創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

インテリジェントデザイン概説>インテリジェントデザインの神学

慈悲深い神と魂の存在を信じる者に幸いあれ(1)


創造論者たちの反"進化論"な主張の一つに、進化論はモラルハザードを引き起こすというのがある。たとえば、これ:
People in America today are deeply concerned about what they see to be a moral meltdown in our country. Many understand that the ethical implications of a purely naturalistic approach to science can be far-reaching. If life is simply an accident, what's wrong with aborting children? Why not euthanize the aged and the handicapped? Why not end the institution of marriage? Why tell the truth? Why not steal or kill? As Fyodor Dostoevsy said: "If there is no God, all things are permissible."

今日の米国に住む人々は、米国における倫理のメルトダウンと見られるものに深く憂慮している。多くの人々は、科学に対する純粋に自然主義的なアプローチの倫理的な意味が、広範囲に及ぶことをわかっています。生命が事故の結果に過ぎないなら、胎児を堕胎して何が悪いのでしょうか?老人や障害者を安楽死させていけない理由があるでしょうか?結婚制度をやめていけない理由があるでしょうか?何故、嘘をついてはいけないでしょうか?何故、盗んだり殺したりしてはいけないのでしょうか?フィヨドル・ドストエフスキーは言いました「もし神がいないなら、あらゆることが許される。」

[ Rev. Mark H. Creech: "The 'Monkey See, Monkey Do' Approach to Science" (2005/01/17) on Agape Press]

これについての真っ当な反論には以下のようなものがある。

Kumicitからは次のような対抗議論を提示できる。

対抗議論

前提:
  1. 超越的な(transcendant)神が存在する。
  2. その超越的な神は慈悲深い(benevolent)
  3. その超越的な神が、魂を創造して、人間が誕生したときに吹き込む[霊魂創造論] (注1)
  4. 魂を吹き込まれないと、「人間と見分けがつかないが、魂のない」自動人形(注2)になる

この世界に悪は存在しない

神が慈悲深い(2.)のであれば、悪など存在してはならない。
従って、悪や苦難が存在するように見えても、実際には悪や苦難が存在しない。
この世界には、悪の犠牲となる人間はいない
"悪"の犠牲となるのは自動人形である

我々の世界には暴力と苦しみに満ちていて、罪なき者たちが犠牲になっているように見える。
「この世界に悪は存在しない」のであれば、罪なき犠牲者は存在し得ない。

従って、人間は悪の犠牲にはならない。人間(3.)を犠牲にしないなら、それは"悪"ではないことになる。

従って、現に存在する犠牲者たちは、人間(3.)ではなく、自動人形(4.)である。

誰かを殺せたら、その誰かは自動人形である

慈悲深い超越的神(2.)は、人間(3.)が犠牲とならないように、この世界を創造し、統治しているはずである。
従って、"殺人"は起きないし、起こせない。もし、"人"を殺せたとしたら、それは"人"に見えるが"人"ではないもの、すなわち自動人形(4.)である。
たとえ大量破壊兵器を使ったとしても、犠牲となるのは自動人形(4.)だけである。

「親殺しや子殺し」も、問題なし。前提(3.)により、魂は親から引き継がれるものではない。そして子に引き継ぐものでもない。従って、自分の父や母が魂なき自動人形かもしれない。我が子が、夫あるいは妻が、自動人形かもしれない。
殺せたとしたら、それは自動人形だったことになる。

対抗議論に従うと...

この論に従えば、殺"人"が成功すれば、それは殺人ではなく、自動人形の破壊に過ぎない。そしてそれは"悪"ではない。しかも、神義論まで解決している。独創性のかけらもない対抗議論だが、少なくとも「慈悲深い神と魂の存在を信じるだけでは、人間のモラルを高める」かどうかは自明でないことは示せている。

さて、この対抗議論に一項目追加すると、とてもいい感じに、いやな感じになる。

対抗議論の拡張

自分が犠牲になったとしたら、自分は魂があると信じている自動人形である

こうなると、心の平安は得られないかもしれない。自分が自動人形なのか、人間なのかを識別する方法がないからだ。自分が不幸に陥ったまま死ねば、自動人形なのは確定。しかし、そうでないなら、魂のある人間なのかどうかは不確定である。というのは、魂ある人間たちの生活を成り立たせるためのバックグラウンドな自動人形なのか、魂ある人間なのか区別がつかないからだ。

区別をつける方法があるとしたら、死ぬことだろう。魂が残っていれば、魂のある人間だったことになる。それっきりなら、自動人形だったことになる。もっとも、既に消滅しているので、自分が自動人形だったと判断することはできないが。

結局のところ

「慈悲深い超越的な神が存在し、世界を創造し、魂を創造した」という前提に立ったところで、モラルハザードな論をつくるのは簡単(陳腐ではあるけど)。

ということは、おそらくRev. Mark H. Creechのような人々は、「神の存在および神による創造」から倫理を引き出していない。


注1:
トマスの思想をお浚いしてみよう。植物は植物的霊魂を持つが、その霊魂は動物においては感覚的霊魂に吸収統合されており、さらに人類にあっては、この生長と感覚の2つの機能が理性的霊魂に吸収統合されているのである。この理性的霊魂こそは、人間に知性を授けるものであり、さらに言わせてもらうなら、人をして人格たらしめているものなのである。
神は、胎児が先ず植物的霊魂を、次いで感覚的霊魂を獲得した段階に達して初めて、霊魂を注入する。この時点で初めて、すでに形成された肉体の中に理性的霊魂が創造されるのである(『大全』、,90)。胎児は感覚的霊魂しか持たない(『大全』,,76,2と,118,2)。『異教徒論駁大全』(,89)では、《胎児がその端緒からその最終的形態に至るまでの間に、いくつかの中間的形態を持つゆえに、人間の発生には順序や段階があるのだと繰り返されている。
[ NON GIOCO PIU' 第7回 ]

注2:
おそらく、哲学の議論用ツールとしてのPhilosphical zombi(哲学的ゾンビ)相当品。本来の哲学的ゾンビは議論用途ごとにあって、以下の3種類:
  • A behavioral zombie is behaviorally indistinguishable from a human and yet has no conscious experience.
    行動的ゾンビ:外から行動を見ただけでは、人間と見分けがつかないが、意識的経験を持たない。(アンドロイドは心を持つか?といった議論用)
  • A neurological zombie has a human brain and is otherwise physically indistinguishable from a human; nevertheless, it has no conscious experience.
    神経的ゾンビ:人間の脳を持ち、物理的に人間と見分けがつかない。しかし、意識的経験を持たない。(クオリアなどハードプロブレム議論用)
  • A soulless zombie lacks a soul but is otherwise indistinguishable from a human; this concept is used to inquire into what, if anything, the soul might amount to.
    魂のないゾンビ:魂を持たないが、物理的に人間と見分けがつかない。魂が何に装備されているかについての議論用途。

ここで使うのは、"魂のないゾンビ"である。






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