創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

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「アメリカン保守の心理」概観

資料集: ルイジアナの共和党支持者たちの「心理」


ルイジアナでフィールドワークを行った社会学者Arlie Russell Hochschildによれば...
  • 石油・ガス会社で働けば、高卒や高校中退でも多くの収入を得られると主張。
  • 政府の介入に不満を持ち、教会や地域コミュニティを頼りにしてきた経験を語る。
  • 病院や支援は政府ではなく、地域や宗教団体が築いてきたと強調。
  • 聴衆からは社会保障や高齢者向けサービスに関する質問が多く、候補者は具体的な回答を避けた。
  • ボウスタニー候補は当選したが、選挙中にウォール街規制撤廃や環境問題への言及はなかった。
  • 両候補者とも環境保護に消極的で、有害物質排出や水質汚染などの問題を無視。
  • 選挙戦では、リバタリアン候補が政府の排除を訴え、民主党候補も党の政策に全面的に賛成しない姿勢を示した。
「高卒でも --- わたしの知っているケースでは高校中退でも -- 石油・ガス会社で一所懸命に働けば、この国に暮らすたいていの人よりもたくさん金を稼ぐことができるんです」と、彼は言う。「わたしは、自分の生活に政府がくちばしを容れてくることにうんざりしてるんです・・・生活に困0ていて、助けが必要なときでも、わたしは一度も政府に支援を求めませんでした。どこを頼ったと思いますか。わたしは教会にすがりました。自分のコミュニティを頼りました。何が言いたいかというと・・・この国の病院を建てたのは誰ですか。原点に戻って考えてみてください。ルルドの聖母〔一九世紀半ばにフランスのルルドの町に聖母マリアが現れ、泉の水で病を癒やしたと言われる〕ですよ。政府じゃない。そうでしよう? 中西部一帯にあるバブテスト教会の病院は? 東海岸のカトリック教会の病院はどうです? 政府が建てたんじゃありません。人々がたがいに助けあったんです。〔われわれの〕問題の解決策は、まさにここ、レインのような地域にあるのです」

しかし、年配の人が多い聴衆からは、どうすれば、よりよい連邦政府のサーピスをもっと多く受けられるかという質問が出た。ある男性は「なぜ六五歳以上の社会保障給付金に、物価の上昇分が反映されていないんですか」と疑問を投げかけた(ランドリーは、引退する時期を遅らせればいいと答えた)。メデイケア〔高齢者向け医療保険制度」について質問した人もいた。ある年配の女性は、通院のつど、ハイヤー代が28ドルもかかると訴え、「なぜ高齢者のための無料送迎サービスができないんでしよう」ときいた。ランドリーはどの質問にも答えられなかった。(pp.83-84)

わたしが、インタビューした人の大半がボウスタニーに投票し、彼が当選を果した。しかし選挙運動中、わたしはボウスタニーがウォール街への規制を撤廃させるよう尽力するという話はひとことも聞かなかった。規制が撤廃されれば、独占企業の力が強化され、ティーパーティーのメンバーに多い中小企業の経営者たちが傷つく結果となるのだ。連邦政府、州政府から石油企業に助成金が支払われている事実や、法人税が低く抑えられていること、ルイジアナ州の海岸の浸食や河川の水質汚染に原油がひと役買っていることについても、ふたりの候補者はいっさい言及しなかった。議会での彼らの投票記録が、それぞれの立場を明白に示している。ボウスタニーは、環境保護庁の予算削減案に賛成票を投じ、自動車の燃費基準の導入を阻止し、フラッキング規制措置を撤廃させ、水質浄化法の核心 --- 国により設定された、各州が満たすべき水質基準の"下限" --- を取り払う案を支持した。彼はまた、「健康的な空気」の定義を、人の健康ではなく、汚染企業の実行可能性とコストに基づいて見直す議案に賛成している。ランドリー下院議員も同じようにした。自然保護のための有権者行動連盟の議員採点表では、ボウスタニーもランドリー100点満点で6点という生涯評価をつけられている。2012年、ルイジアナは、水、空気、上の中に、州民ひとりあたりおよそ14キログラムの有毒物質を排出した。米国全体では、国民ひとりあたりおよそ5キログラムだのたのだが、どちらの候補者も、そうした事実にはひとことも触れなかった。

この選挙戦では、泡沫候補に至るまで、環境問題に口を0ぐむ傾向が広まっていた。ク0ウリー市で開かれた。"投票所で会おましょう"。集会では、あるリバタリアン候補者が数百人0聴衆を前に、「政府を追い出して」ルイジアナが「稲田に大麻を植えられるようにする」と誓った。ある民主党候補は、「わたしは民主党や大統領の意見のすべてに賛成するわけではありません」とことわってから、自分は中絶の合法化にも銃規制にも、石油企業への規制強化にも反対だと宣言した。「ルイジアナの海岸を守ったが、ひとつには、それが「州内のエネルギー産業を守る」ことにもなるからだと述べていた。 (pp.85-87)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]

  • 一部の住民は、税金や名誉を「働かない者」に与えることに強い反感を抱いている。
  • 公害や健康被害よりも、納税者と非納税者の間の不公平感が感情の焦点となっている。
  • 社会的階層間の亀裂が、住民の感情的な対立を引き起こしている。
ルイジアナは、以前は保守民主党支持者が多数を占める州だったが、1970年以降は、10回の大統領選挙のうち、7回で共和党が勝利をおさめてきた。このような年齢の高い白人たちのあいだでは、右派への移行が今後も続くようだ。とある男性は「「おれたちの多くはうまくやってきたが、手に入れたものは失いたくない、それを誰かにただでくれてやるのはいやなんだ」と説明する。何を「ただでくれてやる」と思うのですかときいてみると、それは公害を垂れ流す企業に公共の水を奪われることや、煙突から吐き出される煙にされいな空気を汚されることではないのだという。健康が損なわれることでも、何年分もの人生が台無しにされることでもない。公共セクターの仕事を失うことでもない。その男性は、働かない者 --- に何ももらう資格のない者 --- にただで税金をくれてやるのはいやだと感じていたのだった。税金だけではなく、名誉もだ。その税金が国民に返還されるとしたら --- 30年の長きにわたる経済停滞のさなかに、"昇給"があるようなものだ。そうすればいいじゃないか。

マイク・シャフ、リー・シャーマン、アレノ夫妻とあ梨をしたときと同じように、会話は、報われてしかるべき納税者と、報われるべきではない税全泥棒 --- ひとつ下の階層の人々とのあいだの亀裂へと話題が映っていく。わたしはその後、この亀裂が感情の引火点であることに、何度も気づかされることになった。(pp.87-88)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]
  • 2010年、BP社のディープウォーター・ホライズン爆発事故が発生し、米国史上最悪の環境災害とされた。
  • 原油流出により、海洋生態系や漁業に甚大な被害が発生。多くの漁業関係者が生計を断たれた。
  • オバマ大統領は深海掘削を一時停止する措置を取ったが、ルイジアナ州住民の多くは反対。
  • 住民の反対理由には、収入減少への懸念や連邦政府の規制への不満が含まれる。
  • 一部の住民は、事故の責任を政府の「過剰規制」に転嫁する意見を持っていた。
  • 環境問題への意識変化は限定的で、多くの住民は石油産業への忠誠心を示した。
  • 富裕層は環境汚染の影響を受けつつも耐え抜く姿勢を見せ、責任を他者に転嫁する傾向が見られた。
「事故が起きたことは悲しいけれど、停止措置には腹が立つ」

ボウスタニー下院議員、ランドリー下院議員の演説で聞けなかったことと、オノレ中将のトラックの窓からは見えなかったもののことを考え合わせると、ルイジアナ州の環境にまつわる問題が、なぜいとも簡単に忘れられたり無視されたりするのかがわかってきた。だがもし環境破壊が無視できないほど規模が大きく、何キロメートルにもわたって目につくようなものだったらどうだろう。長年続いていて、広く暄伝され、"いまだだかってない"と言える域に達していたら、どうなのだろうか。ティーパーティーの支持者たちはなんと言うだろう。

もちろん、そのような目につく事件は、2010年に起きている。ルイジアナ沖のメキシコ湾で、BP社の海底汕田掘削施設、ディープウォーター・ホライズンが爆発したのだった。オパマ大統領はこれを「米国史上最悪の環境災害」と呼んだ。この爆発により、作業員11人が死亡し、17人が負傷、水深1500メートルの海底でオイルバイプが破断して、そこからメキシコ湾に原油が噴き出し、3か月にわたって流出し続けたのだ。1989年にエクソンモービル社のタンカー、パルディーズ号が爆発したときと同量の原油が3〜4日単位で流出するという状況が、87日間も続いたのだった。

高度な訓練を受けたエンジニアたちも、なす術がなかった。テレビでは、不安そうな顔をした専門家たちが次々と証言した。ルイジアナ州の全長640キロメートルにおよぶ沿岸水域が、メキシコ湾全体に生息する魚類の90パーセント以上、商用種の98パーセントのライフルサイクルにとって危機的な影響をおよばしているという。眼球のないエビや子イルカが浜に打ち上げられ、推定1000キロメートルにわたる海岸にオイルボールが漂着した。カニ籠は汚れ、エビの捕獲高が大幅に減った。原油はカキの養殖場にも入り込んだ。爆発後、鳥6000羽、ウミガメ600匹、バンドウイルカ、クジラなどの海洋哺乳動物100頭以上の死骸が海岸に流れ着いた。のちの調査で、社の流出原油にさらされた魚の --- それもとくにマグロの --- 胚を調べた結果、体の形、心臓、眼球に変形が見られることがわかった。

よくない知らせはさらに続いた。9万人の漁業関係者が生計の道を断たれた。"機会の船"をという名の雇用プログラムが〔BP社によって〕用意され、流出した原油を処理する仕事が提供された。自分の持ち船を使うことが条件だったが、漁師たちの防護服では原油やコレキシットという分散剤の毒性から完全に身を守ることはできなかった。皮膚疾患、視力障害、呼吸困難を発症する者や頭痛を訴える者が出てきた。

オバマ大統領は、新たな安全対策が決まるまで、深海掘削を6か月間停止することを命じた。第2、第3の災害を防ぐためだという。この事故の原因については、誰も確かなところがわからなかった。当時BP社が講じた爆発防止策は、それまで水深1500メートルの深海では使われたことのないものだった。爆発地点を探素するロポットでさえ、過去に使用された例はなく、問題なく機能するかどうか、知る者はいなかった。ほかの32基の石油プラットフォームでも、同じような技術を使っていて、こうした深海で掘削を続けていた。BP社自体は掘削禁止措置には異議を唱えなかった。全体的に見て、多くの人々には賢明な対策に思えたのだ。

しかし数か月後、ルイジアナ州立大学の研究者チームが、破壊的な被害に見舞われた沿岸部の住人およそ2000人を対象にアンケート調査をし、「新たな安全基準を満たすまで、海洋掘削を停止するとう措置に賛成ですか、反対ですか」と尋ねると、半数が反対だと答え、賛成すると回答した人は1/3にとどまった。「今回の原油流出事故をきっかけに、地球温暖化や野生生物保護など、ほかの環境問題に対する考え方が変わりましたか」という問いには、7割の人が「いいえ」と答えた。そのほかの人 --- 興味深いことに、教育程度がいくらか低い女性たちだった ---は「はい」と回答した。ボウスタニーやランドリーなど、わたしが話を聞いたルイジアナ内陸部の人たちも、オバマ大統領の掘削停止措には断固として反対していた。

なぜなのか? 掘削停止で収入が得られないのは仕方がない。しかし連邦政府の「過剩な規制」にはがまんならないのだ。ある女性は、「会社は流出や事故を起こしても、なんの得にもならないでしょう。攸らは一所懸命やってるのよ」と言った。「だから原油を流出させてしまったら、会社としてはもう、あれ以上のことはできないの」と。別の女性は、わたしたちが日常使っている製品のほとんどが石油を原料としていることを指摘した。ある男性は、「過剰規制が流出事故を引き起こしたんだ。政府が監視なんかしていなければ、BP社はちゃんと自主的に規制をかけていたはすだ。流出事故なんか起きなかっただろうよ」とまで言い切った。

ある女性がひとことで締めくくった。「事故が起きたことは悲しいけど、掘削停止措置には腹が立つんです」と。州知事と州選出の上院議員たちは、掘削停止措置の解除を求めた。オバマ大統領はこれに部分的に応じる形で、解除の時期を1か月早めたが、わたしか話を聞いた人々からは評価されなかった。「ワシントンにいるオパマに何がわかる?」と、彼らは言っていた。その2年後、選挙演説に立ったふたりの下院議員は、この流出事故にはひとことも触れなかった。

わたしは思った。掘削禁止に反対したルイジアナ州沿岸地域の住民たちは、石油産業と民間セクターへの忠誠心を示そうとして、連邦政府に反対するという伝統的な行動パターンをとっているのではないか、と。しかし喪失や汚染に対して、彼らがいかに弱い立場にあるかを考えると、すでに知っているものへの不安や恐怖、怒りなどの激しい感情をなんとかして抑え込もうとしていたとも思えてくる。彼らは自分にこう言い聞かせていたのかもしれない。「心配している余裕はない。あれこれ考えるのはとりあえずやめて、不安を抑え込み、自分がそうしていることを認めないようにしなければならない」と。

これを念頭に置いて、わたしは大きなパラドックスへと戻った。最初の印象では、ルイジアナはほかの赤い州と同様、きわめて多くの難題と闘っているように思えた。おそらく、極右派の裕福な人々の目には、貧困や、教育や医療のレベルの低さは、自分たちに直結していないので、たいした間題とは映らないのだるうと思っていた。環境汚染は富裕層をも直撃するが、彼らは強固な意志で耐え抜く決意を固めているように見えた。責任については、父さんがとんでもない失敗をやらかしたので、母さんのせいにしておこう、とでもいうような感じだった。これまでだって、何かうまくいかないことがあればいつも母さんが責めを負って、尻ぬぐいをし、それでも愛想づかしをせずにそばにいてくれたから。少なくとも、当初はそんなふうに見えていた。(pp.93-96)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]

  • オノレ中将は、規制が緩い産業では事故が多く、規制が厳しい産業では事故が少ないと指摘。
  • ルイジアナでは「自由」が強調されるが、環境汚染や事故からの自由は議論されない。
  • 心理操作により、人々は自由だと信じ込まされていると中将は述べる。
  • 石油産業は雇用を生み出し、生活向上に寄与するため、住民は石油産業を支持。
  • 政府規制は住民にとって苦痛とされ、石油=仕事という認識が強い。
  • 心理操作により、仕事と環境保護の二者択一を迫られていると感じさせられる。
ラッセル・オノレ中将はトラックをターンさせ、がん回廊を突っ切るリバーロードを、バトンルージュに向かって引き返しはじめた。わたしは、たびたび耳にした疑問についてどう思うか、彼にきいてみた。「企業が事故を起こしたしたくないと思っているのなら、なぜ政府が必要なのですか」と。中将はこう答えた。「規制がゆるやかな産業ほど事故が多く、規制が厳しい産業ほど事故が少ないからですよ。規制には効力があるのです」それから、苦笑いをして続けた。「たがここには。自主規制というものがあります。国の環境保護庁が州の環境基準局に金を渡し、州は石油企業に金を渡す。そして企業は自規制をします。それはいわば、このトラックを運転して、時速160キロメートルでリバーロードを走ろうとするようなものです〔ハイウェイの制限速度は時速100キロメートル〕。ハイウェイパトロールに電話をかけて「悪いけど、ちょっといま急いでるんだ」とことわっておけばすむと思っているんですよ」

ボウスタニーの演説会でも、ルイジアナ南西部共和党婦人会の会合でも、わたしは自由という言葉をを繁に耳にした。車を連転しながら携帯電話で通話をする自由とか、ストロー付きのダイキリをドライプスルーで買う自由とか、装損した銃を携行して出かける自由といった意味で言及される"自由"だ。しかし、暴力や、自動車事故や有毒物質による環境汚染からの"自由"はまったく話題にのぼらなかった。オノレ中将は決して臆病な人ではないが、"自主規制"を続ける工場の周辺の、弱い立場にあるコミュニテイへの気遣いを見せ、「心理操作によって、みんなが自由でないのに自由だと思わされている一面かあると思います」と言った。「会社は自由に汚条を引起こすことができるかもしれませんが、それはつまり、人々が自由に泳げなくなることを意味するのです」

その心理操作はどんなふうに効力を発揮したのだろう。わたしは最も明白な答えを見逃していた。それは、仕事だ。石油は雇用を生み出す。雇用は収入につながる。収入はよりよい生活を --- 学校を、家を、健康を、アノリカンドリームのかけらを --- もたらしてくれるのだ。演説会場でわたしといっしょに座っていた人たちは、連邦政府を憎んでいたのではなく、むしろ民間セクターを、とりわけ、ルイジアナでその女王の座に君臨していたものを愛していたのかもしれない --- つまり、石油を。わたしは、汚染浄化を訴える"声なき声"を聞き取ろうとしすぎていて、仕事が第一だとはっきり叫んでいる大きな声を聞いていなかった。いまにして思えば、ジェフ・ランドリーは議会でオバマ大統領が演説をしているあいだ、「石油=仕事」と書いたプラカードを掲げていたではないか。政府による規制は、彼らを苦しめていたのだ。

オノレ中将によれば、どこでも、人々の口から出てくるのは、仕事という言葉ばかりで、みんながそう考えるには「十分な理由がある」のだという。"心理操作"には、仕事か、きれいな水や大気か、どちらかひとつを選ぶ苦渋の道しかないのだと思わせる効果があった。しかし石油に依存する仕事はどのくらいあるのだるうか。二者択一しか道はないのか。わたしは、政府を理解する前に、まず民間セクターのことを理解する心要があると思った。わたしの目には見えないむずかしい選択があるのかもしれない。(pp.103-104)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]


名誉と誇り

  • ティーパーティー支持者の友人たちは、1960年代の社会運動の一部を受け入れつつも、一部には反対していた。彼らは、差別撤廃措置や社会福祉政策に対して強い反感を抱いていた。白人男性が社会的に後退しているという「ディープストーリー」がある。
  • 19世紀の大農園主や21世紀のグローバル企業が、貧しい白人や労働者階級を搾取してきたと感じている。自由市場が期待を裏切り、白人労働者の賃金が停滞または低下し、社会福祉費が増加したことに失望している。
ティーパーティーを支持するわたしの友人たち --- その多くがいまではほんとうに友だちのように思えていた --- は、1960年代の社会運動の嵐に対しては、その主張をいくらかは取り入れ、いくらかは退けることで対応した。ある女性は、共和党の政治家、サラ・ペイリンが好きだと言い、その理由は、人工好娠中絶に反対する。"フェミニスト"で、"ガール・パワー〔女性の自己実現をめざすスローガン〕"と"ママ・グリズリ〔共和党の女性候補者たち〕"を支持しているからだという。別の女性は、冷静な指導者の鑑であったマルティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を尊敬していた。警察の暴力に腹を立てて商店の窓ガラスを割るような都会育ちの短気な若者とは大違いだと言っていた。

しかし彼らは、1960年代の運動が引き起こしたいくつかの結果については、強く反対してもいた。差別撤廃措置の指針では、ネイティプ・アメリカンの血が一滴でも入っていれば、大学進学に際して扶助金の給付か受けられる。だがなぜそうやって列の前方に入れるのだ?われわれが、ネイテイプアメリカンや黒人が自分のことを語るときと同様、わたしは白人ですと言ったなら、人種差別主義の組織、アーリアン、ネイション「アイダホ州に拠点を置く反ユダヤ組織〕のメンバーだと思われてしまうかもしれない。立ちがあがって、男であることを誇りに思うと宣言したなら --- 伝統的な生き方を捨て去るのなら別だが --- 男性優位主義者とみられるリスクを冒すことになる。長年の経験や年齢を評価してほしいtと訴えたところで、若者中心の文化の中では、年寄りのたわごとにしか聞こえないだろう。

こうして1860年代と1960年代を概観してみると、南部の白人男性が、列の後方へ後方へ押しやられてきた長いディープストーリーが見えてくる。19世紀のの大農園主は貧しい白人農家の土地

奪った。21世紀の企業は、グローバル化し、オートメーション化して、労働力の安い土地へ工場を移転するか、外から安い労働力を導入するかして、巧妙に「山の頂上」に姿を見せないようにしていた。2011年のある調査によれば、最高の利益を上げた米国企業のうち280社が、法人税の半分を免れていたという。しかし歴史のしみ込んだディープストーリーでは、それが見えない。ただ想像するよりほかはなく、どうしようもないと感じることしかできないのだ。さらに残念なことに、人々を失望に追いやったのは、彼らが頼みとしてきた自由市場だったのである。白人の賃金は横ばいのままか、下がってしまい、社会福祉費は増えていった。(pp.304-305)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]

  • 年配の白人男性は1960年代に自分たちのアイデンティティを主張したい欲求と「犠牲者」と呼ばれることへの拒否感の間で葛藤していた。
  • 彼らは地域や州に誇りを見出そうとしたが、自分たちの地位の低さや他人からの偏見に直面していた。
  • 家族観や道徳的規範に誇りを持ちながらも、ゲイの兄弟や未成年の妊娠など、複雑な家庭問題に直面していた。
  • 困難な状況下で「正しい行い」をしたという誇りを持つが、この価値観はリベラル派には理解されづらいと感じている。
言い換えれば、年配の白人男性たちは、1960年代に微妙なジレンマを経験したのだった。彼らもまた、ほかの多くの人々のように、立ち上がって一歩前に出て、アイデンティティを主張したかったのだ。そうしてもよかったのではないかと思っている。しかし他方では、彼らは右派の人々のように、原則として列に割り込むことには反対だったし、過剰に使われる「犠牲者」という言葉が好きではなかった。それでも --- 口には出せなかったものの --- 自分たちも犠牲者なのだと感じはじめていた。ほかの人々は列の前へ移動できたが、自分たちは後方に取り残されたのだから。彼らは「苦しむ」という言葉もきらうが、現実には、賃金カットやアメリカンドリームの行き詰まりに苦しんできたし、世間からは不当なまでに列の前方に居座っているように見られるという、隠れた屈辱にも苦しめられていた。文化の面では、確かに北部全体が「割り込んで」きて、南部を列の後方に押しやったように見える。しかし --- 忘れられてはいるが --- 連邦政府のお金は途切れることなく北部から南部へと流れているのだ。

白人男性としては、原則として割り込みに反対しているのだから、おおっぴらに自分も列に割り込みたいとは言えない。葛藤に悩んだ彼らは、別の方法で名誉を回復しようと考えた。まずは、仕事にプライドを持っていると宣言してみようか。だが、雇用はだんだん不安定になっていて、いまだに働き手の9割は、賃金が据え置かれたままだ。トイザラス社やディズニーランドでは、解雇する従業員に、より安い賃金で働くことが決まっている後任者0訓練をさせているという噂だ。しかも連邦政府は、まったく働かない人々に扶助金を支給し、働く者の面目をつぶしている(しかし付記Cを参照のこと)。

ティーパーティー支持者は、仕事の代わりに、地域や州に誇りを見出そうとしてみたが、そこでも困難にぶつかった。わたしが話を聞いた人の大半は、南部を愛し、ルイジアナを愛し、自分の暮らす町やバイユーを愛していた。しかし悲しいことに、その地位の低さに気づいていたのだ。「ああ、ここは"上空通過"の州ですよ」ティーパーティー支持派の教師は、わたしにそう言った。「進歩についていけず、貧しいと思われている」とこばす人もいた。"干し草野郎"と呼ばれて屈辱をおぼえる中西部の共和党支持派の農民たちや、"山育ちの田舎者"と見られているアパラチア山脈地方の炭坑労働者と同じように、南部の人々はこの地域の住民として、国民のあいだで不当な評価を得てしまったのだ。

地域や州が名誉を与えてくれないとしても、しっかりした家族観なら確実にそれを与えてくれるだろう。たとえ自分たちの道徳的規範 --- 異性間で結婚をし、中絶などはせずに、生涯たったひとりの相手に添い遂げるのが望ましいとする考え方 --- をきちんと守れなくとも、規範そのものには誇りを持っている。このような規範に従って生きるのは簡単ではない。ある女性の兄弟はゲイだった。彼は結婚して子供もいたが"ただ性のためたけに"両方を捨ててしまった。このできごとは家族に激しいショックを与えた。

ある女性は、両親が離婚したときにつらい思いをしたので、自分は契約結婚をした(この制度を強化するために、ルイジアナ州では1997年に契約結婚を法律で制定し、のちにアーカンソー州とアリゾナ州もこれに続いた。結婚するカップルは、事前にカウンセリングを受けたことを証言する宣誓供述書に署名しなければない。さもなければ、結婚、離婚のハードルが高くなるのだ)。彼女はほどなく、夫がゲイであることを知ったが、彼と協力してふたりの子を育てた。「あるべき形で」結婚生活を続けようとしたことはよかったと思っているそうだ。また、ある女性は、娘が14歳で妊娠し、赤ちゃんを産んで育てることになった。「わたしはフルタイムで働いていますし、娘は学校を卒業しなければなりません。正直言って、とてもたいへんなんです」ほんとうは中絶手術を受けられたほうが楽だったと感じている。しかし、赤ちゃんを育てて「正しいおこないをした」ことは誇りに思い、この気持ちはリべラル派にはわからないだろうと思っている。(pp.305-307)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]
  • 多くの人々が教会に所属し、十一献金の重要性を強調していた。名誉の根拠には仕事、宗教、州、家庭生活、教会があり、ディープストーリーへの誇りが背景にある。
  • 多くの犠牲を誇りとし、家族や先祖が大家族を養った苦労を名誉と感じている人々もいる。
それから教会。ジャニース・アレノのような人の多くが「教会に所属している」ことと十一献金をすることのたいせつさを口にする。しかし、彼らが教会で学んだ教義 --- 七日間で大地が創造されたとか、天国は巨大な立方体だとか、イプはアダムの肋骨から生まれたとか、進化は起こらなかったとか --- の中には、文字どおりに受け取れば、広い世俗世界では、教育程度が低い証拠と見なされるものがある。

ジャニーズ、ジャッキー、マドンナのような人々にとって、キリスト教を信仰し、イエスを救い手と考えることは、「わたしはモラルの高い人間になることを誓います。日々善行に励み、人を助け、赦し、徳を積むよう懸命に務めます」と公言するに等しい。「その人がクリスチャンだとわかっちたら」と、わたしに言った女性がいる。「わたしと共通点がたくさんあることがわかるんです。モラルの高い人だってことを、一般の人以上に信じられそうな気がします」

仕事、宗教、州、家庭生活、教会などを名誉の根拠とする裏には、みずからのディープストーリーそのものへの誇りがある。わたしが知り合った人々は、多くを犠牲にし、そうした犠牲を誇りとしていた。ジャニース・アレノの父親にとっては、父親を助けて10人の家族を養うために、学校を中退するのはつらいことたった。わたしが話を聞いた人のほとんどは、子供がふたりか、多くて三人いて、ひとりもいない人も何人かいた。先祖が大家族を養っていたことを名誉と感じていた人も少数ながらいた。それはたいへんなことたったのだ。彼らは地元のコミュニティに尽くすことに誇りを感じていた。マイク・シャフは洪水に備えて砂嚢を積み、ジャニースの友人は米軍兵士に"ワンタッチピロー"を送り、ジャッキー・ティバーは恵まれない人々に食糧を届ける活動をしていた。(pp.307-308)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]

  • ティーパーティー支持者は、トップに上り詰めた人々を非難せず、前向きでチャレンジ精神に富んだ姿勢を誇りとしている。
  • ティーパーティー支持者は、アメリカンドリームを手にする道徳的資格が変化したことで、自国で疎外感を抱くようになった。
  • 彼らは、列の前に割り込むと感じる他者に押しのけられ、不公平感や怒りを募らせている。
  • 連邦政府を「詐欺師を差し向ける者」として非難し、宣戦布告のない階級闘争を感じている。
リべラル派には問題と思えること --- 保守派が「上」というときは、わずか1バーセントを占める農場主階層を指すという事実 --- は、じつはわたしの知っているティーパーティー支持者にとっては誇らしいことなのだ。楽観的で、希望にあふれ、チャレンジ精神に富んでいるあかしなのだから。列の後方をめったに振り返らないことは問題ではない。トップにのぼりつめた人を非難する理由がどこにある? たとえ望み薄に思えても、ひたすら前を見つめているのが、気丈にディープストーリーを生きる自分らしい姿なのだ。

しかしこのような自己イメージは、次第に誇れるものではなくなってきたようだ。敵に立ち向かうのは、別種の自己イメージを持つ者 --- 上部中間層に属するコスモポリタン --- のすることだ。友人関係のネットワークはさはど緊密ではなくゆるやかで、有名大学に入って、故郷を遠く離れた土地で厳しいキャリアを積む準備や覚悟ができている。そのようなコスモポリタンな自己イメージを持つ者が、グローバル・エリートの仲間入りを果たすという課題に取り組むのだ。彼らは自分のルーツから遠く離れた場所でもうまくやっていける。チャンスありとみれば、すぐにどこへでも飛んでいく。そして、人権や人種間の平等、地球温暖化との闘いなど、リべラルな大義に誇りを持つ。感情的な言い方をすれば、上部中間リペラル派の多くは、白人も黒人も、自分たちの自己イメージが何を排除しようとしているのか、わかっていない。プルーカラー層の仕事や生き方、地域に根をおろして耐え忍んできた彼らの、自分自身 --- ディープストーリーそのもの --- に対する誇りが、時流に合わないものになりつつあるのだ。リペラルな上部中間層は、地域のコミュニティを孤立と狭量の象徴と見なし、絆と誇りの生まれる場所だたとは考えない。「山の頂上」の向こう側のトレンドを考えれば、次に蹴落とされるのは自分たちかもしれないのに、彼らはそうは思っていないようだ。

アメリカンドリームを手にする道徳的資格が変化したことで、全国のティーパーティー支持者は、自国にいながら界邦人になったような立場に追い込まれた。列の前に割り込んでくる --- と彼らが感じている --- 連中に押しのけられ、存在を忘れられて、怯え、怒りをくすぶらせているのだ。宣戦布告のない階級闘争が、これまでとは異なる舞台で異なる役者によって演じられ、これまでとは異なる不公平感を搔き立てた。だから彼らは、このような詐欺師を次から次へと「差し向ける者」--- つまり、連邦政府 --- を非難するにいたったのだ。(pp.308-309)

[Arlie Russell Hochschild (布施由紀子 訳): "Strangers in their own land (壁の向こうの住人たち)", 岩波書店, 2018]






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