってくる。文化がそうであるように、我々の心も、対象の人種・性別・階級・性的志向によって分割されている。「我々は社会の中で見たアンビバレンスを反映しているが、それはまさしく同じ方法で反映している。」とDovidioは言う。「我々の社会は大声で、正義や平等を語り、大半の米国人はその価値観を自らのものとして受け入れている。それと同時に、そのような平等が理想としてのみ存在し、事実は無意識の中で失われる。性的対象として女性のイメージ、6時のニュースのアフリカ系犯罪の映像。それらが、我々は逃れられない知識である。それを知ろうとはしないが、我々の行動には影響を及ぼしている。」とBanajiは言う。

我々は、文化のメッセージの根底にある者を早くから学ぶ。「5歳までには、多くの子供たちが、黒人や女性やその他の社会集団に対する確定的で凝り固まったステレオタイプを持っている。自らの信条を形成する認知能力や経験を持つより、はるか前に、これらの概念を獲得しているので、子供たちには受け入れるか拒絶するかの選択権はない。」とUniversity of Kentuckyの心理学教授Margo Monteithは言う。親が進歩的であろうとも、これらのステレオタイプを宣伝・維持しようとする「同調圧力やマスメディアや社会における実際のパワーバランス」などの力と競合する。実際、偏見は不均衡の結果であり、原因である。我々は、「アフリカ系米国人は怠惰で、女性は感情的だ」というステレオタイプを創って、実情がなぜそうなっているか説明しようとする。「ステレオタイプがその目的を果たすのに、正しい必要はない」とDovidioは言う。

[ Annie Murphy Paul: "Where Bias Begins: The Truth About Stereotypes" (1998/05/01) on Psychology Today ]

では、どうすればよいのか?
WHY CAN'T WE ALL GET ALONG?

無意識のバイアスというアイデアは、苛立たしい矛盾を解決する。「それは、自分とは違う人々へのアンビバレンスと、行動の一貫性のなさを説明する。そして、良い人が悪いことをする理由を説明する」とDovidioは言う。しかし、これは不愉快な現実を認識させるものでもなる。我々の意識と無意識の信条はかなり違っていて、行動は多くの場合、後者を反映するからだ。「良い意図だけでは不十分」だと、John Barghは言う。実際、彼は良い意図は行動をほとんど説明しないと考えている。「私は自由意志は存在しないと考えている。単刀直入にいえば、我々が自由意志の行使だと感じているものは、無意識の仮定の適用に過ぎないかもしれないからだ。」

我々は自分のバイアス反応をコントロールできず、そもそもバイアスンのあることにも気づけないかもしれない。「現実の修正には、自分が何をしたかの記憶と自覚に頼らざるを得ない。しかし、自動プロセスでバイアスが起きていたら、記憶と自覚は欺瞞になってしまう。」とBarghは言う。同様に、我々は、他人がバイアスにかかっているかもわからない。「我々は、偏見における重要な点は、それが外部表現だからだという信条を持っている。それでは諦めきれない」とBanajiは言う。

一つ確かなことがある。我々は偏見をなくすことはできな。そして、見える形になっている外部表現となっているバイアスは避けられるとも言えない。さらに、その種のバイアスを弱めるのに有効な戦略が、無意識の信条には効かない。「研究から言えることは、『我々は人に行動に影響を与えられる』という考えを劇的に変える必要があるということだ。忠告で十分だというのはナイーブな考えである。」とBanajiは言う。忠告や教育や政治的抵抗は、意識レベルの信条を叩き壊すことはできても、その下にある根本を変えられない。「しかし、差別に対する伝統的な処方である、差別是正措置は、それでも有効かもしれない。それによって、我々の無意識的な判断をバイパスできるからだ。」とbanajiは言う。

しかし、ステレオタイプ研究者のなかには、自動ステレオタイプへのソリューションは、そのプロセス自体にあると考える者もいる。「訓練によって、マイノリティとネガティブなステレオタイプをつなげる精神的リンクを弱め、ポジティブな意識的信条とのリンクを強めることができるからだ」と彼らは言う。Margo Monteithは、その働きを次のように説明する。「キミはパーティに出席して、誰かが人種差別ジョークを言って、キミは笑ったとしよう。そして、キミは、そのジョークに笑ってはいけないと気付く。キミは罪悪感を持ち、自分の思考過程にフォーカスする。そして、人種差別ジョークを笑ってしまったことに関連する流れにフォーカスする。ジョークを言った人物、ジョークを語るという行動、パーティに出席しているということ、飲んでいること」 次に同じ流れに遭遇したら、「立ち止まれという、警告信号が出る。同じ状況に遭遇したことはなかったかと考える。そして、反応は緩慢になり、自制の効いた行動をとれる」

ステレオタイプのプロセスで、ささやなか一時停止ができれば、意識的な偏見のない信条が、無意識をオーバーライドできる機会が得られる。時とともに、自動ステレオタイプを抑止することもまた、自動化されるようになる。Monteithの研究は、「十分な動機を与えれば、人々は偏見を抑止するように自分自身を教育し、暗黙のバイアスのテストもクリアできるようになる」ことを示唆している。

この「自動化の解除」プロセスの成功には、反対意見もある。第1に、この主張の支持者も認めているが、意識的信条と無意識的信条の乖離に悩まされる人々にしか効かない。罪悪感を持たない人種差別主義者や性差別主義者には、心を変える動機がない。第2に、ステレオタイプを抑制しようとすると、後になって、より強い反動が起きる可能性があることが、研究で示唆されている。そして、最後に、Monteithやその他の研究者たちが実験室実験で示したことが、「理想以下の状況で、平等へのコミットメントを維持するために闘争を続けなければない」リアルワールドで有効ではないかもしれない。

この課題は、挑戦的ではあるが、代替研究が示唆する社会自体の変革ほどには困難ではないかもしれない。馬が逃亡してから馬小屋の自動扉を非自動化するのにたとえて、Barghは言う「ステレオタイプに根本から対処することは、ステレオタイプの根源に対処することなのは明らかだ。」文化の研究は、いつの日か、偏見の根源を見出すことにつながるかもしれない。今のところは、無意識の研究が、いかのその根が深いかを示しているだけだ。

[ Annie Murphy Paul: "Where Bias Begins: The Truth About Stereotypes" (1998/05/01) on Psychology Today ]






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