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インテリジェントデザイン運動が始まった頃、いまだソビエトが存在していた頃の、インテリジェントデザイン主唱者ThaxtonとMeyerが書いた、人権には、神よって創造された人間という「事実」が必要不可欠だと論じた記述:
「フィクションが有用なのは、フィクションがフィクションだと見なされていないときだけだ」と述べて、「創造の教義」ではなく「創造の事実」が、人間の尊厳の保証にために必要だという。まさしく、それが故に、進化論を教義上ではなく、「科学的」に否定されなければならないのだと。
インテリジェントデザイン運動が始まった頃、いまだソビエトが存在していた頃の、インテリジェントデザイン主唱者ThaxtonとMeyerが書いた、人権には、神よって創造された人間という「事実」が必要不可欠だと論じた記述:
Charles B. Thaxton, Stephen C. Meyer: "Human Rights: Blessed by God or Begrudged by Government?" (1987/12/27) on Los Angeles Times
人権は神に祝福されたものか、それとも政府によって出し渋られたものか?
20世紀は空前の科学知識の拡大を経験した。20世紀はまた、人権に対する、その大きさと残酷さの両方で比類なき虐待を見た。
二重螺旋の発見や量子理論やポリオワクチンの発展は、人間の気高き麺を明らかにした。もし文明を人権擁護への関与を以って計測するとするなら、一方で、政治犯収容所とガス室は、同じ科学の成果が、文明の存在を確かなものにできないことを示した。
実際、20世紀を通して、非常に多くの場で、人権は危機に曝される普及品となってきた。しかし、あらゆる状況で、人権擁護は、文化と国家が人間の価値と尊厳をどう考えるかを反映したもにしかならない。
科学界は人間についての今世紀の見方を定める役割を大きく占めるようになってきたが、間接的には、人権についての議論おいて重要な役割を演じるようになってきた。そうなったのは、まさしく、尊重すべき人間が享受する権利の何たるかを人間が定めることができるという考えの故である。
人権は、人間の尊厳についての文化的認識の、法的及び政治的顕現と定義できるだろう。しかし、文化は、国家が創り出す人権以上の人間の尊厳を創り出さない。せいぜいがところ、権利を守ることで社会は尊厳を認めるだけである。元Harvard法学教授Harold J. Bermanは、米国憲法主義の中核に、この仮定があることを見出した。米国では「個人の基本的人権は国家から独立に存在する」と彼は言う。これに対して、ソビエトのマルクス主義では「すべての権利は国家によって許可され、必然的に国家の力に従属する」
しかし、どちらであるべきか? 人権は国家の法令から独立に効力を持つのか、それとも国家の法令によって許可されるだけのものか?
西洋の伝統では、人権は人間の尊厳に基づくが故に、人権は国家から独立に存在すると言われてきた。たとえば、米国権利章典は、最高裁判事William J Brennan Jrが「人間の尊厳につていの荘厳な演説」と呼んだものを提唱する。尊厳という言葉は、栄光を意味するラテン語dignitasを語源とする。歴史的に、西洋社会は、人間の尊厳への信念を、人間は神の栄光であり、神の似姿で創られたというユダヤ・キリスト教の信仰から導き出している。この見方によれば、人権は、尊厳を以って人間を創造した創造主に基づくものであって、国家に基づくものではない。米国独立宣言に「人間には、創造主から不可侵の権利を授けられている。」
しかし、西洋で教育を受けた多くの市民たちは、人間につていの伝統的見方を捨てて、より現代的な科学的な見方、すなわち、人間の高貴さを損なった見方を採用した。純粋に物質的、科学用語では、人間は、広大で人格を持たない宇宙に、偶然に出現した、取り立てて目立つことなき風変わりなものに過ぎない。英国の哲学者Bertrand Russelは「人間は、到達点を予見することなき因果の産物であり」、そして同様に「太陽系の壮大な死によって滅亡する」ことが運命づけられていると結論した。科学において壮大な進歩がなされたにも関わらず、そのような悲観論は、20世紀を通して、存在し続けた。アインシュタイン及び量子論の概念が、物質と空間と時間について概念に革命をもたらしたにもかかわらず、科学は、人間についての現代的見方を高めるようなものを何も発見していない。この現代の科学的見方においては、人間の複雑さだけが、宇宙に生息する他の生物構造と区別するものとなる。
人間を他の生物から分かつものが失われたことにより、動物の地位を人間のレベルにまで高めるか、よりありそうなことは、人間の地位を動物のレベルに貶めることになった。UC Berkeleyの生物学者Thomas H. Jukesは、人間を細菌から分かつものは「DNA分子の長さとシーケンスの違い」でしかないが故に、今後数年で「細菌の権利」という主張に遭遇することになるだろうと述べた。そのような予測は理論上のものではない。イルカの実験について、John Lillyは「イルカとのコミュニケーションが成立したとき、イルカは法的・倫理的・道徳的・社会的問題となるだろう」と述べた。イルカは「人権」を持つに値するものとなるのだ。類人猿についてのカリフォルニアの判例では、身振りによる言語の学習がこの点を例証した。研究資金が尽きると類人猿の教師たちは、類人猿が言語を学習できるのだから、類人猿は法的保護の対象となり、動物園へ還すのは「人間性喪失」であると主張した。
ある研究者たちが類人猿を「擬人化」する一方で、他の研究者たちは人間の概念を機械化した。Carnegie-Mellonのとあるロボット工学者は、彼の移動ロボットの「意識」を否定する者は、自分自身の形態のメンタルマシンを選好する排他主義者でああると述べた。昨年(1986)の人工知能についてのYaleでの学会で、「思考する」機械の政治的権利の定義についての問題が非公式に議論された。University of ChicagoのLeon R. Kassは、Science誌に掲載され、広く読まれた記事, "The New Biology: What Price Relieving Man's Estate?"で、「我々は、優れたもの、あるいは神性のものとしての人間という考えが侵食される、おそらく最終的に侵食されるところを目撃している。そして、人間を、自然を下回らない、操作と均質化の対象のただの物質以上のものだという見方に置き換わるところを。したがって、これは奇妙な、道徳の危機なのだ」と書いている。
このような状況に直面して、西洋諸国は世界人権宣言に署名した。ほとんどすべての規定は遵守されている。しかし、「他の生物から区別される人間」という概念が失われて、政府は必然的に、「振りをする」というグローバルなゲームに興じるようになる。隔絶した人間の神性という信念を放棄すれば、政治家と科学者による人権への最も熱烈なアピールも、何の意味も持たなくなる。この信念なくば、西洋あるいはソビエト連邦に、人権を支持する論理的基盤はなくなる。人権の論理的基盤はまったくなくなる。そのような状況では、人権の主唱者は、種的優越主義者でしかなくなる。
そのような馬鹿げているが不可避の結論に対して、人間の尊厳を守る基礎を取り戻すために、ユダヤ教とキリスト教の教義を再解釈すればいいと思う者もいるだろう。しかし、もはや信じられなくなった教義は、人間の尊厳を与えられない。現在のモラルジレンマから人間を救える「有用なフィクション」など存在しない。フィクションが有用なのは、フィクションがフィクションだと見なされていないときだけだ。そうであったとしても、ユダヤ教とキリスト教は、神の似姿での人間の創造という教義が人間の尊厳を与えるとは教えていない。それらは、人間の創造という事実が人間の尊厳を確立すると教えている。事実として人間が神の特別な目的の創造物であるときのみ、その主張は特徴的あるいは本質的に人間の尊厳を守れる。実際、尊厳が創造主によって人間に組み込まれているなら、権利は「不可侵」なものになる。そして、人間の尊厳が人間の起源の事実に基づくものであれば、人権は、宗教的あるいは哲学的信念とも、国家と関わりないものとなる。言い換えるなら、人間の起源についての伝統的見方が正しければ、人々が信じるか否かにかかわらず、人々は人権を持つことになる。
Voltaireは、狂気とは、誤った認識を持ち、その認識に従って、正しく推論することだと述べた。歴史的には、人権の観点から、ソビエトの支配下で、東欧圏で狂気が広まった。さらに、ソビエトの狂気は、まさしくVoltaireが書いた通りのものとなった。ソビエトはの人権無視は、Karl Marx自身が科学的であるとした唯物論者の認識である、マルキスムと呼ばれる、人間についての誤った認識から、正確に導き出されたものである。
しかし、西側の我々もまた、人間についての科学的見方によって、奇妙な状況を創り出した。ユダヤ教とキリスト教の正統は、人間は神の似姿で創られた故に、人間は尊厳を持つと論じる。もし、学術及び法曹界において広く仮定されているように、正統的な見方が誤っているなら、西側の我々が、人間の性質についての厳密に科学的な認識から、正確に推論するのに、どれだけの時間を要するだろうか。新たに行われたソビエトと米国の対話において、再び人権問題が取り上げられたが、そこで、西側技術の洗練も、Marxの「科学」も、これらの権利の明確な基盤を提供できなかったことを、覚えている者もいるだろう。結局のところ、人権についての生産的な宣言は、かつて西側宗教の遺産が主張したように、人間の尊厳が、政治的都合によって左右されない、生得的なものあるという共有された信念に基づく他ない。
この遺産への公的言及、特に政治的言及は、疑いようもなく、世俗時代の感性を怒らせる。しかし、もし人間についての伝統的理解が正しければ、もしそれが教義上だけでなく、事実としても正しければ、政府は実際に存在する、人間の尊厳から人権を導き出せる。しかし、もし伝統的に見方が間違っていて、現代の科学的見方が優勢となれば、ソビエトだけでなく、ここ西側にといても、人間の尊厳は存在しなくなり、人権は妄想となる。
「フィクションが有用なのは、フィクションがフィクションだと見なされていないときだけだ」と述べて、「創造の教義」ではなく「創造の事実」が、人間の尊厳の保証にために必要だという。まさしく、それが故に、進化論を教義上ではなく、「科学的」に否定されなければならないのだと。
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