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資料集「アーリア物理学」


アーリア物理学の持つ世界観とは...
  • アーリア的物理学の世界観
    • アーリア的物理学の特徴と目的: アーリア的物理学は、マルクス主義や機械論的唯物論、相対論、量子力学を攻撃し、古典的なニュートン物理学に依拠。唯物論を否定し、精神や自然の階層的序列を重視するナチス思想に基づく。
    • レーナルトのエーテル理論: レーナルトは唯物論を批判し、独自のエーテル理論を提唱。エーテルは物質と独立し、光速で電磁波を伝播するが、各天体や物質が独自のエーテルを持つと主張。
    • エーテル理論の意義と限界: エーテル理論はマイケルソン-モーレー実験の否定を回避し、非唯物論的かつ神秘的な自然観を提示。人間の知識に限界を設け、定量的研究に質的境界を設けた。
    • 量子力学との関係: 量子力学の非決定論はアーリア的物理学の思想と部分的に合致したが、レーナルトやシュタルクは個人的憎悪からこれを拒否。シュタルクの軸性原子モデルは支持を得られず、建設的代替理論を提示できなかった。
    • 認識論的立場と批判的自然主義: アーリア的物理学は実験と観測を重視し、理論家の数学的計算や論理的確信を非科学的と批判。批判的自然主義に近い有機的自然観を持ち、理論より実証を優先。
  • アーリア的物理学の世界観〜自然研究者
    • アーリア的物理学は有機的宇宙観と観測重視を掲げ、帰納的アプローチを支持したが、実際は演繹的で、人種と血統に基づく民族主義的信念により、科学の客観性と国際性を否定し、党の正統派として人種差別的・主観的・国粋的な立場を取った。
  • 民族主義的物理学
    • アーリア人は文化の担い手とされ、科学(特に物理学)の創造者として北欧人種の優越性が強調された。彼らの研究は実験と観察に基づき、自己犠牲や正直さといった「ドイツ的学問の良心」を特徴とするとされた。アーリア人研究者は自然との対話を重視し、観察や実験を通じて謙虚に真理を探求すると主張された。
    • ユダヤ人は文化の破壊者とされ、理論や抽象的思考を偏愛し、実験データを無視するとして非難された。特にアインシュタインはユダヤ的科学の象徴とされ、数学を過度に用いることが利己的・商業主義的と批判された。ユダヤ人は教条主義的で自己の理論を押し通すとされ、アーリア人の帰納的・実証的な方法と対比された。
  • 客観性と国際性の拒絶
    • 客観性の否定:アーリア的物理学者とヒトラーは、科学の客観性を「価値中立」という概念を否定し、研究者の人種や文化が科学的視野を決定すると主張。客観性は真実への不十分なアプローチと見なされた。
    • 人種的科学の強調:科学は人種や時代に特有であり、「北方人種の科学」や「国民社会主義者の科学」が存在し、ユダヤ的・自由主義的科学と対立。ユダヤ的科学は「国際的」だが無価値とされた。
    • 科学の細分化への反対:客観性が視点の多様性を生み、科学の専門分化を促進することは、アーリア的物理学者の統一的な自然観や国家の一体性に反すると批判された。
    • 科学の社会的役割:科学者は国民の政治活動に参加し、人種的同志として行動すべきで、研究は国民の生存闘争を支える技術的目標を持つとされた。
  • 自然崇拝と自然征服の矛盾
    • 技術の役割:国民社会主義では、技術は民族の生存を保証する手段とされ、ナチ指導者にとって重要だった。
    • アーリア的物理学者の分裂:アーリア的物理学者は技術観で分裂。レーナルトらは反技術・自然崇拝、シュタルクらは技術をドイツの恩恵と見なした。
    • ロマン主義の影響:アーリア的物理学はロマン主義に根ざし、唯物論や理性主義を拒絶し、自然の神秘性や主観性を重視。
    • 経験主義との対立:ロマン主義は経験主義を生命を破壊する分析法と見なし、アーリア的物理学者は経験主義をロマン主義に適合させようとした。
    • 反技術の立場:レーナルトらは技術進歩をユダヤ的唯物論と関連づけ、自然を尊重すべきと主張。
    • 技術賛美の立場:シュタルクらは技術をドイツの力と見なし、経済や戦争での役割を強調。
    • 内部矛盾:レーナルトの自然崇拝は大衆やナチ指導者から支持を得られず、運動の政治的影響力を弱めた。
    • 理論の不統一:レーナルトとシュタルクは相対性理論や量子力学などで対立し、首尾一貫した教義を構築できなかった。



A.D.バイエルヘン(訳: 常石敬一): "ヒトラー政権と科学者たち" (岩波現代選書. NS ; 513), 岩波書店, 1980.1
第7章 アーリア物理学


アーリア的物理学の経典

「アーリア的物理学」の基本的諸著作は、どんな意味においても経典化されることはなかった。しかし、レーナルトとシュタルクの各二著作、および1935年末のいろいろな演説を集めたものが目立っていた。それらはこの運動の支持者によってひんばんに引用されていた。

アーリア的物理学が物理学というよりむしろ政治学であった事実を反映して、この運動の基本図書はレーナルトの『偉大な自然研究者』(1929)だった。歴史上の指導的科学者を概観したこの書物は古代から始まり、19世紀末で終っている。レーナルトは、第一次大戦後も生存している人物の議論は落している。それは自分と同時代の人々を入れないようにするためだった。彼がその本に入れた65人の伝記的描写を特徴づけているのは、彼のロマンチックな英雄崇拝と、科学に対して偉大な貢献をした人は例外なくアーリアーゲルマン人種であった、という彼の信仰だった。この人種的ー歴史的手法は、ナチのイデオロギーの一般的傾向と一致するものだった。それが特に訴えかけようとしたのは、ヒューストン・スチュワート・チェーンバリンのような人種理論家の影響を受けている人々だった。国民社会主義者は知的正当性を訴えるにあたって、それら理論家に依存していた。事実、レーナルトは党の人種理論の専門家の一人、ハンス・F・K・ギュンターの示唆で、この計画に取り組んだのだった。アルフレート・ローゼンベルクは特にこの本が気に入り、彼の演説のひとつでこの本に言及するほどだった。

ローゼンベルクは『偉大な自然研究者』の基本的主張のひとつに注目した。その主張というのは、ニケアのヒッパルコスの時代(紀元前150年頃)からレオナルド・ダ・ヴシンチの時代(1500年頃)まで、科学は「不毛の時代」にあった、そしてその原因はギリシア人の人種的変質と、アリストテレスおよび聖書の権威を政治的に強制したことだ、という主張だった。この主張も、レーナルトがチェーンバリンに追随している多くの点のひとったった。

この本には、偉大な自然研究者の絵が可能な限り収められており、読者はそれら研究者たちが北欧人の肉体的特徴を持っていることを、認識できるようになっていた。以後の版では、人種差別主義の用語法が次第に目立っていった。この変化が特に顕著なのは、ハインリヒ・ヘルツについての記述である。彼はポンでレーナルトの先生だった。ヘルツにはユダヤ人の血が半分人っていた。この事実について、レーナルトは初期の版ではついでにちょっと触れるだけだった。むしろ彼は、自分の良き指導者の電磁波の実験的発見を強調しようとしていた。しかし、彼は後の版では、ヘルツの若い頃の実験的な優れた手腕は彼のアーリア人の母親から受け継いだものであり、その後の理論的研究への傾斜は、彼のユダヤ人の父親の影響である、と述べている。レーナルトは、多くのユダヤ人科学者が重要な研究を成し遂けた理由を、手際よく説明するのに成功した。すなわち、彼らの達成を可能にしたのは、アーリア人との混血だった。

しかし、純粋なユダヤ人の有能な研究者の場合、レーナルトは別の戦術を用いた。アインシタインの有名なエネルギーと質量との関係式E=mc2は、実験的反駁は不可能だった。しかし、レーナルトはフリードリヒ・ハーゼンエルルの研究にその関係式の先がけをうまい具合に発見した。ハーゼンエルルは非常に有能な非ユダヤ人で、オーストリアの物理学者たったが、第一次世界大戦で戦死した。レーナルトはハーゼンエルルを、ガリレオ、ニュートン、ファラデー、ダーウイン、およびその他の科学の偉人たちと同列に置いた。(ハーゼンエルルの発見は「異国人の名前」(アインシタインの名前)で知られているが、それはアーリア人の創造になるものだ、とレーナルトは主張した。

レーナルトがアーリア的物理学にもたらしたもうひとツの経典は、1933年から準備を始めていた教科書である。彼の有名な講義をもとにして、『ドイツ物理学』は1936/1932年に出版され、読者をつかんでいた。その序文は物理学における人種差別主義の直截な宣言であることから第三帝国における知的生活の議論にしばしば引用されてきた。悪名高い書き出しは、アーリア的物理学運動のスローガンとなっている。

「ドイツ的物理学だって?」と人々は問うたろう。私はそう問われれば、アーリア的物理学あるいは北欧人の資質をもった人々の物理学が、現実に基づき真実を探求する人の物理学、すなわち自然研究の基礎を築いた人々の物理学である、と答えるだろう。

しかし、『ドイツ物理学』は単なる論争のためのパンフレットではなく、レーナルト自身、彼が学んでほしいと考えていることを学ぶためには、序文だけでなく、その他の部分を十分読む必要がある、と指摘している。この四巻本は、アーリア的物理学の本のうち、政治学ではなくきちんと物理学を実際に扱った唯一の本だった。それは二つの部分、すなわち物質の物理学(力学、音響学、そして熱学)とエーテルの物理学(光学、電気学、そして磁気学)に分かれていた。レーナルトは、全体をつなぎ合わせているのはエネルギーの概念だ、と述べている。

民族主義的物理学に対するシュタルクの貢献は、ドイツの学界へのコダヤ人の侵入を明らかにしたこと、および科学の国際性という考えを攻撃したことだった。彼の『国民社会主義と学問』(1934)は、レーナルトの『偉大な自然研究者』が筆を擱いた1900年頃の、科学におけるアーリア人とユダヤ人との争いを議論している。この論争的なパンフレットはユダヤ人と理論家とを結びつけ、ユダヤ人たちをワイマールの社会主義者の政府の政治と精神とに関連づけようと試みている。それが出版されたとき、シュタルクは自らをドイツ科学の指導者に押し立てようと試みていた最中だった。その手段として彼は、国外では国民社会主義を弁護し、国内では研究組織の中央集権化の計画を支持した。また彼は経済上の自給自足と軍需品の生産に関して、工業や産業における物理学研究の重要性を強調することもした。というのもそうした考えは彼の主張を強めるとともに、ナチの最高幹部たちによって承認されていた
からである。

アーリア的物理学の経典にシュタルクが付け加えた第二のものは、1941年のミュンヘンでの演説であり、それは『ユダヤ的物理学とドイツ的物理学』(1941)として出版された。この演説は多くの点で、アーリア的物理学の見解の最終的要約となっている。シュタルクはその演説で、20世紀の初めの30年間に、ユダヤ人がドイツの科学に対して与えたと考えられる損害を見積っている。シュタルクはまた量子力学を非生産的形式主義と批判している。これは新理論の科学的肥沃性を考えてみれば、全くうわべたけの非難である。この演説はアーリア的物理学の明確な努力目標のひとつを反映している。その目標とは、ワイマール時代にシュタルクとレーナルトが科学界内部で達成しようとして果せなかったことを、第三帝国の政治舞台の上で達成することだった。

アーリア的物理学の標準的な文献目録の最後尾にあるのが、1935年12月13日と14日にハイデルベルクで行なわれた一連の講演である。それは物理学研究所が、フィリップ・レーナルト研究所として新たに発足したときに催された。ドイツ学術助成会をめぐる帝国教育省とシュタルクとの争いがその頂点に近づきつつあるときで、教育相ベルンハルト・ルストは出席が予定されていたが現われなかった。彼は病気を理由に、代りにパーデン州教育省の責任者オットー・ヴァッカーを送った。講演のいくつかは、哲学、生物学、そして教育といったような学問的な話題を民族主義的な文脈の中で論じた。シュタルクとレーナルトの話は学問的な物理学のそれではなかった。学生指導者、産業界の人間、そしてレーナルトの以前の弟子二人も話をした。

宗教儀式的性格をもったアーリア的物理学の諸宣言において、レーナルトのいくつかのエビソードが詳しく語られそして賞賛された。特に取り上げられたのは、彼がアインシュタインに反対したこと、および1922年にハイデルベルクの研究所が襲撃されたことだった。講演の主旨は出版された本のタイトル、『自然研究の開花』(1936)が物語っている。ドイツに研究の新時代が始まろうとしていた。それを支配することになる価値観はレーナルトが信奉していたそれであり、アーリア的物理学の科学哲学の核心をなすものだった。

アーリア的物理学の世界観 〜 自然と実験

アーリア的物理学は支持よりもむしろ反対の対象により明確に焦点を合わせていた。その物理学は一般的にマルクス主義の土台と考えられていた機械論的唯物論を荒々しく攻撃した。同時に、アーリア的物理学は相対論と量子力学に反対したが、それはレーナルトとシュタルクが各自の経歴において次第に抱いていった個人的憎悪によって作り出されたものだった。これらの物理学者が現代物理学を拒否したことは、彼らが古典的なニュートン物理学に依拠せざるをえない、ということを意味する。ところで17世紀以来その物理学こそ、彼らが嫌う唯物論の基礎だった。このパラドックスを解こうとする試みは、国民社会主義者の思想を貫いている実在の概念に基づいてなされた。すべての国民社会主義者がどんな形式であれ唯物論を拒否し、いたるところに入り込み自然に生命を与える精神という考えを抱いていたのは明白だった。この精神を信奉していたため自然界の事物の階層的序列を信じることがでぎた。その序列の中には、総統が人々を生存のための闘争に導く必然性も含まれていた。レーナルトのアーリア的物理学観は、彼が唯物論を「物ポケ」としてしりそけ、偉大な科学的「精神」(すなわち偉大な科学者)はそれに屈したことはない、と主張したことに、はっきり示されている。唯物論は、ニュートンやダーウィンのような真に偉大な人々に追随する、劣った人物のしるしだった。

レーナルトはニュートンの研究をたたえていた。それは彼が、ニュートンは現実の非物質的要素を忘れずに、力学的世界観を切り開いた、と感していたためである。このハイデルベルクの教授は、フランス啓蒙思想の宣伝者たちがいんちきにも科学の全知を主張したことによって、ニュートンの研究を堕落させ、力学から精神を切り離してしまった、と信じていた。この堕落が、自然を自分一人の利益となるよう支配したいという願望の主な原囚となる機械論的唯物論につながった、というわけである。レーナルトは物質と精神との関係を建て直す手段として、古くからの真理を新しく見直そうと呼びかけた。彼が擁護した解決は、相対論の代替理論として1913年に自分が最初に提案したエーテル理論を焼き直したものだった。

19世紀の理論はエーテルを物質とは独立の媒質とし、光線はその中を波動として伝播していくとしていた。レーナルトはエーテルを、単に「エーテル波」の速さを調整する一何か」、という全く漠然とした言葉で定義し直した。ここで全ての電磁波は光速で伝播していく。しかし彼はゆがみを示唆した。すなわち全ての天体さらには各物質ひとつひとつが各々独自のエーテルを持っている、と彼は主張した。さらにエーテルと物質は、エネルギーという共通の結合手によって結ばれるそれそれ形態の異なる存在だった。エネルギー現象からはるかに遠い星の空間においては、エーテルは一様で実質的には空間と同義だった。このようなエーテルは、「純粋エーテル」と呼ばれた。

こうしてアーリア的物理学は、1880年代の有名なマイケルソンーモーレーの実験のような、エーテルの存在を否定する証拠を避けてしまった。有名な実験というのは静止エーテル内での地球の運動を検出しようとして、検出できなかった実験のことである。レーナルトによれば、地球および地上の各原子は、各自のエーテルを引きつれて運動をしているに過ぎなかった。

レーナルトの最も有能な弟子の一人で、ドレスデン工業大学のルドルフ・トマシュクは、1935年にハイデルベルクで、エーテルはユダヤ人が廃止したがっている概念である、と断定した。エーテル理論の力学的自然観は、ドイッ的自然研究の最も基本的な道具のひとつだった。この主張のために彼が引用した原典は、人種差別主義の権成ヒューストン・スチュワート・チェーンバリンその人のものだった。しかしトマシェクは、直ちに力学から唯物論を切り離すことになった。彼は、力学は物質的対象の経験的知識ではなく、定量的検証を必要とする直観的考えである、と定義した。

エーテル理論は、機械論的でありながら非唯物論的宇宙をもたらすばかりでなく、アーリア的物理学において別の重要な機能を果していた。その理論は人間の知識に限をもうけ、自然の本質的な様相を永遠の神秘のペールのむこうに追いやってしまった。レーナルトは、エーテルのあいまいさをたたえて、次のように明言している。エーテルについての精神的イメージをしつかりと支える諸概念は、これまで現実に発見されている。しかし、これまでエーテルの機構を見出そうと努力して来たが、まだ成功していない。この目的のためにいろいろ考案された全てが、実在とうまく一致しない。明らかにエーテルは物質と比べ、理解が難かしい。それはすでに、理解の限界を示しているように思える。これらの限界の突破は、精神世界を理解しようと試みることによって、十分可能となることは明らかである。人間精神はそれ自身の精神を理解することさえできない。こうしてアーリア的物理学の提唱者たちは自然の定量的研究に対して質的な境界を設けた。人間は本米、理性的手段では精神的なものを理解できないのだから、科学的知識においても非決定論は固有のものだった。

1920年代に展開された新しい原子の理論は、アーリア的物理学者の物の考え方とむしろうまく合致するように見えた。量子力学は、ハイゼンベルクのマトリックスカ学もシュレーディンガーの波動力学もどちらも、力学は定量的検証を必要とする考えだというトマシェクの定義と非常にうまく合致していた。またこの新理論は、物理学研究に固有の基本的非決定論の存在を内包していた。すなわち唯物論の背後にある厳密な因果性の考えと鋭く対立していた事実、第一章で述べたように、1920年代のドイツの多数の量子論者たちは、その時代の反理性主義者、反唯物主義者の文化状況と適合すべく、因果性を棄てる機会を熱心に求めていた。量子力学が物理学研究を真に観測可能な現象に限定しようと主張し、研究者の基本的には主観的な役割を認めていたことは、アーリア的物理学の観測や観測者の個性の重要性を重視する考え方の支柱として容易に利用することができた。アーリア的物理学者がさらにお墨付を必要とするなら、量子力学にはアインシュタインが反対していた、ということもあった。アインシュタインは、非決定論が自然界に固有のものだ、という考えを受け入れるのを拒否した。ソ連も政治的観点から量子力学を拒否していた。すなわちソ連人は、ハイゼンベルクはドイツに非理性主義を広め、国民社会主義の隆盛を助けた、と見なしていた。アーリア的物理学が量子力学を完全に拒否したことは、政治的な科学の大きな欠陥を裏書きするものだった。すなわち個人的憎悪が他の全ての考えに優先してしまった。

アーリア的物理学者たちは、ポーア・ゾンマフェルト原子とそれから発展した量子論の代りに、ドーナツ状の電子が原子核のまわりを囲んでいるというシ、タルクの軸性原子しか持っていなかった。その理論は納得のいくものというには程遠く、シ、タルクはそれについて多数の論文を発表しているが、当人以外には一人としてそれを真面目に取り上げてはいなかったようである。他のアーリア的物理学の信奉者でさえ、シュタルクの原子模型への言及を避けていた。すなわちこの運動の特徴は破壊的な力にあり、すでにある原子理論に対する建設的な代替理論の提出は行なわなかった。

相対論と量子力学の拒否は、その専門家仲間の間でのアーリア的物理学者の力を著しく減退させた。もちろん、アインシタインの政治的立場は彼の名を不吉なものにしていたが、政治的な分別があれば、量子力学は北欧人の達成だとして、支持の拡大を訴えていたことだろう。事実、こうした線に沿った考えはゲッベルスの部下の一人によって発表されていた。しかし宣伝省は、イデオロギー的に適切な物理学、という問題に積極的にかかわることは決してなかった。また、量子力学の主要な提唱者の一人であるパスカル・ヨルダンは、新理論は唯物論の代替理論の基礎となるものだ、と鋭く強調した。ヨルダンの『20世紀の物理学』は、全体の調子は専鬥的で、アインシュタイン、ボーア、フランク、ヘルツ、そしてその他のユダヤ人研究者の業績を完全に認めているが、アーリア的物理学者はこの本の自分たちに都合の良い部分を利用した。しかしレーナルトとシュタルクは物理学の現代化に反対するにはすでに深くかかわり過ぎており、それが最終的に成功するか失敗するかにかかわらず、どうしてもそうした謀略的手段を擁護する気にはならなかった。

アーリア的物理学者が相対論と量子力学を不快に思っていたのには、ワイマール時代からの憎悪だけでなく、認識論上の理由もあった。両理論とも大がかりな数学的計算に基づいており、相対論と量子力学は自然研究にふさわしい精神にとって有害と考えられた。アーリア的物理学者はその代りに、実験と観測のみが物理学の知識の真の基礎である、と言明した。

この見解は外見程異常なものではなかった。機械論的ではあっても非唯物論的な宇宙という考えは、批判的自然主義として知られる科学哲学の重要な基本的要素だった。普通の自然主義者の立場は、自然界全体の働きを理解するには、宇宙の一小部分の分析によれば十分である、とするものだった。すなわち初めに観測をすれば、その後に必要なことは、体系的な哲学的、数学的方法で、データから結果を引き出すことだけだった。批判的自然主義者はこうした手法を理性的過ぎる、として拒否した。この立場を特に強く主張したのが批判的自然主義者の中でも、生物学から唯物論をしりそける手段として、20世紀初めに「創発的進化」という見解を採った人々だった。創発的進化論者は、宇宙は人間に対して、次々と発見されていく新しい現象をつきつけ続ける、と考えていた。すなわち理論や概念化ではなく、実験と観測が科学知識の基礎だった。レーナルトやシュタルクに批判的自然主義者のレッテルを貼ることはあまりに単純過ぎるが、これはまさしくアーリア的物理学の科学理解のやり方だった。彼らの主張が生物学者との論争において最も首尾一貫して述べられていることは、アーリア的物理学者が基本的に有機的な自然観を持っていたことを示している。

ジェラルド・ホルトンは、アインシュタインについての最近の論文で、実験を過度に重視する相対論の反対者たちの傾向を、「実験主義」と呼んでいる。しかしアーリア的物理学者たちも、自分たちは理論を過度に重視する傾向、今風に言えば「理論主義」、と戦っているのだと感していた。彼らは、理論家は自然に対して尊大で非礼である、と感じており、さらに、理論と観測との食い違いは必ず理論に都合よく解決されることになっている、と恨みがましい見方をしていた。理論物理学は最先端の学間だ、という考えは強く否定された。

アーリア的物理学者にとって、理論家の内的確実性と、より高級な知識という態度は、彼らが最もいらいらさせられた特徴だった。この態度の初期の例をアインシュタインの学生の一人が述べている。1919年、アインシュタインは彼女に、有名なイギリスの日食観測隊の結果を告げた着いたばかりの電報を見せた。彼女はそのニュースに歓声をあげたが、教授は平然としていた。彼は、自分はその理論の正しさをとうに知っていた、と述べた。彼女が、もしこの確認が得られなかった場合、彼がどんな態度を取るか質問したら、アインシュタインは次のように答えた。「その場合、私はエディントン卿に同情するだろう。なにしろ論理は絶対に正しいのだから」。

この論理的確信に対する偏愛こそ、アーリア的物理学の支持者が、非科学的、非ドイツ的として拒絶したものだった。彼らにとっての科学の基礎は測定可能な経験であり、自然の過程についての機械的モデルはそれに基づいたものだった。これらモデルが「適切な」理論だった。主に想像力による数学的構想は自然とは縁遠い抽象で、それは思弁あるいは仮説でしかなかった。こうした理由から、アーリア的物理学者はニュートンの格言、仮説を作らずを特に強調し、そして「仮説製造者」はアーリア的物理学の宣伝において、一般的な蔑称となった。


アーリア的物理学の世界観〜自然研究者

アーリア的物理学者の有機的な宇宙概念と、その結果としての彼らの観測の重視は、自然への帰納的接近法の支持となって現われたが、彼らの方法は基本的には演繹的だった。彼らの科学的活動における第一原理は、レーナルトが次のように簡潔に述べている。「実際、学問は、その他全ての人間活動と同じく、人種および血統によって左右される」。彼らの見解の何よりもこの民族主義的側面が、レーナルト、シュタルクそして彼らの弟子たちを、物理学者集団の中で背教者にしてしまった。

アーリア的物理学がお気に入りの性質は、ゲルマン系の研究者の属性とされ、その他の性格はユダヤ人反対者に割り振られた。第一の属性が建設的で創造的な達成の原因で、第二のそれは有害で教条的な模倣の要因だった。こうしてアーリア的物理学の支持者は科学から客観性と国際性を追い出してしまった。アーリア的物理学者はその人種差別的、主観的そして国粋的確信のために党の正統派という栄光を得た。

民族主義的物理学

その正統性のうち一番良く知られているひとつが、アーリア人は文化の担い手で、反対にユダヤ人は文化の破壊者という考えだった。この人種差別的な考えがアーリア的物理学者の見解にみなぎっていた。レーナルト、シュタルクそして彼らの追随者たちは次のように言明していた。すなわち、力学だけでなく、まさに科学という考え方も、それを創造したのは北欧人種であったし、またアーリア人の研究の基礎は特に実験と観測にあった。レーナルト研究所を記念しての一九三五年のハイデルベルクでの式典では、これら主張の裏付けのために、チェーンバリンがしばしば引用された。ある人はチェーンバリンの次の有名な文句を引用した。

経験、すなわち正確で、詳細で、そしてたゆない観察が、ドイツ的学問の広範でゆるぎのない基礎となる。そのことは言語学でも、化学でもあるいはその他のどんな学問でも同じである。観察の能力は、その遂行において必要な自己犠牲および正直という熱情と同様、私たちの人種の本質的な特徴である。観察はドイツ的学問の良心である。

講演者の一人は真の北欧人的研究者の特徴を10ほど注意深く並べているがその中には次のようなものがあった。すなわち、観察に喜びを見出し、反復を喜び、控え目で、そして「対象との格闘を喜ぶ、すなわち狩に喜びを見出す」というのだった。アーリア的研究者は自然との対話を維持していた。彼は実験という形で質問を行ない、実験結果の中に答えを観察した。

ユダヤ人の方法は自然や科学とは相いれぬものとして非難された。ユダヤ人(ほとんど常に、あのユダヤ人というような単数型が用いられた)は、観察の代りに、理論と抽象を偏愛した。どうもアインシュタインが、こうしたユダャ的科学の象徴のようだった。このユダヤ人は自分の理論を、実験的データを考慮することなく、複雑な数学的計算式という形で発表した。数学は本来、自然界での関係を表わすためのドイツ的な道具だった(とチェーンバリンは主張した)が、ユダヤ人学者がこの道具を、二〇世紀初めには自分たちのそれにしてしまっていた。レーナルトの弟子で、カールスルーエ工業大学のアルフォンス・ビュールは次のように述べている。

物理学の問題をこのように過度に数学的に取り扱うのは、疑いなくユダヤ的人間である。ユダヤ人はどこであれ物理学とかかわるや、この数字があふれ計算式で一杯のものを物理学の特別の達成として受け入れてきた。さらにユダヤ人は、その他の場合、すなわちビジネスの場合のように常に数字、つまり目の前の貸借の計算しか頭にない。ユダヤ人は物理学においてもやはりその典型的な人種的特徴を示す、すなわち一番目立っところに数式をもってくることを指摘しておかなければならない。

ハイデルベルクでの式典の別の講演者は、物理学における計算への傾斜を、啓蒙思想の唯物主義および平等主義を推進する運動と結び付けた。ここからは、物理学におけるユダヤ的精神の第一の自分勝手な特徴と考えられていた利己主義と過度の商業主義までは、ほんの数歩だった。アーリア人は自然を前にして控え目で謙虚だが、ユダヤ人は横柄で尊大だった。シュタルクは、ユダヤ人は自分自身のための生れながらの弁護士だ、と述べている。これは、ドイツでユダヤ人が法曹界にあふれているという一般化していた考え方を踏まえて、法律家をたとえ話に引き出したのだった。レーナルトは、未証明の考えの公表へ突進することや最新の大評判の問題に首を突っ込みたがることは、ユダャ的精神のなせる業である、と考えた。この手法に対する彼の嫌悪の起源は、失敗に終ったJ.J. トムソンとの優先権争いにあった。レーナルトは初め、それは物理学の「イギリス流の」商業的方法と考えていたが、第一次大戦後になって、それをユダヤ的属性とした。

シュタルクの理論嫌いの起源も同じ時期にある。彼は教条的という言葉を、1922年のポーア・ゾンマフェルトの量子論に関して、初めて使った。1934年、彼は、そうした「教条主義」はユダヤ的なものである、と強調した。こうして彼は、自分の古くからの反対者ゾンマフェルトを、ナチの憎悪の主要な標的と結び付けた。ついには彼は、物理学におけるユダヤ的教条主義とアーリア的実用主義との際立った対照を描出した。彼は次のように言い放った。すなわちユダヤ人は人種的に、自分自身の予断から考えをねつ造し、それらに数学的構成という外套を着せ、そして宣伝することを基本とする演繹的手法のとりことなっている。ユダヤ人は自分の理論を支持する実験データしか受け入れない。他方、アーリア人は人種的に、自然そのものを観察し、拡大解釈することなく自分の考えを帰納的に定式化し、そして新しい証拠が出現すれば、直ちに自分の考えを放棄するようしつけられている。この単純な教条的かっ便宜的な二元論は便利な道具で、1936年以降、学術上の人事についての政治的争いにおいて、理論物理学を学問として不適格なものに仕立て上けるのに用いられた。ユダヤ系人種ではない理論家は、「ユダヤ的思考の持主」といって攻撃された。人種を重視するアーリア的物理学の明白な演釋的性格が議論されることは、もちろんなかった。


客観性と国際性の拒絶

アーリア的物理学者はその人種観のために、価値中立の学問研究という科学における客観性概念の核心をなす考えと対立することになった。ヒトラー自身は客観的な見方に特に批判的だった。その見方は異なる視点を受け入れるという政治的弱味を伴うものだったからである。かってグダニスクの市議会のナチの頭目だったヘルマン・ラウシュニンクによれば、ヒトラーは、科学というものは社会に対するその衝撃によってのみ測定可能な社会的努力だ、という確信を述べている。すなわち科学における客観性は、教授たちが自分たちの利益を守るために発明した単なるスローガンで、価値中立の科学という考えはばかげている。その代り、ヒトラーは次のように述べている。

科学の危機と呼ばれているものは、紳士がたが彼らの客観性と自治によって誤った進路に乗り上げてしまった過程を、自ら見直し始めたということに過ぎない。科学上の各企画に先立っ単純な問題がある。すなわち、何かを知りたいと願っているのは誰なのか、その人を囲む世界の中でその方針を定めたいと考えているのは誰なのか。その結果必然的に、特定の型の人間と特定の時代の科学しか存在しえない、ということになる。北方人種の科学とか国民社会主義者の科学というのは存在するだろう。それらは、自由てユダヤ的な科学とは必然的に対立するものである。自由でユダヤ的な科学は、実際どこにおいても何の役にも立たないというより、自減の過程にある。

アーリア的物理学者はヒトラーと完全に同意見で、研究者の人種と文化は各自の視野を決定するのだから、客観性は真実への迫り方が丕十分であることのしるしである、と論した。客観性は善も悪も、証明済みのものもそうでないものも、全部ひとつの容器の中に放り込んでしまう。視点の多様性は、有機的で一様な自然という考えと相容れない自由主義の特徴だった。視点の多様性は科学を細分化し、より一層専門分化(例えば物理化学とか数理物理学とか)を押し進める不毛な仕事につながっている、というわけである。科学の細分化に対するアーリア的物理学者の反対は、国家が多数の政党に分裂していることに対する国民社会主者の反対に対応している。どちらの場合も、客観性の支持は、派閥主義、分裂、そして心の狭い利己主義を支持するものと見なされた。この点について、シュタルクはハイデルベルクでの講演で次のように主張している。

ドイツの自然研究者は、単に狭い領域の専門家であるたけではなく、ドイツ人種の同志としての感情や行動をも分かち持っぺきである。科学者は自分の研究室にとし込もるべきではなく、また次のようなことを言うべきではない。「外部の政治の領域で起こっていることは私には関係がない。私は赤でもあるいは黒い大臣のいうことでも、国民社会主義者の大臣のいうことと同じように、ちゃんと従う。私は自分の専門の研究をし、そして何かを作り出すだけで十分である」。

真にドイツ的な研究者は自国民の政治的活動に参加しなければならなかった。そのお手本は、もちろん、レーナルトとシュタルクだった。

アーリア的物理学の、人種問題の重視と客観性の拒絶は、科学の国際性の否定と手をたずさえていた。科学研究の結果が普遍的有効性を持つのは、その研究が真に科学的である、すなわちアーリア的な自然研究の手法に基づいている場合だけだった。ドイツ人の研究とその他の西洋人の研究との類似性はどれも、共通の北方人種の血統によるものだった。しかし、ユダヤ人は異なった人種的伝統を受け継いでいるのだから、彼らの自然を見るやり方は彼ら独自の特別のやり方である。彼らは祖国を持たない人々であるから、彼らの科学は真に「国際的」である。レーナルトは次のように述べている。

ユダヤ人はどこにでもいる。今日なお、自然科学の国際性を擁護する者は誰であれ、多分無意識のうちにユダヤ的科学を頭に描いているのだろう。もちろん、その科学はユダヤ人とともにどこにでもあるし、どこででも同一である。

こうして、国際性を持った科学は、ユダヤ的科学と同等のものと考えられ、創造的なアーリア人の統一的な研究への脅威と見なされた。

アーリア的物理学によれば、研究の理解はその人種の言葉によってのみ正しく行なわれるのであり、アーリア的物理学者は科学と芸術との並行関係をしばしば持ち出した。彼らは次のように論した。すなわち、芸術が創造活動であって、単なる模倣(ユダヤ人の特別の才能と考えられていた)でないならば、芸術にも人種的特徴が現われる。科学も全く同一の条件下にある。どちらも国民を一致団結させ、そしてその才能を表現するという社会的機能を持っていた。しかし、科学にはまた別の社会的目標があった。それは国民の生存闘争を助けることだった。この目標は技術によって達成された。

アーリア的物理学と技術

国民社会主義の適者生存の考え方によれば、技術の役割は自然と他国民による破壊に対して、民族の存在を保証することだった。その問題はナチの指導者にとって決定的に重要だった。したがってアーリア的物理学者が持ちえた影響力とその大きさは、彼らの技術観にかかっていた。この問題に対する彼らの不統一は、彼らがドイツ物理学界の主導権を獲得するのに必要な政治的支持を取り付けそこねた決定的要因だった。

アーリア的物理学者は、全研究者が本能的に国民的ー人種的利益のために働いている、という点では同意見だった。また彼らは皆、アーリア人種とユダヤ人種とは相いれすユダヤ人は一九世紀以来、物理学で勢力を増大しているとう主張をこそって支持していた。しかし、レーナルトと彼の弟子の何人かは、根本的に反近代、反技術の考えを抱いていた。彼らにとって、技術的進歩はどれも有機的実体から遠ざかっていく唯物的な歩みで、ユダヤ的方針に基づくものだった。対照的に、シュタルノやその他のアーリア的物理学者は近代技術を、ドイツ人種が人類にもたらした偉大な恩恵と見なした。アーリア的物理学運動は初めから、自然崇拝と自然の征服という問題で分裂があった。

自然崇拝

これまですっと分析してきたアーリア的物理学の教義の大部分は、ドイツで一世紀の歴史を持っロマン思想の実例となっている。機械論的唯物論、理性主義、理論と抽象、客観性、そして専門化に対するロマン主義の拒絶は、神秘性、主観性、そして自然の一様性を強調する有機的宇宙の確信と長い間結び付いていた。この分裂は学界においては、第一章で述べたように、文明と文化に対するそれそれ時代遅れの反対と賛美という形で現われていた。しかし通常、ドイツの物理科学者は理性主義的な物の見方を好み、一方ドイツの人文主義の思想家は「文化的悲観論者」の傾向が際立っていた。すなわちロマン主義の伝統を支持するアーリア的物理学者は、物理科学者の中では例外だった。他方、ロマン主義の思想家は経験主義とは強く対立していた。彼らは経験主義は、生命を切り裂き破壊する分析的方法た、と見なした。かくしてアーリア的物理学の実験および観測に対する忠誠はロマン主義者の間では異例だった。アーリア的物理学者は自分たちの優先権を明確にするた経験主義をロマン主義の視点に適合させようと試みた。この試みは次のような二つの部分、すなわちエーテル内の精神的要素による観測のカの制限と、人種的に適切な研究者のみが生命を持った自然と調和して実験を遂行することができるという主張からなっていた。

産業化の技術的基礎は、文化的悲観論者にとって科学の基本的な邪悪を表わすものであり、アーリア的物理学者の技術嫌いは驚きではなかった。レーナルトとトマシクはアーリア的物理学者の中で、最も目立った反技術派だつな特にレーナルトは、ユダヤ人は自己の利益のためにドイツを過度に産業化した責任がある、と信じていた。「一ダヤ人たちは多種多様な邪悪、すなわち労働不安や唯物論から第一次世界大戦で頂点に達するドイツに対する諸外国の憎悪等々の源だった。レーナルトは『ドイツ物理学』の中で次のように書いている。

近年、技術の成功が尊大な物質的熱狂の特異な形態を作り出している。自然の理解がもたらす実用上の可能性の開拓は、自然の「征服」という考えを生み出した。すなわち、「人間は徐々に自然の主人になる」。こうした精神的に貧しい傲慢な技術者たちの言葉は、新技術によって可能となった虚飾によって、大きな影響力を得ている。さらに物理学や数学にすでに入り込んでいる、全てをひそかに蝕む異国人の精神の効果が、その影響を強める結果となっている。

レーナルトの図式では、人間は自然の君主ではなかった。人間は自然の一部であり、それに従属するものだった。人間は自然をうやまうべきであり、その神秘性を尊重するべきだった。一九二二年にレーナルトが書いているように、「偉大な先生であり裁判官である自然の女神をうやまうことは、常に真の自然研究の第一の目安であるだろう」。

しかし、レーナルトは、いかにその衝撃をきらっていたにしても、現代社会における技術の大きな重要性を否定することはできなかった。かくして彼は、自ら書いた長大な自然研究者の歴史の中に、「蒸気工ンジンの偉大な改良者」、ジェイムス・ワットを入れている。別の例を引用すれば、一九三三年五月、レーナルトは国立物理学工学研究所の所長にシュタルクが任命されるよう運動したとき、「大衆」は科学ではなくむしろ技術を信じている、と悲しげに述べている。レーナルトは、大衆の思い違いの原囚は科学におけるユダヤ人の過度の影響の結果であり、それが大衆の科学への信頼を本能的に失わせている原囚であろう、と説明した。

しかし、レーナルトは自分の見解の不統一性には気付いていなかった。彼の文化的悲観論の自然崇拝と、研究それ自体を目的とする研究行為への時代遅れの信仰は、一般大衆には無縁の考えだった。ドイツの大衆は興味の持てない知的探求よりもむしろ技術的達成の方を賛美した。かくしてレーナルトはその見解のため大衆からもまたナチの指導者たちからも疎遠になってしまった。

自然の征服

他方、シュタルク、ビュールおよびその他の何人かは、アーリア的物理学の多くが基礎としている反近代的伝統をしりそけた。′彼らは、技術はカの源泉だと認識しており、ドイツ人はその進歩に貢献した、と感していた。こうした見解はヒトラーローゼンベルク両者の見解を反映していた。しかしこの両者はレーナルトの主張をも共有していると考えられていたようだ。レーナルトと同様、両者とも中部ヨーロッパの出身で、その地ではドイツ人はその地方に技術をもたらしたということで、文化的に秀れていると一般に考えられていた。というわけで、自然の征服は彼らにとって、北方人種の創造力の指標だった。しかし、ローゼンベルクはこの技術の認知にあたって、良心的な実験は、技術の基礎であるドイツ的研究と、有機的実在とのきずなを維持するという主張にも耳を傾けた。ヒトラーはまた、人類の技術的達成がどんなものでも、自然は常に王座にある、と信じていた。

応用が過度に強調されていた可能性を認める一方で、技術賛成派のアーリア的物理学者は、経済における生存竸争での技術の必要性を率直に強調した。技術は平和時の農・工業生産においてたけでなく、戦争においても決定的役割を果した。こうしてシュタルク派は、技術の問題ではナチの指導者たちと全般的にはうまくいっていた。

レーナルト派の見解は、技術賛成派のアーリア的物理学者にとって明らかに困りものだった。(イデルベルクの式典でシ、タルクは、純粋な研究と純粋な技術はどちらも過度となれば、ドイツ科学に有害となろう、と強調して状況を乗り切ろうと試みた。分裂のやっかいさ加減をさらに一層明白にしたのが、ベルリンのテレフンケンの重役ハンス・ルコッフの講演だった。実業家の出席がナチの高官に必ずや感銘を与えるたろう、という目論見があったのは明白だが、このことはレーナルトの信念からすれば、到底よろこばしいことではなかった。ルコッフはテレビジョン技術の最近の進歩について、厳密な科学的な講演をした。また彼は、応用物理学者は自己の限られた研究に閉じ込もることのないよう心すべきた、と述べた。彼は結論において、レーナルトの近刊『ドイツ物理学』の予告から引用を行な、そして次のような舌足らずの結論を述べた。

・・・レーナルトを産業界の友人の中に含めることはできないだろう。だが彼と私たちとは、各人をどのポストにつけるかという、重要な問題の最終的分析にあたっては、同一の見解を持っている。学術的物理学者が私たちの世界の研究に満足を見出しているなら、応用物理学者の方は、私たち全てがその一員であるドイツ民族の必要とするものを供給し、民族を守りそしてその将米を保証するという偉大な仕事への参加に満足を見出している。私たちは、これら国民社会主義者の目標の遂行に私たちの聖なる義務を見つけている。ここに、学術的物理学と応用物理学とを必ずや結び付ける共通の基礎がある。

第二次世界大戦の勃発以前は、不一致に対するこの種の一致がアーリア的物理学内の両派の特徴だった。

一九三四年シュタルクは、基礎研究は新しい技術的達成を導く重要な応用研究にとって本質的だ、という主張を擁護していた。彼と帝国教育省との争いは始まったばかりで、シュタルクの主な目的は、教育省は科学の指導を自分のような経験を積んだ科学者にまかせるべきだ、ということを論証することだった。ところが、一九三九年から一九四〇年のドイツ軍の初期の成功以後、前記の主張はアーリア的物理学者の間での正式の合意となった。レーナルト派の一員アウグスト・ペッカーの言葉は妥協の基礎が次のようなものであることを示している。

全てを打ち倒す私たちの防衛力の強さの本質的理由のひとつは、ドイツの技術とその創意工夫が世界の最先端にあることは疑いのないところだ。技術の一般的形態が自然の実用的利用である限り、次のようないろいろな疑問が生れる。すなわち、それは自然研究という基礎に直接的に依拠していないのではないか。それは自然に対するドイツ独特の迫り方を完全には反映していないのではないか。つまり常により新しい真実、すなわちドイツの研究にとって広範で、最も重要な基礎をもたらして来たまさにそのものである、自然現象について常により深い知識をつかむねばりと奥行を、完全には反映していないのではないか。

技術の役割についての分裂は、内部対立がなければアーリア的物理学運動が得たであろう力を、そうした争いがどれ程そいだかを最も明白に示す例だった。しかしそれが唯一の例ではないことは確実だった。例えば、レーナルトは相対性理論とアインシ、タインに対して断固として反対だったが、シュタルクの電子理論を特に支持することもなかった。状況が異なれば、レーナルトは量子力学が観測者に主観的役割を与え、基本的に観測可能な量ということを主張していることから、それに引きつけられていたことだろ一方、シュタルクは新しい量子論とゾンマフェルトに全面的に反対だったが、レ1ナルトのエーテルと純粋エーテルの考えを特に支持することもなかった。別の状況にあれば、シュタルクはエーテルをあっさり棄て、相対論の多くを受け入れていたたろう。このようにその支持者の間で、代替理論を相互につぶし合っていたことが、アーリア的物理学が首尾一貫した教義を作り出せなかった主要な理由だった。

この過程の別の例が、国民性の問題だった。大部分の外国の科学者、そしてドイツ国内の科学者も多くが、抽象と理論とはドイツ人科学者に特有の性癖である、と感じていたことは面白く、また注目すべきことだろう。逆説的たが、実験はイギリス人の得手と考えられていた。イギリス人科学者は大陸の仲間以上にエーテルの問題に深くかかわっていた。こうしてレーナルトは自らが作り出したジレンマに陥ってしまった。すなわち彼がイギリス的(J.J.トムソン流)および一ダヤ的なものとした理論の偏愛を、一般の物理学者はドイツ的なものと見なしていた。またレーナルトは実験好きとエーテルの受容は、真にドイツ的であると考えていたが、一般の物理学者はイギリス的である、と見なしていた。シュタルクは、アーネスト・ラザフォードを生み出したイギリスの実験の伝統を高く評価しており、ラベルを「理論的」対「実験的」から「教条的」対「現実的」に貼り変えることで、混乱から抜け出る道を探っていた。しかしこの問題の全体が、アーリア的物理学の教義に貢献しようとするどんな試みをも目に見えないところで損なっていた特有の矛盾だった。

アーリア的物理学という名前が示唆するように、それが基本的に両立しえない概念の組合せであることは明白である。しかし、だからといって政治運動としてのアーリア的物理学は、第三帝国で物理学界での支配権を獲得する機会がなかったわけではなかった。国民社会主義自体が内部対立に満ちた矛盾の迷宮だった。アーリア的物理学は形式において非合理、そして内容において無政府主義というのが適切である。それは雑多な見解が混在している国民社会主義の小宇宙だった。運動は政治的力を手に人れるために理性的な一致を達成しているはずだ、という確信は一種の危険な知的傲慢というものである。

アーリア的物理学の教義はしばしば混乱し矛盾しているが、その信奉者たちの目標はそうではなかった。彼らはドィッの高等教育機関から初めは現代理論物理学の影響を排除し、ついにはその物理学そのものの排除を推進するという点では一致していた。一九三五年の(イデルベルクの式典以降、彼らアーリア的物理学者はアーリア的物理学という用語を使い、科学上の敵を「ユダヤ的思考」と非難し、自分たちに従う人々を学界で影響力のある地位につけようと試みた。


wikipedia:Deutsche Physik

wikipedia: Deutsche Physik

ドイツ物理学(Deutsche Physik)あるいはアーリア物理学(Arische Physik)は、1930年代初頭のドイツ物理学界における民族主義運動であり、ドイツの多くの著名な物理学者の支持を得ていた。この用語は、1930年代にノーベル賞受賞者のフィリップ・レーナルトが著した全4巻の物理学教科書の題名に見られる。

ドイツ物理学は、アルベルト・アインシュタインをはじめとする理論に基づく現代物理学の研究に反対し、軽蔑的に「ユダヤ物理学」(Jüdische Physik)と呼んでいた。

起源

この運動は、1914年7月28日のオーストリアの宣戦布告によって始まった第一次世界大戦の開始時に、物理学コミュニティにおけるドイツの国家主義運動の延長として始まった。1914年8月25日、ベルギーのドイツによる侵略中、ドイツ軍はガソリンを使用してルーヴェン・カトリック大学の図書館に火を放った[1][2][3][4]。図書館の焼失は、ウィリアム・ブラッグ、ウィリアム・クルックス、アレクサンダー・フレミング、ホレース・ラム、オリバー・ロッジ、ウィリアム・ラムゼイ、レイリー卿、J.J.トムソンを含む8人の著名な英国科学者による抗議声明につながった。1915年、これに対する反発として、ヴィルヘルム・ヴィーンがドイツの物理学者および科学出版社向けに「訴え」を起草し、アーノルド・ゾンマーフェルトやヨハネス・シュタルクを含む16人のドイツ物理学者が署名した。彼らは、ドイツの特性が誤解されており、両国間の理解を深めるための長年の努力が明らかに失敗に終わったと主張した。そのため、ドイツの科学著者、書籍編集者、翻訳者による英語の使用に反対した[5]。マックス・プランクや、J.J.トムソンの科学的ライバルであった特に熱心なフィリップ・レナードを含む多くのドイツ物理学者がさらに「宣言」に署名し、徐々に「精神の戦争」[6]が勃発した。ドイツ側では、科学テキストにおける英語の不必要な使用を避けることが提案された(例えば、「X線」の代わりに「レントゲン線」といったドイツで発見された現象の名称変更に関して)。ただし、この措置が英国の科学的思考、アイデア、刺激の拒否と誤解されるべきではないと強調された。

戦後、ヴェルサイユ条約による侮辱が、特にレナードにおいて国家主義的な感情を高揚させ続けた。彼は戦争初期にイングランドについて小さなパンフレットで不満を述べていた[7]。1920年1月26日、元海軍士官候補生のオルトヴィヒ・フォン・ヒルシュフェルトがドイツ財務相マティアス・エルツベルガーの暗殺を試みた際、レナードはヒルシュフェルトに祝電を送った[8]。1922年の政治家ヴァルター・ラートナウの暗殺後、政府は彼の葬儀の日に半旗を掲げるよう命じたが、レナードはハイデルベルクの研究所でこの命令を無視した。社会主義の学生たちがレナードに対するデモを組織し、彼は国家検察官ヒューゴ・マルクスによって保護拘留された[9]。

20世紀初頭、アルベルト・アインシュタインの相対性理論は、世界の物理学コミュニティ内で激しい論争を引き起こした。多くの物理学者、特に「旧世代」は、アインシュタインの理論の直感的な意味に懐疑的だった。アインシュタインへの反応は、彼の概念が従来の理論からの急進的な逸脱に基づく部分もあったが、一部の批判には反ユダヤ主義的要素も含まれていた。ドイツ物理学型の運動の主要な理論家はルドルフ・トマシェクで、彼は有名な物理学教科書『グリムゼールの物理学教科書』を再編集した。この本は数巻から成り、ローレンツ変換や旧量子理論は受け入れられていたが、アインシュタインのローレンツ変換の解釈には言及せず、アインシュタインの名前は完全に無視された。多くの古典物理学者は、アインシュタインが光エーテルの概念を否定したことに憤慨した。これは彼らの生産的なキャリアのほとんどの期間、研究の基盤だった。彼らは相対性理論の実証的証拠に納得せず、水星の近日点の測定やマイケルソン・モーリー実験の無結果は他の方法で説明可能であり、エディントンの日食実験の結果は、熱心な懐疑派にとって実験的に問題があり、無意味として却下されるほどだと信じていた。彼らの多くは非常に優れた実験物理学者であり、レナード自身もノーベル物理学賞受賞者だった[10]。

第三帝国のもとで

ナチスが政治の舞台に登場すると、フィリップ・レナードは迅速に彼らと結びつき、早期にナチ党へ入党した。もう一人のノーベル物理学賞受賞者であるヨハネス・シュタルクとともに、レナードはアインシュタインの相対性理論を「ユダヤ物理学」と烙印を押す中心的なキャンペーンを展開した。

レナード[11]とシュタルクはこのナチスの支援から大きな利益を得た。物理学をより「ドイツ的」かつ「アーリア的」にすべきとのスローガンの下、彼らはナチスが承認した計画を推進し、ドイツの大学における物理学者のポジションを「アーリア物理学者」で置き換えようとした。しかし、1935年までにこのキャンペーンはニュルンベルク法によって取って代わられた。この法律の下では、ユダヤ人は大学で働くことが禁じられたため、ドイツにユダヤ人の物理学教授は存在しなくなった。シュタルクは特に、グライヒシャルトゥング(「調整」)の原則を他の専門分野に適用し、「ドイツ物理学」の国家的な権威として自らを確立しようとした。このナチス時代のパラダイムでは、学術分野や専門職はイデオロギーに沿った厳格な直線的階層に従った。

「アーリア物理学」の代表者たちは一定の成功を収めたが、レナードとシュタルクが望んだほどナチ党からの支持は大きくなかった。彼らの影響力は、量子物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクに対する長期間の嫌がらせを経て衰退し始めた。この嫌がらせには、ハイゼンベルクを『黒い軍団(Das Schwarze Korps)』紙上で「白いユダヤ人」と呼ぶことも含まれていた。ハイゼンベルクは非常に著名な物理学者であり、ナチスはシュタルクやレナードの目には彼の理論がどれほど「ユダヤ的」に見えようとも、彼を排除するよりも利用する方が有益と判断した[12]。歴史的な瞬間として、ハイゼンベルクの母がハインリヒ・ヒムラーの母に電話をかけ、「ヴェルナー」に休息を与えるようSSに伝えてほしいと依頼した。ハイゼンベルク自身が開始し、通過した徹底した人物評価の後、ヒムラーは物理学者へのさらなる攻撃を禁じた。ハイゼンベルクはその後、「ユダヤ物理学」をドイツの核分裂開発プロジェクトに活用し、核兵器または核エネルギーの利用を目指した。ヒムラーは、ドイツが戦争に勝利した暁には、SSがハイゼンベルクが主導する物理学研究所を資金援助すると約束した[13]。

レナードの役割は次第に縮小し、シュタルクもさらに困難に直面した。特に「アーリア的」とされる他の科学者や実業家たちが相対性理論や量子力学を擁護し始めたためである。歴史学者のマーク・ウォーカーによれば[14]:
「彼の最善の努力にもかかわらず、結局、シュタルクの科学は第三帝国によって受け入れられ、支持され、利用されることはなかった。シュタルクは第三帝国の期間中、ナチス国家内の官僚たちとの闘いに多くの時間を費やした。ナチス指導部のほとんどの者はレナードとシュタルクを最初から支持せず、または第三帝国の過程で彼らを見捨てた。」

ドイツの核計画への影響

時折指摘されることであるが[15]、ナチスが現代物理学を「ユダヤ科学」とレッテル貼りしたことには大きな皮肉が伴う。なぜなら、原子爆弾の開発に用いられたのはまさに現代物理学、そして多くのヨーロッパ亡命者の研究であったからである。たとえドイツ政府がレナードやシュタルクの思想を受け入れていなかったとしても、ドイツの反ユダヤ主義的政策はそれ自体でドイツのユダヤ人科学者コミュニティを壊滅させるのに十分であった。さらに、ドイツの核兵器計画は、米国のマンハッタン計画に見られるような強い推進力を持って追求されることはなく、そのためいずれにせよ成功する可能性は低かったと考えられる[16]。この運動は、核エネルギー科学者が量子力学や相対性理論を使用することを実際に妨げるまでには至らなかった[17]が、若い科学者や技術者の教育は、ユダヤ人科学者の喪失だけでなく、政治的な任命やその他の干渉によっても大きな影響を受けた。

References
  1. Kramer, Alan (2008). Dynamic of Destruction: Culture and Mass Killing in the First World War. Penguin. ISBN 9781846140136.
  2. Gibson, Craig (30 January 2008). "The culture of destruction in the First World War". Times Literary Supplement. Archived from the original on 6 July 2008. Retrieved 18 February 2008.
  3. LOST MEMORY – LIBRARIES AND ARCHIVES DESTROYED IN THE TWENTIETH CENTURY ( Archived 5 September 2012 at the Wayback Machine)
  4. Theodore Wesley Koch. The University of Louvain and its library. J.M. Dent and Sons, London and Toronto, 1917. Pages 21–23. "Archived copy" (PDF). Archived from the original (PDF) on 7 May 2014. Retrieved 17 September 2012. accessed 18 June 2013
  5. For the full German text of Wilhelm Wien's appeal see: The Oxford Companion to the History of Modern Science (J. L. Heilbron, ed.), Oxford University Press, New York 2003, p. 419.
  6. Stephan L. Wolff: Physiker im Krieg der Geister, Zentrum für Wissenschafts- und Technikgeschichte, München 2001, "Archived copy" (PDF). Archived from the original (PDF) on 10 June 2007. Retrieved 2 August 2007..
  7. Philipp Lenard, England und Deutschland zur Zeit des großen Krieges – Geschrieben Mitte August 1914, publiziert im Winter 1914, Heidelberg.
  8. Heinz Eisgruber: Völkische und deutsch-nationale Führer, 1925.
  9. Der Fall Philipp Lenard – Mensch und "Politiker", Physikalische Blätter 23, No. 6, 262–267 (1967).
  10. "The Nobel Prize in Physics 1905". Nobel Foundation. Archived from the original on 8 October 2008. Retrieved 9 October 2008.
  11. Philipp Lenard: Ideelle Kontinentalsperre, München 1940.
  12. Walker, Mark (1 January 1989). "National Socialism and German Physics". Journal of Contemporary History. 24 (1): 63–89. doi:10.1177/002200948902400103. ISSN 0022-0094.
  13. Padfield, Peter (1990), Himmler, New York: Henry Holt.
  14. Walker, Mark (11 November 2013). Nazi Science: Myth, Truth, and the German Atomic Bomb. Springer. ISBN 978-1-4899-6074-0.
  15. Einstein: His Life and Universe. Chapter 21: The Bomb
  16. German Nuclear Weapons
  17. Jeremy Bernstein, Hitler's Uranium Club, the Secret Recordings at Farm Hall, 2001, Springer-Verlag

Further literature
  • Ball, Philip, Serving the Reich: The Struggle for the Soul of Physics Under Hitler (University of Chicago Press, 2014).
  • Beyerchen, Alan, Scientists under Hitler: Politics and the physics community in the Third Reich (New Haven, CT: Yale University Press, 1977).
  • Hentschel, Klaus, ed. Physics and National Socialism: An anthology of primary sources (Basel: Birkhaeuser, 1996).
  • Philipp Lenard: Wissenschaftliche Abhandlungen Band IV. Herausgegeben und kritisch kommentiert von Charlotte Schönbeck. [Posthumously, German Language.] Berlin: GNT-Verlag, 2003. ISBN 978-3-928186-35-3. Introduction, Content.
  • Walker, Mark, Nazi science: Myth, truth, and the German atomic bomb (New York: HarperCollins, 1995).

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