創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

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科学は一時的真理


「科学は一時的真理(tentative truth)」である。このあたり、うまい説明かも:
Q#1: Isn't Science also a dogma? It also clings to its theories like dogma, do not accept the possibility of other alternate theories or views being right. It also does not admit the possibility of its being wrong.

A#1: Science accepts a theory as a tentative truth, only if it explains observations of reality better then any other one based on logic and evidence. Until a better theory is offered based on logic and evidence, or until any evidence is available that contradicts current theory, there is no reason to change it or to accept another one advocated by someone else. Science cannot accept any theory proposed by anyone as valid just by taking their word for it or on faith. Only evidence and logic can justify acceptance of a theory.

A dogma preaches absoluteness and infallibility of its claim to the truth. Dogma does not admit of any possibility of its being wrong, therefore ruling out any revision. For science to be a dogma, it has to affirm that a scientific principle is final, infallible and not subject to revision. Science/Scientists never affirm that. Science constantly revises it's own position when evidence and observations forces it to. Scientific method contains an in-built mechanism to self-correct. So science cannot be a dogma. Science textbooks undergo periodic revisions. religious texts do not.

Q: 科学もまた教義ではないのか? 科学はその理論に固執し、他の代替理論あるいは正しい見方の可能性を受け入れない。そして、理論が間違っている可能性を認めない。

A: 科学は、論理と証拠に基づく他の理論よりも、よりよく現実の観測事実を説明する時のみ、その理論の一時的真理とみなす。論理と証拠に基づく新たな理論がよりよく現実の観測事実を説明するか、現在の理論に反する証拠が見つかるまでは、理論を修正したり、別な誰かが提唱する別の理論を受け入れる理由はない。言葉だけあるいは信仰だけでは、誰の提唱した理論も科学は受け入れない。証拠と論理だけは、理論を認めることを正当化できる。

教義は、真理についての主張の絶対性と無謬性を説く。教義はそれが間違っている可能性を認めないので、どんな改訂も排除する。科学が教義であるためには、科学的原理が究極のもので、無謬で、改訂不要であると断言しなければならない。科学や科学者はそんなことを断言することはない。証拠や観測事実によって科学は自らのポジションを常に修正する。科学的研究法は、自己修正帰納を内蔵している。従って、科学は教義になりえない。科学文書は定期的に改訂されるが、宗教文書はそうではない。

[ Aparthib Zaman:"Science vs. Dogma - FAQ" ]
著者であるAparthib Zamanはわりと公式的に書いているが、とてもわかりやすい。ただし、現実の科学はちょっと違う面を持っている。

ロビン ダンバー (Robin Dunbar):「科学がきらわれる理由」(1995)によれば:
ポパーの理論の難点の一つは、科学の大部分は、理論が間違っていることを証明しようとすることではなく、理論が通用しなくなる地点を定めることによって、利用できる範囲(即ち、科学者が間違った予測をする範囲)を定めようとすることになるという事実である。今の物理学者は、現代量子物理学の理論は宇宙全体にあてはまるのか、それともある状況のもと(ブラックホールの中だとか、100億年も前の宇宙のまさに起源にあったビッグバンの爆発のさなかだとか)ではなりたたなくなるのかといった問いによって動いている。(p.37)
Newton力学など、有効範囲を限って使い続けるのも、よくあること。

いずれにせよ、観測事実によって反証されれば、有効範囲を限るか、理論そのものを棄却するのが科学。このやりかたは、遡れば、アリストテレスに至る。同じくロビン ダンバーによれば:
まず、正真正銘の科学が近代西洋世界の知的伝統とは別個に生じうるということを納得してもらうところから始めよう。
...
第2の例は、紀元前4世紀のギリシアの哲学者、アリストテレスである。その科学上の成果は、おそらく人類の思想史に並ぶものがないほどのものだ。アリストテレスは何よりも経験主義者だった。彼は、他のギリシア人からの文化的抵抗を前にしても、自分の手で調べることを優先すべきだと主張した。その物理学には不備なところも多々あるが、生物学における成果は驚異的である。彼が「最初」と言える科学上の発見の数々は、近代生物学の辞典のようなものだ。いるかが魚類ではなく哺乳類であること(ヨーロッパの生物学者には、19世紀になるまでわからなかった)。胎生の鮫(つのざめの類)が卵ではなく子供を産むということ(1650年代に確認されたが、それでも1840年代までは、ヨーロッパの生物学者には知られていなかった)、爬虫類は体の一部を再生することができること、卵黄が実は鳥の胚の栄養であること(当時は誰もが胚そのものだと考えていた)、哺乳類の胎児は、臍を通じて栄養を受け取ること(誰もが子宮の壁にある絨毛を吸っていると信じていた)、みつばちが花から花蜜を集めていること、ハイエナは両性具有ではないこと(今世紀になっても信じている人は多い)を認識していた。耳にあるエウスタキオ管の性質や形を正しく記述した(他ならぬイタリアの解剖学者エウスタキオが1550年に行うまで、再び正しく記述されることはなかった)。みつばちの社会の要諦を正しく得ていた(1740年になるまで公式に行われていない)。17世紀にハーヴィがその解剖学の研究を発表するまでは、ヨーロッパではそれ以上のものが出なかったほどの、鳥の胚発生に関する記述を遺した。蛸の腕の一本が生殖器として用いられる化茎現象にも気づいた(今でも生物学上の謎である)。胎児の性が、発生のかなり早い段階で決まっていることも認識していた。(pp.62-63)
観測事実から帰納するという方法によって成果を挙げたアリストテレスは、一方で当時は観測事実を入手できないが故に、多くの間違いも後世に残している。
鰻が実はちゃんと生殖することを知ることができなかったのは、ヨーロッパの鰻が生殖するのは大西洋中部のサルガッソー海の海藻の森だからである(この海は、1492年にコロンブスがアメリカに行く途中で偶然通りがかるまで知られていなかった)。だから、アリストテレスの成果は経験科学の証である一方、その失敗の方も、正しい理論が結局はどれほどよい観察に依存しているかということをわからせてくれるという意味で、やはり有益なのだ。(p.64)

ひたすら第1原理からの演繹を繰り返してたギリシアの哲人たちのなかで、演繹と帰納の両方を方法論をとして採用していたこと。だからこそ、後世に反証される間違いも残した。






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