創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

STSとしてのインテリジェントデザイン

小泉義之先生の「ドゥルーズの哲学」(2000)


日本の哲学者、小泉義之先生(1954-)は、反進化論な主張をしている。
「自然淘汰論」を「同義反復」でドゥルーズの『差異と反復』の意味での「悪しきゲーム」を前提にしているという理由で否定しているのだ:
一体これは、何によって何を説明しているのだろうか。それが同義反復に終わっているという批判である。すなわち、現実にヒマラヤ山脈を越えるインドガンが生存するという事実を、淘汰圧や適応度なる言葉で記述し直しているだけという批判である。正しい批判だと思う。自然淘汰論が、そんな批判をかわしきれないのは、どうしてヒマラヤ山脈を越えるというゲームが始まったかを説明しないからである。さらには、そもそもインドガンに課せられたゲームを、そのように記述しても許されるかということについて何ら方法論的反省を行っていないからである。.... (『ドゥルーズの哲学』131-132頁より)


[ くろき げん (2000/06/30 23:38:17) ]


しかし、その著書「ドゥルーズの哲学 (2000)」に記された考え方は、「科学が好きで、科学ができることが好きで、科学が不可知論者によって乗っ取られたという事実と無神論者が生物進化のような推測の理論を提供するのを嫌う」だけの創造論者たちとはまったく違っている。

数値計算は功利主義への堕落

自然法則を記述する微分方程式の"解"を数値計算で求めようという"科学の実行"を、小泉義之先生は、科学の功利主義への堕落だと主張する:
自然は複雑だから、単純化したモデルでシミュレーションして計算する。そして近似値を出して、観測値と比較してモデルの有効性を評価する。こんな作業の繰り返しになった。そしてコンピュータの普及が、こんな動向をますます促進している。

こうして解けない問題を解くことの意味を深く思考することは放棄された、数値といった価値だけに拘泥する功利主義的な数学観と自然観が蔓延する。それは、当然にも、数学者や自然科学者の振る舞いにも影響を及ぼす。高性能な機械を買い漁り、高額の研究費を要求し、社会的効用を吹聴し、改良主義的テクノクラートとして自らを売り込む。[ドゥルーズの哲学, pp.64-65]

「仮説・予測・実験/観測」というループをめぐり続ける"科学という方法"、そして、その要素たる数値計算(数値実験)というポジションを完全に無視した主張をしている。

そして、小泉義之先生はドゥルーズの主張として、「微分方程式による自然の記述」を謳い上げる:
これに対してドゥルーズは、微分方程式論の「発生論的な志」を復権する。ニュートン、ラプラス、ポアンカレの系譜に対して、ライプニッツ、ベルヌーイ、アーベル、リーマンの系譜を復権させる。ユークリッド的な伝統に対して、アルキメデス的な伝統を復権させる。そして自然のダイナミクスを微分方程式によって表現するという志を取り返すのだ。[p.65]

小泉義之先生の「ニュートン、ラプラス、ポアンカレ」とは、「万有引力の法則と天体力学の完成と、特異点近傍の局所的挙動」を指し、その系譜こそが数値計算だという言う。

しかし、数値計算を功利主義だと言って斬り捨てたら、「自然のダイナミクスを表現した微分方程式」が正しいことをどうやって検証するのだろうか?

数値計算は何の結果ももたらさない

そして、科学者は数値計算という手段で問題を解いたつもりになっているが、まったくなんの結果も出していないと攻撃する。
パラメータが隠している要因を顕在化させて立てられる微分方程式については、真の解が一意的に存在することを証明できないのである。微分方程式が適切で安定であるかも定かではないし、真の解があるかも定かではないのである。にもかかわらず、あるいは、だからこそ、数理科学者は、一心不乱にコンピュータにかじりついて数値解を計算する。当て所なく計算しているどころではない。当て所なくということが、有るのか無いのかさえ分からずに、計算しているのである。[p.52]


冥王星の運動について立てられる微分方程式は解けない。真の解が一意的に存在するか定かではない。数値解がどの程度近似するかも定かではない。にもかかわらず、野生の冥王星は運動する。解けない問題にひとつの解を出して運動する。[p.78]

小泉義之先生は、微分方程式の解を求め、現実の自然界の挙動そのものによってしか解きえないと言っているようだ。

数値計算屋がやっていることは、「仮説・予測・実験/観測」というループをめぐり続けて、何が現象に効いているか見出したりすること。そのループをめぐるために、未来の予測もする。

しかし、小泉義之先生は「数値計算は未来の予測を目指しているが、それは実現することはない」という論によって、数値計算を斬り捨てているようである。

温暖化否定論のようなもの

さらに気候変動に関して、数値計算が結果など出せないとした上で、温暖化の要因を数え上げる。
二酸化炭素濃度を決定する要因は膨大である。太陽放射、地球放射、水の潜熱の収支、乱流による熱輸送、エアロゾル、オゾン量、雲の効果などである。これらの要因を顕在化させていないし、顕在化させたとしたら、微分方程式の適切性や安定性が失われる。しかし、それでも現に風は吹く。[p.61]

「ドゥルーズの哲学」が執筆された旧世紀末の気候モデルは、小泉義之先生が指摘するような物理過程はおおよそ組み込んでいる。無知としか言いようがない。

しかし、この主張は無知に基づくものではない。すべての物理過程モデルは近似であるし、多くの要素を単純化している。河川や湖沼地形が反映されているわけではないし、土壌は2層程度でモデル化されている。それらの近似やモデル化が現実と乖離している点を挙げれば、同じ論がそのまま使えて、「しかし、それでも現に風は吹く」ことになるだろう。

小泉義之先生は研究動向に疎いままに論を進める。
加えて、氷河期の氷内部の二酸化炭素濃度は現在より低いという報告もある。ここから引き出すべき推定は、温度が低いと二酸化炭素濃度が低い、だから二酸化炭素濃度が高くなると温度が高くなるということではなく、産業資本主義の興廃と関係なく、二酸化炭素濃度が変動してきた可能性があるということである。とすると、宇宙天気、すなわち、太陽からのプラズマの風の変動、地球磁場の変動、電離層の変動が大きく作用していることになる。繰り返すが、それでも風は吹くのだ。[pp.61-62]

そもそも、温暖化も寒冷化も、アルベドや二酸化炭素濃度などと絡んでポジティブフィードバックがかかだろうことは、少なくとも四半世紀前には周知。地球外から温暖化/寒冷化をドライブしているものは何かを探るのもの定番ネタ。論点は人間の活動による二酸化炭素の増大量およびその効果である。小泉義之先生が指摘するようなことは当然のごとく考慮されている。

とはいえ、小泉義之先生の主張はゆるがないだろう。というのは、人間の活動分を見積もるには、数値計算という手段が不可欠である。しかし、その数値計算が有意味な結果を出せないと主張しているから。

つまり、どこまで精度を上げようが、影響を考慮しようが、真の解は求まらず、「それでも風は吹くのだ」となる。

で、小泉義之先生は代案を提示するするわけだが、それは意味不明である。
決して、二酸化炭素濃度の予測精度を上げるなどということではないのである。... 私たちはそんなことを知っても何も分かったことにはならない。私たちが為すべきは、カオスモスと現実の運動のとの関係を認識することである。現に風が吹くことを学ぶことである。[p.62]

「関係を認識する」ことの具体的な方法は示されない。認識したらどうなるかも不明である。

自然選択批判

小泉義之先生は、創造論者と違って、進化という現象を嫌っているわけでもなければ、進化への神の介入を主張しているわけでもない。批判するのは「論の立て方」である。しかし、その批判は、自然選択にまつわる進化生物学の説明への無知に基づいている。
淘汰圧や適応度なる概念が説明力を持つためには、いつでも集団内部で適応度の差異が発生する必要がある。いわゆる生存競争が意味を持つためには、いつでも強者と弱者が共存していなければならないからである。そこで自然淘汰論は、一定の淘汰圧の下では、全個体が適応を実現する安定状態か、複数の変異型が共存する安定状態に落ち着くとがあると主張することになる。進化が行き止まりになるとみなすのである。あるいはむしろ、行き止まりになることをもって、進化とみなすのである。ところが自然淘汰論は、淘汰圧の差異を生産するメカニズムについても、適応度の差異を発生させるメカニズムについても、真剣に考えることがないために、安定状態に至る過程と、安定状態から進む過程につ いては口をつぐむ。たった一つの淘汰ゲームが、たった一つの均衡状態に落ちれば、すべてが完了したと思い込むのだ。[p.130]

ここで、小泉義之先生は創造論者には思いもつかない論を展開している。なんと「突然変異」が見当たらないのである。さらに、外敵を含む環境の変化によって、適応度は違ってくるということも考慮の外側。

突然変異がなければ、進化前状態では「強者と弱者が共存」しかいないと、進化ゲームは開始できない。そしてひとたび、進化が完了したら、その状態が「強者」だけなら、次の進化ゲームは始まらない。「強者と弱者が共存」に落ち着いたなら、進化が再スタートする理由がないのだと。さらに、外敵を含む環境の変化も無視されているので、ひとたび均衡状態が実現すれば、もはや動きはなくなる。

非常に単純化された理科の教科書的な記述レベルでも、ほとんどありえないような"自然選択"に対して、小泉義之先生は攻撃を仕掛けているように見える。一見、ただの、藁人形論法のようだ。

しかし、創造論者(インテリジェントデザインを含む)たちと異なり、自然選択がないとか、進化がないとか、神の介入とかを主張しているわけではまったくない。

変化し続ける生物・数限りなく生物種の中から、ある部分を切り取り、ひとつの過程として論じていることを「たった一つの淘汰ゲームが、たった一つの均衡状態に落ちれば、すべてが完了した」という表現で、批判しているように見える。

何らかの方法を考えて現象を要素に分解し、個々の要素を詳細に見ていくことと、粗くても全体を見ていくこと。生物進化にせよ、気候変動にせよ、そうやって研究を進める他ないのだが、それは何に結果をもたらさないというのが、小泉義之先生の主張のようだ。

LC50実験にも斬り捨てる

数値計算を斬り捨てるのは、机上の空論としての数値計算よりも実験や観察を優先すべきだという主張ではない。実験(特に統計的な)もまた小泉義之先生の攻撃対象である。致死量を定めるために半数が死亡するまで続けられるLC50実験について:
LC50実験は、残酷であるという以前に、人間中心主義的に考えても無意味で無用である。たとえば、2・3・7・8-ダイオキシンの致死量は、体重1kg当たり、モルモットで0.6〜2μg, ハムスターで1000〜5000μg, サルで70μgと報告されている。こんな数字は、ダイオキシン対策に何一つ寄与しない。さらに悪いことに、ダイオキシンを投与されて生き延びた約半数の生物にはまったく目が向かないのである。[p.170]

何を以って「何一つ寄与しない」と言うのか、論拠・論理は示されていない。

その論理が「ダイオキシンを分解処理するための技術開発と致死量は関係がない」だとするなら、ただの間違い。どれくらい残留しても構わないことにするかで、処理コストは大きく違ってくる。

でも、どうも、そのような意図でないようだ。
私たち人間が生きることが、現に実験である。人間は病気や事故や危険を免れることはない。生きることは、さまざまな病気や事故や危険を生きることだ。[p.171]

数値計算であろうが、実験であろうが、現実の自然界の一部を切り取ったものから、なんの結果も得られないという主張。

ここまで来ると、仮説・予測・実験/観測」というループをめぐる通常の科学の方法は、完全に退けられることになる。「予測」を立てる方法はなく、「(数値)実験/観測」から結果は得られないのだから。

"原因療法"を斬り捨てる...

小泉義之先生がAIDS再評価運動に対して、どういうポジションをとるかは、次のパラグラフから明らかになる:
どうして薬物が効能を発揮するように人間はなっているのか。ところが原因療法者自身も、何も認識していないのだ。経験的に、要するに行き当たりばったりに、薬物の摂取量と摂取間隔に差異を与えて、効果の差異を待ち望むだけである。不可思議なのに、何も認識しないまま、差異を生産する力を、すなわち、患者と呼ばれる人間の生きる力を当てにする。当てにしておきながら、その生きる力を肯定しようともしないし認識しようともしない。そして些細な効能を、療法の成果だと誇る。そこをドゥルーズは批判するのだ。[p.140]

確実に言えることは、この論を抗レトロウィルス剤(AZT)について適用すること。

そうなれば、AIDS再評価運動の主張である「抗レトロウィルス剤(AZT)は何の効果もない」もしくは「抗レトロウィルス剤(AZT)は有害である」に一致することになる。

また、「HIVはAIDSの原因ではない」と断言することはないだろうが、AIDS患者と接触してもHIVに感染していな人々や、HIVに感染してもAIDSを発症しない人々の存在を挙げて、「HIVとAIDSについて何の理解も得られていない」というポジションをとりそうに思える。

結果として、HIV/AIDSの主流医学に対して、AIDS再評価運動とほぼ同じことを言うことになるだろう。しかし、AIDS再評価運動に与する一部の人々が有効だと主張する「レモンやガーリックやビタミン剤」については、抗レトロウィルス剤(AZT)と同根の発想として、退けるのではないかと思われる。

ポエムな微分方程式

小泉義之先生はドゥルーズの主張として、「微分方程式による自然の記述」を謳い上げる:
これに対してドゥルーズは、微分方程式論の「発生論的な志」を復権する。ニュートン、ラプラス、ポアンカレの系譜に対して、ライプニッツ、ベルヌーイ、アーベル、リーマンの系譜を復権させる。ユークリッド的な伝統に対して、アルキメデス的な伝統を復権させる。そして自然のダイナミクスを微分方程式によって表現するという志を取り返すのだ。[p.65]

でも、これ読み直してみると、科学史を語っているわけでも、微分方程式を語っているわけでもなく、ただのポエムを謳っているだけだった。

というのは、「モデル化」することを、あらゆる分野でなんの結果ももたらさない行為として、攻撃しているからだ。気候変動[pp.60-62]、生態学[pp.69-77]、天体運動[pp.77-78]、分類学[pp.82-92]、分子系統学[pp.95-99]、遺伝子[pp.99-105]、自然選択[pp.128-132]など、自然界の過程の一部を切り取る行為を攻撃しつくしたあとに何も残らないからだ。

たとえば、Boltzmann方程式は、流体を構成する個々の粒子の運動を見るのではなく、速度分布関数として記述したもの。その速度分布関数も積分してしまって、連続体としてみたものが、Navier-Stokes方程式(と連続の式と状態方程式)。
理想気体の状態方程式は統計力学から導出できるけど、それは実在気体の近似。

モデル化を攻撃して破壊してしまうと、「微分方程式による記述」なんてありえなくなる。

ゲームのプレイヤーは存在しない

ヒマラヤ越えというゲームは、悪しきゲームである。勝ち負けの規則も、得失の配分も、均衡状態も、予め定められているゲームである。だから、ゲームの敗者は、その失点を取り返そうとして嫉妬や怨恨に駆り立てられるし、ゲームの勝者は、その得点を守ろうとして高慢や差別に駆り立てられる。個体の差異は否定や対立にすり替えられて、敗者は、異常で欠陥のある弱者と評価されることになる。ゲームに参加しない局外者は、退化した愚鈍な部外者と評価されることになる。しかし「神すなわち自然」 (スピノザ)のゲームが、かくも粗雑な同じ一つのゲームであるはずがない。自然界が、野性のガンに対して、そんなケチ臭いゲームを課すはずがにのだ。悪しきゲームを捨てて、神のゲームに賭けることにしよう。

モデル化を攻撃してしまうと、ゲームのプレイヤーは存在しなくなる。「種」というモデル化をやめて、生物個体レベルで見るなら、次の世代にいかなる形質が残っているかという視点は粉砕されてしまう。

さらに、個体の同一性をも切り捨てた[pp.11-16]とき、個体の生死すらゲームではなくなる。では「神のゲーム」のプレイヤーは一体、何なのだろうか?





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